スリザリンの継承者―魔眼の担い手―   作:寺町朱穂

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ついに、話数がラッキーセブン!
気付いたら、お気に入り登録件数も5000件突破。
ここまで書くことができたのも、読者の皆様のおかげです。ありがとうございます!
これからも、楽しみながら自分のできる範囲で執筆していきたいです。
今後ともよろしくお願いします!!






77話 クリスマス前夜

 凍りついた窓の向こうで、雪が踊り狂っている。

 セレネの誕生日が終われば、すぐにクリスマスだ。

 ホグワーツの城は、すっかりクリスマス仕様に様変わりしていた。すでに例年通り大広間用のクリスマスツリー12本は、ハグリッドが一人で運び終えている。

 

 柊と銀細工の花飾りが階段の手すりに巻き付けられ、鎧兜の中には永久に燃える蝋燭が輝いていた。まことに美しい装飾が施されているのだが、しいて欠点をあげるのであれば、廊下には一定間隔でヤドリギの塊が吊り下げられていることだろう。ヤドリギの下には、女子に人気な男子生徒――特に、ハリー・ポッターが通るたびに大勢の女の子が集まってくるので、しばし廊下は大渋滞となった。

 

「ポッターが、英雄色を好むじゃなくてよかったよね」

 

 ダフネがヤドリギを見上げながら話しかけてきた。

 

「ヤドリギの下で女の子たち、一人一人にキスしてたら、渋滞がいつまで経っても収まらないもの」

「それは、確かにそうですね」

 

 セレネはダフネに同意した。

 もし、ハリーがフェルグス・マック・ロイみたいな色男だった場合、群がる女の子たちを拒むことなく、すべて受け入れていただろう。しかし幸か不幸か、ハリーは謙虚だった。ヤドリギが設置されて数日は渋滞が起きていたが、ハリー自身がヤドリギなしの裏道を通るように心がけているのだろう。渋滞の頻度は減り、ヤドリギの傍でハリーが通るのを今か今かと待ち望む女の子たちしか見られなくなっていた。

 

「そういえば、セレネは今夜のスラグホーンのクリスマスパーティーに招待されているんだよね?」

「ええ、今晩ですよね。……あまり乗り気はしませんが」

 

 今晩を乗り切れば、明日はクリスマス本番だ。

 つまり、朝が来ればようやく家に帰ることができる。荷支度は既に終わっているし、帰宅の準備は万全だ。

 セレネの心はスラグホーンのパーティーで人脈作りに励むよりも、明日の帰宅の方へ向けられていた。

 

 だからだろう。

 

「ねぇ、セレネ。やっぱり、セレネはセオドールと行くの?」

「えっ?」

 

 セレネはダフネから不意打ちの質問に、すぐ対応することができなかった。セレネは少し驚いて言葉を失くし、まじまじとダフネを見てしまう。

 

「えっ、じゃなくて、スラグホーンのパーティーにセオドールと行くの?」

「……なぜ、私がセオドールと?」

「え、違うの?」

 

 ダフネも驚いたらしい。目をぱちくりさせ、信じられないものでも見たような顔をしている。

 

「ダンスパーティーは彼と行ってたよね?」

「彼が立場上、他に行く人がいないと言ったからです」

 

 それなりに楽しく過ごすことができたが、ある種の仕事の延長線だ。

 二度も強要するわけにはいかないし、あれから親衛隊も個々の意志を尊重する組織へと改革されている。彼が好きな人と一緒にパーティーへ行っても、誰も文句を言わないだろう。

 セレネがそう伝えると、ダフネは少し考え込むような仕草をする。

 

「うーん……じゃあさ、セレネ」

 

 ダフネは意地悪そうな笑みを浮かべると、セレネの顔を覗き込んできた。

 

「彼がさ、『好きな女の子として、一緒に行って欲しい』って頼んで来たら、どうするの?」

「っぷ、あはははは」

 

 セレネはダフネの言葉を耳にした瞬間、おなかを抱えて笑い出していた。

 

「ありえないですよ。あの人が私のことを好きだなんて……」

 

 セオドールとは、互いに良い面も悪い面も知り尽くした仲である。

 いまでこそ、相棒のような関係を築いているが、最初なんて脅しからのスタートだった。脅し上等、策謀大好き、打倒蛇男を掲げた直死の魔眼持ちの半人間――……セレネが彼だったら、こんな悪いセールスポイント満載の女を好きになるはずがない。

 

「でも、セレネ。ポッターはセレネのこと好きだって言ってたじゃん。セオドールだって」

「ハリーは私の良い面しか知りませんから。本性を知ったら、確実に離れていきますよ」

「本性って……セレネ、大げさな」

 

 ダフネが呆れたような顔をしていると、上から声が降ってきた。

 

「セレネ!」

 

 顔を上げてみると、階段の上から話題の人物が身を乗り出している。変身術の後なのか、片方の眉が黄色に染められていた。

 

「ハーマイオニー、見なかった?」

「いいえ、見ませんでしたけど……」

 

 セレネとダフネは顔を見合わせると、再びハリーに目を向ける。

 ハリーは自分の鞄だけではなく、もう一つパンパンに膨らんだ鞄を抱えていた。記憶が正しければ、ハーマイオニー・グレンジャーの愛用する鞄である。

 

「どうかしたのですか?」

「実は変身術でいろいろあって……悪いけど、セレネ。女子トイレの中を見て来てくれないかな? 僕、入れないから」

「かまいませんよ」

「じゃあ、セレネ。私、そろそろ占い学が始まっちゃうから、またあとでね」

 

 セレネはダフネと別れると、変身術の教室から一番近い女子トイレに入った。 

 トイレに入ると、まるで「嘆きのマートル」がいるような押し殺したようなすすり泣きが響いている。

 

「そっか。そんなことがあったんだ」

 

 その泣き声に寄り添うように、ふわふわとした声が重なっている。

 

「ルーナ・ラグブッド?」

 

 トイレの洗面台のところに、ルーナ・ラグブッドと目を腫らしたハーマイオニーの姿があった。

 

「ああ、セレネ。こんにちは」

「こんにちは。ハーマイオニー、ハリーがあなたを探してましたよ? トイレの入り口で待ってます」

「あ、ありがとう」

 

 ハーマイオニーは声を詰まらせながら頷くと、目を拭っていたハンカチをしまった。そして、いそいそとトイレから出て行く。トイレの外で待っていたハリーが何か言いながら、ハーマイオニーに鞄を渡していた。

 

「ちょっと落ち込んでいるみたいだね」

 

 セレネが二人の様子を見ていると、ルーナが言った。

 

「最初は『嘆きのマートル』がいるのかとおもったんだけど、ハーマイオニーだったんだもん。ロン・ウィーズリーのことをなんだか言ってた」

「あの二人、よく喧嘩しますよね」

 

 セレネが呟くと、トイレの外のハーマイオニーは急ぎ足で去っていくところだった。

 

「ありがとう、セレネ。ルーナも」

「別に構わないよ。ロンと喧嘩したの?」

「まあ……そうだね。いろいろ喧嘩したんだよ」

「ロンって、ときどき酷いところがあるな。あたし、去年気がついたもん」

 

 ルーナが言いにくそうなことをオブラートに包まず、ずばりと言い放つ。

 ハリーもあいまいな顔で同意していた。

 ロン・ウィーズリーは、けっして悪い人ではない。だが、やや偏見があったり、相手の気持ちも考えずにずばずば言葉を切り込む悪い癖がある。深くは聞かないが、きっと今回もその癖が悪い方へと転じてしまったのだろう。

 

「そういえば、ハリー。あんた、眉が片方黄色になってるよ?」

「あ……そうだね、忘れてた」

「直しましょうか?」

「あー……お願いできる、セレネ?」

 

 セレネは杖を取り出すと、ハリーの眉をとんとんと軽く叩いた。眉から黄色が吸い取られ、たちまち元の黒色へと戻っていく。

 

「じゃあね、ハリー、セレネ。DAが再開するときは教えてね」

 

 ルーナはそう言うと、首にかけられたコルクを触りながら去っていった。

 

「ルーナには悪いですけど、2人が仲直りしない限り、DAの再開はなさそうですね」

「再開も何も、アンブリッジがいないんだからやる意味ないだろう?」

「……まあ、それもそうですね」

 

 DAはやっていないが、セレネが昨年度始めた試験対策クラブは継続中だ。活動回数こそ減らしたが、親衛隊の力量底上げは継続中である。すでに幹部クラスは、死喰い人とやり合えるだけの力を身に付けていた。あとは、その力を悪用したり私利私欲のために使わせたりしないように教育するだけである。

 

「私はDAが好きでしたよ。スリザリン寮は閉鎖的なので、他寮の人と知り合えたのは嬉しかったです。

 それから――」

「ねぇ、セレネ。僕と一緒にスラグホーンのパーティーに行かないかい?」

 

 セレネの言葉をぶった切り、ハリーが誘いの言葉を突いてくる。セレネは足を止め、少し驚いたようにハリーを見た。

 昨年、いろいろあってハリーが自分に好意を抱いていることは知っている。

 けれど、それを正面からお断りしたのも覚えている。ハリーもそれを受け入れ、それ以後は普通の友だち同士として付き合ってきたつもりだった。

 ハリーは、まだ自分と友だち以上の関係になりたいのだろうか。

 

「それは……今晩のことですか?」

「うん。ほら、パートナーを連れて行くことになってるだろ? その、君さえ良ければ――……ほら、友だちとして! 友だちとしてだよ!

 それに、他に誘えそうな女友だちが、その、いなくて……」

 

 ハリーの顔が真っ赤になっている。

 セレネは少しだけ迷った。

 

 この申し出を断る理由はない。

 友だちとしてなら、なおのことである。

 それに、ハリーと一緒にいることで、スラグホーンが彼に紹介したい重要人物たちと間接的に知り合うことができる。もしかしたら、そこから打倒サイコパスの協力者に繋がる人脈の確保ができるかもしれない。これは、十分においしい話だ。断る理由どころか、喜んで受けたい提案だ。

 

 

 しかし、自分は何を躊躇っているのだろう。

 

 

「あー……もちろん、セレネの気が進まないなら……別に、かまわないけど……」

「えっ、いえ、別に気が進まないわけでは……」

 

 セレネは一瞬、脳裏に横切った何かをかき消すと、いつもの笑顔を浮かべた。

 

「友達としてですね。ハリー、よろこんで受けさせていただきます」

「ありがとう! それじゃあ、八時に玄関ホールで――……」

「ハッハーン!!」

 

 頭上で甲高い声がして、2人は跳び上がった。 

 セレネたちは気が付かなかったが、ポルターガイストのピーブズがシャンデリアから逆さまにぶら下がって、意地悪いにやにやした笑みを浮かべていたのである。

 

「ポッティがゴーントをパーティーに誘った!! ポッティはゴーントが好きー!!」

 

 ピーブズは変な抑揚をつけて甲高く叫びながら、高笑いと共に消えていった。

 

「えっと……誰にも言わないで貰えると嬉しいな。それじゃあ、またあとで」

 

 ハリーは苦笑いをしたまま去っていったが、おそらくセレネが言わなくても広まってしまうだろう。なにしろ、歩く拡声器ことピーブズに話を知られてしまった。案の定、あっという間に学校中にハリー・ポッターがセレネ・ゴーントをスラグホーンのパーティーに連れて行くことが知れ渡ったようだ。

 

 夕食の時、大広間に入った瞬間、数多の女子の強烈な視線を感じる。

 セレネが歩くたびに悔しそうな声があちらこちらから聞こえてきた。

 

「ポッターの誘いを受けたのね」

「ええ、友だちとして誘われたので。断る理由もありませんでしたから」

 

 セレネはダフネの問いかけに対して、正直に答えながらパンを手に取った。

 

「なんだ、ゴーント。ポッターと行くのか?」

 

 セレネがパンを口に運んでいると、ザビニが気取った調子で話しかけてきた。彼の隣ではセオドールがいつにも増して不機嫌面を下げている。

 セレネはすっと目を伏せた。

 

「ええ。友だちとして誘われましたので。

 たしか、あなたたちも今日のパーティーに行くんですよね?」

「いや、僕だけだ。レイブンクローのパドマ・パチルと知り合ってね。彼女と行くのさ」

「え、あなたは行かないのですか?」

 

 セレネは顔を上げると、少しだけ目を丸くする。セオドールは何も答えない。ただむすっとした顔のまま、キドニーパイに取りかかっている。どことなく、拗ねているようにも見えた。あまり彼らしくない。

 

「あー、こいつはいろいろとあってね。行きたくないんだと」

 

 ザビニがやれやれと肩をすくめると、代わりに答えてくれた。

 

「誘いたい人を誘えなかったとか、そういうことですか?」

「ま、そんな感じ。犬が争っている間に、狼が羊を食っちまったってところさ」

「つまり、セオドールが誘いたかった女性は……パドマ・パチル?」

 

 セレネは最後のパンを口に放り込むと、ザビニの方に額を寄せて尋ねてみる。

 セオドール・ノットとブレーズ・ザビニは友人関係だ。その友人に自分の想い人を取られたら、それはあまり良い気持ちがしないに決まっている。パーティーに行きたくなくなるのも当然だろう。

 ところが、それを聞いたザビニはよほど驚いたのだろう。食べていたタルトを喉に詰まらせ、咳き込みながら何度か胸を叩き始めた。

 

「ごほっ、ごほっ……いやいや、ゴーント。君は、なんでそうなるんだ」

「違うのですか?」

「当たり前。ま、ともかくこいつは落ち込んでるわけよ。好いた女子の気持ちが分からないってね」

「……」

 

 きっと、セオドールは人気のある女子生徒に誘いをかけようとしていたのだろう。

 その過程で他の男子生徒と争っている間に、ひょいっと取られてしまったのだ。

 

「私には、分かりませんね」

 

 セレネはゴブレットに水を注ぎながら小さく呟いた。

 

「好きなら好きって、さっさと言えばいいのに」

「分かってないな、ゴーント。それが言えないのが、男心ってもんなんだよ」

「そうですか。ちなみに、誰を誘おうとしていたのか教えて――……」

「おい、ゴーント!」

 

 ここでようやく、セオドールが口を開いた。

 けれど、不思議と視線は合わない。不思議なくらい熱心にパイの切り口を見下ろしていた。

 

「スラグホーンのところに行くなら、着替えた方がいいんじゃないのか?」

「あ……それもそうですね。ありがとうございます」

 

 待ち合わせの時間まで、あと1時間と少ししかない。

 セレネは急いで荷物をまとめると、大広間から出て行った。

 

 とはいえ、そこまで支度に手間取る必要はない。

 自分のドレスを身に纏い、肩まで伸びた黒髪少し編み込みを入れていく。それをシニヨンみたいに軽く結びあげ、薄桃色の花飾りをつけた。

 

「……うーん……」

 

 ドレスアップした自分の姿を見て、セレネは少しだけ嘆息する。

 ダンスパーティーの時にも着た落ち着いた青色のドレス姿だ。相変わらず、真紅のボレロも我ながらに良く似合っている。だが、ダンスパーティーと言えば2年前だ。しかも、このドレスを貰ったのは3年前。それだというのに、胸の辺りが少しも苦しくならない。せいぜい、丈がほんのわずか短くなったくらいである。

 

「これ以上、成長しないのかな」

 

 セレネは肩を落としながら、腰のリボンに杖を差した。

 

 時間は八時になろうとしている。

 靴を丈の低いヒールに履きかえると、セレネは玄関ホールに向かった。

 玄関ホールは尋常でない数の女子生徒がうろうろしていた。その視線は、ほとんどすべてセレネに向けられている。ようは嫉妬だ。ハリーと行けなかったことが、よほど悔しいのだろう。

 しかし、陰口をたたかないところからするに、そこまで強気には出られないらしい。

 

「ごめん、セレネ。待った?」

 

 八時ちょうどにハリーが姿を見せた。

 彼はダンスパーティーの時に来ていたローブかと思ったが、よく見ると襟のところにぴっしりと糊がかかっている。どうやら自分とは違い、卸したてのドレスローブらしい。

 

「いえ、いま来たところです。それでは行きましょうか?」

「うん、行こう。スラグホーンの部屋でやるんだよね」

  

 セレネとハリーは嫉妬の視線をいっぱいに浴びながら、大理石の階段を登り始めた。

 

「吸血鬼が来る予定だって、聞いてる?」

「吸血鬼ですか。にんにくと十字架を用意した方が良かったですか?」

「さあ、どうなんだろう。僕、見たことないから」

「私もですよ、ハリー。本で読んだだけです」

 

 セレネは階段の手すりを触りながら、本で得た知識を思い返した。

 

「魔法界には、血が飲めない吸血鬼もいるそうですよ。代わりに、カレーを浴びるほど食べているらしいです」

「そんな吸血鬼がいるの!? 僕、知らなかった。セレネは物知りだね!」

「……まあ、たぶん、本当にいるわけないと思いますけど」

 

 セレネは最後の言葉を小さく付け加えた。

 

 スラグホーンの部屋に近づくにつれ、賑やかな笑い声や音楽が一足ごとにだんだんと大きくなっていった。

 スラグホーンの部屋は魔法で拡張され、天井と壁はエメラルド色、紅、そして金色の垂れ幕の飾りで優雅に覆われ、全員が大きなテントの中にいるような感じがした。中は込み合っており、熱気が凄い。

 

「あー、ハリー! こっちだ、こっち!」

 

 ハリーが一歩、中に入るや否や、スラグホーンの太い声が響いた。

 

「セレネもいるんだね。2人ともこんばんは。さっそくだが、ハリー。君に引き合わせたい人物が大勢いるんだ!」

 

 スラグホーンはがっちりハリーの腕をつかむと、パーティの真っただ中へ導き始める。セレネは放置されるのかと思ったが、ハリーがセレネの手をつかみ、一緒に引っ張っていかれた。

 

「ハリー、こちらは――……」

 

 スラグホーンは著名人を紹介していく。

 時に写真を一緒に撮り、ご満悦の様子だ。噂の吸血鬼は少しやつれ、とてもつまらなそうに立っていた。彼のことを「血兄弟」と呼び、本にまで仕立て上げた作家は吸血鬼には目もくれず、ハリーに「君の半生を伝記にしたい!」!と商談を持ちかけている。まるで、吸血鬼をファッション犬のように連れ歩いている感じだ。

 リータ・スキーターもいけすかない書き手だが、この人物はこの人物で好きになれない。商魂は人一倍強そうだが、人間としては最低の分類に属する可能性がある。

 

 セレネがバタービールを片手に様子を眺めていると、ハリーはこの場から逃げ出す方法を見つけたらしい。

 

「すみません。僕、まったく興味がありません。それに、友だちを見かけたので失礼します」

 

 ハリーは口早に言うと、再びセレネの手をつかんで歩き始める。

 

「ハーマイオニー!!」

 

 彼が目指した先にいたのは、ハーマイオニーだった。

 長く豊かな栗色の髪は、まるで「悪魔の罠」の茂みと格闘して逃れてきたばかりのように乱れている。

 

「ああ、ハリー。ここにいたのね。セレネもこんばんは」

「こんばんは、ハーマイオニー。その……何かあったのですか?」

「ええ、逃げてきたところなの。つまり、コーマックを置いてきたばかりなのよ。……ヤドリギの下に」

 

 ハーマイオニーはげっそりと疲れた顔をしていた。

 

「コーマック?」

 

 セレネは眉間に皺を寄せてしまう。聞き間違えかと思った。

 コーマック・マクラーゲンといえば、4年生の時にダンスパーティーに誘われ、断ったら逆切れされたグリフィンドール生だ。その後、ミリセントのパートナーになったが、大広間入場前の時点で破局していたことは懐かしい思い出である。

 つまるところ、あまり好印象を持てる人物ではない。そんな人と、どうしてハーマイオニーが一緒に行くことになったのか、セレネにはまったく理解できなかった。

 

「あのコーマック・マクラーゲン?」

「あいつと来た罰だ」

 

 ハリーが厳しい口調で言う。それに対し、ハーマイオニーは冷静に口を開いた。

 

「ロンが一番嫌がると思ったの。ほら、あの人。コーマックとキーパーを争ったときから嫌いだし……でも、やめておけばよかったわ。まだ、ザカリアス・スミスにしておけばよかった」

「つまり、ウィーズリーへの当てつけですか」

 

 セレネは小首を傾げた。

 恋愛とは分からないものだ。昼間は随分とウィーズリーに酷いことを言われたらしいのに、それでも好きで、彼への当てつけまで考えるなんて、本当にどうかしている。

 

「やあ、ハリー、ハーマイオニー、セレネ」

 

 セレネが理解に苦しんでいると、白い服を着たボーイに話しかけられた。

 否、ボーイではない。ネビル・ロングボトムだ。彼の手にした銀の盆には、丸くて得体のしれない料理が並んでいる。これでは、完全に使用人の装いだ。セレネたちが目を丸くしていると、ネビルは苦笑いをした。

 

「僕はホールの給仕役なんだ。ちなみに、ベルビィはトイレのタオル役。

 これどう、ドラゴンのタルタルだよ」

「美味しいの?」

「うん、美味しいけど、とっても臭いんだ」

「食べておくわ。コーマック避けに」

 

 ハーマイオニーがネビルから盆を奪い取ると、いそいそと口運び始めた。よほど、マクラーゲンが嫌だったのだろう。無理もない。セレネも彼は嫌いだ。

 ネビルは「僕、他の料理も持ってくるね」と言って去っていった。

 

「ずいぶんとマクラーゲンは嫌われていますね」

 

 セレネが言うと、ハーマイオニーは切羽詰まった顔をしていた。

 

「だって、コーマックは私のことを一度も聞かなかったのよ? ただの一度もよ? 私がお聞かせいただいたのは、『コーマック・マクラーゲンのすばらしいセーブ百選』連続ノンストップ。ずっーとよ? 気が滅入るというか―――あ、いや、嫌だわ。こっちに来る! じゃあね!」

 

 ハーマイオニーはハリーに盆を押し付けると、まるで「姿くらまし」をしたかのように素早く去っていってしまった。ずいぶん遠くにいるバカ騒ぎしている魔女の合間に消えたのを最後に、彼女の栗色の髪は見えなくなってしまった。

 

「ハーマイオニーを見なかったか?」

 

 1分後、マクラーゲンが人ごみをかき分けるようにしてやって来た。

 

「いいや」

「……まあいいさ。やんちゃな子ネズミほど可愛いものはない」

 

 マクラーゲンはキザったらしく言いながら、ドラゴンのタルタルを一つ盛大に頬張った。だが、食べたことのない味だったのだろう。少し顔をしかめ、ハリーに目を向けた。

 

「これ、なんだ?」

「ドラゴンのタマタマ」

 

 ハリーが意地悪そうに笑いながら言った。マクラーゲンは気分を害したのだろう。その場で下に顔を向けて、口から吐きだしてしまう。それも、運の悪いことに自分の足元ではなく、少し前――ちょうど、目の前に現れたセブルス・スネイプのローブめがけて放出してしまった。マクラーゲンは顔を上げた瞬間、さっと青ざめる。

 

「一か月の罰則」

 

 スネイプが冷ややかに言うと、マクラーゲンはその場に崩れ落ちた。

 狙っていた女の子に逃げられ、おぞましいものを食べてしまい、みっともなく吐き出した先は、ホグワーツで最も機嫌の悪い教授のローブ。おまけに一か月の罰則付きともなれば、彼の人生で最低な日を更新してもおかしくないだろう。

 ハリーはくぐもったように笑いながら、セレネを連れてその場を去ろうとする。――ところが、その目論見は上手くいなかった。

 

「待ちたまえ、ポッター。話がある、来たまえ」

 

 スネイプに呼ばれ、ハリーはすごすごとついていってしまった。

 

「ダンブルドアは今夜から留守にしている。クリスマス休暇明けまで帰ってこない――……」

 

 スネイプが事務連絡のように、なにかをハリーに伝えている。きっと、ダンブルドアとの個人授業の話だろう。セレネもハリーの後に続こうとしたが、一歩踏み出す前に声をかけられた。

 

「セレネ先輩」

「こんばんは、良い夜ですね」

 

 同じくスラグ・クラブに所属している親衛隊幹部――フローラ・カローとヘスティア・カローだ。

 二人ともシンプルな深緑色のドレスを纏い、月の雫を集めたような金色の髪を背まで伸ばしている。いつも美人な双子姉妹だと思っていたが、今日はますます磨きがかかり、高級な人形のようだった。

 

「こんばんは、フローラとヘスティア。あなたたちのパートナーは?」

「いませんわ。別に気になりませんもの」

 

 フローラがきっぱり答えた。

 ヘスティアも隣でこくこくと頷いている。

 

「それよりも、先輩。あちらで一緒に歓談しませんか?」

「お料理も飲み物もそろっていましたわ。ポッターも手が離せないみたいですし」

 

 ヘスティアがちらりとハリーが去っていった方向へ視線を向ける。

 見れば、ハリーはスネイプだけでなく、真っ赤な顔をしたスラグホーンにも捕まっていた。スラグホーンはハリーの手をがっちりつかんでいる。あれでは、当分逃げ出すことはできないだろう。

 

「魔女の大鍋ケーキはありましたか?」

「もちろんです。そうですよね、ヘスティア?」

「ええ、姉様。糖蜜パイやバタービールもありましたわ」

「そうですね、それでは――……」

 

 と、セレネがそこまで口にした瞬間だった。

 なにか小さなものが閉ざされた窓を突き破って迫ってきたのである。咄嗟に杖を抜き盾の呪文を展開しようとしたが、セレネに当たる目前でそれは止まった。ちっぽけな銀色の虫だった。セレネもカロー姉妹も、この虫の侵入に気付いた周囲の客人たちも、目を点にして虫を見つめる。

 虫の小さな小さな口が開き、その矮小さからは考えられないようなくらい大きな声で話し出した。

 

 

「あの人が来た。逃げられない」

 

 女性の声だった。短い伝言を言い終えると、虫は霞のように消え去った。

 いまの話を聞いていたカロー姉妹を含むほとんどの客は事情が呑み込めず、なにかおかしなことが起きたと気づき始めたばかりだった。 

 セレネも何が起きたのか分からず、頭が真っ白になっていた。

 

「うそ、でしょ」

 

 数歩、後ろに下がる。

 今の声は、間違いなくリータ・スキーターの声だった。

 そして確実に『あの人が来た』と言っていた。『逃げられない』とも言っていた。 

 

 つまり―――……

 

「お父さん!」

 

 考える前に、足が動いていた。

 セレネは弾かれたように回れ右をすると、人ごみを押しのけるように走り出していた。

 後ろからカロー姉妹たちの声が聞こえたが、振り返る余裕はないし、追いつくまで待つ暇もない。談笑している間を無理やり抜けたり、誰かの背中にぶつかってしまい、悪態をつかれたが気にするゆとりなんてない。

 

 ついに、おそれていた事態が起きてしまった。

 

 幸いなことに、リータが守護霊を飛ばしてくれて事態を知ることができたが、悲しいことに自宅まで急行する手段がない。魔法使いの家なら暖炉ネットワークとやらでいけたのだろうが、一般マグルの家庭には暖炉など旧式な暖房装置はない。箒やセストラルでは遅すぎる。姿くらましはそもそも、学校内で使えないし、試したことがなかった。人間は、どのような場所でもぽんっと姿をくらませたりあらわせたりできる屋敷しもべ妖精とは違うのだ。

 と、ここまで考えたとき、セレネの脳裏に一人のしもべ妖精の姿が浮かんだ。

 

「そうよ、クリーチャーだ!」

 

 あのしもべ妖精なら、頼み込めば、家まで「姿くらまし」をしてくれるかもしれない。

 そうと決まれば、向かう先は決まっている。

 セレネは廊下にとび出ると、厨房を目指して駆けだした。ヒールはバランスがとりにくくて走りにくいので、さっさと脱ぎ棄てる。

 

「『アクシオ‐靴よ来い!』」

 

 杖を軽く一振りする。

 これで、厨房に辿りつく頃には自室から愛用の靴が飛んでくるはずだ。

 本当ならこのドレスも脱ぎ捨て、気慣れた私服か制服に着替えたいところだが、そこまでの時間的余裕はない。やっとのことでセレネは厨房の前に着いたが、扉はなく、巨大な果物の絵画が掛けられている。ずっと昔、ハーマイオニーに教えてもらった通り、扉に描かれた梨の絵をくすぐった。すると、梨はくすくす笑いながら身を過り、大きな緑色のドアの取っ手に変わる。

 セレネはドアを開けると、滑り込むように内側へ入り、できるかぎり大きな声を出した。

 

「突然、すみません! クリーチャーはいますか!?」

 

 しもべ妖精たちは、突然の来客に驚いたようだった。

 百をも越すしもべ妖精たちは、皆がホグワーツの紋章が入ったキッチンタオルをトーガ風に巻き付けて結んでいる。その中の一人が、おずおずと前に出てきた。

 

「お嬢様、クリーチャーはここにはございません」

「いない? どうして?」 

 

 セレネが尋ねると、そのしもべ妖精は申し訳なさそうに首を横に振った。

 

「クリーチャーの本当のご主人様が聖マンゴを退院なされ、お屋敷に戻られたそうです。ですので、クリーチャーはこちらの職を辞めて、本来のお屋敷へと戻っていったのでございます」

「お嬢様、クリーチャーでなければならない仕事なのでしょうか?」

 

 しもべ妖精たちの目が、セレネに向けられる。

 確かに、クリーチャーでなくても屋敷しもべ妖精なら誰にでもできる仕事である。ただ運べばいいだけだ。もっといえば、運んで戻してもらえると助かる。

 しかし、この申し出を受け入れてくれるだろうか。セレネは少し迷ったが、時間がない。こうしている間にもリータがヴォルデモートに屈し、その魔の手が義父へと及んでしまうかもしれない。

 セレネは一度目を伏せると、覚悟を決めた。

 

「……誰でも構いません。私を今すぐ家に送り届けてください。義父の命が危ないんです」

「お嬢様。それは危篤、ということですか?」

「ヴォルデモートが、私の家を襲っているんです」

 

 その名前を口に出した途端、しもべ妖精たちの顔色が変わった。

 どちらかといえば好意的だった表情が一変して、誰もが青ざめぶるぶる震えている。

 

「お嬢様、それは罠でございます」

「ダンブルドア校長先生様に頼めばいいのです。お嬢様は、ここで大人しくしていればいいのです。危ないでございます」

 

 しもべ妖精たちはキーキー声で止めにかかって来る。

 ああ、確かに罠かもしれない。

 義父は餌で、自分を誘き寄せるための罠かもしれない。

 

 以前、ハリーが「シリウスが拷問されている夢」を現実ではないかと疑って、今の自分のように飛び出していったときのことを思い出した。

 あのときは、不自然な点が多すぎた。夢というにわかに信じがたい媒体、夕方の5時だというのに魔法省にヴォルデモートがいること、隠れ家にいるはずのシリウスが捕まっていること――……数えだしたらきりがない。

 

 しかし、今回の情報源はリータ・スキーターの守護霊だ。

 彼女は契約上、セレネに嘘をつくことができない。だから、確実に本当の出来事だ。

 

 リータ・スキーターは『命がけで義父を守れ』と命令してある。その言葉通り、おそらく命がけで戦ってくれるだろうが、ただのマスコミ女だ。百戦錬磨のヴォルデモートに勝てるわけがない。しかも、義父はタダのマグルである。シリウス・ブラックとは違って、ヴォルデモートどころか魔法使いと戦える術を持っていない。

 

 もし、グリンデルバルドがいれば、彼を助けに向かわせることができただろう。

 ところが、悲しいことに、彼がいるのはアルバニアだ。守護霊で緊急連絡をとばしたところで、イギリスまですぐに戻ってこれる保証はない。

 もう一人の協力者、マンダンガス・フレッチャーはたんなるコソ泥だ。ヴォルデモートの攻撃をしのぐ盾にしかならない。

 

「ダンブルドアは……いま、ホグワーツにいません」

 

 セレネは声を絞り出すように口にする。

 ダンブルドアがいない。スネイプやマクゴナガルは騎士団員だが、助けを求めに行く時間すら惜しい。

 

 すぐに愛する義父を助けられるのは、自分しかいない。

 

「お願いします。一秒でも早く、行かないといけないんです」

 

 セレネが頭を下げると、しもべ妖精たちの間にどよめきが広がった。

 誰もがセレネの近くに寄り添い、「行ってはいけない」「ダンブルドアに任せればいい」と慰めるように言ってくる。その中で、一人だけ――

 

「わたくしが、連れていきます」

 

 ブラウスにスカート姿のしもべ妖精が声を上げてくれた。

 ブラウスの前はスープの染みだらけで、スカートには焼け焦げがあった。

 

「ウィンキーでございます、お嬢さま」

 

 大きな茶色の目が、まっすぐセレネを貫いていた。

 周りのしもべ妖精たちは待ったをかけているが、彼女の覚悟も堅い。周囲の言葉は一切聞き入れず、セレネに細い手を差し出した。

 ちょうど、愛用の靴も厨房まで届いた。

 セレネのくるぶしあたりに浮かびながら、履かれるのを待っている。セレネは靴を素早く履くと、ウィンキーに手を伸ばした。

 

「ありがとう、ウィンキーさん」

「お嬢様、ご自宅の住所をお言いください」

 

 セレネは早口で住所を伝えると、ウィンキーの手を取った。

 途端、ぱちんっという音と共にお腹が引っ張られるような感覚が身体を走る。そのまま身体が圧縮されて、小さなパイプの中を通るような締め付けられる感覚の後――

 

 

 セレネの両足は厨房の堅い地面から離れたかと思ううちに、懐かしのリビングに打った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 セレネが厨房で「姿くらまし」をする数分前のことだ。

 

 

 リータ・スキーターは最後の一行を書き終えると、大きく伸びをした。

 ぐっと後ろに下がったので、使い慣れ始めた椅子がかたんっと音を鳴らす。

 

「リータさん、終わったの?」

 

 リータが執筆を終えた脱力感に浸っていると、ふわっとした声が降ってきた。

 

「ええ、終わったでざんす」

「そうか、お疲れ様」

 

 そう言うと、クイールはにっこり微笑みながらコーヒーを淹れてくれた。

 リビングはコーヒーの良い香りが充満している。

 この男は実に準備が良い。彼は、リータが執筆がひと段落ついたところでコーヒーを飲むことをよく覚えている。お湯の量、豆の種類、ミルクの入れ具合も完璧だ。文句の付け所がない。

 

「例の校長先生の伝記だっけ?」

 

 クイールはそう言いながら、リータの前に座った。

 

「セレネの通う学校だから、興味があるな。読んでもいい?」

「駄目ざんす。これは、魔法界の本ざんすから」

 

 リータはさっと原稿用紙を鞄にしまった。

 

「……そうか、なら仕方ないね。でも、いつか君の書いた本が読みたいな」

「ご安心を。あんたにだけは、絶対に見せないざんす」

 

 リータがつんっと突っぱねると、クイールは残念そうに微笑みながらコーヒーを啜った。

 

 不当な契約を結ばされた娘の方はもちろんだが、義理とはいえ父親の方も苦手だった。

 娘の方は完全なる恐怖支配だ。

 可愛らしい顔の裏側には、残忍かつ自己中心的な本性を隠している。

 ヴォルデモートを倒し、義理の父親と安らかに暮らすためだけに、グリンデルバルドの脱獄に手を貸して協力者に仕立て上げるまでしてのけた。

 

 そんな彼女の父親は、どこまでも穏やかで優しい男だった。

 きっと裏の顔があるはずだと探ってみるが、裏の顔なんてなかった。どこまでも平凡で平均的で、誰に対しても優しくて詐欺に引っかかりそうな危うい人――それが、セレネ・ゴーントの愛する義父だった。

 

「……ま、分かる気がするざんす」

 

 静かにコーヒーを飲む姿を見つめながら、リータは口の中で呟いた。

 確かに、この男は一緒にいて心地が良い。疲れないし、そっと寄り添いたくなる温かさがある。

 

 どこまでも害がなくて、まったく面白みの欠片もない男なのに――……

 

 

 

 

 リータが自分らしくもない感傷に浸っているときだった。

 かたんっと、玄関の開く音が聞こえてきた。リータは固まった。玄関の鍵は当然、閉めてある。クイールは知らないが、普通の鍵の上から魔法で特別な錠前をかけてあるのだ。普通の押し入りは絶対に入らないし、平凡な魔法使いなら破ることのできない魔法だ。

 

 それを打ち破られた。

 それが意味することは、間違いなく自分より力量のある魔法使いが押し入ったということだ。絶対に良い意味ではない。リータは椅子を倒す勢いで立ち上がると、クイールに手を伸ばした。

 

「つかまるざんすっ!」

「えっ?」

「いいから、逃げるざんすよ!!」

 

 リータはクイールの手を無理やりつかみ「姿くらまし」をしようとした。

 しかし、する直前で身体が押さえつけられたような感覚が奔り、その場でくるりと回っただけに終わってしまう。

 

「っく、姿くらまし防止呪文ざんすか!?」

 

 リータは憎々しく叫ぶと、杖を取り出した。

 コーヒーが乗っていることなど構うことなく、机と椅子を無理やり浮かせ、リビングの扉に押し付ける。最低限のバリケードでしかない。

 

「あんたは裏から逃げるざんすっ!」

 

 リータはぽかんとしているクイールに向かって叫ぶと、ぎゅっと目をつぶった。

 神経を集中させ、いま最も幸せだと思うこと――……つい先ほどまで味わっていた幸福な風景に意識を集中させながら杖を振った。

 

「『エクスペクト・パトローナム‐守護霊よ、来たれ』!!」

 

 杖の先から、銀色の小虫が二匹とび出てきた。

 二匹とも、リータの頭の上を旋回すると、締めきった窓を通り抜けて夜の闇へ消えていく。初めて成功したので、伝言が上手く乗せられているか分からないが、セレネにもグリンデルバルドにも緊急性は伝わるだろう。だが、成功に安心する時間的余裕はない。

 

「なに、ぼけっとしてるざんしょ!? ほら、早く逃げないと、あの人がやって来るざんすよ!?」

「ご名答、リータ・スキーター」

 

 リビングの扉が吹っ飛び、鼻のない男が姿を見せる。

 リータは咄嗟にクイールを庇うように前にとび出ながら、足が震えているのを感じた。

 

「れ、例の、あの人!」

「あれが……」

 

 リータ・スキーターは、ヴォルデモートがこの世で最も怖かった。

 新人記者としてデビューした当時の仕事が、ヴォルデモート失墜後に逮捕された死喰い人の尋問の報道だったからかもしれない。死喰い人たちは皆、誰しもが狂っているように見えた。特に、ヴォルデモートを探そうとした死喰い人たちは、ヴォルデモートの正当性を唱え、いつか復活することを嬉々として訴えていた。彼らの狂信ぶりが心底怖く、また、それらをすべて束ねる親玉――ヴォルデモートはどれだけ狂っているのか、想像することもできないくらい恐ろしかった。

 

「彼が……ヴォルなんとか卿?」

 

 クイールも彼から目が離せないようだ。

 マグルであっても、目の前の男の異様さには気づいたらしい。いつもより顔が青ざめて見える。

 

「正しくは、ヴォルデモート卿だ。冥土の土産に覚えておくがいい」

 

 ヴォルデモートは残忍な笑みを浮かべると、すっと杖をこちらに向けてきた。

 リータはクイールを背中に隠すように前に出る。

 

「リータさん!?」

「だから、早く逃げるざんしょ!! あたしが時間を稼ぐから――……」

「マスコミ風情が俺様相手に時間を稼ぐだと?」

 

 ヴォルデモートが静かに嗤う。

 

「いいか、俺様が欲しいのは、そこのマグルの命だ。お前ではない。むしろ、お前の才能は評価している。

 お前のおかげで、去年は随分と楽に行動することができた」

「――ッ!」

 

 ハリー・ポッターを目立ちたがり屋の嘘吐き少年と書き立てたことだ。

 リータはすぐにピンときた。別に本人としては悪いことをした自覚はない。マスコミの仕事とは、『大衆が望んだ記事』を書くことであり、『大衆の声を代表して声に出して伝える』ことである。恥じることはないし、評価されて喜ぶべきだ。

 

「後ろのマグルを渡せば、命だけは見逃してやろう」

 

 リータは鼻のない男を見上げた。

 杖がわずかに降ろしそうになる。

 

 そう、助かる。

 後ろのマグルを見捨てれば、自分は助かっていつも通りに仕事をすることができるのだ。

 契約でヒキガエルになるから?関係ない。契約に縛られない程度に見捨てればいいだけだ。

 

 

 いつだって、そうやってきた。 

 

 

 自分に言い訳をして、皆が好みそうな狡賢いゴシップ記事を書いてきた。

 

 だけど、そのくせ攻撃されるのが怖くて、記事の元ネタになる者たちは反論できない弱い人や優しい人ばかり選んだ。ディペットの伝記を書いたときも、ダンブルドアの伝記を書くと決めたときも、彼らならどんな酷い暴露本を書いても、自分を攻撃しないと考えたうえでのことだった。

 人の善意を踏みにじり、事実に人の興味を引きそうな悪意で塗り固められたスパイスをかけて記事や本を書いてきた。

 

 

 だから、自分の著作物を、自分の知りうる最も善良な人にだけは見せたくなかった。

 その人にだけは、自分の本当の姿――ちっぽけで金にたかる虫のような女であることを知られたくなかった。

 

 

 その人は、自分の背中で震えている。

 否、自分より前に出ようとしている。きっと、彼が男だからだ。男だから、女に弱いところを見せるわけにいかないなんて前時代的な慣習に突き動かされている。それとも、自分が死ねばリータは助かると知っての行動かもしれない。むしろ、そちらの意味合いの方が強い気がした。

 

「馬鹿な人、ざんしょ」

 

 リータは左手で後ろの男を抑えた。

 

「この人を渡すことだけは、お断りざんす!! ――ヴォ、ヴォルデモート!!」

 

 リータは杖を前に強く突き出した。

 失神呪文の赤い閃光がヴォルデモートに走る。ヴォルデモートはつまらないもので見るような顔をすると、杖をの一振りで閃光を弾いた。リータが次の攻撃に移る前に、再びヴォルデモートは面倒くさそうに杖を振る。すると、リータの杖は自分の手から抜け落ちて、ヴォルデモートの足元に転がった。

 

 これで、戦う術はない。

 

「そうか。なら死ぬがよい――『アバダケダブラ』!」

 

 緑の閃光が奔る。

 その向こうに、二つの影が降り立ったのが見えた。

 黒髪の少女としもべ妖精だ。眼鏡の奥の瞳は、爛々と青く輝いている。

 

 

 ああ、よかった。間に合った。

 

 

 ルージュを塗りたくった唇がゆっくり弧を描いたとき、緑色の閃光が自分の胸に直撃した。 

 

 

 

 

 

 


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