美羽が攫われてから、梁山泊から普段の騒がしくも楽しかった雰囲気は消え、どこか暗いムードが漂っていた。
あの常日頃からエロ本を読んではニヤニヤしている剣星の顔にまで、影が差している様子は事態の深刻さを想像させる。
梁山泊にとって風林寺美羽は太陽にも等しかった。その太陽が消えてしまったのだから、雰囲気が暗いものとなるのも自然とすら言える。
ただ太陽が消え去ったくらいで心を折らすほど、梁山泊の面々は軟な人生を生きてはいない。
長老はジュナザードを追って風よりも速い速度で世界中を探し回っているし、兼一や他の師匠陣も何かを待っていた。
兼一たちが待ち望んでいるのは闇――――必ずジュナザードの居場所を突き止めると宣言した、本郷晶からの連絡である。
一影九拳で最も頑固で人倫に厚い本郷晶。奴はやると言ったことは必ずやり遂げる、とは永遠のライバルたる逆鬼の言だ。
そんなこともあり、梁山泊は本郷からの連絡が来るまで(長老を除いて)待機していたわけである。
「頼もう! 逆鬼殿は御在宅か!」
『!』
朝食中、遂に待ち望んでいたものが訪れる。
その声が母屋に聞こえてきた瞬間、豪傑達と兼一の目つきが変わった。あのアパチャイですら食べるのを止め……はしなかったが、お茶碗を持って、来客者の下へと突っ走っていった。
結果。叶翔親衛隊である勢多と芳養美は、目を輝かせた豪傑達に囲まれるという、常人なら失神ものの恐怖を味わうこととなった。
「ぐっ、うわああ! 囲まれた、もうダメだ!?」
「翔様、先立つ不孝をお許しください!」
勢多と芳養美は恐怖に慄きながら、本郷直伝の構えで身を守る。だが彼等を囲む達人のオーラと比べれば、その構えも酷く脆いように見えてしまう。
二人が死を覚悟したその時、救いの主はやって来た。
「勢多さんと芳養美さんですね! 美羽さんの居場所が分かったんですか!」
「はっ! し、白浜兼一!?」
「そ、そうだ! 本郷様よりの報告だ。ジュナザードの居場所が分かった!」
勢多と芳養美の悲痛な叫びが木霊する。待ち望んできた情報に、兼一と彼の師匠達は生唾を呑み込んだ。
取り敢えず自分達への敵意が消えたことで安心した勢多と芳養美は、緊張した面持ちで本郷より託された言葉を伝える。
「拳魔邪神ジュナザード、彼が向かったのはティダード王国。インドネシアにある島国だ」
「ティダード王国!? そ、それは確かジェイハンが王子だった……」
「はい。元々神出鬼没で世界中に拠点をもつジュナザードが、自身の弟子ナガラジャことジェイハン殺害後、そこへ向かったのは初めてです」
勢多と芳養美の話を聞き、兼一は否応なく雪崩に巻き込まれ消えていったジェイハンと、己の弟子をまるで躊躇わず殺害した妖怪を思い出す。
そして刹那、雪崩に巻き込まれるジェイハンが美羽とダブって見えた。
「情報筋は確かなので間違いないとみていいかと。それとこの御方に会うように、と」
そう言って芳養美が一枚の写真を手渡してくる。写真に写っていたのは、露出度の高い民族的ドレスを纏った肌の黒い少女だ。
明らかに日本人ではなく、かといって黒人とも違うような気がする。話の流れから察するにティダードの人だろう。
「この人は?」
「ラデン・ティダード・ロナ姫。元王位継承権第二位。現ティダード正当王位継承者です。ラデン・ティダード・ジェイハンの妹にあたります」
「ジェイハンの!?」
「彼女は国を好き勝手に荒らすジュナザードに対して反感をもっているようで、話をすればきっと力になってくれるだろうと」
願ってもいないことだ。ティダードは大小100を超える島国からなる国。しかも兼一たちにはティダードに土地勘がない。
まったくの見知らぬ土地を闇雲に探すのは些か以上に難行だ。だがティダードの王位継承者となれば、当然ティダードについて詳しいだろう。
けれどこのことに逆鬼至緒は難しい顔をした。
「やけにサービスが良いじゃねえか。これだけの情報を本郷一人で調べたのか?」
「いえ。本郷様は拳魔邪神ジュナザードを最も知るであろう人物に協力を仰ぎました。その御方からの助言です」
「!」
拳魔邪神ジュナザードを最もよく知る、一影九拳の本郷晶が助言を頼むような人物。
どんな勘が悪い人間でも、それが誰なのか察しが付くだろう。
「クシャトリアさんが、教えてくれたんですか?」
「ええ。拳魔邪神の行方を捜索するのに、あの御仁以上の適任はいないでしょう」
芳養美からの肯定に兼一はほっと一息つく。
ジュナザードの行方についての情報を教えてくれたということは、少なくともこの一件にクシャトリアは関わっていない。
拳魔邪神だけでも厄介なのに、クシャトリアまでが敵にいるという事態は避けられたようだ。
「もう待ってられない。行きましょう!」
居場所も分かった。頼るべき人物も分かった。そして敵の戦力も分かった。ならば後は助けに行くのみ。
兼一は拳を握りしめて、言い放った。
クシャトリアから一通りの情報を得ると、本郷は準備を済ませて出立しようとしていた。行き先は無論ティダード王国である。
一影九拳の不可侵を破り決闘に介入してきたばかりか、自分を利用して弟子を強奪したジュナザードの所業。本郷晶は殺人道に身を置くが故にそれを許すことは出来ない。
「先生」
しかし本郷が屋敷を出ようとした時、翔に呼び止められた。
弟子である翔と本郷は長い付き合いである。その付き合いの深さは親子の関係にも並ぶだろう。だから本郷には自分の弟子がどうして己を呼び止めた理由も察することができた。
「…………なんだ?」
無視することは簡単である。置いていくのも容易いことだ。だが本郷はそうせず、敢えて立ち止まって翔に先を言うよう促す。
「ティダードへ行くんでしょう。美羽を…………俺の片翼にしたかった人を助けるために」
「そうだ」
「俺も連れて行ってください。お願いします」
常日頃飄々として自由奔放な態度を崩さない翔が、深々と頭を下げて懇願する。これが本郷ではなく他の誰かであれば、驚いて表情を崩していたことだろう。
本郷が無言で黙り込むと、翔も一言も発することなく頭を下げ続ける。このまま放置すれば土下座でもしそうな勢いだ。
「一つだけ条件がある」
「はい」
「死ぬな」
「はい、先生」
長々しいやり取りは不要。本郷晶と叶翔は僅かなやり取りで互いの意思を疎通させた。
本郷は武を穢したジュナザードを打倒するために、翔は自分の愛した女性を守るために。二人はティダードへと出立した。
ここに活人拳の師弟と殺人拳の師弟の行き先が交差する。