シルヴァリオ メタモルフォシス ~シルヴァリオ ラグナロク Side:Capricorn~ 作:斎藤2021
「ウォーライラ。お前は、軍人を辞めたいんだな?」
きっと、こうなるだろうなという予感があったからだろうか。
予想以上に、私の心は平静を保っていた。
隊長のその言葉を聞いた瞬間、「あぁ、やっぱり」というある種の安心感を覚えると同時、それでもやはりこれから死ぬほど糾弾されるのだろうなと思うと、胃を素手で鷲掴みされるような圧迫感と吐き気を催してしまう。
暫時流れる重たい沈黙。それを引き裂いたのは、鉄球のように重たい私の一言だった。
「……いつから、気づいていたんですか?」
震える唇でなんとか言葉を紡ぎ出す。
もはやこの人を相手に誤魔化しなど通用しないだろうから、正面切って腹を割ってすべてを曝け出すと私を覚悟を決めたのだった。
そんな私の決死の一言を受け、しかし隊長は何故か申し訳なさげに苦笑いを浮かべながら、言葉を繋いできた。
「告白すると、初対面の時からだ。確信に至ったのはさっきの呑みの時だがな。
しかしな、お前が配属になった日、隊長室まで挨拶に来たろ? その時に、なんとなく俺は予感していたんだ。『この子はきっと、軍人には向いていない』ってな」
「……あは、は……なんだ、最初からお見通しだったんですか。必死に隠そうとしてきた私が馬鹿みたいですね」
これではまるで道化じゃないか、と私は私を心の中で嗤った。
傑作だ。バレないように、バレてないはずだと怯えながら過ごしていた私の本質は、なんと隊長格の二人にはすべて筒抜けだったという真実。
いや、ジェイス隊長に関しては明言してはないが、ロバーツ隊長にバレていたことに加え先のあの一言……見抜かれていたと思って間違いないだろう。
だからこそ、私が分からないのは今この瞬間もたった一つで。
「……なんで、隊長は……そんなに申し訳なさそうな顔をしているんですか。ここは、私を責めるべき時じゃないんですか。軍人として、副隊長として、無責任にもほどがあるって」
一向に私を責めたてる気配がない、どころか、依然私を気遣うような視線を向けるロバーツ隊長だった。
なんでだよ。まったくもって意味が分からない。ジェイス隊長といいこの人といい、何故そうまで私に優しい瞳を向けてくる?
そうじゃないだろう? そうじゃないだろう……?
貴方が私に向けるべき視線は、もっと苛烈で辛辣であるべきで。間違ってもそのような、私に安らぎを与えてくれるような温かい目線であるわけがなく……
「すまなかった、ウォーライラ。俺は隊長失格だ」
そしてこの人はあろうことか、私へ非礼を詫びるような真摯な態度で頭を深く下げてきた。
……は? 何だよこれは……どうして?
「――なんで、そうなるんですか……!」
思わず私は掛けていたベッドから立ち上がり、喉からせり上がってきた疑問の言葉を大熱と共に吐き出した。
この局面で憤怒を露わにすべきは隊長であるはずなのに、臨界点を突破した不可解な行動にさしもの私も限界を迎える。
何もかもがちぐはぐだ。隊長が私に頭を下げる理由などどこにも存在しないはずなのに、何故か彼は「すべては自分のせいだ」と本気で思っているかのような深刻な表情で今も私を見つめてきている。
やめろ、やめろ、やめてくれ。何だそれは皮肉なのか、それとも私を遠回しに馬鹿にしているのか?
そんな瞳で私を見るな。そんな優しい眼で私を見るな。頭がおかしくなってしまう。
「責めないんですか……? 副隊長を拝命された身分でありながら、無責任に辞めたいだなんて思ってる私を、誹って罵倒して死んでしまえと言ってやりたくないんですか?
隊長には私を弾劾する権利があるでしょう? なのに何で……怒るどころか隊長は、私に頭を下げているんですかッ」
「……怒る? 俺が? 何故? むしろ、謝罪すべきは俺の方だろう。お前が責められる理由がどこにある」
「……は、ぁ……?」
心の底からそこが分からないと言った風に隊長は首をかしげる。
私の言った言葉の意味が理解できていないというように。
自分自身にこそ非があって然るべきだと信じて疑わぬ優しい光の使徒は、己自身を罰するように更に言葉を並べていく。
「俺は、お前が軍人を辞めたいというのは何となく察していた。本質的に、きっと軍人にも向いていないだろうことも看破していた。
だというのに俺は、ウォーライラの本心を考慮せず、今の今までお前を苦しめてしまうことになった。そんなつもりは微塵もなかった……というのも、ここまで来てしまえばただの言い訳だろう。この
結果、それらがお前を苦しめていたというのであれば、それはすべて俺の不徳だ。
部隊長として恥ずべきことなんだよ。これでは俺は、隊長失格だな」
「――ふざけるなッ!」
怒号が、天を貫くように轟いた。
窓越しに聴こえていた夜気混じりの昆虫たちの合唱さえ、私の張り上げた憤激の声に塗り潰される。
許せなかった。理解できなかった。悪いのはすべて弱い私なのに、そんな塵屑のような私に頭を下げて己を恥じている隊長が。何より、そんなことをさせている自分自身が。
呪わしくて、許せなくて……今すぐにでも死んでしまいたいという、惨めな想いが私の心を攪拌させていく。
「隊長が悪いなんてこと、万に一つもあるわけないじゃないですか……どうしてそうなるんですか、どこまでお人よしですか! 私のことを庇っているつもりならやめてください、私にそんな価値はありません! せめて、一言私を叱ってくださいよ……
『軍人であるのなら、その使命を全うしろ』とか、『軍人ならそんな無責任なことを言うな、民を守る盾になれ』とか……」
「ウォーライラ、お前は軍人である前に、一人の人間で、女の子だ。ならば己の幸せを追い求める権利がある。違うか?」
「……何を」
言っているのかと、問うことはできなかった。
私に向ける感情が、余りにも『リディア・ウォーライラの幸せを心の底から願っている』ように感じて、圧倒されてしまったから。
言葉が、何も、出てこない。
「確かに俺は軍人であり、そのことを誇りに思っている。だからこそアドラーとその国民を心から愛し、本気で守り抜きたいと心の底から思っている。その為だったらこの命幾ら捧げても惜しくはないし、それこそが軍人の在るべき姿だと、俺は信じて止まないのだ」
「……なら、余計」
自分勝手に軍人を辞めてしまいたいと思っている私など、許せないのではないかと疑問が浮上してきたが。
「だが、これはあくまで俺個人の思想であり、アルヴィン・ロバーツという一人の軍人の幸せだ。だから俺はこの考えを誰かに押し付ける気なんて欠片もないし、そんな権利は微塵もありはしないんだよ。
何故なら、幸せの形とは人それぞれ違っているからな。俺とウォーライラは同じ人間だが、持ち合わせている“
育ってきた環境も、軍人となった経緯も……究極的に言えば性別だって異なっている。だったら己が掲げる価値観が違うのは当然というもの。それが人間だ。
だからウォーライラ。お前が軍人を辞めたがっていることにそう後ろめたさを感じるな。お前の幸せが軍人であることではなく、別の場所にあるというのなら、俺はその後押しをしよう。軍人を辞めるな、などと俺が言うと思っていたのか?
そんなわけないだろう。これはお前の人生だ。どんな道を歩み、どんな幸せを掴むか……すべてお前が決めることなんだから、それを阻む権利は、俺にはない」
だから安心しろ、と私の肩に手を置いて、優しく包み込んでくる隊長。
添えられる手はどこまでも優しく温かく、私のささくれだった心を溶かし軟化させていく。
……隊長は馬鹿だ。こんな自分勝手な塵屑に、救いの糸を垂らしてくれるなんて。
何故私が軍人を辞めたいかなどを一切問うことなく、ただ私が苦しんでいるという事実を知っただけで、こうまで無償の優しさを捧げてきている。
それどころか、幸せになれ、と言って背中を後押ししてくれるこの人の精神構造は一体どうなっているのだろう。
理解が及ばなかった。意味が不明だった。それでもただ一つ確かなのは、私がこの
「……いいんですか、本当に。私が、軍人を辞めたいと願っても……本当に、辞めてしまっても」
「それがお前の望みならな。無論、辞めると言ってもそう簡単にはいかない。
本当に申し訳ないが、今すぐに退職、とはいかないだろう。少なくとも北部の制圧作戦が終了してからだな。
それまでは悪いが辛抱してくれ。それから各所への手続きやら天秤への報告もあるが……まぁ、職権乱用のようだが、俺の部隊の隊員だ。処遇は基本的に俺が決めさせてもらう。
一定数の糾弾もあるかもしれないが、何、余さず俺が守って見せよう。
何も心配するな、ウォーライラ。お前の人生は、まだ始まったばかりだ。絶望するにはまだ早い」
「……そうじゃ、なくて。理由とか、聞かないんですか? 何で辞めたいのかとか、何が不満だったとか……ほかにも、色々……」
「話したいなら話すといい。だが、話したくないなら話さなくてもいい。
ずっと話せず蓋をしてきた事情だ、そう簡単に口を割れることでもあるまい。ならば俺は無理には問わんよ。
可愛い部下が苦しんでいる。なら理由はどうあれ俺は手を差し伸べるだけだ。俺が重要視するのは事実のみ、理由や過程など二の次なんだよ」
「……は、はは……本当……隊長は、馬鹿ですね。大馬鹿ですよ。私みたいな、こんな自分勝手な塵屑に、手を差し伸べるなんて……お人好しもそこまでいけば病気ですよ。私、隊長にそこまでされるほどのことをした覚えは……」
「あるとも。お前が北部に来てからの一年半、俺は毎日お前に支えられていた」
「……嘘ですよ」
「嘘じゃない」
きっぱりと隊長は断言する。頼むからそんな哀しいことを言うな、と訴えるように。
……兎にも角にも、私はこれで無事アドラー軍人を退職。その後はどうなるかは分からないが、ひとまず現状私を苦しめている地獄からの解放が全面的に約束された。
……腑に落ちない感情が心の中で逆巻いているのは、何の代価も無しに安寧を施されたからだろう。
こんなものは初めてだった。無償の奉仕など、私は母以外から施されたことなど今までの人生で皆無だった。
人とは、打算的な生き物だろう。何の報酬も無しに誰かに善意をプレゼントしてやることなどないだろう。
母だって、私が家族だったからこその無償の愛だった。だから私もそれを抵抗なく受け入れられたし、私も母に永遠の愛情を受け渡していた。
だが、
前々から異常なまでの奉仕心を持ち合わせている人だとは思っていたが、何故他人のためにそこまでできる?
私は、ロバーツ隊長にとって他人だぞ? それも、付き合いなんて一年とちょっとの、友とも呼べない間柄だ。
そんな小娘を相手に、何故そのような優しい表情が浮かべられる? 何故そのように私の苦楽を自分のことのように感じられる?
分からない、分からない――この人は、“化け物”だ。
優しさという鋼に身を固めた善意の化身。
与える善意にギブアンドテイクなんて一切求めていないから、理性的でないゆえ、私はそれが恐ろしかった。
初めて私は、ロバーツ隊長に心の底から恐怖を覚えた。
震えが止まらない。この人の優しさが常軌を逸しすぎていて、人の
だからこそ、私はこの無償の愛を受け取るわけにはいかなかった。
私に無償の愛を捧げていいのは、生涯にたった一人……母さんだけだ。
よってロバーツ隊長のこの“無償の奉仕”を“代価のある公正な取引”とするべく、
「……ウォーライラ?」
訝しむ隊長の声。しかし私はそれを無視して、己のシャツのボタンを次々と外していく。
ネクタイを緩めて、ベルトを外して……そして、数多の衣擦れ音が止み終わったところで、私は表情を“女”のものへと切り替えた。
ロバーツ隊長の知らない、
「お、おいウォーライラ何をしているんだ。服を着ろ、年若い乙女がそう易々と男に肌を晒しては――」
「……隊長は、何がお望みですか?」
「……何?」
「私の苦心を
でも、このままではロバーツ隊長が一方的に損をするだけでしょう。失うだけ、それじゃあ割に合わないじゃないですか。
だから――私のこと、好きにしてくれていいですよ。私の願いを叶えてくれる代わりに、今晩から私が軍を去るその日まで、好きに私を性欲の捌け口にしてくれて構いません。これでも元娼婦なので、どんなプレイにも応えますよ。ねぇ、
甘ったるい声音で隊長の鼓膜をくすぐりながら、私は下着姿のまま隊長に接近した。
そう、無償の奉仕を私が納得できないならこうしてしまえばいい。
ようは、私から代価を支払えばいい。
私を軍から解放してくれる代わりに、隊長は私の肢体を好き勝手にできる。
これでギブアンドテイクは成立する。果たして隊長が私のような乳臭い小娘に満足してくれるかは分からないが、男である以上悪い取引ではないだろう。
少なくとも私は母の血統を継いでいるためそこらの女性よりよっぽど美しいという自負があるし、夜の遊戯だってそれ相応の経験がある。軍人だって相手にしたことがある。
だからきっと、ロバーツ隊長も満足してくれるはずだ。出来の悪い部下からの、最後の寄金とでも思ってほしい。
こんなことでしか恩を返せない、自分が憎くて仕方がないけど。しょうがない、塵屑ができる献身など、精々この程度だから。
「アルヴィンさん……」
隊長の名前を呼びながら、下着越しに胸を押し付け首に両腕を絡ませる。
背伸びして首に抱き着くような恰好だから隊長の表情は見えていないが、まぁ女慣れしてなさそうなこの人のことだ。少し顔を赤らめているかもしれないな。
そう思うとちょっと可愛いな、表情が見られないのは惜しいな、と思いながら、左手を下腹部へと滑らせる。
ベルトを外し、隊長のモノを慰めて、私の女としての有用性を示そうとした――その瞬間。
私は隊長に、あらん限りの力を以て両肩を掴まれ、そして引きはがされた。
「た、隊長……痛っ、何を……!?」
「――ウォーライラ」
痛みと突然の出来事に困惑する私の言葉をすり抜けるように、かつてないほどに怒りに濡れた重低音が私の両耳をぶっ叩いた。
含まれた感情の過多具合に思わず背筋が凍りつく。心臓を握りつぶされたような圧迫感を覚える。
恐怖しながら眼前に目を向けると、そこには……怒りとも嘆きとも言い難い、あるいはごちゃ混ぜにしたような凄絶な相貌をしたロバーツ隊長がいた。
そして隊長はただ一言、私の瞳を強く深く見つめて。
「自分のことを、もっと大事にしろ」
そう言って、自分の上着を私に被せてきた。それ以上肌を見せるな、とでも言うように。
そして隊長は私に背を向けながら、厳しい口調で言葉を続ける。
「自分の価値を下げるような真似はするんじゃない、ウォーライラ。
お前のことだ、どうせ、“自分のワガママを聞いてもらうのだからせめて隊長にお返しを”……とかそんなことを考えての行為だったのだろうが……馬鹿野郎、論外だ。
それに、お前からはこの一年半で充分すぎる恩を貰った。むしろ返しきれてないのは俺の方だ。軍を辞めた後でも頻繁に支援しよう。星辰奏者の管理に関して、昔ほどではないがアドラーは厳しいからな。監視役などは瞬圧山羊からなるべく選出するよ、俺も時々様子を見に行って――」
「……分かりませんよ。ねぇ隊長……どうして……」
どうして、この人はいつも私の想像を超えてくるのだろうか。思い通りになってくれないのだろうか。
今まで出会って来た男すべて、私が少しそれっぽい態度を見せて女としての武器をチラつかせるだけで、涎を垂らして食いついてきたというのに。
何なんだそれは。どういうことなのだ。
発情するでもなく、食いつくでもなく、私の身を案じてくれるなど――男という生き物は馬鹿ばかりだと常々思っていたが、この人は特別に大馬鹿だ。しかも他の男と違うベクトルの馬鹿さ加減。
この人は、狂っている。
「そんなに私の身体に魅力がありませんでしたかッ! 自分で言うのもなんですけど、私結構見た目には自信あるんですけどっ……!」
「あぁ、ウォーライラ。お前は美人だよ。とても魅力的だ。娼館勤めって言ってたよな。だからだろう、美意識の高さも伺える。体型は丁度良く維持できているし、肌の質感なんかも一切荒れることなく綺麗に保たれている。そういう努力家なところも、俺は素敵だと思っている」
「……ッ、なら抱けばいいじゃないですか! いい子ちゃんぶる必要なんてないんです! 私がいいって言ってるんですから、好きなように……」
「ウォーライラ。お前は、俺に抱いてほしいのか?」
「え……? い、いやそれは……私はただ、隊長のために……」
「だとしたら余計なお世話だ。お前が魅力的なのは覆しようがない事実だが、俺はお前を抱きたくない。いや、そんな理由では抱けない、と言った方が適当か。
とにかく、軍を抜けることにそう後ろめたさを感じるなウォーライラ。これはお前の人生だ。どんな道を歩もうが、それはお前の意思であり、お前の自由だ。
お前の幸せがここでないどこかにあるというのなら、今すぐ探しにいくべきだ。俺もその手伝いをさせてくれたなら、俺はもうそれだけで十分なんだよ」
「……なんで」
次々に言葉を並べていく隊長に、私はようやく口を挟めた。
気づけば、私の頬には大熱を宿した雫が流れていた。孕む想いは、悲哀? 憤怒? それとも歓喜、悔恨だろうか。
解読不能な感情の奔流に蹂躙されるまま、私は思いの丈をぶちまけた。
「なんで隊長は……私のためにそこまでしてくれるんですか。こんな、情けなくて無価値な他人の小娘に、そこまで親身になってくれるんですか……守ろうとしてくれるんですか。私なんて、私なんて――!」
生まれてこない方がよかったのに。声にならない絶叫は、隊長の耳に、心に届いたのだろうか。
真実は、部屋の窓越しの夜の帳に溶けて消えてなくなってしまったが、隊長は変わらぬ微笑を月光で照らしながら。
「それこそ当然だ。言ったろう、
ならば親身になって何が悪い。家族というのは、見返りを求めないものだ。だからお前が俺に対して後ろめたさや申し訳なさを感じているなら、それこそ阿呆、気にするな。そんな些細なことで断ち切れるほど、俺の絆は甘くない。
だから安心して胸を張れ、ウォーライラ。お前が無価値であるものか」
――そんな、私のような屑には勿体ないほどの優しい言葉を口にしたのだった。
「……隊長って……本当に馬鹿ですよね……」
目が熱い。涙があふれて止まらない。
あぁ、馬鹿なら私も同じだろう。こんなみっともなく、赤子のように涙を流して……本当に、馬鹿みたいだ。
誰かの優しさに感動し落涙したことなど、今まで母以外にいなかったし、母以外に生涯現れることなどないだろうと思っていたのに。
「ははは、馬鹿を拗らせなきゃ部隊長など務められないさ」
この人は、その難行をいとも容易く乗り越えてきてしまった。
私の冷えた心を、その温かい優しさで緩く、緩く溶かしてきている。
……けど。それでも私は……
「……でも、
そう……私が愛していたのは、
心の中の母の存在こそ、私を支える無二の拠り所。母はこの世にもういないけれど、だからこそこの心に残る
これさえなくしてしまったら、真実私はどこにもいけなくなってしまうような気がするから、だから……
すると隊長は、弱ったな、というように後頭部をポリポリと掻き始めた。
自分でもクソ面倒なことを言っている自覚はある。だが、これだけは私の中で譲れない問題なのだ。
隊長の行為は有り難いが、貴方に母の代わりはやらせない。いや、誰であろうともそれだけは許さない。
私の絶対は、母だけなのだから。
「……よし、じゃあこうするか。ウォーライラ、とりあえず服を着ろ」
「え……」
「いいから着ろ。俺に何か要求されたいんだろ? なら叶えてやる、服を着終わったら、訓練場まで足を運ぶぞ」
「ちょ、ちょっと待ってください。それは構いませんが、何を……」
「着いてから話すさ。さぁ、早く着替えるんだ」
言うや否や、隊長は私を急かしてくる。
先までの柔らかい態度はどこへやら、一転して有無を言わさぬ鋭い口調となった隊長に困惑しながらも、言われた通り脱ぎ散らかした服を羽織り、身なりを整えていく。
……ていうか、結局脱ぎ損か。前職柄、男性の目の前で下着姿や裸体を晒すのには抵抗はないが、それでもロバーツ隊長に見られたという事実は……なんというか、少し照れ臭い。
「準備はいいか? それじゃあ行くぞ」
「あ、ちょっ……!」
着替え終わったと同時、問答無用で私の手を握り自室から退出する隊長。
そして迷いない歩調で、瞳に光を携えたまま訓練場へと向かうのだった。
…
……
………
「よし、着いたな」
訓練場へ到着すると同時、隊長はようやく握りしめていた私の手を開放してくれた。
解かれた手のひらには未だ隊長の体温が残留しており、その熱を感じるたびに、何故か安心してしまう自分が怖くなるが、しかし……
反対に、夜の訓練場には氷のように冷たく静かな空気が充満していた。
深夜を回ろうとしている時間だからだろう、場内には私と隊長を除けば人っ子一人おらず、隊長の鳴らす軍靴の音が余計に甲高く空気を震わせている。
そして隊長は到着するや否や、壁面にかけられている刀剣を二本手に取ったかと思うと、片方を私の方に無造作にぶん投げてきた。
「わ、っと……!」
何の声掛けも無しに投げ渡されたものだから危うくキャッチし損ねるものの、かろうじて受け取ることに成功する。
しかし、何のつもりだ。隊長はここにくるまで無言だったし、未だに何をしたいのか不明瞭だ。
訓練場まで足を運び、こちらに剣を手渡して自分もそれを握っている……
……隊長は、いや、まさか…………
嫌な予感が雷のように閃いた次の瞬間、的中してほしくなかった予想が見事に射抜かれるのであった。
「
噴火するように溢れる殺気、凍えた闘志。
隊長が向けてきた剣の切っ先に映る標的は、再認するまでもなく無論私だった。
隊長の美徳である優しさはもはや見る影もなく霧消し、向けられてくる視線には軍人斯く在るべしと言わんばかりの鋼の焔と膨大な光を宿している。
まるで、“勝つのは俺だ”と言わんばかりの瞳に、背筋がゾッと寒くなる。
やはり。隊長が私に求める代価とは――
「それってつまり……隊長と戦えってことですか……?」
「あぁ、そうだ。共に死力を尽くして、本音を余さず晒そうや」
最悪な想像が現実に実像を結んだ刹那、瞬圧山羊の
リディア、無事地獄行き決定(キレ気味)
というわけでお待たせしました。
物語が大きく動き出します。次回からリディアVSアルヴィンの決闘の幕が上がります。
果たしてリディアは地獄を抜け出し、幸せを手にすることができるのでしょうか。
更新をお待ちください。