洞窟を歩いてどれ程の時間が経過しただろうか。時計を持っていない兼一には正確な時間は分からないが、既に二、三時間は歩き続けた感覚がある。
だが洞窟のような密閉された暗闇では、人は時間の進みを早く感じるだとかいう話を聞いたことがある。ということは現実にはまだ一時間も経過していないのかもしれない。
「…………」
先導するクシャトリアは何を話すでもなく、無言のまま黙々と足場の悪い洞窟を進んでいく。
自分なんて壁や天井に頭をぶつけたことなんて数えきれないほどなのに、すいすいと障害物などないかのようにすり抜けていくあたり負傷しても達人は達人である。
だがクシャトリアほどの達人なら、兼一のことなど放り出せばもっと早く進めるだろう。なのにこうしてわざわざ兼一のペースに合わせてくれていた。
(叶翔の時といい、もしかしたら凄く良い人なのかも)
クリストファー・エクレール、李天門、ディエゴ・カーロ、アレクサンドル・ガイダル、そして拳魔邪神ジュナザード。
白浜兼一がこれまでに見た闇の達人というのは全員が冷酷にして非道な者ばかりだった。冷酷なばかりではない人もいたが、やはり瞳の奥に殺人拳特有の陰が燻っているように見えた。
しかしシルクァッド・サヤップ・クシャトリア。拳魔邪帝などという仰々しい異名をもつ武人に余りそういう気配はない。
となると当然のように一つの疑問が湧いてくる。どうして彼は闇に所属しているのか、という。
「クシャトリアさん」
「ん? どうした? 腹でも減ったのなら、ご馳走を想像しながら唾でも飲んでいてくれ。生憎と持ち合わせがない」
「いえいえ。まだお腹の方は大丈夫です。あの、この機会に一つ質問していいでしょうか?」
「答えられる範囲ならな」
「ありがとうございます。じゃあ」
許可も出たことなので、兼一は意を決して口を開く。
「なんで闇に入ったんですか?」
「――――――」
クシャトリアは完全に心を閉ざしているのか、流水制空圏を会得した兼一にも彼の心は読めない。
ただなんとなく空気から唖然としているのは伝わってきた。
「白浜兼一くん。君は武術の才能はお粗末だが、人の地雷を踏み抜くことにかけては天才的だな」
これまで新白連合の仲間にも指摘されてきたことを、闇の達人にまで指摘され兼一の心に雷が落ちる。
「す、すみませんっ。さっきのは忘れてください」
「生憎と記憶力は良い方なんでね。そうそう忘れることはできないな。実際そう畏まられるほど大した理由があったわけじゃない。俺の師匠が闇の一影九拳の一人だった。だから俺が達人になった日、闇に所属することになった。要はこれだけのことだよ」
「……はぁ」
確かに闇の達人の弟子が、成長し自身もマスタークラスに到達した時、闇に名を連ねるのは自然な流れのように思える。
梁山泊でも仮に兼一や美羽が師と同じ領域にまで登り詰めることができれば、豪傑の一人として名を連ねることになるだろう。
ただそうなるとまた新しい疑問が出てしまう。
「ならもう一つだけ。クシャトリアさんはどうして武術を? あの、こう言っては失礼かもしれませんけど、ジェイハンを……自分の弟子を殺すような人の弟子になろうと思ったんですか?」
ジュナザードとクシャトリアが師弟関係なのは知っている。けれど自身の弟子を唯一度の失態で殺すジュナザードと、リミとそれなりに良好な関係を築いているクシャトリア。
この二人が師弟と言われても、どうにも納得できないものがある。上手くは説明できないのだが、YOMI達にもあった師への尊敬。それがクシャトリアには一切ないように感じられるのだ。
「その質問の答えはシンプルだよ。そもそも俺は弟子になろうと思ってなんていないからな」
「……どういうことですか?」
「兼一君。君の事は調べさせて貰った。君が梁山泊の門を叩いたのは、サイモンだかダイモンという男との空手部の退部をかけた試合が切欠だったね」
「は、はい!」
もう一年以上も前のことだが、あの日のことは鮮明に思い出すことができる。
当時、空手部に所属していた兼一は大門寺と『負けた方が退部する』という条件で試合をした。紆余曲折あって兼一は反則負け。試合に負けて勝負に勝った形で部を去ることになったが、その際に初めて武術を授けてくれたのが風林寺美羽。
そこから更に紆余曲折あって、兼一は本格的に梁山泊の門を叩くことになったのだ。
――――もしも。
もしも大門寺と試合をせず、美羽の教えを受けていなければ。
白浜兼一が梁山泊に入門することも、新白連合の皆と友達になることもなかったのかもしれない。
そういう意味で大門寺との試合は、白浜兼一にとって大きな人生の転機といえるのだろう。
「実は俺も似たような口なんだよ。詳しい説明は省くが、当時小学生だった俺はガキ大将と一対一の喧嘩をしなければならない羽目になってね。
自慢じゃないがあの頃の俺は喧嘩なんてまるでしたことのない人間で、勝ち目なんて皆無に等しかった。だがそこに現れたのが我が師ジュナザードさ。
師匠は我が家に生えていた柿を所望してね。俺がそれを渡すと、師匠は願いを一つ叶えてやろうと言った。なにも知らなかった俺は、特に深く考えず武術を教えてほしいと言って――――こんなことになったわけだ。早い話が拉致されたんだよ。
君の人生が梁山泊へ入門したことで大きく変化したのなら、俺の人生はあの日に一度終わらされたんだろう」
クシャトリアが自虐気に笑った。
驚きに兼一は目を見張らせる。まったくの偶然だろうが、クシャトリアが武術の道に進み始めた切欠は兼一のそれと非常に似通っている。
だが一つ決定的に違うところは、兼一が武術によって光を手にしたのに対して、クシャトリアは武術によって闇に叩き落されたことだ。
「師匠の修行は処刑に等しかった。蠱毒のようなものさ。二十人余りの子供を集めて殺しあわせ、生き残った一人を弟子にとる。
正式な弟子になっても同じだ。静の気の解放、動の気の解放、妙手となった時。気の掌握、達人になった瞬間。武術家としての転機には常に死の洗礼があった。闇の任務抜きに、純粋に達人になるまでの修行の過程で俺が殺した数は100人を超える。
尤もそのことは後悔してはない。殺さなければ、俺が師匠に始末されていただろうし。人でなしなことに今は罪悪感すら抱いていない。ようは俺にとって俺一人の命は、あの名前も知らない100人の命より遥かに重かったわけだ」
「……………っ」
とても現実では考えられない壮絶な内容に、兼一は肯定も否定もすることができない。
当然だ。例え切欠が似ていても、兼一とクシャトリアは歩んできた道程が違いすぎる。クシャトリアの人生を肯定できるのも否定できるのも、彼と同じような人生を歩んだ者だけだろう。
ただ兼一は勇気を振り絞り一言だけ絞り出した。
「戻ることは、できないんですか?」
「無理だな。俺にも殺人拳としてのプライドがある。我が拳は幾百の命を糧に得た結晶。今更これを捨てることはできん」
「そう、ですか……」
どれだけ説得しようと、この意思は崩せない。兼一にはその確信があった。だから兼一もそれ以上は食い下がることはなかった。
「やれやれ。こんな話をしたもんだから、しんみりしてしまったな」
「い、いえ。そんなことは」
「じゃあ老婆心から一つ助言らしいものをしておこう」
「……はい」
殺人拳の達人から、活人拳の弟子への助言。兼一は神妙な面持ちでクシャトリアの言葉を待った。
「兼一くん。人を殺すことは誰にでも出来ることなんだ。特別な覚悟なんてする必要はない。ほんの少しでも自分が『死ぬかもしれない』という恐怖があれば、人間は驚くほど容易く人を殺せてしまう。俺もそうだった。
しかし〝死んでも殺さない〟覚悟は誰にでも出来ることじゃない。人の血に汚れていない君の拳は、例え自分が死んでも他者を殺めぬ覚悟の象徴。誰かを守り救うことのできる尊いものだ。それを大切にすることだ。一度落ちてしまえば、もう二度と戻れはしないのだから」
「分かりました。肝に銘じます」
兼一は自分の両手を見下ろす。その手は多くの武術家を打倒したが、未だに誰一人の命も奪っていない。
この血に汚れていない手を汚れぬままに生涯を完遂させる。それが活人拳を志す者が目指すべきところだ。
「おっと。話をしていれば――――喜ぶといい。出口だぞ」
「!」
パっと顔を上げると、そこには岩壁が聳えたっている。ただこれまでの岩壁と違うのは、外界から僅かに光が差し込んできているということだ。
光があるということは、この岩壁の向こう側に出口があるという証左に他ならない。
「このくらいの壁ならば壊せそうだな。そらっ!」
クシャトリアが壁を蹴ると、行く手を遮っていた岩が粉々に砕け散った。岩が砕け散った後には、光の溢れる出口が現れる。
久々に浴びる太陽の光に、兼一は喜び外へと飛び出した。
「やりましたね、外ですよ!」
「その、ようだ……うっ!」
「クシャトリアさん!?」
どさっとクシャトリアが岩を背にして倒れた。兼一が慌てて駆け寄ると、原因は直ぐに分かった。
クシャトリアの脚に傷がある。傷口からして馬師父との戦いでのものではなく、岩の破片が突き刺さって出来たものだろう。
見たこともない薬草で応急処置が施されているが、明らかにまだ足りていない。本格的な処置が必要なのは明白だった。
「血を流し過ぎたな。少し、眠る。君は師匠と合流すると、いい」
「なっ! だ、誰か! 馬師父、逆鬼師匠ーーッ! 僕はここです! 早く来てください!!」
兼一が大声で叫ぶと、兼一を探していた二人もそれに気付く。
二人が兼一たちのいる場所に走ってくるのと、クシャトリアが完全に意識を落とすのはほぼ同時だった。