必死にジャングルを走り回る。自分が森の中を歩きなれていないことなど気にも留めず、ただひたすらに両足を動かした。
火事場の馬鹿力というものなのか。行きは木の根に躓きはしたが、そんなこともなく人気のない大樹の陰まで来て漸く立ち止まった。
「はぁはぁ……な、舐めてた。とんでもない人なのは分かってたけど、まさかあそこまで常軌を逸しているなんて……」
最も優秀なものを弟子として選ぶために、弟子候補全員を殺し合わせて一人残った人間を弟子にする。言葉にしてしまえばそれまでのことだが、やってることは滅茶苦茶も良いところだ。
こんなことを弟子候補に強いるジュナザードもジュナザードだが、それを知って挑む弟子候補も弟子候補である。
「くそっ!」
自分一人以外を殺し尽くすバトルロワイヤル。多くのサブカルチャーに恵まれた日本出身の翼は、そういった物語を何度か見たこともあるし、その時は画面の向こうの戦いに手の汗握ったものだ。
だが自分が画面の向こうの登場人物と同じ境遇になって初めて、そのルールの余りの非人道性に戦慄する。
「これから、どうする?」
ジュナザードは〝やる〟と言ったら〝やる〟妖怪だ。ジュナザードが一人になるまで終わらないと言ったら、決してこの森に生きた人間が一人以下になるまで殺し合いは終わりはしない。
例えずっとここで隠れていて運よく見つからなかったとしても、残った一人が翼を殺しにくるだろう。自分以外の全員が殺しあった挙句に全滅するのが望ましいが、流石にそんな都合のよすぎることは望むべくもない。
かといってジャングルから逃げれば、ルール違反と見なされジュナザードの手で殺されてしまう。
「あっ、ああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーッ!」
「!」
遠くであがる悲鳴……否、そうではない。
如何にティダードで話されているインドネシア語が分からずとも、その声に滲んだ恐怖と無念からそれがただの悲鳴でないことくらいは分かる。
これは断末魔だ。たった今、自分と同じ弟子候補の一人が死んだ。他の弟子候補の手にかかって。
『カッカッカッ。どうしたわっぱ。逃げておるだけでは勝てんわいのう』
「その声! ジュナザードさん!?」
驚き周囲を探すが、風で揺れる木々があるだけで。仮面を被った老人、シルクァッド・ジュナザードの姿はない。
気配を消しているのか、それとも翼の知らない未知の方法をしているのか。或いは単純にスピーカーのようなものがジャングルに隠されているのか。
シルクァッド・ジュナザードという存在を知る前なら確実にスピーカーだと確信したが、知った今となっては判別がつきにくいところだ。
『お前は生きたいのじゃろう。ならば遠慮することはないわいのう。我がお前に教えたシラットの技を振るえぃ! さすれば道は開けよう』
「シラットの技を学ぶことは……諦めました。だけど、もう止めて下さい。別に殺し合いじゃなくても普通に組手でも十分じゃないですか!」
『十分じゃないわいのう。武の極みとは数多の流血の果てに到達するもの。己の手を染めずして、我がプンチャック・シラットの至高を得ることはできんわい』
「だからって!」
仮にジュナザードの言う通り教えられたシラットを使い生き延びたとしても、それは即ち他の弟子候補を殺めるということだ。
平和な日本でも、いいや日本でなくとも殺人という禁忌への忌避感は人間ならば誰もが等しく持っている。
自分の命のためとはいえ、そう簡単に人を殺す決心なんてつけることはできない。それが自分と同年代の、学校のクラスメイトと同い年くらいの子供とくれば猶更だ。
『カカカカカカッ。やめたいのならばやめても構わんぞ』
「本当ですか!?」
『おうとも。我は邪神であるが鬼ではないわいのう』
思わぬ温情に希望が生まれかかるが、それは次の一言で泡沫の夢と消える。
『死ぬ自由くらいはくれてやるわいのう』
「……!」
結局はそこに行き付く。
誰かを殺さない道を選べば、自分が死ぬこととなり。自分が生きる道を選べば、誰かを殺すことになる。
どちらを選んでも幸福にはならない。要は自分の幸福を願うか、他人の幸福を願うか。その二つに一つ。他の道はありはしない。
『そぅら。話をすれば影じゃわいのう。来おったぞ、粋の良いのが』
「え?」
ジュナザードに言われ咄嗟に身を屈める。少し遅れてさっきまで翼の頭があった場所を通過する蹴り。
「――――っ!」
インドネシア語で発せられる怒声。
翼と同じ弟子候補の少年だ。彼の方は既に誰かを殺してきたのか、身体には返り血と思わしき鮮血がこびり付いている。
「く、来るな!」
もう一度逃げようとするが、ジャングルの多いティダード生まれだけあって相手の方がここでは速い。直ぐに回り込まれてしまった。
相手はシラットの構えをとると、子供でありながら猛獣のような殺意で襲い掛かってくる。
(鋭い動きだ。けど)
これまでずっとジュナザードにつきっきりで扱かれたお蔭で、翼の目は速い動きに慣れている。
子供としては早くてもジュナザードの速度と比べれば止まっているようなもの。ジュナザードに教わったシラットの回避法を駆使して、攻撃を捌いていった。
『身を守るのはそこそこじゃがのう。防御だけで勝つことはできんわいのう』
(分かっている! そんなことは――――)
ジュナザードは性格に恐ろしく問題があるが、指導力の高さは認めざるをえない。
密度でいえば恐ろしく濃かったのを差し引いても、たった一週間の修行で翼の中にはシラットの基礎が根付き始めている。そのシラットを使えば防御だけではなく、逆に攻撃することもできるだろう。けれど相手の殺意に圧されてしまい、どうしても攻撃の手が繰り出せないのだ。
しかしそんな生半可な気分での防御が長く続く筈がない。遂に首を絞められた。
「がっ……うっ……!」
『いよいよ絶体絶命じゃわいのう。ほれどうする? 予めこれだけは言っておくが、お前がどうなろうと我は助け舟を出す気はないわいのう』
首がどんどんと絞めつけられていく。遊びや喧嘩ではなく、殺す意志をもってされる首絞めは息苦しさが段違いだった。少しでも気を抜けば、意識を手放してしまいそうになる。
このまま何もせずにいたら自分は死ぬだろう。これまでも感じた死が、最も自分に接近してくるのが分かった。
自分は死という底なし沼に足をとられていて、頭まで沈みきってしまった時、二度とは這い上がれない場所に沈む。
(畜、生っ!)
死にたくなんてない。だってまだ二十年も生きてないのだ。これから楽しい事も沢山あるというのに、こんなところで死ぬのなんて御免だ。
自分の生を望めば、誰かを殺すことになる。そうなれば自分はめでたく立派な殺人者だ。
だが自分の命か他人の命かを選ぶとするならば、
「やっぱり――――自分の命だよなぁ」
プツンと頭の中で決定的ななにかが切れた。
口元が歪み「クヒッ」と不協和音めいた笑いを漏らすと、自分の体を軸に首を絞めていた相手をそのまま投げ飛ばした。
「Tiba-tiba, saya itu berarti!?」
無抵抗だった相手が突然動いたことに、相手の少年が混乱する。
その隙を翼は逃さない。鳩尾、顎、首。人体の急所という急所に連続攻撃を叩き込む。けれど所詮は子供の力。急所に攻撃を入れても致命傷を与えることはできない。
(あれは)
ふと目端に尖った大きな石が転がっているのを見つける。
ジュナザードは石で殴りつけることや投げつけるのを禁じたが、転がっている石に相手を叩きつけるのは禁じていない。
純粋に丁度良い凶器を見つけた喜悦から、口元が綻んだ。
「第一のジュルス!」
渾身の力を籠め相手の腹部を突く。腹を思いっきり突かれ動きが止まった。
ジュルスとはシラットにおける型。そしてジュナザードが編み出し、ジュナザードから教わったのは18のジュルス。まだ一週間故に翼が満足に使えるのは二つが精々だが、その二つで人一人殺すには十分だ。
動きの止まっている相手の膝裏を蹴ると、さっきのお返しとばかりに首に腕を回す。そして、
「死ね!」
体格で勝っていた事もあり、相手の少年はふわりと投げられる。
狙い通り投げられた先にあるのは翼の見つけた尖った石。石の尖った場所に頭を思いっきり叩きつけられ、さっきまで元気に翼を殺しにきていた少年は絶命した。
『カカカカカ。多少荒っぽいが、まぁ初めてにしては上々じゃわいのう』
「……ジュナザードさん」
『なんじゃい』
「残りは後何人ですか?」
『それが喜ぶといいわいのう。お前がそこで転がってたわっぱと遊んでるうちに一人消え二人消え、今はお前を含めないで二人じゃわい』
「分かりました」
つまり殺すのは後二人ということだ。
翼は迷わずに戦いの喧騒のある方向へ走ると、返り血で濡れ熾烈な殺し合いをする二人の少年と少女がいた。
二人は相手を殺すのに夢中でこちらに気付いてはいない。不意打ちする好機だった。
「――――」
声も出さず迷わず二人に突っ込むと、二人が反応するよりも早く先ずは少年の方に金的を蹴り飛ばした。
「
少年が先にやられたことで少女の方は構えをとるが、それよりも早く翼は動いていた。
「
さながら自分自身を虎に見立てて襲い掛かり、自分の全体重をのせて少女の首をへし折る。
自分の力だけで殺せないならば、他の力を加えればいい。体重というのは腕力を補う力として最も使いやすいものの一つだ。
「終わりだ」
最後に金的を蹴られ倒れた少年の首に足をかけて、全体重をのせ踏み潰し止めを刺す。
再びジャングルには静寂が戻ってくる。そして自分の命の危機に我を失った心も、一緒に戻ってきた。
「うっ!」
自分が殺してしまった二人の人間の遺体を見て、思わず胃の中のものを吐き出す。今朝食べたリンゴなどという果物が胃液と一緒にジャングルの大地にぶちまけられた。
翼のぶちまけた嘔吐物に蟻などの蟲が殺到してくる。それを見て更に吐き出した。
「ようやったわいのう」
自分をこの地獄に送り込んだ張本人、シルクァッド・ジュナザードが音もなく背後にいた。
もうそのことに驚くことはない。行き場のない憎悪と怒りを込めて、拳魔邪神を睨む。
「カカカカカカッ。新鮮な良い殺気じゃ。だが止めよ、主ではまだ我を殺すことなどできんわいのう」
パイナップルを咀嚼しながらジュナザードは言う。
「わっぱ。主の名前を聞いておこうかいのう。名乗れ」
「……………」
何度かジュナザードに名を名乗ったことはあったが、これまで一度も名前を呼ばれることはなかった。
だがそのジュナザードが名前を聞いたということは、つまりはそういうことだ。
「内藤、翼」
「ナイトウ? ツバサ? ふむ……ナイトウ・ツバサ…………ナイトウ……ナイト。そうじゃわいのう。貴様はこれよりクシャトリア、サヤップ・クシャトリアじゃ」
「え?」
「不満かいのう」
「……いえ」
どうせ嫌だといっても無駄だ。変に機嫌を損ねて殺されたくなどはない。
ジュナザードは手にもっていたパイナップルの残りを全て口の中に放り込むと、ごくんと呑み込んだ。
呑み込まれた果実がここで死んだ子供達の魂のような気がして背筋が凍る。
「クシャトリア。この課題をもって貴様を我の正式な弟子として認める。これからは我のことを
「はい、
尊敬と敬愛はなく、あるのは無限大の恐怖だけ。
こうして極普通な日本の少年は、拳魔邪神シルクァッド・ジュナザードの弟子となった。