このタイミングで岬越寺秋雨が出てくるとは、つくづく自分も運がない。出鼻を挫かれるとはこのことだ。
残念ながら一影から下されたデスパー島陥落阻止という命令をこなすことは諦めた方が良いだろう。相手が彼の哲学する柔術家である以上、クシャトリアから別の事に構う力は失われた。
クシャトリアがすべきことは全身全霊で岬越寺秋雨と戦うこと。少しでも気を抜けば最悪の場合、ここでクシャトリアはお縄につくことになる。
「デスパー島では〝おかしな〟ことはしないんじゃなかったんですか? 岬越寺秋雨殿」
「ふっ。〝おかしな〟ことはしていないさ。まったくなんにもね。そもそも私達が世界中の悪党が集まったこの島でなんにもしない方が〝おかしな〟ことだろう。シルクァッド・サヤップ・クシャトリア君」
「いや、まったく」
岬越寺秋雨の一挙手一投足に気を払いながら、クシャトリアは周囲の気配を慎重に探る。
幸いなことに周囲からは達人の気配は感じられない。どうやらここにいる梁山泊の豪傑は岬越寺秋雨だけと考えて良さそうだ。
ジュナザードなら兎も角、クシャトリアに特A級の達人二人を同時に相手取る規格外の強さはない。もしも周囲にもう一人豪傑がいれば詰んでいたところだった。
「リミ、龍斗くん。二人は下がっていろ。相手が梁山泊の豪傑となると、俺も周囲に気を配る余裕はない」
「は、はい!」
「…………」
岬越寺秋雨は活人拳の武人。闇の側に属するとはいえ、まだ子供の二人に手を出すことはないだろう。
だが戦いの余波が運悪く二人を巻き込まないとは限らない。実際前に梁山泊の香坂しぐれと戦った時は鼠を巻き込んでしまった。用心にこしたことはない。
「それとこれより静と動の二つを修めたハイブリット型。その極みを見せる! その目に焼き付け今後の参考にするように」
「わ、分かりました!」
「…………ええ。勉強させて頂きます、拳魔邪帝殿」
リミと龍斗は起こる戦いの影響が届かない物陰に隠れるも、その眼はしっかりとクシャトリアと秋雨へ向けていた。
秋雨の方は今のやり取りの間にも攻撃することはできたはずだが、こちらのことを尊重してくれていたのか、二人を巻き込むことを嫌ってか手を出すことはなかった。
しかし二人が安全な所まで逃れると、やや眉間に皺を寄せ口を開く。
「小頃音リミだったか? 危ういところがあるが、素直な良い弟子だ。あんな素直で真っ直ぐな子を悪の道へ引きずり込むことに師として思うことはないのかね?」
「人を若者を地獄に落とす邪神みたく言わないで欲しいな。力を望み弟子入りを望んだのはリミ自身。俺はリミの意思を尊重しているに過ぎない。リミが望まないのならば今すぐにでも師弟の縁を切るまで。
例えリミが殺人拳を極め、数多の人間を危める外道に堕ちようと――――それはリミの選択の結果であって俺には関係のないこと。知ったことじゃない」
「…………弟子と共に悩み、苦しみ、考え、成長し、そして導くのが師匠たる者の務めだろうに。度の過ぎた自由意志の尊重は責任放棄と同じ。やはり闇の思想とは相容れないな」
「元より闇と梁山泊は不倶戴天の敵。思想で合わないのは当然のこと」
内部に溜め込んだ気を一気に爆発、解放。クシャトリアが外側に炎のように放出させたのは暴力的な動の気。
目から鋭い眼光を迸らせ、クシャトリアは風を追い越す勢いで岬越寺秋雨に突貫した。音に聞こえた柔術家を相手取るには余りにも単調な行為。直線的過ぎるそれは、岬越寺秋雨に衝突する寸前にほぼ直角に横へ逸れる。
例えクシャトリアの速度を捉えきるだけの〝目〟をもった達人であろうと、こうも急激な方向転換をされては途端に姿を見失い、瞬間移動をしたと錯覚してしまうだろう。
岬越寺秋雨の死角へ回り込んだクシャトリアは殺意ののった手を猛虎の如く振り下ろす。
「ふっ――――」
が、こんなことでやられているようでは岬越寺秋雨は梁山泊の豪傑として名を轟かしてはいない。
急激な方向転換による消失にも全く動じず冷静を保っていた秋雨は0.001秒後にはクシャトリアを再補足しその腕を捕まえていた。
柔術家に腕を〝捕え〟られるという意味を知らないクシャトリアではない。気の爆発で強引に手を振り払うと、後頭部に回し蹴りを叩きこむ。
「――――、は」
風を払う蹴りはしかし、インパクトする直前を手刀で逸らされて外れる。
入れ替わった攻防が再び逆転した。秋雨が手を伸ばし、空を切った足を捕まえようとするも。
「静動転換」
瞬間、クシャトリアの纏う気が百八十度正反対のものへ反転。外側へ爆発していた動の気から、内側に凝縮する静の気へ。
入れ替えると同時に発動するは静の極み流水制空圏。薄皮一枚まで絞り込まれた制空圏をもって、ふわりと秋雨の手を避ける。
クシャトリアは手で五体を支えると、鋭い回転蹴りを放つ。
「
ジャングルファイトを真髄とするシラットの上下変速攻撃。武術家としてのタイプが瞬間的に切り替わったことも合わさり、どんな達人でも僅かに気が乱れてしまうことは避けられないだろう。
されど岬越寺秋雨は静のタイプを極めきった本物の武人。1000の達人が動揺するような事態にも一切の乱れはなく、徹底的な冷静さで機械染みた正確さで技を対処していく。
「暗外旋風締め」
腕全体を用いた締め技に回転まで加えた技。こんなものを喰らえば例え一影九拳でもただではすまないだろう。
死にはせずとも脳震盪による気絶は免れない。まさに活人拳的な必殺技といえる。
こんなものを喰らっては一貫の終わりだ。クシャトリアはまた静と動の気を瞬間的に転換、動の気を解放して全力で後方へ飛んだ。
「驚いたね。相反する静の気と動の気を完全に極め、二つの気を両立しての運用法まで確立するとは。いるんだよねぇ。二兎を追って二兎を得ちゃうタイプ」
「武術のみならず芸術・学術・医術まで極めた才気煥発の達人に言われても皮肉にしか聞こえないが……賞賛はありがたく受け取っておこう」
とはいえやはり哲学する柔術家は強敵だ。岬越寺秋雨が無傷なのに対して、クシャトリアは一発貰ってしまっている。
秋雨はこと〝投げ〟という一点においてジュナザードにも匹敵するだろう。
データによれば岬越寺秋雨の年齢は38歳。その38年の人生でクシャトリアより多くの死闘を繰り広げてきたのだろう。
どんな天才武術家でも経験ばかりは一朝一夕で得られるものではない。武術の世界に浸かった時間の長さはそれだけ岬越寺秋雨の優位となっている。
だがクシャトリアの不利はそれだけではない。
「やはり駄目だな。昔から殺さなければ殺される闘いにばかりに送り込まれたせいか、相手に殺す気がないとどうしても殺意をのせるのが難しくなる。昔から変わらない俺の欠点だ」
「ふふ、欠点かね。なるほど闇の殺人拳ではそれを欠点と言うのかもしれないが、活人拳ではその欠点を即ちこう言う。美点と!」
「美点欠点なぞ大抵は表裏一体なものさ。だが俺も達人の端くれ。己の欠点を克服する術は持っている。今回は一影からの殺害命令も出されているからな。そっちに殺す気がなかったとしても殺す気でやらせて貰う」
自己に埋没し、自分自身の負の感情を呼び覚ます。
十数年前に感じた死への恐れ、ジュナザードへの怒り、それによって心の中で熟成されてきた殺意。
余計なものは一切要らない。ひたすらに殺す意思だけを刃のように研ぎ澄まし鞘に納めた。一般人に向ければそれだけで死にかけない殺意、それを一気に抜刀した。
「
練りに練られた殺氣の標的は岬越寺秋雨ではなくクシャトリア本人。
純粋にして巨大な殺氣が波のようにクシャトリアの心に押しかかった。相手に殺意がないが故にまったく震えなかった生存本能が一気に狂うほどにのたうち回った。
クシャトリアが目を上げた時、そこにはどす黒い殺意が宿っていた。