スリザリンの継承者―魔眼の担い手―   作:寺町朱穂

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98話 誤算

 気が付くと、ハリーは再びうつ伏せになって倒れていた。

 違うことは、周囲がやけに騒がしいことだろう。薄目を開けてみると、モリー・ウィーズリーが吹き飛ばされるところだった。アーサー・ウィーズリーが彼女を受け止める姿が見える。

 あまり時間は経過していないらしい。世界は藍色で、少しずつ白み始めている。

 

「命拾いしたな、女よ」

 

 ハリーはぎょっとして身体を動かしそうになった。

 すぐ真上から、ヴォルデモートの声が聞こえてくる。

 

「まさか、生き残った男の子が裏切り者によって殺されているとは思いもしなかった」

 

 死喰い人たちが嘲笑うような歓声を上げる。

 ハリーは再び目を閉じて、死んだふりを続けた。

 

「この小僧は、自分だけが助かろうと逃げるところを殺されたのだ。本当は裏切り者に褒美をやりたいところだが……」

 

 ヴォルデモートの言葉は、どこか楽しむ響きがあった。

 

「無様に転落死したなら、仕方あるまいな。ここに転がる杖を、俺様が代わりに――……」

 

 しかし、ヴォルデモートの言葉はそこで途切れた。

 小走りに駆けだす音、叫び声。そして呪文が炸裂する音が聞こえ、誰かが痛みに呻く声がした。ハリーは、ごくわずかに目を開けた。

 誰かが群れから抜け出し、ヴォルデモートを攻撃したのだ。その誰かが、地面に打ち付けられるのが見えた。

 

「一体誰だ? 負け戦を続けようという者が、どんな目に遭うか……進んで見本を示そうというのは誰だ?」

 

 ヴォルデモートは、蛇のようにシューシューと息を吐きながら言った。

 

「我が君、ネビル・ロングボトムです! ルックウッドたちを散々手こずらせた小僧です!」

「……ふむ、なるほど」

 

 ヴォルデモートは、やっと立ち上がった少年を見下した。

 敵味方の境の戦場には隠れる場所がなく、ネビルだけが立っていた。ネビルの白い頬は真っ赤に切り裂かれ、身体のいたるところが傷だらけだった。手には薄汚れた組み分け帽子を握っている。杖はない。先ほどの武装解除で飛ばされてしまったに違いない。実際、ヴォルデモートの左手には、ネビルの杖が握られていた。

 

「しかし、お前は純血だ」

 

 ヴォルデモートは今拾ったばかりの杖――……ニワトコの杖を握りながら、薄ら笑いを浮かべていた。

 

「お前は高貴な血統だ。貴重な死喰い人になれる」

「地獄の釜の火が凍ったら、仲間になってやる! ダンブルドア軍団!!!」

 

 ネビルが叫んだ。

 その叫びに応えて、城の仲間から歓声が沸き起こった。ところが、その歓声はヴォルデモートの杖一振りで静められてしまう。

 

「残念ながらだな、ロングボトムよ」

 

 ヴォルデモートは凍てつくような冷笑を口元に歪ませる。

 

「お前たちが守ろうとした存在は、とっくに死んだ。もはや戦う意味など、どこにもない」

 

 ヴォルデモートが高笑いをする。

 追従するように死喰い人たちも笑いだす。小馬鹿にするように口笛を吹く者もいた。

 

「……確かに、ハリーは死んだ」

 

 ネビルは認める。

 けれど、その声に苦しい色はなかった。

 

「でも、ハリーは……死んでいった皆は、ここにいる! 僕の、僕たちの胸の中にいる!!

 だから、僕は戦う!! 最期まで!!」

 

 ネビルが高らかに宣言すると、くたびれた組み分けの帽子からグリフィンドールの剣を引き抜き、ヴォルデモートに向かって勇猛果敢に走り始める。

 それは、無謀ともいえる突撃だ。

 ヴォルデモートに剣が届くとは、到底思えない。事実、ヴォルデモートは薄ら笑いを浮かべたまま、ネビル・ロングボトムに狙いを定めている。

 

 だから、ハリーは死んだふりを止めることにした。

 素早く立ち上がり、ヴォルデモートに杖を向ける。

 

「『エクスペリアームス‐武器よ去れ』!」

 

 不死鳥の杖から赤い閃光が奔り出す。

 ヴォルデモートは辛うじて防いだが、ダンブルドア軍団に歓喜を、死喰い人に動揺をもたらすには十分だった。なにしろ、死んだはずの人間が生き返ったのだ。

 長い人類史上、死んでも生き帰った人物は、ただ一人しかいない。

 そして、その人物は、神と崇められることになる。

 

「ハリー!」

「ハリーが生きている!!」

 

 ダンブルドア軍団が沸く。

 ネビルの掛け声で燃え始めた闘志に油が注がれ、その士気は最高潮までに達していた。

 一方の死喰い人側はというと、死人が生き返ったことへの動揺が隠しきれない。ある者は狼狽え、またある者は忌避し、ある者は逃走する。特に、深く死に関わってきた魔法省の処刑人 マクネアは誰よりも早く橋の方へ逃げ出した。

 一人逃げ出してしまえば、後に続けとばかりに怯んだ者たちが逃げ出し始める。

 

「逃げるな! 戦うのだ!!」

 

 ドロホフが指揮を執ろうとするが、互いの士気の差は明白だった。

 マルフォイ夫妻は率先して城に飛び込んで行ったが、杖をとって戦うことはせず、息子の名前を叫んでいる。

 もし、これでヴォルデモートが戦いの指揮をとれば、死喰い人たちの戦意は多少上がっていたかもしれない。ところが、彼はハリーが生きていると分かった時点で、標的を一人に絞り込んでいた。

 

「ハリー・ポッターッ!!!」

 

 ヴォルデモートの憎悪の瞳は、ハリーのみを映し出している。

 一切の躊躇いもなく、彼はニワトコの杖から死の呪いを放った。当然、ハリーは避ける。そして、走った。ヴォルデモートの放った流れ弾が、万が一にでも仲間に当たったら最悪だ。近くの瓦礫を跳び越え、城の中庭に転がり込む。

 

「『クルーシオ‐苦しめ』!」

 

 ヴォルデモートの杖から「磔の呪い」が飛んでくる。

 ハリーの背中にまともに当たったが、予想していたような痛みはなかった。せいぜい、針でちくりと刺された程度の刺激である。針刺し呪いや失神呪文の方が、遥かに激痛だ。

 ハリーは振り返り、ヴォルデモートと対峙した。

 

「……なぜだ」

 

 ヴォルデモートの顔に困惑の色が浮かぶ。

 当然だ。「磔の呪い」のダメージがまったく見られない。

 

「なぜ、平然としていられる!!」

 

 肌を焼き尽くさんばかりの憎悪を向けられ、ハリーは怯みそうになった。

 ところが、ハリーは大変落ち着いていた。心は冬の湖面のように静かで、さざ波ひとつ立っていない。殺される覚悟で「禁じられた森」に歩き出したときよりも遥かに穏やかで、そして、勇気を胸に抱いていた。

 

 「蘇りの石」で死んでしまった大切な人たちと出会った。

 彼らは、見えなくても永遠に傍にいる。

 それに、不思議と一人ではない気がした。先ほど、ネビルが力強く叫んだ言葉が、自分の胸にも根付いているのかもしれない。たった一人で最強にして最悪の魔法使いと相対しているのに、とても心強い思いを抱いていた。

 

「ハリー!!」

 

 否、実際に一人ではない。

 ハーマイオニーがヴォルデモートの後ろから駆け寄ってくる。

 数歩遅れて、ロンが彼女の後に続いた。

 

「邪魔をするな」

 

 だがしかし、彼らがハリーの元に辿り着くことはできなかった。

 ヴォルデモートは透明な壁を作り、ハーマイオニーたちの前を塞ぐ。

 

「俺様がポッターを殺してから、相手をしてやるとしよう」

「大丈夫、二人とも」

 

 ハリーも二人を安心させるように笑いかける。

 

「こいつは、僕が倒さないといけない。僕でなければダメなんだ」

「ポッターは本気ではない」

 

 ヴォルデモートは赤い目を見開いた。

 

「ポッターのやり方はそうではあるまい。今日は誰を盾にするつもりだ、ハリー・ポッター?」

「誰でもない。分霊箱はもうない。残っているのはお前と僕だけだ。

 一方が生きる限り、他方は生きられぬ。2人のうちのどちらかが、永遠に去ることになる」

「どちらかだと?」

 

 ヴォルデモートが嘲笑った。

 全身を緊張させ、真っ赤な両眼を見開き、今にも襲いかかろうとする蛇のようだ。

 

「勝つのは自分だと考えているのだろう? 偶然生き残った男の子。ダンブルドアに操られて生き残った男の子」

「偶然? 母が僕を救うために死んだときのことが、偶然だというのか?」

 

 ハリーが問い返した。

 二人は互いに等距離を保ち、完全な円を描いて、横へ横へと回り込んでいた。ヴォルデモートがハリーしか見ていないように、ハリーにもヴォルデモートの顔しか見えなかった。

 

「偶然だ。お前は常に誰かを身代わりにしてきた」

「でも、もう今夜のお前は、他の誰も殺させない」

 

 ぐるぐる回り込みながら、互いの眼を見据え、緑の眼が赤い目を見つめて、ハリーが言った。

 

「お前はもう決して、誰かを殺すことはできない。僕は……お前が皆を傷つけるのを阻止するために、死ぬ覚悟だった」

「しかし、お前は死ななかった。しかも、裏切られた!」

「死ぬつもりだったし、裏切られていない。

 僕のしたことは、母の場合と同じだ。それに、セレネが殺したのは僕ではない。僕の中に残っていたお前の魂だ。

 僕は……お前には分からない大切なことをたくさん知っている。お前がまた大きな過ちを犯す前に、いくつか聞きたいか?」

 

 ヴォルデモートは答えず、獲物を狙うように回り込んでいた。

 

「……また、愛か?」

 

 ヴォルデモートが言った。蛇のような顔が嘲笑っている。

 

「ダンブルドアのお気に入りの解決法だ。だが、愛は奴が塔から落下して、古い蝋細工のように壊れるのを阻止しなかったではないか。

 さあ、俺様が攻撃すれば、愛とやらが守ってくれるというのか? なにがお前の死を防ぐというのだ?」

「一つだけある」

 

 ハリーが言った。

 

「今お前を救うものが愛ではないのなら、俺様にはできない魔法か、さもなくば、俺様より強力な武器を持っていると信じているのか?」

 

 ヴォルデモートはニワトコの杖をちらつかせる。

 

「両方持っている」

 

 ハリーが言うと、蛇のような顔に衝撃がさっと走るのを、ハリーは見逃さなかった。しかし、それはたちまち消えた。ヴォルデモートは声を上げて笑い始めた。悲鳴よりも、もっと恐ろしい狂気じみた声だった。

 

「俺様をしのぐ魔法を知っているというのか!? ダンブルドアでさえ夢想だにしなかった魔法を行った、この俺様が!?」

「ダンブルドアはお前より多くのことを知っていた。知っていたから、お前のやったようなことをしなかった」

「そのダンブルドアに、俺様が死をもたらした。

 ダンブルドアは、死んだ!!」

 

 ヴォルデモートは、ハリーに向かって言葉を投げつけた。

 その言葉が、ハリーに耐えがたい苦痛を与えるとでも言うように。

 

「あいつの骸は、大理石の墓で朽ちている」

「そう、ダンブルドアは死んだ」

 

 ハリーは落ち着いて答えた。

 

「ダンブルドアは、自分の死に方を選んだ。死ぬ何か月も前に選んだ。

 セブルス・スネイプによってダンブルドアを殺させ、その杖の所有権をスネイプに移させた」

「何を……」

「だけど、それは失敗に終わった。この戦いが始まった時の持ち主は、セレネ・ゴーントだった。本当の持ち主が使わない以上、その杖は威力を発揮できない」

「バカバカしい! 杖が魔法使いを選ぶというのか!!」

 

 ヴォルデモートの声は邪悪な喜びで震えていた。

 

「それならば、お前を殺した後、あのホムンクルスの遺骸を貶めればいい。運良く生きていれば、息の根を止めよう。そうすれば、この杖は真に俺様のものに――……」

「ならない」

 

 ハリーが断定する。

 ヴォルデモートの胸が激しく波打っていた。ハリーは、いまにも呪いが飛んでくることを感じ取っていた。自分の顔を狙っている杖の中に、次第に高まっているものを感じていた。

 

「言ったはずだ。彼女は、この戦いが始まった時の持ち主だと」

 

 ハリーは不死鳥の杖をぴくぴくと動かした。

 

「僕は武装解除で、セレネの杖を弾き飛ばした。

 もちろん、その後に殺されたけど、彼女が殺したのは僕じゃない。僕の中のお前だ」

 

 ハリーは囁くように言った。

 

「つまり、お前の手にあるその杖が、最後の所有者が武装解除されたあと、再び奪い返せなかったことを知っていれば、ニワトコの杖の真の所有者は、僕だ」

 

 ハリーが最後の言葉を告げると同時に、東の空に眩しい太陽の先端が顔を出した。 

 光は同時に、ハリーたちの顔に当たった。ヴォルデモートの顔が、突然ぼやけた炎のようになった。ヴォルデモートの甲高い叫びを聞くと同時に、ハリーは不死鳥の尾羽の杖で狙いを定め、一心込めて叫んでいた。

 

「アバダケダブラ!」

「エクスペリアームス!!」

 

 大砲のような音と共に、二人を囲む円の真ん中に黄金の炎が噴き出し、二つの呪文が衝突した点を印した。緑の閃光と赤い閃光は拮抗状態を保っている。だが、やはり実際の能力値は、ハリーよりヴォルデモートの方が強いのだろう。ヴォルデモートが圧しだしている。ところが、それは最初の一瞬だけで、すぐにニワトコの杖は武装解除に負けて、くるくると回りながら本当の主人の元へ向かった。ハリーは空いている片手で、スニッチをキャッチするように杖を捕らえる。

 ただ、やはり、ヴォルデモートは今世紀最恐にして最悪の魔法使いだ。

 ニワトコの杖が手から逃れて宙を舞ったことに驚きながらも、すぐさま跳ね返ってきた死の呪いを避けて躱す。そして、ネビル・ロングボトムの杖で反撃に打って出た。

 

「アバダケダブラ!!」

 

 ネビルの杖から、先程とは比べ物にならないほどの緑の閃光が噴射される。ニワトコの杖が放った閃光が刺繍糸だとすれば、今度の閃光はジェット噴射だ。

 なにしろ、所有者になりえなかった杖ではなく、ネビルの杖は先ほど奪ったばかりの杖だ。ヴォルデモートの真の威力を発揮している。ハリーはニワトコの杖ではなく、不死鳥の尾羽の杖で立ち向かおうとする。

 

「エクスペリアームス!」

 

 ハリーは武装解除呪文を放つ。

 ヴォルデモートと同じ呪文は使いたくない。その思い一心で放った魔法は、轟音と共に迫りくる激しい緑の閃光に圧し負けそうになる。ハリーは歯を噛みしめ、賢明に耐えるが、少しずつ、しかし、確実に、死の呪いが迫ってくる。ヴォルデモートが底冷えするような笑い声を上げ、ハリーが死ぬ様を楽しみにしているようだった。

 

「ハリー!!」

「負けるな、ハリー!! くっそ、この壁!!」

 

 ハーマイオニーとロンたちの声が聞こえる。

 自分が死んだら、次は彼らの番だ。

 

「僕は……もう、誰も死なせない!!!」

 

 ハリーは全身全霊の力を込めて叫んだ。

 空高く響き渡った叫びは、木々まで揺らす。武装解除の呪文の威力が高まり、死の呪いを圧し返し始めた。

 

「それはそれは、良い心がけだ。

 だが、俺様は殺せない。俺様はお前を殺し、お前の味方となる者をすべて殺す!!

 これで、終わりだ! ハリー・ポッター!!」

 

「……いいえ、終わりではないわ」

 

 空から一閃。

 夜空に残る星座から放たれた矢が発射されるように、黒髪の少女がハリーとヴォルデモートの合間を分つ。

 彼女の手にしたナイフで緑の光が消失し、圧しとどめる存在を失った武装解除の閃光がまっすぐヴォルデモートを貫いた。

 ヴォルデモートは再び迫りくる閃光を防ごうとした。

 まだ、彼にはイチイの木の杖が残っている。兄弟羽の杖は互いに攻撃することはできないが、盾で防ぐことくらいはできる。その間に、あそこで立ち往生している者たちから杖を奪えばいいと考えていた。

 

「この程度……ッ!?」

 

 ところが、ここでヴォルデモートの動きが止まる。

 ぴたりと、地面に縫い繋がれたように停止する。身体を動かしたくても、指先一つ動かすことが出来ない。ハリーの放った武装解除の呪文は、ヴォルデモートの胸元にまっすぐ命中した。ネビルの杖が弾き飛び、ヴォルデモートは声にならない悲鳴を上げた。

 

 ヴォルデモート卿の身体は、すでに壊れ切っていた。

 命を繋ぐ分霊箱はすべて破壊された。その半数が「直死の魔眼」で破壊された。それは、たとえ大昔に本体と別れたものとはいえ、同一の存在だ。直死で切られた魂の崩壊は、そのまま本体まで辿り着く。

 

 繰り返す度、5つ。

 5度までの魂の崩壊に、塵程度まで切り刻まれた本体の魂が耐えられるはずがない。

  

 そう。武装解除の一撃で、身体が崩壊してしまうほどに。

 

 ヴォルデモートの真っ赤な目の、切れ目のように細い瞳孔が裏返った。

 両腕を広げて仰け反り、爪先から、指先から、服までもが弱弱しく萎びながら塵となっていく。

 

 こうして、ヴォルデモート卿は完全に消滅した。

 

 ハリーたちを隔てた壁も取り払われ、まっさきにハーマイオニーが彼に抱き着いた。良かったとか嬉しいとかありきたりの言葉はなく、ただ全身で喜びと安堵を表現していた。ハリーはハーマイオニーを抱き留め、続けてロンに手を向ける。しかし、ロンは喜びではなく、困惑と申し訳なさが入り混じった表情を浮かべていた。

 

「あの……ゴーント、僕……」

 

 ロンが何か言おうと口を開く。

 だが、最後まで言わせないと言わんばかりに、セレネは話し始めた。

 

「ま、誰にでも間違いはあるものですよ」 

 

 黒髪の少女はナイフをポケットにしまった。

 

「私も……逆の立場なら、同じ行動をとっていたかもしれませんし」

 

 少女は静かに答えると、傍にいた少年を連れて去ろうとした。

 その背中に、ハーマイオニーが声をかける。

 

「……セレネ、1つ教えて」

 

 ハリーから手を放し、不思議そうな目を向けてくる。

 

「どうやって、ここまで戻ってこれたの?」

 

 彼女の疑問は尤もだった。

 セレネが落とされたのは、底も見えない峡谷だ。

 普通に考えれば、死ぬ。死ななかったとしても、すぐに戦線に復帰できるわけはない。セレネは三人を振り返り

 

「さあ、どうしてでしょう?」

 

 とだけ告げると、悪戯っぽく笑った。 

 

 

 

 彼女たちには、秘密を告げたくなかった。

 

 

 

 

 セレネは間違いなく、橋から落下した。

 命綱もなく、箒もない。飛行魔法を使えるだけの魔力もない。

 普通に考えれば死んでいたし、死を覚悟した。

 

 だけど……

 

 

「……でも、やっぱり、私……」

 

 その言葉を最後に、セレネは瞼を閉じる。

 

 人を殺しておきながら、皆と未来を生きたいと願ってしまった。

 

 だから、最後に力を振り絞って、自身に変身呪文をかけた。 

 身体が一気に縮まり、物言わぬ羽になっていくのが分かる。

 

 変身術は、身体の構造を変える魔法だ。

 羽に変身すれば、魔力が切れるまで一生羽のまま。

 もう二度と、目覚めなくなるかもしれない。

 変身が解けず、ただの羽に成り果てるかもしれない。逆に、途中で魔力が切れて、結局はそのまま落下することになるかもしれない。

 ああ、でもそれでも構わない。

 セレネは、我儘にもまだ生を手放したくないと思ってしまった。

 

 

 小さくて、軽い羽は、風に乗って前後に揺れながら、ふわりふわりと落ちていく。

 

 

 

 

 そして、再び瞼を開けた時、セレネは小川に半身浸かっていた。

 雪解け水を含んだ小川は、足の先まで凍り付きそうなほど冷え切っている。その冷たさが、セレネにまだ生きているという実感を与えていた。

 そう、生きている。

 それは泣きたくなるほど嬉しい。しかしながら、指一本すらも動かすことができない。杖を握っていたところで、魔力はからっからなのだから、救出を求めることが出来ない。否、むしろ、助けてくれる人などいるのだろうか。皆の前でハリーを殺し、約束を破っておきながら、それを求めるのは、随分と我儘なのではないか。

 

 

 

 モリーに負けたのは意外だったけど、納得はしていた。

 これは罰なのだと。

 元々、感情で行動する者の気持ちが理解できなかったが、理解しようともしなかった。それが、たぶん敗因なのだ。

 

 

 

 

 空は蒼い。

 まだ端っこのところが深い藍色に染まり、星の名残が残っていたが、心地よい蒼さだ。

 

 戦いは終わったのか。

 それとも、まだ再開されていないのか。

 

 谷底は、どこまでも、どこまでも静かだった。 

 

「……ま、これも定め、かな」

 

 かすれた声で呟いてみる。

 誰も拾ってくれない、最期の声だと感じながら。

 

「馬鹿、何が定めだ。勝手に悟るな」

 

 セレネは突然、微睡みから覚めたような気持ちになった。

 見知らぬ人を見るかのような目で、こちらに近づいてくる男を視認する。ローブはボロボロで、腕は鮮やかな切り傷だらけだった。

 

「約束、破りやがって」

「どうして……?」

「ん? そりゃ、一蓮托生だろ?」

 

 平然と答えながら、右手で握っていたおんぼろ箒を壁に立てかけた。

 セレネは苦笑いを浮かべる。

 

「……なんだ、飛行魔法じゃないんだ」

「あんな複雑な魔法を使えるのは、お前くらいだろ」

 

 彼はそう言いながら、セレネを川から引きずり出した。セレネに体力を回復する魔法薬を手渡すと、大きくため息をついた。

 

「……はぁ。やっぱり俺が見てないと、何をしでかすか分かったもんじゃない」

「……すみません」

 

 セレネは魔法薬を飲みながら謝った。

 身体中に魔力が行き渡っていくのが分かる。ほかほかと内側から温まっていくような感じがした。

 それなのに、心は冷え切っている。

 自分は約束を破った。絶対に許されない。それなのに、なぜ彼は来てくれたのだろうか。どうして、助けてくれるのだろう。それが、セレネには分からなかった。

 

「……許してくれるんですか?」

「まさか!!」

 

 セレネの問いかけに、即答で返される。

 

「一生許すわけないだろ!! まったく……金輪際、こんなことがないように、俺が一生、お前を傍で見張ってやる。いいな!」

「……そうですか」

「き、危険なことがあっても、絶対に守ってやるし、最期まで付き合ってやる!」

「……ありがとうございます」

「……………………それだけかよ」

「他に何か?」

「……いや、何でもない」

 

 どこかがっかりしたような彼の言葉を感じながら、セレネは空を見上げる。

 甲高い笑い声が谷底に響きながら落ちてくる。ヴォルデモート卿の嘲笑う声だ。セレネはそれを聞いていると、身体がむず痒くなっていくのを感じた。

 

「まさか、戦いに戻るつもりか?」

 

 呆れたような問いかけに、セレネは頷いて返した。

 人を殺しておきながら、こんなことを言うのは非常に虫の良い話である。

 

「だけど、やっぱり……ヴォルデモートはこの手で仕留めたい」

 

 セレネは、拳を握りしめる。

 今更戻ったところで遅いかもしれないし、両方の陣営から叩かれるかもしれない。それでも、城まで戻りたかった。

 

「もう魔法は扱えないだろ。走るのも無理じゃないか?」

 

 セオドールの言う通りだった。

 魔法薬で回復したとはいえ、それは一時的なモノ。すぐに力尽きてしまうから、せめて半日ほど身体を休ませてからでないと、戦線に復帰しても足手まといだ。

 そのことは百も承知だったが、身体が、心が、ヴォルデモートを倒したいと訴えてやまない。そう伝えると、彼は心底疲れ果てたように、肩を落とした。

 

「……そうだよな、お前ってそういう奴だよな」

 

 そう言いながら、彼はポケットから何かを取り出す。

 

「それに付き合ってやる俺も、十分どうかしてるけど」

 

 彼は取り出した金色の物体を見せつけるように掲げた。

 とても綺麗な金の砂時計だった。首飾りのように金の輪がかかり、砂時計がゆらゆら前後に揺れている。セレネは記憶が刺激され、驚愕に目を見張った。

 

「それって……逆転時計ですか!?」

「逆転時計以外の何物でもないだろ。

 これで、半日前まで戻る。こっそり身体を休めて、お前が落下したあたりから再スタートだ。目くらましをかけておけば、攻め込むタイミングは自由に選べる」

「それは分かりましたけど、でも、どうして、逆転時計が……?」

 

 セレネが尋ねると、彼の耳が少し赤くなった。

 

「……魔法省に侵入した時、欲しがってただろ? なんとかってライブに行きたいって」

「ライブエイドのことですか?」

 

 確かに、そんなことを言った気がする。

 

「その……まあ、あれだ。1つくらい無断で借りても、死喰い人のせいにできるなって思ってさ。

 ただ、これは年単位じゃなくて、戻るのは時間単位だ。そこを年単位にできないか試行錯誤していたわけだが……こんなところで役に立つとはな」

「……あなた……泥棒ですよ、それ」

「グリンデルバルドを脱獄させた奴に言われたくない。

 問題は、どこで身体を休めるかだ」

「それは、秘密の部屋でいいでしょう」

 

 セレネは即決する。

 

「いや、過去の俺たちと鉢合わせするんじゃないか?」

「隅の方に隠れていれば問題ありませんよ。アルケミーも協力してくれるはずです」

 

 その時、セレネは思い出した。

 数時間前、アルケミーと再会した時、あの大蛇は「久しぶり」とか「ずっとお待ちしていました」という懐かしむ単語を一切口にしていない。もしかしたら、あの時、すでに自分と再会し、口止めをしていたのではないだろうか。

 

 

 

 そして、セレネたちは時を逆転させると、ずっと秘密の部屋に隠れていた。

 せっかくなので、自分たちがやってきたときに、すぐ目当ての日記が分かるように順番を入れ替える。それ以外は、特にやることはなかった。

 

 

 ヴォルデモートが休戦を告げるのと同時に、目くらましで外に出る。

 その頃には、もうすっかり身体の調子は戻り始めていた。

 セレネがスネイプと戦う様子を陰から確認する。スネイプが勢いよく城の壁に激突しそうだったので、ついクッション呪文で衝撃を緩和させてしまったが、他は特に介入しなかった。

 

 セレネがハリーを殺し、ウィーズリー一家がセレネを攻撃する。

 セレネは自分が橋から落下し、すぐさま、セオドールが箒に乗って後を追いかける様子を眺める。

 

 

 その後、ハリーが復活した様子を見たときは、喜びよりも胸がいっぱいになり涙が出そうになった。

 無事、ヴォルデモートの魂だけを殺せたのだと安心する。

 

 だが、友人を殺そうとしたことには変わりがない。

 

「……私は空からハリーを見守ります。あなたは、彼の後ろについてください」

 

 セレネは囁くと飛行呪文を使い、ハリーとヴォルデモートを上空から追いかけた。

 

 

 そして、ハリーが殺されそうになった瞬間、セレネは飛び出した。

 死の呪いを一閃して、ハリーに勝機をもたらすために。

 

 

「でも、良かったのか? 勝ちを譲って」

 

 セレネが橋を渡っていると、セオドールが追いかけてくる。

 戦いは既に勝利で終わり、城の中はやんややんやと喜びの渦に包まれていた。親衛隊の生徒たちはセレネの無事と無実を喜び、一緒に祝おうと誘ってくれたのだが、セレネは断り、城の外に出てきたのである。

 

「お前なら、もっとあっさり倒せたんじゃないか?」

「そうかもしれませんけど……あれでいいのです」

 

 セレネはぐっと伸びをしながら答える。

 確かに、隠れていたのだから、後ろからヴォルデモートの死を切り殺すこともできた。だがしかし、それをしてしまうのは反則のように感じた。

 

 ハリーは真剣にヴォルデモートを殺そうとしていた。

 稲妻のごとき視線でヴォルデモートを睨み付け、実力差を理解しながらも、自身の考えを揺るぎなく抱いて立ち向かっていく姿は、セレネには眩しく輝いて見えた。

 

 こちらから手を出す時は、彼が失敗した時、もしくは失敗しそうな時。

 一度は本当に殺そうと覚悟し、実際に殺してしまった相手に対する償いという気持ちもあったのかもしれない。

 

「これから、どこに行くんだ?」

「城に戻っても、居心地が悪いでしょうから……家に帰りますか」

 

 紅茶を飲みながら、お菓子を食べたい。

 一人ではなく、彼と一緒に。チャリティも囲んでいいし、グリンデルバルドはおまけだ。そこまで考えて、ふと……足を止める。

 

「あ、もちろん、私が帰るのは私の自宅ですけど」

 

 ヴォルデモートが倒れた以上、彼まで隠れ住む必要はなくなった。

 つまり、セレネの家に来る必要性もなくなる。

 彼がいることを自然に感じていたが、普通に考えれば自然ではない。彼には彼の家があるのだ。戦いが終わった以上、彼は彼の家に帰るのが道理だ。

 

 けれども、彼は断らない気がした。

 だが、同意は貰っておきたい。そんな想いを込めて、セレネはいつかのように、くるりと振り返る。腕を後ろに組んで、汚れた彼の顔を見上げ、口元に微笑を浮かばせてみせる。

 

「来ますよね?」

「当たり前だろ」

 

 違うのは、彼がはにかんでいないこと。

 当然のように頷いている。むしろ、わざわざ何故聞いてきたのか疑問に思っているようだった。セレネはこてんと首を横に傾ける。

 

「……照れないのですか?」

「何を今さら。

 それに、言っただろうが。俺が一生、お前を見張ってやるって。もう二度と、見失うものか」

「はぁ……そうですか」

 

 見張ってやるとは、なんとも無粋な言葉である。

 セレネは彼に背を向けると、後ろで手を組んだまま再び足を動かしだす。見張られなくても、別に一緒にいるつもりなのに。

 そう考えた瞬間、はたと……変なことに気付いてしまう。

 

 一生見張ってやるとか、危険なことから守ってやるとか、最期まで付き合ってやるとか。

 その言葉は、まるで……

 

「まさか、プロポーズのつもり?」

 

 彼に背を向けたまま、冗談っぽく言ってみる。 

 返答はない。あとをついてくる気配もない。セレネが顔を少しだけ後ろに向けると、熱湯で茹で過ぎたみたいに顔全体を赤らめている。顔一面から、湯気が立ち昇りそうだ。

 

「……そうですか」

 

 セレネはそれだけ言うと、再び前を向いて、今度は少し気持ち早足で歩き始める。

 

「お、おい! それだけか!? 返事は!?」

「さあ、なんのことでしょう?」

 

 セレネは素知らぬ声で答える。

 振り返るわけにはいかなかったし、正直、自分の顔を見られたくない。早くホグワーツ城の周囲に張り巡らされた結界を抜け、姿くらましをしてしまいたかった。

 

「……」

 

 朝陽に照らされた道を進む。

 瓦礫も残骸も死骸もすべて、夜の名残を照らしている。

 

 数日以内には、ここも綺麗に清掃されてしまう。

 それこそ、デルフィーニがホグワーツに入学する頃には戦いの傷は過去のものとなり、それこそ歴史になっているかもしれない。

 これまで、ヴォルデモートに復讐するために生きてきた。

 これからは、大好きで大切な人たちと未来を紡いでいく。

 

 新世界で自分が何をしていけばいいのか、正直なところ霞よりぼんやりとしていて、まだよく分からない。

 

 だけど、未来を考えることが出来る。

 それはきっと、とても素晴らしいことなのだ。

 

 

 セレネは照れながら微笑んだ。

 先ほどより、ティースプーン一杯ほど深い笑みで。

 

 

 

 

 




次回「19年後」
7月26日0時更新予定です。
セレネの物語は残り2話。ちょっぴり寂しい。




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