シルヴァリオ メタモルフォシス ~シルヴァリオ ラグナロク Side:Capricorn~ 作:斎藤2021
「リディア、本当にごめんね。お母さんがもっと稼げれば、美味しいものも沢山作ってあげられるんだけど……」
「いいよ、お母さんの作る野菜スープ、美味しいもん。それに、お母さんといるだけで、私幸せだよ」
「……ありがとう、リディア。私も、幸せよ」
私は精一杯の虚勢を張りながら、母の作った野菜
ここしばらく、食事はずっとこれだ。美味しいのは事実だが、味には正直飽きてしまったというのが私の本音だった。
我が家のお金は、ほぼほぼ父が握っている。よって、食費にあてられる額など、そう多いものじゃなかった。ましてや、肉や魚などのたんぱく源を買える余裕など、月に二、三回あるかどうか。
だから、我が家の食事は、今思い返しても本当に質素極まるものだった。よくこれだけの栄養で飢餓状態に陥らず生きてこれたものだと思う。
それでも……母と二人きりで過ごせる時間は、本当に嘘偽りなく幸福な時間だった。
なぜなら私は母を誰よりも何よりも……愛していたから。
だからこそ、私が理解できなかったのは。
「ねぇ……お母さんは、なんでお父さ……あの人と結婚したの? あんな塵屑、お母さんには勿体ない、釣り合ってないよ。どうして」
あの人を父と呼ぶのにはさすがに抵抗があった。
あれを父と認めたくない。物心ついた時から、私は自然とそう考えるようになっていた。
私の無遠慮な言葉に、母は苦笑する。自分でも、本当に後悔しているとで言うかのように失笑して。
「えぇ、本当に……なんでかしらね。あの時の私は……どうかしていたみたい。
それでもね、リディア。私は、あの人に感謝していることが一つだけあるの」
「それって……?」
そんなものがあるものかと思っていた私を、しかし母は天使のように慈悲深い笑みを浮かべながら抱きしめる。
そして、当たり前のことを言うかのような口調で、私の耳元で囁いた。
「それは、リディアに出会えたこと。あの人と結婚していなければ、私はリディアとは出会えてなかった。そのことだけは、本当に心の底から感謝しているの」
「お母さん……」
それは、母の嘘偽りのない愛の言葉だった。
その言葉をささやかれたとき、瞳の奥が熱くなったのを今でも覚えている。
なんで。どうして。おかしいだろう。なんでこんなに優しい人が傷つきながら生きていかねばならないのか。こういう人こそ、笑顔だけを咲かせ続けながら人生を歩んでいかなければならないのではないか。
神様は意地悪だ、理不尽だ。
どうしていつも、私たちにさも当然のように地獄を与えるの? 善性に満ちた母を苦しめるの? 楽に幸せになれないの? 地獄から、逃げられないの?
世界が憎かった。壊してやりたいと思った。母が幸せになれないなど、間違っていると思った。
母が楽に幸せになれる世界を作りたいと思った。でも、どうやって? こんな残酷な世界と、私はどうやって戦っていけばいいの?
分からない、分からないよ。
「お母さん……お母さんは、どうすれば幸せになれるの……?」
気づけば、私は涙を流していた。
何もできない自分が悔しくて。母を救えない自分が悔しくて。
母を救ってくれない神様が憎くて。私たちを不幸にする世界が許せなくて。
ただただ、滂沱の涙を垂れ流すしかなかった。
それでも母は、そんな負の感情に満ちていく私を、強く優しく抱きしめながら。
「私はね。リディアが幸せになってくれたら、それだけで幸せなの。親って言うのはそういうものなのよ。
だから、いずれこの家を出て、自立して……幸せになるのよ、リディア。それまでは、何があっても私が貴女を守ってみせる」
毅然と言い放つ母に、しかし私は悲しくなった。
私を想ってくれる気持ちは嬉しいが、だけどそれならば母はどうなる?
私がこの家を出ていったとて、残された母は? ならば私と一緒に、と思ったが。
「駄目よリディア、駄目なの。あの人をここに繋ぎとめるために私もここに残らないと、あの人はすぐに私たちを見つけて連れ戻しに来るわ。前もそうだったでしょう? あの人からは、逃げられない」
そうだ。あいつからは逃げられない。まだ私がこの頃より小さいとき、母が私をつれて家から逃げ出したことがあったが……一晩後に、連れ戻された。
そして、母をしこたま殴り、蹴り、罵声を浴びせたのだ。
逃げ出せるならとうの昔に逃げ出していた。それができないから、こうやって拘泥していたのだ。
地獄に、鎖で繋がれたまま。
「でも、いいのよ、それで。私は、リディアが幸せになってくれればそれでいいんだから。他に望むことなんて、何もありはしないわ。
だからお願い、リディア――何が何でも幸せになって。必ず、必ずよ。
苦しいのは今だけだから。地獄から抜け出すまでは、私が必ず守ってあげるから。
私からの、たった一つのお願い事よ」
「…………うん、分かった。私、幸せになる。私が幸せなら、お母さんも幸せになるんだもんね。
なら、絶対に幸せになってみせる……一緒に幸せになろう、お母さん」
「……えぇ、ありがとう、リディア。愛しているわ」
――そして、母は宣言通り、私を守るために命を散らした。
でも、ごめんね。お母さん。
私はまだ、今も、地獄の渦中。地獄から、抜け出せていない。
お母さんのこと、幸せにしてあげられていないや。
……お母さん。
私、お母さんがいるだけで幸せだったんだよ。
どんな不幸な目に遭っても、お母さんが傍にいてくれるだけで、無限に耐えられる気がしたんだよ。
お母さんが、そこにいる。ただそれだけで、私は幸せだったのに。
母がいなくなってしまったあの日から、私は地獄を彷徨い歩いている。
母という救いはもう真実、この世のどこにもいないのだ。
幸せに満ちていた日々は、二度と戻ってこない。私の世界は、永久に奈落に閉じたまま。
永遠に、私は地獄で、迷子のままだ。
……
………
…………
「ッ……!! つ、はぁっ……! はぁ、はぁ、はぁ……」
息が詰まるような圧迫感を覚え、今しがた見ていたばかりの夢の残滓を振り払うように、私はベッドから飛び起きた。
今は亡き母との会話、幼き日の思い出、幸せの憧憬、その記憶。
かつての幸福の景色を夢幻として見せられていた私は、たとえそれが夢と分かっていても記憶の中の母へ『行かないで』と叫ぶように虚空に手を伸ばしていた。
母こそが、私を地獄から救い出す唯一救済の糸、一縷の希望。
しかし、その希望はもはやどこにもありはしない。どれだけ必死に手を伸ばしたところで、失った命を黄泉から掬い上げることなど、逆立ちしたってできやしないのだ。
……あぁ。なんで。お母さん。
私を置いて、死んでしまったの。
「…………くそッ…………」
やり場のない怒りと慟哭が胸の奥を中心に全身へと伝播していく。
溢れ出して止まらない感情を無理矢理抑え込むようにシーツの両端を握りしめるが――当然、効果などあるはずもなく。
ロバーツ隊長と別れて数時間の間、私は徹底した負の感情の津波に心を蹂躙されていた。
勢いあまって飛び出してきてしまったが、怪しまれたりしなかっただろうか?
いや、そんなもの論じるまでもない。怪しまれたに決まっている。
となれば、やはりロバーツ隊長は私を追ってくるだろうか?
いや、しかしあれから三時間近く経っているが、ロバーツ隊長が現れる気配はない。それどころか、あの後私は軍舎に逃げ帰り、現実逃避をするようにこうして泥のように眠っていたのだから、そもそも追いかけてきているのなら今頃とっくに叩き起こされている。
それをされていないということは額面通り本当に具合が悪いと思われてそっとされているのか、もしくは――
「……見限られちゃったかな」
もう勝手にしろ。面倒見切れん、と匙を投げられたかのどちらかだ。
隊長がそのようなことを言うのは想像できないが、今の私はとにかく思考がマイナスに振り切れている。
そんな被害妄想を易々と思い描いてしまうほど、今の私の精神状態は不安定であった。
「……ていうか、そもそも……」
ジェイス隊長は、私が軍人を辞めたいと思っているのを勘づいている? だとしたらば、何故私を咎める言葉を浴びせない? それどころか、あんな優しい表情と声音でアドバイスをしてくれた? 挙句、アルヴィンに頼れ、などと……
ジェイス隊長に私の本音がバレているなら、それはまぁ、しょうがない。隠しているつもりとはいえ、厭世的な私の空気感から何か感じ取ったのだろう。そこは己の未熟と甘んじ受け入れるが……だからこそ、何故だ……? 一切、理解が及ばない。
「あぁ、畜生ッ……! これだから光狂いの考えることは分からない……」
考えれば考えるほど訳が分からなくなってくる。
そもそも、ジェイス隊長やロバーツ隊長は私のことをどう思っているのだ?
ただの部下? 娘みたいに手のかかる存在? 便利な手駒? まさか、仲間だなんて思ってくれているのか?
あぁ、もう、分からない。分からない。
……何より、一番訳が分からないのは――
「ロバーツ隊長に期待しちゃっている……私自身だよッ」
あんなにロバーツ隊長を疑っていた癖に、彼を信じたいと強く思ってしまっている自分がいることに動揺が隠せない。
馬鹿かお前は何を言っている? 散々今まで自分の中で結論を出しただろうが。
軍人を辞めたいなどと無責任なことを言ったら、いくら優しさの塊であるロバーツ隊長でも、激昂し私を糾弾するだろうと。
だからこの想いを打ち明けるべきではない。ジェイス隊長に背中を押されたとてそれは変わらない。目に見えている未来だからこそ、私のこの選択は間違っていない、これが結果的に、今以上の苦痛を味わわないための処世術なのだと……分かっているはずなのに。
彼の優しさに、縋ってみたいと思っている自分がいる。
彼を信じてみたいと思う自分がいる。
思えば、この数日で随分とロバーツ隊長と距離が縮んだ気がする。
元々話さない訳でも仲が悪いわけでもなかったのだが、ここまで一緒に過ごす時間が多いことは過去に一度もなかった。
その中で今までなんとなく不鮮明だった隊長の人となりも、かなり見えてきて理解もしてきた。
そう、彼の優しさは本物だ、と。
他者を慮り気遣う心の強さに、嘘偽りなど一片とてありはしない。
そして、軍人として捧げる己が矜持も。誇り高く、天頂の星のように煌めいている。
本当に、素敵な人だ。底なしにいい人だ。
私の思い上がりでなければ、こんな塵屑さえ……リディア・ウォーライラというどうしようもない小娘のことさえ、気にかけてくれている。
だからこそ、隊長ならば、あるいは……と。
私が軍人を辞めたいと口にしても、優しく包み込んでくれるのではないかと、期待してしまっている自分がいるから、それが情けなくて恥ずかしくてたまらない。
たまらないのだ。
そんな、彼の優しさにつけこむかのような真似をしようとしている自分自身が、何より醜く臆病な
……あぁ。先の模擬戦で、私はジェイス隊長を“化け物”と評したが。
未だ自分の歩むべき道すら定められず、どっちつかずにふらふらして地獄を彷徨い歩いている、心の腐りきった私こそ、真の醜い“化け物”ではないか。
「……駄目だな。もう。やっぱり私は変われないや」
塵はどこまでいっても塵のまま。
これ以上の思考は時間の無駄だと切り捨て、今まで頭の中で思い描いていた一切の小難しい事柄を漂白した。
どうせ考えたところで、私のような塵屑に
結局現状維持。より凄絶な地獄に落ちないため、今の地獄を甘受するまでだった。
……とはいえ、やはり心にかかったモヤはそう簡単に完全払拭とはいかない。
仕方ない、いつもの手だ。娼館へ向かうとしよう。
獣のように激しく乱れて交われば、強制的に嫌なことなど記憶の彼方へ吹っ飛んでしまう。
それが一時的なものでも、ストレス解消には効果的だと私は知っているから、そうと決まってからの私の行動は迅速に、なる、はずだった、のに。
「…………どうして」
ロバーツ隊長のことが、頭から離れないのか。
今まで、ストレスを感じたらまず娼館のことで頭が埋め尽くされていたはずなのに、どうしてそれ以上にあの人のことを考えてしまうのか。
どうして、どうして?
分からないよ――
「…………助けて、ロバーツ隊長」
こんなにも、あの人に己の