黄緑色の外套が夜闇の中で揺れる。
夜の静寂を乱さない落ち着いた靴音が、一定の間隔でコツコツと小さく鳴る。
男は立ち止まり、街の一角に位置する廃れた
「本当にここなのかしら、ゾルバちゃん?」
連れに話しかけるように問いを投げるが、黄緑色の外套を身に付けた男以外に荒屋の前に人影はない。
しかし、その問いへの回答はすぐに返って来る。
『俺の鼻が目当てで、わざわざ元老院まで欺いたお前が疑うのか? 魔戒騎士よ』
低く濁った男性の声が響く。
彼の右手の中指に嵌められた、犬の頭蓋骨を模した指輪。無機物であるはずのそれは当たり前のように人語を介す。
通信端末による外部からの音声ではない。紛れもなく、その指輪自体が喋っているのだ。
「あらやだ。プライド傷付けちゃったかしら。だとしたらゴメンね、死肉ホラー・ゾルバリオス。でも、その名前好きじゃないの。だって可愛くないんだもの」
黄緑の外套の男、
女性的な口調に似合わぬ野太い声音はさしもの元プリズンホラーである屍肉ホラーをも消沈させた。
それでも尚、魔導輪という仮初めの役割を全うするべく、ゾルバは
『……早くしろ、ホラーが逃げるぞ』
「フフッ、そうね。まずはお仕事が先よね?」
外套と同色の鞘から、彼は一本の剣を抜き出す。
片刃の曲剣が月の光に照らされて、艶やかな光を灯した。
柄の部分に刻まれた紋章は、今ちょうど夜空に浮かぶ月と同じく弧を描く三日月のようだった。
「それじゃあ……やりましょうか?」
曲剣がすらりと音もなく振られ、刀身は空気を滑るように左上段から右下段へと移動する。
斬る、というより刃を泳がせる動作。無骨な武術ではなく、優美な舞踊を思わせる太刀筋は荒屋の外壁に一筋の亀裂を入れた。
寸断される廃屋。その割れた隙間から一匹の黒い魔獣が飛び出してくる。
骸骨めいた黒い体に生えるのは、突き出た二本の角のある頭部と蝙蝠のような皮膜状の翼。
西洋画に登場する悪魔が現実に出て来たような容姿は、とてもこの世の生き物とは思えない。
事実、その存在はこの世ではなく、魔界より生まれてこの世に来たる魔獣・『ホラー』である。
ホラーは死んだ人間を彷彿とさせる白く濁った眼球で、爪磨を睨み、飛び掛かる。
人の叫びとも、獣の咆哮とも違う、汚れた悍しい声が辺りに彼に放たれるが、彼は微塵も怯えた様子を見せずに、曲剣を前へと突き出す。
突きには向かない曲剣だが、しなやかに振り抜かれたその一閃はホラーの頭蓋を寸断し、一撃でその身を討ち滅ぼす。
黒く澱んだ邪気は曲剣の白い刀身に吸い込まれるように消えてゆく。
鮮やかな手腕にゾルバも舌を巻いた。
『大したものだな。斬撃に特化した反り返った刃の魔戒剣で、あれほど速い突きを放てる者もそうは居まい』
「あら、ゾルバちゃん。アタシに惚れちゃったの? 本当にアタシったら、罪な女ね……」
『貴様が大罪人であることは嫌という程承知しているが、気色の悪い発言はそこまでにしておけ……
ゾルバの一言と共に荒屋の穴だらけの屋根が弾けた。
沸騰した薬缶の蓋が蒸気で押し上げられるように、大量のホラーが屋根板を突き破って現れたのだ。
その数、三十を優に超えている。素体ホラーの群れは闇夜を飛び回り、爪磨へと飛来する。
並の魔戒騎士ならば、一人で手に負える数ではない。
しかし、彼の表情には焦り一つ浮かび上がってはいなかった。
曲剣、
夜の闇が円形に切り取られ、生まれた裂け目から眩い深緑の光が差し込む。
自然界ではそう見る機会のない深緑色の光は爪磨の身体に張り付くように降り注ぐと、己の真の形を顕現させる。
群れ集う素体ホラーたちは、そして、かつてプリズンホラーとして名を馳せていたゾルバリオスは知っている。
魔戒騎士が持つ、魔獣に対する明確な対抗策。死の概念がないホラーを唯一恐れさせる力の具現。
それこそが、称号を受け継ぐ魔戒騎士の鎧である。
深緑色に輝く翡翠の如き美しき、狼の顔を模した全身装甲。
その
握られていた剣もまた、その姿を鎧に相応しい形状に変えていた。
もはや曲剣ではなく、三日月そのものを剣に鋳造したかのような両手剣・慈英剣へと変異する。
翡翠の狼、ジェイドは地面を大きく蹴って、ホラーが舞う空中へと躍り出る。
魔界の砂時計・魔導刻が始まりを告げるように砂を落とし始める。魔戒騎士が鎧を装着していられる時間は僅か99.9秒。
その時間をコンマ一秒でも過ぎてしまえば、魔戒騎士は鎧に食い尽くされ、醜悪な獣・心滅獣身へと堕ちてしまう。
だが、その危険を対価にするだけの力が鎧には籠められていた。
慈英剣がジェイドによって振るわれる。舞踊のようにくるりと回る。
輪切りになった素体ホラーは流れる優美な深緑に導かれるように消滅していった。
死ぬことのない魔獣たちは、慈英剣の材質であるソウルメタルに封印されてゆく。
もしもこの光景を見る者が居れば、こう思うだろう。
悪魔が踊る狼の騎士に食われている、と。
ホラーたちは斬撃を放ち、少しでもジェイドを傷付けようとする。
しかし、頑強な深緑の鎧にはその爪痕さえ残らない。
翡翠の剣はブーメランのようにジェイドの手から投擲される。宙を舞う深緑の三日月は、弧を描いて跳び回り、彼らを無慈悲に切り裂き続けた。
天敵に襲われた哀れな魔獣は黒い血を撒きながら、一体、また一体と消えてゆく。
最後の一体が断末魔の叫びを上げた時、慈英剣が爪磨の手元に返って来る。
その柄をしっかりと掴み取ると同時に、鎧を魔界へと返還した。
「ゾルバちゃん。何秒くらい掛かったかしら?」
『精々が、七秒程度といったところだろう。素体ホラーの群れなど、鎧を喚ぶまでもなかったのではないのか?』
魔獣・ホラーには大きく分けて二つの形態がある。
一つは爪磨が今し方倒した『素体ホラー』という、黒い悪魔のような姿。
もう一つは、人間や物に憑依し、独自の姿を得た固有の名前を持つホラーだ。
ゾルバもまた、とある魔戒騎士により封印されたものの、かつては『死肉ホラー・ゾルバリオス』として、恐れられていた。
「うん、まあ、そうなんだけど。この鎧にも慣れておきたくってね」
『慣れる? その鎧は代々貴様の家系に受け継がれてきたものだろうに。まるでつい最近、手に入れたような物言いだな?』
魔戒騎士の鎧とは、系譜と呼ばれる一族の流れに沿って、受け継がれていくものである。
基本は一子相伝。一族で継承権を持つ男児が何人産まれようとも、最終的にはその内の一人のみに継承されるのが習わしだ。
父から子へ、またその次の子へと渡される誇りと研鑽の
爪磨はゾルバの疑問に、少しだけ罰が悪そうに笑って答える。
「この鎧も称号も、借り物なのよ。アタシが本来受け継ぐはずの系譜は断絶しちゃったから」
『何だと⁉︎ では貴様、どこからその鎧を……』
「いい女って言うのには秘密が付き物じゃない? 根掘り葉掘り聞くのは野暮ってものよ」
雑にも限度がある誤魔化し方にゾルバは唖然とする。
『さては俺を手に入れたように非合法な手段を使い、本来の系譜から奪ったのだな? 貴様、本当に“守りし者”なのか……?』
少なくともこの時点で魔戒騎士としての掟を幾つか破っている彼に、元プリズンホラーであるゾルバは呆れて物も言えなくなる。
だが、その反面、彼にとっては好都合だった。
ゾルバの目的は、再びホラーとしての力を手にして、人間の血肉を喰らうこと。
そのためには“陰我”という負の感情に支配された人間に憑依する必要があった。通常の魔戒騎士であれば、心を律し、ホラーの付け入る隙など存在しないが、爪磨のような自らの目的のために手段を選ばない騎士であれば話は別だ。
隙を見て、その肉体と力、この俺が奪ってやる……。
内心でほくそ笑むゾルバだったが、当の爪磨は屈託のない笑顔で言う。
「これで今夜の仕事は終わりかしら?」
『……そうだな。いや、待て。嗅いだことの臭いがする。これはホラー……いや、人間なのか?』
「適当ねぇ。それでも最高の嗅覚を持つホラーなの? ホラーと人間も分けられないようなら、どこに居るかも判断できそうにないわね」
煮え切らないゾルバの発言に、爪磨は彼の鼻を侮るような言い方をする。
当然、自身の嗅覚に絶対的な自負があった彼は、その台詞に
『言ったな、魔戒騎士! ならば、俺が最短距離でそこまで案内してやる。行くぞ!』
「ええ。期待してるわ、ゾルバちゃん」
心の中で、扱い易いホラーで良かったなど爪磨が考えているなど梅雨知らず、ゾルバは目に物見せてやろうと息巻いて、彼をその臭いの元へと連れて行く。
魔戒剣を鞘に収納した後、黄緑色の外套を揺らし、己が魔導輪の導きに従って歩き出す。
***
しばしの間、夜の街をのんびりと歩く爪磨だったが、やがて街灯がちらほら見えるような脇道に入ると、彼にも気配が感じ取れるようになった。
酷く不安定で弱々しい、けれども間違いなくホラーの気配。
幾度も戦い、討滅して来ても決して慣れない闇の波動。
声を潜め、魔導輪として協力している元ホラーに話しかける。
「ゾルバちゃん……」
『ああ、近い。凄く近いぞ……その角を左に曲がってすぐ右だ。臭いの主はそこに居る』
ゾルバの指示に従って、爪磨は慎重に道を曲がると、右手側に見えて来たのは……ゴミ捨て場だった。
何処にでもある緑の網と積まれた半透明の袋。それだけなら日常の風景から逸脱しないのだが、袋同士の合間に埋もれるように一人の少女が寝そべっていた。
年頃は十代半ば。中高生くらいの背格好だ。
服装は薄い水色の貫頭衣。病院で患者が身に付けるようなものと言えば分かり易いかもしれない。
死んだように両目は閉じられていたが、少女を眺めていた爪磨は、その胸が僅かに上下していることに気付いた。
『十中八九、ホラーに憑依されている。斬れ』
「残りの一、二割だったら困るでしょ? おーい、お嬢ちゃん。起ーきて。そんなところで寝てると風邪引いちゃうわよー」
魔戒騎士の第一原則には、人を斬ってはならないというものがある。
ホラーに憑依されていれば、助かる方法はないため、容赦なく斬り伏せるが、そうでない場合は何があっても破ってはならない鉄の掟だ。
既に幾つか掟を無視している爪磨ですら、この掟だけは順守している。その一線こそが超えてはならない境界だと理解しているからだ。
声を掛けても唸るだけで、一向に目を開けない少女に対し、彼は諦めて近くに寄って肩を揺すった。
「ほら、起きなさいってば……」
「うーん……何なの? うわっ‼︎」
少女は爪磨の顔を見るや否や、怪物でも目撃したような声で驚いた。
無理もない。どう見ても屈強な見た目の成人男性が至近距離で寝起きの視界に映れば、飛び起きるのは必然であった。
ましてや、爪磨はその上に軽く化粧までしてあるのだ。近くでまじまじと見つめられれば素面でも絶叫していたことだろう。
「起きたみたいね。それじゃあ、はーい。このライターの火を見て頂戴ね」
大きめのオイル式ライターを彼女の目の前で取り出した爪磨は、蓋を親指で外して火を灯す。
赤ではなく、黄色い炎がライターに点火され、見開いた少女の瞳を照らした。
このライターは当然ながら、市販のものではなく、魔導火と呼ばれる魔戒騎士御用達の仕事道具である。
その用途は多岐に渡るが、一番使用頻度の高いものはこれだ。
ホラーが体内に潜んでいるかの識別。もしもホラーに憑依されていれば、瞳には蜘蛛の巣にも似た不気味な光彩が浮かび上がるようになっている。
少女の瞳にもまたその不気味な光彩が浮かび上がった。
「……え?」
『何⁉︎』
ただし、片目だけだ。
本来であれば、両目ともホラーの光彩が出るはずなのだが、彼女のもう片方の瞳は普通の人間であることを示すように無反応だった。
魔導火の光は心を映す。例え、義眼であろうとも、ホラーならばその光彩には証が浮かぶはずなのだ。片方だけなど、絶対に有り得ない。
炎を見せられた少女もまた、現状を理解することも止め、食い入るように黄色い炎に見惚れていた。
「黄色い火……。綺麗……」
ホラーとしての本性を露わにしてくれれば、爪磨もまた魔戒騎士として、躊躇なく斬り捨てることができたのだが、それにしてはあまりにも無知な対応と言えた。
ゾルバも彼と同じく、当初は戸惑いを感じたものの、ホラーとして永い時の中で蓄積してきた知識が彼女の状態を看破せしめた。
『この小娘、“魔胎”だ』
「マタイ……? 何なのそれ、聞いたことない単語だけど」
爪磨の問いにゾルバは勿体ぶった調子で答える。
『近代の魔戒騎士では知らないのも無理はない。この状態を直接見るのは俺ですら始めてだ』
ゾルバは語る。
『魔胎』とは即ち、ホラーに憑依された人間とその内に宿るホラーの精神が完全に拮抗した状態である。
人間側の魂が全て食われず、ホラー側が宿り続けているため、人間とホラーの中間とも言える段階で停止しているのだ。
つまり――。
「この子はホラーでもなく、人間でもないってことかしら?」
爪磨が尋ねると、即座にゾルバは否定した。
『逆だ。この小娘はホラーでもあり、人間でもある。両者を
「十年くらい前にとある魔戒騎士が倒したという、ホラーに憑依されながら人間の意志を保持した剣豪の話なら知ってるけど……」
『妖刀ホラー・カゲミツのことか。確かにあれこそ魔胎だ。だが、この少女にはそれほど強靭な精神力を有しているようには思えないな』
「同感ね……」
少女は尚、ぼんやりと魔導火の炎を眺めている。
その様子からは、妖刀ホラーを制した凄腕の剣豪程の強い精神を保持しているとは到底思えない。
ホラーでもあり、人間でもあるこの少女の処遇は一介の魔戒騎士である爪磨だけでは決められそうになかった。
「番犬所に連絡する他ないわねぇ」
『冗談だろう? 叩かれれば、埃の出る身でわざわざ番犬所に顔を出すのか? それで俺の存在が露見すればどうなる? 貴様の本来の目的も叶わなくなるぞ!』
「それよねぇ……」
困ったように顎を擦る爪磨に、ゾルバは胸を撫で下す。
彼が自分というかつて人を喰らっていたホラーの手を借りてでも叶えたい目的を知っている。
それは自分程の探知能力を持つホラーでもなければ見つけられないものだ。
魔導火の蓋を閉じて、黄色の炎を消す。
「あっ……」
眺めていた炎が消え、悲し気な顔を浮かべる少女。
爪磨はそんな彼女に目線を合わせて、柔らかい口調で尋ねた。
「ごめんね、でも炎はお終い。アタシは九曜爪磨って言うの。こっちの喋る指輪はゾルバ。お嬢ちゃんのお名前は?」
「私の名前、ですか……? 私は
「素敵な名前って、言ってあげたいところだけど……魔戒騎士にとってはちょっと不吉な名前ね」
ホラーを呼び寄せる人間の負の感情。その名称と同じ名を持つ少女。
爪磨は自分の目的が遠退くのを感じながら、韻牙の身柄を預かることに決めた。ゾルバはそれに何も言わない。
この場で彼女を斬るような騎士であれば、最初から悩むことなどしないと分かっていたからだ。
三日月の光だけは、そんな彼らを優しく照らす。
歪な欠けた月は満月よりも寛大に全てを受け入れた。
『俺の名はゾルバリオス。死肉ホラーだ。ゾルバなど言う名に貶められ、魔道具に押し込められているが、ホラーとしての誇りを失った訳じゃない。時が来れば、あのような無法の魔戒騎士など餌にしてくれる! 次回「韻牙」。俺の牙の方が遥かに鋭い』