自己暗示というものがある。自分で自分に〝そう〟だと言い聞かせることで、それを本当のことだと意識させることだ。
別に自己暗示そのものは特別な技術でもなんでもない。スポーツ選手やマジシャンなど多くの観客の前で己の技を披露するような者ばかりではなく、極普通の社会人や学生だって自己暗示の一度や二度したことがあるだろう。
例えばホラー映画を見る前に自分自身に「恐くない」と言い聞かせたり、受験などで「自分は合格できる」と信じたり、これらは些細なことばかりであるが立派な自己暗示の一つである。
当然ながら武術家にとっても自己暗示は無縁のものではない。特に「人間の心」を操ることにかけては並ぶ者にいないジュナザードは、優れた暗示術をもっている。記憶を消すという超人的な秘術と組み合わせれば、一人の人間を自分の思い通りの人間へと作り変えることすら叶だろう。
そしてジュナザードの一番弟子であるクシャトリアもまた、師から「人間の心」を支配する秘伝について伝授されていた。
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ジュナザードの編み出した秘術の一つであるこれは、膨大な気と強烈な殺気を放出することで、相手を殺気に呼応させ相手の行動を誘導する技だ。
殺気を感じ取り咄嗟に対処できる一定レベル以上の武人相手にしか効果はないが、かといって一般人相手に使って無意味というわけではない。
達人の内包する膨大な気に、強烈な殺気を凝縮し放出すれば、一般人にとってもはやそれは槍や刀と同じ凶器に等しい。人知を超えた殺意の奔流は生きようとする気力を奪い去り、ショックで心臓を止めてしまうことだろう。
それだけの殺気をもしも自分自身に向ければどうなるか。
言うまでもない。人間ならば誰しもが持つ生存本能を刺激され、強制的にエンジンをフルスロットルにさせるだろう。
殺意を向けられなければ、今一つやる気が出ないという欠点。その欠点をクシャトリアは自分で自分に殺意を向けるという自己暗示によって補った。
もう相手が活人拳の使い手で、こちらに殺意を向けていないなど関係はない。
十数年もの間、数多の武術家に命を狙われ続け肥大化した生存本能は完全に活動を始めた。今のクシャトリアには突きどころか歩法一つ、呼吸一つにすら殺意がのっている。
これでシルクァッド・サヤップ・クシャトリアは正真正銘の殺人拳の武人と成った。
「随分と野蛮なことをするんだねぇ。これだから殺人拳は」
「ふっ。俺の知人なら逆にこれだから活人拳は、と答えるだろう」
つい先ほどまでは敵同士でありながら、どことなく親しみすらあったクシャトリアと秋雨の会話。だが今の二人にあるのは殺意と敵意のぶつかり合いだけだ。
殺人道と活人道、決して相容れぬ二つの道を歩む武人同志のお互いを否定しあう気迫。傍で戦いを見守る龍斗とリミからは、もう声を発する余力すら失われてしまっていた。
合図もなく、二人の達人の戦いが再開する。
「はぁぁあああああああああッ!」
「ふっ――――!」
暴力的な動の気を解放し、死なない気で相手を殺す拳を振るうクシャトリア。
明鏡止水の静の気を解放し、死ぬ気で相手を活かす拳を振るう岬越寺秋雨。
全く対極の気と拳の衝突が、周辺一帯に人工的なハリケーンを起こした。
「っと!」
達人の中でも特に防勢に秀で、数多の達人の戦いを無傷で制してきた岬越寺秋雨の頬にクシャトリアの拳が掠る。
掠っただけでは所詮その頬に一筋の傷をつけただけであり、ダメージとしては皆無に等しいだろう。けれど拳が掠るということは即ち攻撃が届いたということである。
ということはその拳がほんの数㎝、否、数㎜でも逸れればダメージが通るということだ。
(尤もその数㎜がたまらなく遠いわけだが……)
岬越寺秋雨もさるもの。どうにか掠る程度までは成功しているものの、それ以上までは中々踏み込ませてくれない。
これまで多くの武術家と戦ってきたクシャトリアだが、ここまで手応えを感じさせない相手と戦ったのは以前に美雲と組手をした時以来だ。
「やれやれ。慣れないな」
クシャトリアが苦々しい思いをする一方で、秋雨の方もそれなりに苦戦を強いられていた。
梁山泊の武人として、世界最高峰の柔術家として多くの好敵手と語らい死線を潜り抜けてきた秋雨にとって、自分と同格の特A級の達人と交戦した経験も少なくはない。その中にはクシャトリアと同等、それ以上の武人との交戦経験すらある。
だが秋雨の戦った武術家の中には1秒~5秒ごとに静の気と動の気を転換してくるような武人は誰一人としていなかった。
静動転換。
静の気と動の気を次々に入れ替え、まったく攻撃のリズムを読めなくするハイブリットタイプのみが可能とする秘技。
これは岬越寺秋雨という最高峰の柔術家相手にも有効だった。
「しかし闇の武人にしては珍しい。殺人拳の連中は大抵が自分の命を捨ててまで他人の命を奪いにくるものだが――――君の武術は純粋に自身の命を守るために鍛え上げられた護身のものだ」
「貶しているのか?」
「いいや、褒めているのさ」
「結構! 自分の命が危険にさらされようと、殺法に手を染めない精神には敬意すら表するが、殺意なき拳で殺意ある拳には勝てん!」
「それはどうかな。活人拳には使えぬ殺人拳の技があるように、活人拳だからこその奥義っていうのもあるんだな」
「――――っ!!」
突然のことだった。激しい攻防を続けていたクシャトリアがいきなり地面に激突する。
投げられたのではない。殴り飛ばされたわけでもない。それどころか岬越寺秋雨はクシャトリアに対して指一本すら触れてはいなかった。
指一本も触れず、クシャトリアはさながら投げられたように地面へ叩き付けられたのである。
「……これは……そうか、成程。気当たりによる反射を逆手に取ることで、俺の体を崩すよう誘導したのか」
「おや、一発で見抜いてしまうとは恐れ入った。真・呼吸投げ……優れた危機回避能力をもつ誠の達人のみに使える私の究極奥義だよ」
「………………面倒な技を」
クシャトリアが秋雨の奥義を一発で見抜けたのはなんてことはない。師匠であるジュナザードが同様の原理の似た技を奥義としていて、それを伝授されていたからに他ならない。
しかしながら真・呼吸投げ。彼の岬越寺秋雨が奥義というだけあって厄介な技だ。
他の闇人なら或は己の命を投げ捨てた捨身になることで対処が可能かもしれない。しかし常に己の命を守るため、生きるために武術をやってきたクシャトリアはそれ故に捨身の戦法をとることができない。
秋雨の真・呼吸投げはクシャトリアにとって天敵とすらいっていい技だった。
「恐れ入ったよ岬越寺秋雨。確かにこれではこちらは碌にお前に触れることすら出来ない。だがしかし……こちらも同じ技を使ったらどうだ!」
「……ほう」
クシャトリアは腰を屈め、左右の手首を別方向へ折り曲げる異様な構えをとった。そして、
「なんだ、これは」
クシャトリアと秋雨の死闘を見ていた龍斗はあまりのことに、らしくなく口をぽかんと開けてしまっていた。
隣にいるリミも完全に想像を絶する戦いぶりに目をパチクリさせている。
シルクァッド・サヤップ・クシャトリアと岬越寺秋雨。共に達人級の中でも特に畏敬の念をもたれる特A級にまで到達した真の達人同士。
二人の戦いは龍斗やリミたち弟子クラスのものとは次元が違っていた。
「ぬぅぅう!」
「おおぉぉぉおおお!!」
投げられては投げ、投げては投げられ。
クシャトリアと秋雨は交互に地面に叩き付けられては起き上がり、逆に相手を叩き付けるというのを超高速で繰り返している。
ただし。お互い、相手に指一本たりとも触れずに。
「か、カオスだ」
恐らく二人の間では超高度な技撃軌道戦が繰り広げられているのだろう。
だが二人の強さが完全に異次元過ぎて、龍斗たちの目には何もない所で二人の大人が自分から地面にぶつかっているというカオスな光景にしか見えなかった。
冷や汗が垂れる。
これが武の頂。高度すぎて常人にはまるで理解できぬ戦い。
しかし二人の相手に一切触れない死闘は唐突に終わりを告げる。
「――――っ! 地響き……いや、爆発音か」
予期されていたことが起きた。
遠くから響く銃声、観客たちの逃げ惑う声。国連軍のデスパー島制圧作戦が遂に始まったのである。