10月31日、ハロウィーン。
朝から厨房で、こんがりとしたパンプキンパイを焼いているのだろう。甘い匂いが廊下を漂っていた。口の中に唾液がたまってくる。今にも腹が、くぅっと鳴りそうだ。
しかし、ハロウィーンだからといって、私の日常は変わらない。
いつも通り授業を受け、図書館にこもる。私の変わらないルーチンワークをこなすだけ。
優等生のセレネがハロウィーンの菓子を楽しみにしている。
そんな醜聞を知られるわけにはいかないのだ。菓子の香ばしい匂いを嗅いだ瞬間、私は、いつも以上に勉強にのめり込もうと決めた。
最後の授業が終わり、足早に図書館へ向かう。少し調べ物が、たまっている。菓子の誘惑? トリックオアトリート? そのような行事に浮かれ騒ぐ私ではないのだ。
さて、心躍る夕食までに、どこまで進めることが出来るだろうか――なんて考えていた時だ。
「セレネっ!」
小さな叫びが、現実に私を引き戻した。
振り返ると、ネビルが人混みの中から飛び出してきたところだった。彼もハロウィーンを楽しみにしているのだろうか、と思ったが、少し様子がおかしい。
ネビルは丸い顔を不自然なくらい青ざめさせていた。
「ハーマイオニー知らない、セレネ!?」
「まったく、どこにいるんだ?」
ネビルと別れて、ハーマイオニーを探し始めて1時間。
そろそろ夕食が始まっている時間だ。いや、もうとっくに始まっている。
「女の子を泣かすようなことをするなんて、な」
ネビル曰く、ハーマイオニーは朝の授業が終わると、泣きながら飛び出してしまったらしい。その後、午後も全く姿を見せず、行方知れずのまま。どうやら、ハリーと一緒に行動している赤毛の少年が放った『頭でっかちだから、友達がいないんだよ』という陰口に傷ついてしまったようだ。いや、私――いや、優等生なセレネであっても同じことを言われたら傷つく。本人のいないところで悪口を囁かれるのも胸糞悪いが、目の前で言われるのも嫌だ。そのくらい、11歳にもなるのだから気づけっての、と思う私がいた。
マルフォイにしろ、赤毛の少年にしろ、幼稚な男子が多すぎる。
「ネビルは、女子トイレのどこかにいるって言ってたけど――本当にいるのか?」
ここのトイレにいなかったら、私は夕食へ行こう。
きっと、もうすでに夕食に向かっているに違いない。そう思いたい。
そんなことを考えながら、ドアを開ける。中には、人の気配はない。
「ほら、ここも空振りだ」
やっぱり、ハーマイオニーは泣きやんで夕食へ向かったのではないか?
あれから一時間ほど経過している。そうだ、きっとそうに違いない。私は小さくため息を吐くと、トイレから出て行こうとした。しかし――
「せ、セレネ?」
古めかしい音を立てながら、個室のドアが開かれる。
そこには、目元を紅く腫らしたハーマイオニーの姿があった。どうやら、ビンゴだったようだ。
「どうしたの、そ、そろそろ夕食だけど」
「それを言うなら、貴女は何故ここにいるのですか?」
ハーマイオニーは、少し顔を俯かせる。
頬を伝う涙が光った。少し意地の悪い問いかけをしてしまったかもしれない。
罰の悪い気持ちが、込み上げてくる。トイレに漂う空気が、ますます淀んで取り返しのつかないものへと変わりつつあった。――この気まずい状況を、何とかしなければならない。
セレネだったら―――こんな時、どんな言葉をかけるだろうか?
頭を抱えたその時だった。
ぐぅぅ……。
場違いな音が、トイレに木霊する。
ハーマイオニーの泣き腫らした顔に、きょとん、とした色が浮かんでいる。私の顔が、熱くなっていくのを感じた。
「と、とにかく、今は食事の時間です。食べないことが、身体に毒。
まずはしっかり食べて、しっかり休む。これが一番です!」
紅くなった顔を誤魔化すように、私は言葉を捲し上げた。
すると―――どこに笑うポイントがあったのだろう?ハーマイオニーは、初めて会った時のように、くすり、と笑みをこぼした。
「なにが、おかしいんですか?」
「ううん、セレネもお腹すくことがあるんだなって思ったの」
「私も人間です。生命活動を行う上で、食事は欠かせません」
「あっ、ごめん!そういう意味で言ったんじゃなくて――」
しかし、その先の言葉は別の音に掻き消されてしまった。
――ずぅん、と低く響いた謎の足音に。
途端に、ハーマイオニーの顔から笑顔が消えた。
「セレネ――この音、なに?」
「分かりません」
トイレの芳香剤の甘い匂いの中に、悪臭が漂ってきた。例えるなら、汚れてボロボロになった義父の靴下と、掃除を滅多にしない公衆トイレの臭いを混ぜたような――吐き気がする臭い。それと同時に、少しずつ近づいてくる巨大な足を引きずるように歩く音、低いブァーブァーという唸り声も近づいてくる。
「何?何が来るの?」
私は、杖と―――それから、袖の下にいつも隠し持っているナイフがあることを確認する。
初歩的な呪文でなんとかなるといいけど、いざとなったら――眼鏡を外せるように準備を整える。そうしているうちに、何か巨大なモノがトイレのドアを押し開けた。
「き――キャァァッァァァアアア!!!」
ハーマイオニーが、悲鳴を上げる。私も目の前に立ちふさがる巨体に、思わず言葉をなくしてしまう。
そこにいたのは、4メートルもある怪物だった。 墓石のような鈍い灰色の岩石のようなゴツゴツした身体を持ち、禿げ頭。 手には頑丈そうな棍棒を引きずっている。
「と、トロールがなんでここに!?」
ハーマイオニーは恐怖で動けないのか、ガクガク震えたまま突っ立っていた。
「こんな時――こんな時――」
『セレネ・ゴーント』だったら、どう行動する?
棍棒を引きずって入ってくるトロールを見上げながら、自問自答した。
目の前には、既習呪文では倒せる見込みのない怪物。
倒すとしたら、ナイフを使って『線』を切るしかない。でも、体格差は一目瞭然だし、『線』を切るために近づくことも出来るか分からない。身体能力は高い方、だと思う。でも――倒せる見込みは、ほとんどない。では、怯えているハーマイオニーと一緒に逃げる?
ハーマイオニーを出口へ逃がし、自分は颯爽とトロールを始末する?でも、逃げるが勝ち、という言葉もあり、今回の場合――逃げて後は先生に任せた方がいいのかもしれない。
だが、どうやって逃げればいい?
セレネだったら――セレネだったら――私は、どう行動すればいい?
「ここは――女子トイレですよ」
手が震える。
気がつけば袖口からナイフを取り出し、トロールに向けていた。
これが、『セレネ』が考えるであろう最良の『答え』だ。一見すれば優等生らしからぬ危険な判断だが、それでも優等生らしく堂々と優雅にふるまうセレネであれば、こうして強大な敵にも立ち向かう、であろう。
「ハーマイオニーは、隙を見てあの扉から外に逃げてください」
声が、少し震えてしまった。
「でも――セレネは、どうするの?」
「すぐに後を追います。問題ありません」
私は、そう言いながらハーマイオニーの背中を軽く押した。それが合図のように、トロールが巨大な棍棒を振り下ろしてきた。 なんとか私は右に転がって、ハーマイオニーは左に走り抜けて、避けることに成功した。標的を外した棍棒は、トイレの個室のドアへと振り下ろされる。木製のドアは為す術もなく、木っ端みじんに粉砕された。
なんという力だろう。背筋がぞわり、と逆立つ。だけど――この『眼』の前では無力のはずだ。私は眼鏡を外して『眼』を開けた。
「――っ!」
頭が軋む。
ここのところ、滅多に『眼』を開いていなかったからだろう。
膨大な量の『線』が視界に広がり、壁にも、床にも、トロールにも、こちらを見ながら走るハーマイオニーにも、そして、私の手にも『線』が絡みつく。
辺り一面にはびこる『線』を視て――『死』への恐怖が蘇る。
そう、これをなぞれば『死』ぬ。ハーマイオニーも、トロールも、私も、なにもかも。
生き物でも、生き物ではなくても、そこに『存在している』ものならば――『線』があるものならば、なにであっても『死』んでしまう。
「私――」
世界は、こんなに『死』で満ちている。
あっけないくらい簡単に、人は死んでしまう。すっかり忘れていた、大切なこと。
「私、死にたくない」
この眼鏡をかけてから、なんで忘れていたんだろう?
『死』が、こんなにも恐ろしい物だ、ということを。優等生とか、そういうこと以前に、どうしてこんな選択をしたのか、訳が分からない。
でも―――口にしたことは、守らないと。
恐怖で顔を歪ませるハーマイオニーを見て、自分自身に言い聞かせた。
私は、再び持ち上げられた棍棒を見据えた。ナイフを構え、腰を低くする。
「じゃあ、その武器から仕留めますか!」
わざとその場を動かないで、挑発するような視線をトロールに向けて放った。 すると、読み通り――トイレの天井すれすれまで持ち上げられた棍棒は、一気に私目がけて振り下ろされた。棍棒が急速に迫ってくる。私は、ぶつかる寸前まで引きつけて、ひょいっと左に跳んだ。棍棒は派手な音を立てて、床に大穴を開ける。 タイルがはがれ、整えられたモザイクタイルは見る影もない。
「今っ!」
私は、床にめり込んだ棍棒にナイフを振り下ろした。バターを切る様に、棍棒に纏わりついた『線』を切った。『線』を切った瞬間、棍棒はただの木片と成って使い物にならなくなった。
トロールは、何が起こったのか分からないらしい。
頭の悪そうな表情で、壊れなかった棍棒の『持ち手』をしげしげと見つめている。 振り落とした時のまま、身をかがめた態勢で――
私は、トロールが動き出す前に出口へ駆けた。
「セレネ!どうしよう、開かない!!!」
先に辿り着いていたハーマイオニーが、ドアノブを回す。
しかし、ドアは開く気配を見せない。なんでさっきまで開いていたドアが、閉じているのだろう?
―――でも、そんなこと考える暇なんてない。今にも、トロールが襲ってくるかもしれないのだ。私は真っ青な顔をしているハーマイオニーの側まで来ると、ローブの中から杖を取り出した。 杖でドアノブを軽く叩く。
「『アロホモラ‐開け』!」
ようやく、あっさりドアが開いた。 私達はトイレから出ると、急いで鍵を閉める。ドアの向こうから、トロールの唸り声と暴れ狂う音が聞こえる。――間一髪だったらしい。
「うかつだったわ。私、魔女なのよ。アロホモラは基本呪文集に載っていた基礎呪文じゃない。なんで、私は出来なかったのかしら」
呆けたようにハーマイオニーは口走っていたが、ドアにトロールが激突する音で言葉を止めた。もし、このドアを破って襲い掛かってきたら―――もう棍棒を切ることが出来ない以上、『眼』でトロールを解体しないといけない。私に、それが出来るだろうか?
いや、出来なくてもやり遂げないといけない。
「ハーマイオニー!?」
「って――セレネもなんでいるの!?」
廊下の向こうから、ハリーと赤毛の子が荒い息をして走ってきた。 彼らは私達を見て何か安心したらしい。 何か言おうと彼らは口を開きかけたが、トロールの怒声を聞いた途端、驚いたように口をつぐんでしまった。
「なんでもいいから、早く先生を呼びに行かないと!!」
ドスン!ドスン!!とトロールがドアを突き破ろうとしている音が、廊下まで震わせていた。ハリー・赤毛・ハーマイオニーは、恐怖で動けないらしい。誰も何も言わずに、ただ震えながらドアを視ている。
「なにしてんだ!早く先生を呼びに行かないと、みんな死ぬぞ!?」
「ブォォォン!!」
私が3人を叩いて走り出そうとした時―――とうとうトロールがドアを破壊してしまった。 私は軽く舌打ちをすると、ナイフを構えて――まだ固まっている3人の前に立った。
その時だ。
「ステューピファイ!」
赤い閃光がトロールの顔面を直撃した。 トロールは間抜け面をしたまま、後ろに倒れる。
私は茫然と、ナイフを降ろした。
「一体全体あなた方はどういうつもりなんですか!?」
マクゴナガル先生の鋭い声が聞こえる。振り返ってみると、そこには杖を構えたマクゴナガル先生が息を荒げて立っていた。 声だけでもわかったが、怒りと冷静さが入り混じった表情をしている。 彼女の後ろからはスネイプ先生、それからクィレル先生がいた。
クィレル先生はトロールを一目見ると、ヒーヒーと弱弱しい声を上げ、胸を押さえて廊下に座り込んでしまった。
「殺されなかったのは運が良かった。
なぜ寮にいるはずのあなた方が、ここにいるんです?」
「寮?」
時計を見るが、まだ夕食の時間だ。
察するところ、トロールが侵入したせいで寮に戻る様に指示された、のかもしれない。
眼鏡をかけながら、そんなことを考えていると、ハーマイオニーが唐突に口を開いた。
「私のせいなんです。先生」
皆の視線が、トロールからハーマイオニーへ移された。
小さいけどハッキリとした口調で、ハーマイオニーは話し始める。
「私が、トロールを捜しに来たんです。私、1人でやっつけられると思いました。
あの……本で読んで、トロールについていろんなことを知っていたので。
でも、ダメでした。トイレにいたセレネが助けてくれなかったら、私は死んでいました。
セレネが、トロールの棍棒を粉々にしてくれたんです。 ハリーとロンは――夕食の時に私がいないことに気が付いて、心配して助けに来てくれたところなんです」
マクゴナガル先生は私とハリー、それからロン――と呼ばれた赤毛の子を見る。
ハリー達は、『ハーマイオニーの言う通り』という表情を浮かべていた。実際、たぶん間違っていないだろう―――話の後半部分だけは。
マクゴナガル先生と目が合うと、私も迷うことなく頷いた。本当のことを話してもよかったが―――ハーマイオニーが良しとしたんだ。私が、横から口出しすることではない。
「ミス・グレンジャー、なんという愚かな真似を。グリフィンドール5点減点です。貴方には失望しました。
貴方たちもですよ。1年生が野生のトロールと対決しようとするなんて、生きているのは運が良かったからです。ですが、友を思うその気持ちは大切なものです。よってミスター・ポッターとウィーズリーには5点、それから――実際にトロールに立ち向かったミス・ゴーントには10点与えましょう」
私は、少し目を見開いた。
まさか、今の行いで減点されたとしても、点がもらえるとは思っていなかった。
それは、ハリー達も同じことだったようで、眼には驚きの色が浮かんでいた。
「その幸運に対してですよ、3人とも。
――中断されたパーティーの続きは寮でやっていますので、まっすぐに帰るように」
「はい」
私は、先生方に一礼をすると歩き出した。
だけど、3歩も進まないうちに、ふと――気になることが脳裏に浮かびあがる。私は足を止めると、その疑問を口にした。
「あの――1つ、いいですか?」
「どうしたのかな、ミス・ゴーント?」
スネイプ先生が、答えてくれる。
私は、床で鼾をかいているトロールを指さした。
「あのトロール、どこから入って来たんですか?」
「侵入経路は不明だ。だが、普通に生活していれば出会うことは無い。
『禁じられた森』に生息している生物でもないのでな」
「そうですか、ありがとうございました」
私は礼を言うと、その場を立ち去った。
1人で肌寒い廊下を進みながら、先程の戦いについて思いをはせる。
あの戦いで、私が負けていたら――マクゴナガル先生の言う通り、『死んでいた』。
『死』、それは、『』の世界へ落ちていくこと。そこから、這い上がることが出来ないこと。
「嫌」
あんな怖い思いは、もうしたくない。
私は、死にたくない。まだ、死にたくない。もっと、生きていたい。
でも――あの場所に落ちたくないから、生き続けるの?
だったら――私は――何のために、生きているの?何のために、勉強しているの?
優等生でいるためだ。
だけど、それだけのためだけに――私は、生きているの?
あの時、一面に映し出された『線』を視て――本当の世界を思い出した。
私は、『セレネ・ゴーント』だけど、私の知る『セレネ・ゴーント』は、9歳までの記憶しかない。
つまり、『線』がある状態で、どのように行動したのかは分からないのだ。
つまり、私は今までの『セレネ』とはいいがたい存在であり、『セレネ』とは違う。
では―――私は、誰なのだろう?
「やめた、別のことを考えよう」
言葉に出来ない恐怖を締め出すように、頭を振う。
すると、次に思い浮かんできたのは、鼾をかいたトロールだった。
侵入経路不明のトロールは、この後どうなるのだろう?
森にいるのでなかったら、誰かが手引きした可能性が高い。では、行き場を無くしたトロールはどうなってしまう?人里に下りてきたクマ同様、処分されてしまうのか?
「勝ったら相手が死ぬ、でも負けたら私が死ぬ、か」
どっちに転んでも『死』が待っている。
けれど、私は『死』が怖くてたまらない。だから、勝ち続けないといけない。
勉強でも、なんでも―――勝たなければならないのだ。
これからも、勝たないと―――死ぬ?
いや、さすがに行き過ぎだ。状況と場合によっては、死ぬこともあるだろうが、負けることは、良くないことだ。怖いことだ、と痛感する。
「負けるのは、ダメ」
口から零れた言葉は、闇の中へ消えていった。
7月27日:大幅改定