「魂魄というものを知っているかね? 東洋のドーキョーだかなんたらの考え方でね。人間には精神を動かす魂と、肉体を動かすための魄があるそうだ。魂が健在でも魄がなければ肉体は動かせないし、魄は健在でも精神を稼働することは出来ない。
シルクァッド・サヤップ・クシャトリア……拳魔邪帝、翼もつ騎士、若かりし闇の達人。櫛灘美雲のお気に入りで、一影九拳の一角を担うと目されていた男。
彼は言うなれば魄は健在なのに、魂だけが壊れてしまった状態と言えるね。命に別状はないし、これからどうこうなるということもない。脳味噌は無事だし、五臓六腑も正常に動き続けている。だが魂だけが抜け落ちているんだ。
脳味噌が死ぬと脳死判定されるが、魂が死んだ場合はどう判定したらいいんだろうね。魂死? ううむ……ちと語呂が悪い。
え? 回復する見込みはあるのかって?
難しい質問をするね。やれやれ質問する方は楽だよね。気になったことを訊けば答えが返ってくるんだから。それが望んでいるものか、そうでないかは別として。君はどちらだと思う? ……失礼。落ち着いてくれ。拳を降ろしてくれよ、本郷殿。私はしがない闇医者……もとい闇の研究員。君のような人外のパンチを受ければ、一撃で夜空に輝くお星さまさ。
話を戻そうか。彼が、クシャトリアが快復する見込みだったね?
結論から言えば不明だ。そもそも私は人体の専門家であって、魂の専門家じゃないからね。というより魂っていうのは医者というより、どちらかといえばシンプソンとか坊さんとかの領分だろう。
だがまぁ精神専門の医者でも匙を投げると思うよ。そもそも『静動轟一』はあの稀代の武術的マッドサイエンティスト、緒方一神斎が考案し、サヤップ・クシャトリアが完成させた禁忌だ。私よりも彼に聞いた方がもっとマシな答えを出してくれるんじゃないのかな。
やれやれ。緒方殿の名前を言った途端に出て行かれるとは。相変わらず忙しない御方だ」
あの闘いの後、意識を失ったクシャトリアは、直ぐに王宮へ運び込まれ手厚い治療を受けた。それでもクシャトリアの意識はまるで快復せず、最終的により優れた治療のため闇の施設へと運ばれることとなったのだが、その診断結果がこれである。
やや性格に難がある上に本人の言った通り、彼は魂の専門家ではない。それでも闇という全世界に多大な影響力をもつ組織において、屈指の技術と能力を持つ男の『診断』である。そこに偽りはないのだろう。
本郷は即座に『静動轟一』の開発者であり、クシャトリアを除けば最も『静動轟一』についての知識をもっているであろう緒方の下へと赴いたが、彼の『診断』も似たようなものだった。
「静動轟一で精神が崩壊して、魂が砕け散った……ふむ、成程。クシャトリアほどの達人でも、静動轟一の反動は馬鹿には出来ないということか。これは良いデータがとれましたよ。同じように壊れた例としてはうちの龍斗がいたんですが、達人ではどうなるのかを知りたかったのでねぇ。
おっと怒らないで下さいよ、人越拳神殿。拳魔邪神殿が亡くなり、その後継者と目されていたクシャトリアまでこんなことになってしまったのです。落日前に一影九拳がこれ以上減るのは不味いでしょう。
で、彼の快復見込みですが――――敢えて質問に質問で返すなら、本郷殿は死んだ人間が蘇るとお思いで? …………ええ、その通り。我々武人ならば誰しも必ず弁えていなければならないことだ。死んだ人間は決して蘇ることはない。そりゃ心停止状態から蘇生することはありますがね。完全に死んで彼岸の彼方へと逝った人間が、此岸の此方へ還ってくることは有り得ない。うちの龍斗が静動轟一による半身不随から快復できたのは、あれがあくまで死んでいなかったからですよ。
まぁ現状で私が言えるのは肉体を健康に保ち、時間が経つのを待つこと、くらいですねぇ。魂そのものは砕け散り元のクシャトリアが蘇る可能性は絶望的。しかしもしかしたら徐々に砕け散った魂が修復されていき、新しい人間としてやり直すことは出来るかもしれない。もっとも永遠に砕け散ったままという可能性もありますがね」
長々しい話だが、要するに治療方法は今のところ存在せず、クシャトリアがクシャトリアのままに目覚める可能性はゼロということだ。
本当に珍しく――――数年ぶりとなる溜息を一つ。サングラスをかけたまま本郷晶は、ベッドで寝かされているクシャトリアを見下ろした。
拳魔邪神を中心とした数々の戦いのあったティダードは、ジェイハンが帰還したことで落ち着きを取り戻しているらしい。乱立していた勢力もジェイハンの下で集まってきていて、内乱の終結も近いという。やはり争いの元凶だったジュナザードが死んだことが大きいのだろう。
ただしその犠牲は決して少なくはなかった。クシャトリアもその一人。
「………………」
本郷はクシャトリアには借りがある。自分の弟子、叶翔の命を助けられたという大きすぎる借りが。ティダードの一件で少しばかりは返せたが、まだ返し切ったとは思っていない。
はっきり言って本郷は自分以外の闇を余り信用してはいなかった。自分の弟子を実験動物のように考えている緒方とは考えが合わないし、故ジュナザードは論外。そして、
(櫛灘美雲)
クシャトリアは彼女に心を開いている様子だったが、本郷からすればあの女が一番信用できない。
技の手解きをした教え子でもあるクシャトリアがこんなことになったというのに見舞い一つこないし、今回の事にも影で関わっていた気配がある。或は彼女こそがティダードの騒動のもう一人の元凶なのかもしれない。なんの証拠もありはしなかったが、その推測は決して外れていないと思えてならなかった。
「拳聖様! リミに静動轟一を教えてください!」
緒方が弟子の龍斗に、
ある意味クシャトリアが『崩壊』することになった元凶である自分に、彼の弟子は何を言ってくるのか気になっていたが――――流石にこんな言葉が出てくるとは緒方にも予想外だった。
「ふむ」
顎を撫で暫し緒方は思案する。
リミの後ろには鋭く目を光らせた達人が二人。クシャトリアの側近だったアケビとホムラだ。クシャトリアがあんなことになってからは、彼の一番弟子であるリミを仮の主人としているのだろう。とはいえ上下関係は主従あべこべのようだが。
それに緒方の掴んでいる情報によれば、リミのバックにはあの人越拳神が目を光らせているとか。備えは万全ということだろう。
「駄目、ですか?」
目元に涙を溜めて、愛らしい仕草でリミは懇願する。
その辺の学生ならば、こんな風にお願いされれば一発でノックダウンしてしまうかもしれないが、緒方はリミのような少女にそういう気持ちを抱くほど若くはない。そもそも人を見る目はある緒方には、それが意図的に作ったものであるという判別はついた。
だが別にこんな風に懇願されずとも、緒方に断る理由もなかった。けれどやはり人間として『理由』は気になる。
「いや駄目なんてことはないよ。ただ気になってね。師匠が静動轟一で壊れたのなら、普通はその技を忌避するものだろう。どうして君は自ら静動轟一を学びに来たんだい?」
「だって静動轟一のこと詳しくなれば、それで壊れちゃった師匠を治す方法が見つかるかもしれないじゃないですか! あ、けど別にリミは静動轟一を使いたいわけじゃないんですお。でもどういう技なのかは知りたくて……。そもそも静動轟一は駄目って師匠に言われてますしおすし。あれだけ恐い顔で言ってた言いつけ破ったら、起きた師匠にどんなおしおきされるか……」
「ははは、成程」
あのクシャトリアに弟子がいないことを勿体なく思い、ティターンのリーダーだったリミを彼に紹介したわけだが、少々勿体ないことをしてしまったかもしれない。
この素直さ、真っ直ぐさ。これは龍斗やバーサーカー、ルグにはないリミだけの美徳であり長所だ。
(いや、もう過ぎたことだ。何も言うまい)
それに私一人で四人も弟子をもつより、クシャトリアに弟子を紹介する方が武術界のために良いだろう。いや今となっては良かった、と言うべきかもしれない。クシャトリアはもうこの世にいないのだから。
「拳様。クシャトリア殿は私の治療にも手を尽くしてくれた恩人。私からもお願いします」
「りゅ、龍斗様!?」
「……アタランテー。一応断っておくが、君の為じゃないから抱き付かないでくれ」
「は、はははははははははははは! いやいや弟子同士仲が良くてなにより。いいだろう、アタランテー。静動轟一について私の知る限りのことは君に教えよう」
「本当ですか!?」
「ああ。武を欲し教えを乞う者があれば、例えどんな相手だろうと私は己の技を伝授するとも。武を学ぼうとする理由に貴賤はない。武を求める人間には、誰であろうと平等に武を学ぶ資格がある。それが私の提唱する『武術平等論』の中心概念なのだから」
リミが『静動轟一』を使ってくれないのは少し残念だが、それも構いはしない。
シルクァッド・サヤップ・クシャトリアの魂は死んだ。それは緒方の目から見ても間違いないことである。だが科学も武術も日々進歩していくものである。もしかしたら静動轟一で完全に精神が崩壊した人間を元に戻す術が見つかるかもしれない。静動轟一には未だ開発者である緒方すら未知の多い技である。可能性はゼロとは言えなかった。
静動轟一で完全に精神が壊れた人間を元に戻せるか――――この研究も武術の発展に繋がるだろう。
「期待しているよ、アタランテー」
「はいですお!」
緒方一神斎の双眸が怪しく光る。
自身の敗北には成れていても、師の敗北に耐え切れず折れる武人は多い。だがこの分ならリミは問題ないだろう。
この精神力、静動轟一を使うのには必要な要素の一つだ。だからこそ実に惜しい。緒方はしみじみとそう思った。
日本の山中深くにある闇の施設、そこには無手組を取り仕切る最高幹部・一影九拳が集結する予定となっていた。ただしつい先日死亡したジュナザード、ビックロックに囚われているディエゴやアレクサンドルについては不参加ということになる。
一匹狼である馬槍月や海外にいるラフマンとアーガードはモニターでの参加。実際に会議場に足を運んでくるのは櫛灘美雲、拳聖、本郷晶、一影だけだろう。
態々一影九拳を召集してまで開かれた会議の内容は、言うまでもなく先日のジュナザードの一件である。
実のところ元々ジュナザードは闇の作戦に対して非協力的だったので、彼が戦死したことは寧ろメリットすらあることだったのだが、ジュナザードの弟子であるクシャトリアまでもが意識不明の植物状態になったのは大きかった。
ジュナザードと違い仕事に忠実だったクシャトリアは、闇の進める多くの計画に直接的・間接的問わずに関わっている。そんなクシャトリアが突然いなくなれば、今後の闇の活動にも支障が出るだろう。
謂わばこれから行われる会議は『出るであろう支障』を未然に防ぐためのものだった。
「この度は残念でしたね、櫛灘さん」
会議が始まる直前、緒方はどこか意地の悪い笑みを浮かべて櫛灘美雲に話しかけた。
「見舞いには行かなくて良いのですか? 喜びますよ……もし天国なんてものがあったとして、クシャトリアがそこにいたのならば」
「わしが見舞いに行ってクシャトリアが快復するのならば足を運んでも良い。じゃがそうではなかろう。落日を前にして、そのような無駄なことに時間を費やすほどわしは暇ではない」
「おや、冷たいんですね。ご自身の直弟子でないにも拘らず、奥義の一端を伝授するほど気にかけておられたのに。愛着はないのですか?」
「わしは愛着で奥義を教えるほど酔狂ではない」
「では何故? よりにもよってお嫌いな拳魔邪神の弟子に」
「……そうさな、これはあくまで例え話じゃがのう。もしも敵国の宰相が主君に叛意をもっていたとすれば、その宰相を支援し王への叛逆を後押しするのは利のあることじゃろう。じゃが邪魔な王が死んだのであれば、もはや宰相を支援する必要なぞありはせん。狡兎が死して、走ることもできなくなった走狗など不要。剥製にでもするしかなかろう」
「……ふふ。おっかない女だ」
ティダードの騒動はジュナザードを中心に起きたものだが、その黒幕は目の前に立つ櫛灘美雲なのだろう。妖艶に微笑む美雲を見て緒方はそう確信した。
彼女にとってクシャトリアは、ジュナザードを廃除するための駒が一つ。それが期待通りジュナザード抹殺をやり遂げたのならば、もはやその駒も用済みということか。
緒方は自分が外道であるという自覚があるが、彼女の腹黒さと比べれば、自分の外道さもまだまだ甘いだろう。或は彼女こそが一影九拳で最も邪悪な存在なのかもしれない。
(まぁクシャトリアもそれが分からないほど愚かな男じゃなかったし、理解した上で入れ込んでたんだろうな。やれやれ、君も中々に狂っているね)
ここにいないクシャトリアに、緒方は心の中で語り掛けた。無論、返事が返って来ることはなかったが。
「のう、拳聖。わしとて自分に忠実だった愛らしい男が消えて、それなりに傷ついておるのじゃ。それなりには、な。この話はこれで終わりで良いな?」
「ええ。他の九拳には口外しませんよ。私も落日の前に余計な火種を生みたくはありませんからね。ただでさえ人越拳神殿あたりには嫌われていますし」
「話が早くて助かる。その調子で頼むぞ、拳聖」
シルクァッド・サヤップ・クシャトリア。彼という歯車が消えても、世界は終わりはしない。
くるくると廻る。残酷に、冷徹に、無慈悲に廻り続ける。
クシャトリアを知り彼の死を悼む人々も、いずれ別の関心事を見つけて、彼のことを忘れ去っていくのだろう。そして彼の死は忘れ去られ、いずれ風化するのだ。
――――忘れる。
それは人が過去を振り切って、未来を歩いていくには必要不可欠なことであるが、
「優しく、とても残酷だ」
それで緒方一神斎も死したクシャトリアを一先ず意識の片隅に引っ込めて、これからのことに考えを巡らせ始める。
手始めに新白連合。あそこに属している過半数以上は自分の見出した『素材』であるが、こちら側につかないのならば邪魔なだけ。闇の未来を担う者達のための『生け贄』とするのがベストだろう。
『――――揃っているな』
音もなく会議の主催者である〝一影〟が姿を現す。
顔や体つきは寸分違わず風林寺砕牙のそれ。しかしその中身は実際なんなのか、それは緒方の眼力をもってしても判断がつかない。
「今回の人越拳神が拳魔邪神の本拠地を襲撃した件だが……」
挨拶もなく一影はいきなり本題を切り出した。
それに文句を言う人間はこの場にはいない。誰一人の例外もなく沈黙したまま一影の決定を待つ。
「これについては先に人越拳神の死合いに手を出したのは拳魔邪神の側。人越拳神に非はないとしたいが、どうか?」
『俺はどうでもいいぜー』
『…………』
アーガードが適当に返答した以外には特に声はなかった。他に声が出ないことを確認してから一影は先を続ける。
「そして拳魔邪神が拳魔邪帝によって討たれたことについてだが、不可侵条約が結ばれているのはあくまでも一影九拳同士の戦い。師弟である拳魔邪神と拳魔邪帝の戦いを禁じる規則は闇には存在しない。また拳魔邪帝の勝利をもって、拳魔邪神より拳魔邪帝に武が伝承された証とし、新たなる九拳の称号と〝王〟のエンブレムは拳魔邪帝が継承するものとする」
「――――待て」
これまで黙したまま何も語らずにいた本郷晶が、椅子から立ち上がり鋭く一影を睨んだ。
「クシャトリアは……拳魔邪帝は、ジュナザードとの戦いで精神に大きなダメージを負ったはずだ。九拳を引き継ぐなど不可能だ」
「無用な心配じゃ、人越拳神。仕込みは済んでおる。入ってこい、拳魔邪帝」
櫛灘美雲がパンッと手を鳴らして合図をすると、会議場に一影九拳の誰もが知る男が入ってきた。これにはさしもの緒方一神斎も瞠目し、言葉を失う。色素が抜け落ちた白髪、血のように真っ赤な双眸、浅黒い肌。どこか非人間めいた東洋の鬼を想起させる外見をした男は、どこからどう見てもシルクァッド・サヤップ・クシャトリアそのものだった。
ただしその顔には『生気』というものがまるで感じられない。瞳はなんの色も宿さず、ただ虚空を彷徨っており、表情からは喜怒哀楽全てが欠如している。まるでマネキン人形が糸かなにかで動かされているかのようだ。居な、まるでではなくまさしくと言うべきかもしれない。これは人形のような人間ではなく、人形そのものだ。
「貴様、妖拳の女宿……。 一体なにをした……?」
本郷晶の静かな殺意が美雲を貫くが、美雲はさして動じずにさらりと言った。
「さっき拳聖に言った通りじゃ。走れなくなった走狗を、剥製にして再利用しておるわけじゃよ」
「――――!」
本郷晶が美雲を殺しにかからずに踏みとどまったのは奇跡だろう。一影がいたからギリギリで踏みとどまったが、そうでなければこの会議場で盛大な殺し合いが始まったはずだ。
「なるほど。クシャトリアは魂が砕けただけで、身体を動かすための魄そのものは健在。櫛灘流の邪法を用いれば、魄だけの人間を己の好き勝手に操ることも自在というわけですか。これでは迂闊に死ぬこともできませんね。つくづく怪物だ、貴女は」
「人を呪術師のように言うでない。わしも魂も魄も死んでおる人間を操ることなどは出来ぬ」
「今のところは、ですか?」
どうやらクシャトリアのことを『忘れる』のはまだ先のことになりそうだ。
ここにいるクシャトリアは生きる屍。動き喋ることはできても心はない。だが心はなくとも鍛え上げた達人の強さはそっくりそのまま残っている。櫛灘美雲のような人間にとっては、案外元のクシャトリアよりも都合の良い存在かもしれない。
「はは、ははははははははははははははははははははははははははっははははははははははははははははははははははははははっ!!」
やはり武術は素晴らしい。この世に存在するどんな技術よりも歴史が古く、真実と狂気に満ち満ちている。
一影九拳其々が別々の表情を浮かべる中、白髪赤目のマリオネットは無表情のまま世界を見つめていた。