一寸先は闇。未来とは不安定で不確定で予想しきれぬもの。
小学生に入学した頃はジュナザードの弟子になることなんて思いもしなかったし、同様にジュナザードの弟子だった頃はこうして日本の高校で教鞭をとることになるとも思わなかった。
そういえば自分の小学一年生の時の夢が学校の先生だったことを、クシャトリアはふと思い出す。
社会の厳しさも何も知らない子供の頃に抱いた夢であるし、志した理由も担任の先生が格好良かったからそれに憧れて……というなんとも単純な理由だった。
尤も今の今まで忘れていたということは、子供の頃に戯れに抱いた理想図の一つ。時間の流れと共に忘れ去られる子供の思い出に過ぎなかったのだろう。
子供の頃にスポーツ選手を志した者が成長してもずっとスポーツ選手を目指すのは稀なことだ。子供は飽き易いもので、次の年には夢の内容が別のなにかに変わるなんてざらだ。
だが――――例え子供の頃に一瞬抱いた夢だとしても、今教壇に立っているということは一応夢を叶えたということになる。
願わくば『師匠を殺す』という願いも遠からず成就することを祈りたいものだ。
「――――というわけで、前漢から帝位を簒奪し新王朝を開いた王莽だったが、周の時代を模した現実離れした政策だったため、内政でも外交でも失敗し、最終的には漢の皇族血筋の豪族だった光武帝によって平定された。
こうして漢王朝は復活するわけだが、一般に新王朝前の漢を前漢、後を後漢と呼称している」
今日は白浜兼一と風林寺美羽のいる一年生ではなく、最終学年である三年生の授業だ。
三年生は受験シーズンなため不良の巣窟と呼ばれるこの学校でも、生徒全員が熱心に授業に耳を傾け――――なんてことはなく、一人ほど胡桃を握って挑発するようにカラカラと鳴らす生徒が一名。
おまけに教室にいる生徒も僅か九人だけしかいない。一クラス三十人から四十人が妥当なことを考えれば有り得ない出席人数だ。
といってもこれは別に学級崩壊を起こしているわけではなく、これが三年生の成績やら出席日数諸々が危険粋な生徒を集めた補習だからだ。
この学校の世紀末ぶりを思えば寧ろ九人しか補習を喰らわなかったことは僥倖とすら言っていいだろう。
「筑波、五月蠅いぞ」
「………………」
だが幾ら九人しかおらず、しかもほぼ全員が授業を真面目に聞いていなかったとしても、クシャトリアは授業中に胡桃をカチャカチャと鳴らすことを黙認するほど優しくもなければ、不良に怯えるほど弱くもない。
胡桃を鳴らして眼を飛ばす元空手部の副部長、筑波に注意する。
しかし筑波は注意されて態度を改めるどころか無表情なまま胡桃を鳴らし続けた。
「はぁ。これがアレか。俗に言う先生の言うことを聞かない俺カッコイイー病か。確かこういうのってなんていうんだっけ。羞恥病?」
「先生、それを言うなら厨二病だぜ」
「ああそうそうそれそれ」
成績不振と出席日数の不足により、めでたく親友の武田と一緒に補習を喰らっている宇喜田がツッコミを入れる。
武田と宇喜田、この二人は監視対象ではないが新白連合の副将で白浜兼一の友人でもあるので、クシャトリアの要注意人物リストにものっている者達だ。
とはいえ白浜兼一と違って達人に教えを受けているわけでもなく、所詮は一般の武術家の枠を出ないが。
「実は少し医術を齧った事はあるんだが、その厨二病なる病気は恥ずかしながら今の今まで聞いた事が無くてね。一人の教師として治療してあげたいのは山々だが知らない病気を治すことはできないんだ。
だから今直ぐ病院に行ってお医者さんに見て来て貰いなさい。腕の良い医者を知ってるから」
クシャトリアが丁寧に語りかけると、筑波はそれを侮辱と受け取ったらしく、鋭い目つきで胡桃を握りつぶした。
空手部で部長をさしおいて一番の実力だったというのは伊達ではないらしい。一般人からしたら、それなりに握力が強いようだ。
だがクシャトリアがたかが胡桃を握りつぶすくらいで今更驚くはずがない。クシャトリアを驚かせるなら、せめて鉄球を握り潰すくらいしなければ。
「面白い一発芸だな。胡桃を鳴らすのを止めたのは偉いが、教室のど真ん中で握りつぶすのは頂けない。床に胡桃の破片がおっこちているじゃないか。後で掃除しておけよ」
「……舐めた口を聞くじゃねえか、先生よぉ。この学校の教師はどいつもこいつも骨のねえヘタレ野郎ばっかで、俺がちっとばかし睨むと身の程を弁えて大人しくなったんだがなぁ。
どうやらアンタはそうじゃねえらしい。勇気があるな、先生。精々夜道には気を付けることだ。舐めた口を訊かれた教え子がタガを外しっちまうかもしれねからな」
「過大評価だ。私はそう勇気がある方じゃない。ただお前如きに勇気を振り絞る必要がないだけだよ」
「テメエ」
露骨に侮辱された筑波が立ち上がる。しかし筑波の最後の理性が『教師に大っぴらに暴力を振るえば退学になる』と囁き筑波をぎりぎりで押し留めた。
武田と宇喜田がやや面倒そうに立ち上がろうとするが、クシャトリアはそれを手で制した。
こんな下らない事で弟子クラスの手を借りるなど武術家としての誇りが許さないし、武田たちはラグナレクと存亡をかけた決戦を行った後でダメージが残っている。
怪我人の手を借りるわけにはいかない。
「それと舐めた口を聞いているのはお前の方だ。あんまり反抗的な態度をとるようなら拷――――」
「なんだよ? 反抗的な態度をとるならなにしてくれんだ?」
「……いや、日本の教育機関では残念ながら体罰は禁止だったな。うん」
人間を手っ取り早く支配し突き動かすには恐怖が一番だ。
そして恐怖を植え付ける最もお手軽なのが肉体的苦痛。人体について知り尽くしたクシャトリアなら、傷痕をつけず痛みだけを与える殴り方や、逆に傷痕を残すやり方も心得ている。
クシャトリアとしたら最も効果的な死の恐怖を用いたいところだが、流石に一般人の不良相手にそれをやるほど大人気なくはない。
「へへっ。いいんだぜ俺は。なんなら空手部の試合って形をとって、合法的に殴り合える場所を作ってやってもいいんだ」
「肉体的苦痛が駄目となると精神か。なぁ筑波……席について、大人しく授業を大人しく受けろ」
ゾワリと、筑波はナイフを背中に当てられたような恐怖を覚えた。
クシャトリアは筑波に一切の手出しをしていない。その場から全く動いていないし、なにか威圧するような素振りをしているわけでもなかった。
ただ筑波は本能的に『この相手の言葉に逆らってはいけない』と悟る。
「……チッ」
やがてクシャトリアと正面から対峙していることに耐えられなくなった筑波は、舌打ちをしつつも席に着いた。
「ひゅー。やるじゃな~い。ボカァいつ割って入って筑波をのそうか考えてたのに無駄な心配だったじゃな~い。一体なにしたんですか、内藤先生」
「何にもしてないよ。ただ誠心誠意、相手の目を見て話せば心は通じるものだ」
武田の問いに曖昧に答えるが、勿論本当になにもしなかったわけではない。
クシャトリアがやったのは気当たりだ。相手に殺気や闘気をぶつけることで相手を威圧する技術で、高度な武術家になると気当たりでフェイントを生み出したり、自分の残像を出現させるような芸当もできるようになる。
だが武術において重要な意味を持つ気当たりだが、決して武術家だけの業ではない。
例えば学生は第一印象でなんとなく逆らってはいけない先生と舐めても問題ない先生を判別することができる。
これも気当たりが関係して、生徒に舐められない教師というのは相応の気当たりを無意識に発しているのだ。
不良の巣窟と呼ばれる荒涼高校で安永教諭がまともに授業を続けていられるのは、彼がベテラン教師でその経歴が彼の気当たりに磨きをかけているからだろう。
そしてクシャトリアは教師としては初心者でも、気の扱いに関してはプロフェッショナル。
一般人相手なら気当たりで心臓を止めるも、相手を気絶させるも、威圧させて大人しくさせるも自由自在だ。
今回は意図的に筑波が大人しくなる程度の気当たりを、筑波だけにぶつけることで手を下さずに筑波の精神を屈服させたのだ。
「じゃあ授業を再開しよう。筑波のせいで授業時間を五分無駄にしたから五分間延長ね」
「えぇー。そりゃないぜ先生! 俺これから町の道場に行かねえといけねえんだぜ」
「宇喜田。心配しなくても君の道場には私がしっかり御宅の門下生が補習を喰らったので遅れるかもしれませんと報告してある。安心して勉学に励んでくれ」
「うぉぉおおおおおおおおおおおお! 俺の先輩としての威厳がぁあああああああ!」
宇喜田が頭を抱えて机に蹲る。どうやら先輩の威厳を保つため道場には補習のことなどは黙っていたらしい。
「えー、そんなわけで。光武帝によって復活した漢王朝だが、220年には曹丕によって帝位の禅譲がなされ漢王朝は滅びる。曹丕が帝位につき魏王朝の初代皇帝になると、蜀を支配していた劉備と呉を支配していた孫権も皇帝を僭称して、魏・呉・蜀の三国が鼎立する世に言う三国時代に突入する。
三国が並び立つ三国時代だが、魏王朝から禅譲を受けた司馬炎が新たに晋を建国して百年ぶりに中国を統一することになる。じゃ次は――――」
「ちょっと待つじゃな~い!」
「武田、なにか質問か?」
「ちょ~っと三国時代をさらっと流し過ぎじゃな~い。もっと赤壁の戦いとか色々あるじゃないですか。この日のためにボカァ、図書室にあった三国志を読んで予習してきたんですからね」
「いや三国時代は特に重要なところでもないしさらっと流して、隋までいきたかったんだけど。中国史だけじゃなくて西洋史も教えないといけないし」
これまで喧嘩やなんやらで詰め込むべきものを詰め込んでこなかった、すっからかんの頭に最低限の世界史知識を詰め込むのがクシャトリアの仕事だ。
だが最低限といっても、それを短期間で教えるとなるとかなりきついものがある。
「もう少し! この僕の努力に免じてもう少しだけ掘り下げて下さい! 三国時代の質問ならボカァ、華麗に答えますよ」
時間は押しているが、補習にきた生徒がここまで熱心に教えを求めるのは初めてだ。
ここは教師として生徒の熱意を汲んでやるべきだろう。
「なら問題。劉備の息子で蜀の二代目皇帝の名前は?」
「劉禅」
「よし、じゃあ次にいこうか」
「待ったぁ! 初歩中の初歩の質問しかしていないじゃな~い! もっと、もっと詳しく掘り下げてから! せめて劉禅じゃなくて関羽とか孔明を――――」
「何を言う。劉禅は三国時代で一番在位期間が長い皇帝なんだぞ。劉禅を称えろ、崇めろ、奉れ」
「ボカァ! 劉禅より断然、関羽ですよ! 女の子なら貂蝉ですけど。宇喜田、お前は三国志で誰が一番好きなんだい?」
「いきなり話し振るなよ。俺はあんまり詳しくは知らねえけどよ。張任はカッコいいと思ったぜ」
「筑波ァ! 君は?」
「王元姫だろ。金髪ポニテとか最高だな」
「チッ。三國無双か……ゲーム脳め」
「あぁ! ほざくんじゃねえよ、にわか三国志マニアッ! どうせ横山しか読んでねえんだろうが!」
「王元姫もいいけどよ。俺は蔡文姫もいいと思うぜ」
「宇喜田ァァァアアアアアア!!」
何故か世界史の授業は武田という一人のボクサーによって、いつのまにか三国志について語る場所と化してしまっていた。
クシャトリアは頭を抱えながら嘆息し、生徒全員に威圧程度の気当たりを放ち大人しくさせる。
余談だが結局授業は三十分間の延長になった。
感想欄で荒しが発生したので、感想をログインユーザーのみからの受付に変更致しました。読者様におかれましてはご理解のほどをお願いいたします。
阿斗、星彩は俺の嫁。RYUZEN的な意味で。