薄暗い中で側面に一定の間隔で並べられた蝋燭。
その明かりだけを頼りにして、爪磨と韻牙は魔戒道を進んで行く。
終始罠を警戒して壁や床を細かく観察するが、不可解な点は見当たらない。
白の番犬所からレオの魔導拠点の所在が露見したのは間違いないだろう。
裏切り者が居る。神官のハティか、神官見習いのスコル。あるいはその両者。
守りし者の上位に立つ神官が魔戒騎士を裏切っていた。その事実に対して爪磨は微塵も狼狽してはいなかった。
何処の世界にも己の利益を優先し、組織や協力者を騙すなど日常茶飯事だ。
高潔だの清廉だの、そんな言葉は絵空事。永い時を生き長らえた神官と言えども所詮は人間、利に屈するのは世の常だろう。
実際、神官の裏切りは歴史上これが初めてではない。まだ番犬所が東西南北に分かれていた頃、ホラーの始祖・メシアに魂を売った神官が居た。
それが神官・ガルム。ケイル、ベル、ローズの三人の少女に分裂し、元老院を欺いていた悪しき女神官。
彼女は暗黒騎士・キバを利用し、世界をホラーが支配する混沌に変えようとした。
黄金騎士・ガロと銀牙騎士・ゼロの両名の活躍により、未然に防がれたものの神官の裏切りは守りし者たちに大きな波紋を呼んだ。
結果、考案されたのが隠密の魔戒騎士たち。
実働こそまだだが、番犬所に依存しない魔戒騎士の集団を作り、神官を査問するというプロジェクトが秘密裏に進められているらしい。
彼らの存在が完成すれば、異端の神官を暗躍前に処断することができるようになるだろう。
だが、それは先の話だ。今、裏切り者を斬れるのは……。
「アタシだけね……」
爪磨は自嘲気味に呟いた。
経歴上こういうことには慣れてはいる。とはいえ、誰も好き好んでやりたいものではない。
表情に浮かぶのは諦念にも似た笑み。
その時、引いていた手が強く握り締められる。
視線を横にずらすと韻牙が真剣な目で彼の手を握っていた。
「韻牙ちゃん、どうしたの? ……って、やっぱり怖いわよね。自分が狙われているだから」
暗い顔を即座に呑み込んで、朗らか笑顔を見せる爪磨だが、彼女はぶんぶんと首を横に動かした。
「違います。私のことじゃなくて、爪磨さんが心配なんです」
「アタシ? あら、心外だわ。そんなに頼りなく見える?」
茶化して濁そうとするが、韻牙は流されることなく、きっぱりと言った。
「爪磨さんが強いのは知ってます。でも、爪磨さんは……時々凄く悲しそうな顔をするから」
そう言って、韻牙は項垂れる。
爪磨は少しだけ彼女の発言に目を大きく見開いた。
韻牙とはまだ出会って三日程度。会話とて数えられるくらいしかしていない。
「そんなにアタシ、暗い顔をあなたに見せたかしら?」
「いえ、いつも笑ってるように見えます。だけど、その笑顔の中に何故だが悲しい顔が透けて見えるんです……気のせいじゃ、ないですよね?」
上目遣いで見上げる彼女に、爪磨は答えることができなかった。
韻牙もまた口調こそ疑問形だが、声には確信が込められていた。返答を期待しての台詞ではない。これは断定だ。
純真な駆け引きのない言葉だからこそ、煙に巻くことは不可能だ。
爪磨の口元に笑みが
威圧でも、誤魔化しでも、自嘲でもない。混じり気のない本心からの笑み。
「そういう風に言われるのは久しぶりね。韻牙ちゃん、あなた優秀な洞察力を持ってるわ。でもね、人は誰しも心に仮面を着けているものよ。それを透かして見ようとするのは少しお行儀が良くないわ」
「……ごめんなさい」
素直に頭を垂れた韻牙。
そんな彼女に対し、爪磨は帽子の上から優しく手を置いた。
「聞きたいのならいつか話してあげる。けど、今はそれどころじゃないわ。アタシのためにも、あなたのためにも急ぎましょう」
「はい!」
顔を上げて、威勢良く答える。
再び、前を向いた爪磨は魔戒道を走り抜けて行く。
薄暗い道を駆けていった先には白の番犬所への入り口が待っていた。
構わず、中へと踏み込むと、そこに居たのは神官見習いのスコル。彼女は二人に背を向けて、佇んでいた。
「スコル……」
彼女の名を爪磨は呼びかけた。
手に握られた錫杖がシャンと鳴り響く。
スコルは振り向くことなく、彼に言う。
「……翡翠騎士。逃げろ、今すぐに!」
ぽたりと赤い雫が、真っ赤な染まったトーガから滴り落ちた。
「あなた、その傷は……!」
白の番犬所の神官の見習いにして、神官ハティの妹・スコルは既に腹部に致命的な手傷を負っていた。
魔戒騎士や魔戒法師が身に付ける魔法衣と同じく、神官の衣装にも霊的な守護の力が込められている。にも関わらず、彼女の身体には衣服がと肉を削ぎ落としたかのような斬撃痕が幾つも付けられていた。
常人であれば失血死、あるいは激痛によるショック死をしている段階だ。辛うじて立っていられるのは、神官として肉体を鍛錬していたからであろう。
『おや、思ったよりも早くに来なさったな。それとも三番坊が仕損じたか。いや、魔戒騎士の片方が見えぬところを見るに、囮にして来たのかのう』
スコルの正面。番犬所の舞台から見下ろしているのは神官ハティ。だが、その顔は蒼白に染まり、両目と口を開いて硬直している。
しわがれた老人の声を発しているのは彼女の唇ではない。
雄獅子に似た黄土色の獣の頭部。
それが、まるで木の
『わざわざ、神官に同化してまで情報を吸い出した手間暇を考えれば、もう少し役だって欲しかったんじゃが、仕方あるまい。
獅子の顔はそう言って、ハティの肉体が飛んだ。
彼女の両脇から黄土色の腕が生まれ、爪磨へと襲い掛かる。
偃月魔戒剣が鞘から抜かれ、爪磨はカウンター気味に斬撃を放った。刃はハティの小さな身体を切り裂き、真紅の血を流される。
「……赤い血⁉︎」
ホラーに憑依された身であれば、例外なく肉体は作り上げられ、漆黒の血を流すはず。
しかし、ハティから流れ出た血液は人間と同じ赤いものだった。
人間の赤い血が宙に撒き散らされ、僅かに気が逸れた爪磨の肩に黄土色の獣じみた鉤爪が突き刺さる。
『ほっほぉ! 魔戒の連中とやらは本当に甘いのう。その娘といい、簡単に揺らいでくれる』
獅子の頭が嗜虐的に歪む。
肩に食い込んだ敵の腕を逃さぬように掴み、剣から魔導力を収束して打ち出す。
魔戒法師がよく使う名称さえない初歩的な法術だ。単純故に辺りさえすれば、それなりの威力をホラーに叩き込むことができる。
しかし、ハティは空中で身体をあり得ない角度に捻り、逆さまになる。結果、放たれた法術は舞台にある装飾品を砕くだけに終わった。
逆立ちの姿勢から一転して、位置エネルギーを加えた蹴りを振り子のように爪磨の胸に叩き込む。
「ぐふっ……」
気管が押し潰され、呻きを上げて彼は後ろに吹き飛び、魔戒道まで戻ってしまう。
「爪磨さん……!」
彼に駆け寄ろうとする韻牙だったが、ハティに腕を掴まれてしまう。
「離してください!」
『おっと、それはできぬ相談だの、十番。お前さんは儂にとっての叛逆への切り札じゃからのう』
神官ハティに同化している魔獣装甲・四番はそう呟き、指を鳴らした。
番犬所に続く魔戒道の入口が閉じられる。四番が持つホラーの能力ではない。白の番犬所を統べる神官ハティとしての権限によるものだ。
『これで邪魔者は来ない。儂の計画通りじゃ。魔戒騎士共も“先生”も出し抜き、儂がメシアの
ハティの胴に付いた獅子が堪え切れないというように高笑いを上げる。
「お姉様の身体でこれ以上、蛮行を重ねさせてたまるか!」
満身創痍のスコルは最後の力を振り絞り、錫杖を四番の頭部に突き出した。
魔導力のこもった一撃。けれども、魔獣装甲を相手取るには些か威力が足りていなかった。
錫杖は開いた獅子に噛み砕かれ、黄土色の鉤爪が彼女の肌を切り裂かれた。
苦痛の叫びを上げて、番犬所の床に赤い染みを作る。
『若いのう。いや、お前さんたち、神官とやらは儂より長生きじゃったか? それにしては初々しい。いやはや、全く……——憎たらしいのう!』
床に倒れ伏すスコルにハティの肉体を操り踏み付けた。
敬愛する姉の身体を使い、彼女たち神官姉妹の絆すら冒涜する悪辣な行為。それは四番の嫉妬から来る怒りに起因するものだった。
四番が魔胎となる道を選んだのは、ひとえに死を恐れたからだ。
永遠に生き続けたいその欲望、陰我が獣面ホラー・ナラシンハを掌握し、半永久的に生きる魔性へと変性させた。
“先生”に着いて行けば、永遠を生きられる。そう信じていた。彼が行おうとしている計画を知るまでは。
『儂は生きる。生きるぞ! 薪になどなって堪るか!』
血に塗れたスコルを何度も何度も執拗に踏みながら、叫ぶ。
真っ赤な水溜まりが彼女から滲み出て、動かなくなろうとも、四番はけたぐりを止めなかった。
『儂が十番にくべられるのではない。儂が! 儂が! 儂こそが永遠の燃え続ける炎となるのじゃ!』
自分にはそれができる。否、自分にしかできない。
“先生”を妄信し、騙されている愚か者共とは違い、自らの行動と意志により道を切り開く。
それが魔獣装甲・四番、平谷の思考だった。
ようやくスコルへの暴力を止め、掴んでいた韻牙の方に向き直る。
黄土色の腕が動き、彼女の喉元を握り込んだ。
「うっ」
韻牙の喉を鷲掴みにした魔獣装甲の腕がずぶずぶと首の肉と同化してゆく。
黄土色の指先が彼女の喉から顎や肩まで溶けて、広がり始めた。この色が全身に広がった時、韻牙の肉体は四番の中に取り込まれてしまうだろう。
『ふふ……。これで“先生”も儂を中心に計画を作り直すじゃろうて』
「うっぐう……」
苦しそうにもがく韻牙だが、もはや彼女は自力でその拘束を引き剥がすことは不可能だった。
握り締められているのではない。喉元の肉そのものと四番の指先が同化し始めているのだ。彼女がどうこうして切り離せることは無理だ。
魔戒騎士も排除した。神官見習いの女も殺した。これで自分を止められるものなどここには居ない。
勝利を確信した四番はもう一度高笑いを上げようとする。
その時。
足先にちくりとした痛みを感じた。
痛みこそ矮小なものだったが、最高の気分を阻害された彼は、不愉快げにその痛みの元へ目を向ける。
四番の、正確には彼が同化したハティの脚に小さな傷ができていた。
『……死にぞこないが、無駄な足掻きを』
それを行なったのは床に伏しているスコル。彼女は手に持った小さな短剣を使って、ハティの脛を切り付けていた。
圧倒的弱者による小さな反撃。それは予想以上に彼の心を苛立たせた。
今度は頭蓋を踏み砕いてやろう。
そう思って、切り傷を付けられた方の脚を上げた瞬間。
ぐずりと、脚が崩れた。
『な……!?』
驚愕する四番に、血だまりに倒れた神官見習いが言う。
「お姉様はいつだって、私を導いてくれた……。だから、私にもっと覚悟があれば、もっと早くに事が済んだのだ」
『お前ぇ……! その短剣、まさかぁ!』
同化したハティの脳内から、スコルの持つ短剣の情報が引き出される。
銀色の小さな短剣。しかし、それは切り付けられた者の命を必ず奪う力が込められたもの。
「お姉様から託されたこの“破邪の剣”であれば……! 許してください、お姉様」
それが破邪の剣。爪磨から回収されたこの魔剣はハティではなく、スコルが所持していたのだ。
獅子の顔ながら血相を変えた四番は、全ての同化能力を解除して、ハティの肉体から転がり出る。
喉を同化されつつあった韻牙もまた同時に解放され、床に膝を突いた。
黄土色の獣面の魔獣装甲は崩れゆく神官の身体を脱ぎ捨てると、大きく叫ぶ。
『ふざけた真似をしおって! この怒りのままにお前を切り刻んでくれるわ!』
「切り刻まれるのは貴様の方だ……」
『何?』
倒れているスコルを細切れにして殺そうとするが、それより早く彼女は指を鳴らした。
その途端、番犬所を中心に道が広がる。
白の番犬所を管理する神官が死亡したことで、その管理権限が全て神官見習いであるスコルに譲渡されたのだ。
四番ははっと気付き、その方向に視線を向けた。
深緑の三日月がその身を目掛けて、車輪の如く回転して襲い来ている。
獣の跳躍で舞台の上まで逃げ遂せた四番は、床に突き刺さった三日月状の剣、慈英剣を引き抜くそれを見た。
「正直、神官であるあなたたちを疑っていた自分が恥ずかしいわ。……あなたたちもまた紛れもなく守りし者よ」
深緑の狼。
翡翠騎士・ジェイドが彼女たちを庇うように立っていた。
「その代わりにオーダー通り、こいつはアタシが切り刻んであげるわ。ーー覚悟は出来てんだろうなァ! この下衆野郎ッ!」
もう少し神官側を掘り下げようとも思いましたが、あまりやるとくどくなるので適度に抑えて書いてみました。