慈英怒〈JEIDO〉-翡翠の三日月-   作:唐揚ちきん

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第二話 韻牙

 そこは何処までも紅黒い色で構築された世界だった。

 空も大地も紅い色眼鏡を通して見ているように濁って映る。

 剥き出しの地面には葉の付いていない歪んだ木が捻れた枝を伸ばして生えているばかり。

 生命の息吹を感じることのない廃れた場所。

 そんな場所を少女、韻牙は一人佇んでいた。

 どうしてこんな場所に居るのかも分からない。どうやって辿り着いたのかも覚えていない。

 気が付けば、いつの間にかこの紅黒い荒野に立っていた。

 困惑するべきはずの状況。だが、彼女にはそこが何故か懐かしく感じられた。

 昔、自我が生まれるよりずっと前から、この赤黒い世界を知っているような気さえした。

 

「おいで……」

 

 女性の声が聞こえた。

 温かく、慈愛に満ち溢れた母性が滲む声音。

 韻牙は引き寄せられるように、その声の方へと進んで行く。

 近付けば近付く程に、感じ取れる大いなる存在の気配。

 幼児が母親を求めるように、根源的な欲求が彼女の足を動かし続ける。

 そして、韻牙は母なる女神と出会った。

 純白で雄大な美しい女神。妖艶で居て、清純さを感じる二律背反の美貌。

 その御神前には、既に九人の人影が集まっていた。否、人影と表現するには皆、あまりに逸脱した造形をしている。

 関節や四肢の数、鋭角な羽や長い尾、その他身体から生えた様々な突起物が人型でありながら、彼らを異形へとせしめていた。

 彼ら異形の列は女神の前に並び立つ。さながら、母親に抱いてもらう順番を待つ子供のように見えた。

 

「おいで……我が愛し児よ。愛してやろう。慈しんでやろう」

 

 甘く、柔らかな声が耳に染み込み、思考を朦朧とさせる。極度の酩酊感を味わい、軽やかな足取りで彼女もまた列へと加わる。

 名前を呼ばれた気がした。「韻牙」とは別のもう一つの名。

 彼女は頷いて、涙を頬から流した。悲しみでもなく、喜びでもなく、誕生の産声と共に激しく泣き喚いた。

 

 ***

 

 韻牙は最後まで見ていた夢の話を語り終えると、一息吐いた。

 さして長い間話していた訳でもないのに、酷く喉が渇きを訴える。テーブルに紅茶が差し出されるや否や、手に取って口を付ける。

 淹れたての紅茶が、茶葉の味と共に口内に広がり、舌を火傷しそうになる。

 

「こらこら、火傷しちゃうわよ? ゆっくり飲んで頂戴。……ジュースの方が良かったかしらね?」

 

「いいえ、だ、大丈夫です……」

 

 少しだけ火傷した舌を仔犬のように出して、彼女は紅茶をふうふうと吹き冷ましている。

 ゴミ捨て場の前で立ち往生する訳にも行かず、彼女を自宅へと招いた爪磨はリビングにて話を聞かせてもらっていた。

 一応は事情聴取という体ではあったものの、陰牙が空腹を訴えたため、彼は軽食を作りつつ片手間に傾聴するという中途半端な形にならざるを得なかった。

 代わりに内容を確認する役目を担ったのはテーブルの上に鎮座している魔導輪・ゾルバだ。

 

『小娘が見た場所は“魔界”だな。木々が生えているならば、かなり下層だろう。上層は厚い岩盤に覆われて草一本育たない』

 

「でも、夢の中でですよ?」

 

『人間の夢が、魔界へのゲートになった事例も過去にはある。貴様に取っては夢であっても実際に意識は魔界に送られていたのだ』

 

「へえ……物知りなんですね。ゾルバさんて」

 

 当たり前のことのように、喋る指輪を受け入れて会話する少女に、爪磨は些か怪訝な顔を見せたが、すぐにハムサンドとホウレン草のソテーを作ると、テーブルに並べていく。

 魔界という単語は、魔戒騎士であれば耳にしない事の方が珍しいが、十代半ばの少女の夢で語られるのはこれが初めてであろう。

 ホラーの生まれ落ちる場所としか認識していない異次元空間に夢とは言え、何の特別な力を持たない人間が入り込むなど正しく悪夢だ。

 しかしながら、韻牙の表情には陰りはなく、むしろ懐かしむように語るその様は恐怖体験をした人間とは思えない程に呑気なものだった。

 

「さあ、できたわ。遠慮しないで食べていいわよ。まあ、夜にあまり食べるのは健康的じゃないけどね」

 

「わあ、頂きますね!」

 

 爪磨が彼女に料理を勧めると、顔を輝かせてサンドイッチに齧り付いた。欠食児童を思わせるその豪快な食事風景は、もう少し胃に溜まる料理にすれば良かったかもしれないと彼に思わせる程だった。

 よく噛んで食べなさいと注意しつつ、テーブルに置いていたゾルバを再び指に嵌め、小声で話す。

 

「……今の話、どう思った?」

 

『咄嗟の作り話にしては細部まで考えられている。少なくとも小娘が見た内容は本物だろう』

 

「なら、夢に出てきた“女神様”って……」

 

『ホラーの始祖・メシアだろうな』

 

 全てのホラーを生み落とした原初のホラー、『メシア』。その名を知らぬ魔戒騎士は存在しないと言われるくらいに、知れ渡っている。

 十数年前に現代に蘇ろうと画策し、十年単位の綿密な長期的計画を立て、一度はこの世界を危機に陥れようとした恐るべき魔獣たちの母。

 だが、奴の復活は阻止されたはずだった….…。

 

「黄金騎士・牙狼(ガロ)に討滅されたんじゃなかったの? それとも魔界に送り還されても十年ちょっとで復活するものなの?」

 

『普通のホラーならまず不可能だ。騎士によって討滅され、魔界へと送還されればその後百年近くは封印される』

 

 魔戒剣を含むソウルメタル製の武器に封印されたホラーは、浄化という分離プロセスを挟み、小さな短剣のオブジェに変えられる。その短剣が十二本揃った時、番犬所にある専用のゲートを通して元いた魔界へと還されるのである。

 本来であれば、ゾルバことゾルバリオスもまた短剣状に固められ、他の十一のホラーが集まり次第に魔界への送還を待つ身であった。

 しかし、数年前に爪磨が番犬所から他のホラーとすり替え、魔導輪の中に直接埋め込んで元老院の宝物庫内部の魔導具に紛れさせたことで難を逃れた。

 

『だが、始祖メシアであれば例外的なことが起きても何ら不可解ではない。あの方は強大なホラーだ。疑問があるとすれば……』

 

「……我が愛し児と呼んだことよね。魔胎を作ったのは奴ってことなのかしら?」

 

 額に手を当て考え込む爪磨に、ゾルバはもう一つ別の話題を聞かせる。

 

『如何にメシアと言えども魔界に居る身でそこまでのことがやれるかは定かではない。話は変わるが、先程倒したホラーの群れ……妙ではなかったか? 何故あんな何もない廃屋で三十体も潜んでいた』

 

 それについては爪磨にも違和感を覚えていた。

 ホラーの仲間意識は極めて希薄だ。利害が一致すれば群れることもあるが、基本的には単独で好き勝手に人を食らっている。

 あの人気のない荒屋に徒党を組むまでの魅力があったとは到底思えなかった。

 

「何が言いたいの? ゾルバちゃん」

 

 尋ねると、得意げに犬の頭蓋骨はカチカチと金属音を立てて答えた。

 

『俺が思うに奴らは隠れていたのだ。自分を狙う天敵からな』

 

「天敵って、アタシら魔戒騎士のこと?」

 

『魔戒騎士は脅威ではあるが、天敵ではない。例え倒されても、しばらく何もできなくなるだけだ。死をもたらさぬ騎士に恐れを為すようなホラーはそもそもこちらの世界に侵入しない』

 

 だったら何が、と言いかけて止めた。

 ゾルバが何を言わんとしているのか気付いたからだ。

 死の概念がない、魔獣・ホラー。だが、例外的にホラーを消滅、つまり死を与える存在が居る。

 一つは同族である“ホラー喰いのホラー”だ。人間ではなく、ホラーを捕食することでより強い力を得ようとする個体が稀にだが存在する。

 そして、もう一つは……。

 

「暗黒騎士……」

 

『そうだ。闇に堕ちた魔戒騎士。奴らはホラーを封印するのではなく、吸収する。……かつて、メシアが復活の道具に使ったのもまた暗黒騎士ではなかったか?』

 

 嫌らしく神経を逆撫でするような言い方でゾルバは彼に問いかけた。

 ギュッと可愛らしいフェミニンなエプロンの胸元を握り締める爪磨。

 皺ができるまで強く握り込んだ拳の下にある、彼の胸に吹き荒れている感情は、歓喜だった。

 ……やはり、奴はこの街に潜んでいる。

 食事に夢中だった韻牙が、爪磨の顔を見て恐怖で固まる。

 朗らかな笑顔以外浮かべる表情のレパートリーが少ない彼の顔は今、攻撃的な牙を剥く笑みを作っていた。

 ゾルバはその顔を眺め、己がこの騎士と交わした契約を思い出す。

 『魔界への強制送還を回避させる代わりに、魔導輪として、とある暗黒騎士を見つけ出す手伝いをする』。それが九曜爪磨とゾルバリオスが結んだ取引の内容だった。

 暗黒騎士が持つ鎧は、ソウルメタルではなく、デスメタルという性質を反転させた特殊金属。その臭いを探知できるのはホラーの中でも自分くらいのものだ。

 人間に媚びた魔導具の友好的なホラーなどは話にならない。奴らは精々がホラーの気配を察知する程度が関の山だ。

 爪磨が何故元老院に背いてまで暗黒騎士を追っているかは知らないが、この目的が果たされるまでは奴は自分を番犬所に引き渡すことはないだろう。

 後は、その間に隙を見て、爪磨に憑依して行方を眩ませばいい。どうやって系譜以外の鎧を手に入れたかは不明だが、肉体を奪い取った暁には存分に利用してやる。

 それまでは野望を秘めて、従順な魔導具を演じてやろうではないか。

 主人に倣い、犬の魔導具も同じく凶暴に顎を開閉して笑った。

 韻牙だけは、サンドイッチを口に含んだまま硬直して、その主従を見つめていた。

 

 ***

 

「ご、ごちそうさまでした……」

 

 食事を食べ終えた韻牙は、爪磨にお礼を述べて、流しに食器を返しに来る。

 

「お粗末様でした。置いといてくれればいいわ」

 

 一通り食器を水洗いすると、彼は夢の話の前に聞いた内容を思い返す。

 ゴミ捨て場で眠る前の記憶は朧げだという事だったが、真っ白な部屋と白衣を着た人間たちに囲まれて生活していたと彼女は言った。

 貫頭衣を着ている事も含めて考慮すれば、恐らくは何処かの病院から脱走して来たと見るべきであろう。

 

「韻牙ちゃん。疑ってる訳じゃないんだけど、本当にどうやってそこから出て来たのか覚えてないのよね?」

 

 質問に対し、彼女はこくりと首肯する。

 

「はい。あ、でも、誰かに聞かれた気がします」

 

「聞かれたって、何を?」

 

「『ここから出たくないか?』って、そう聞かれました。私、それに『出たい』って答えたんです。何でか具体的には思い出せないんですけど、あの白い場所、好きじゃなかったみたいで……」

 

 少しだけ決まりが悪そうに語る韻牙に、爪磨は手を脱ぐってから頭を撫でた。

 

「そうなのね。でも、逃げ出したくなるような場所なら、あなたにとっては良い場所じゃなかったんだと思うわ」

 

「……ありがとうございます。そう言ってもらえて、ちょっとだけほっとしました」

 

 咎められると思っていたらしく、彼女は安堵した表情を浮かべた。

 

「その韻牙ちゃんを助けてくれた誰かって今、何処に居るの? 途中まで一緒だったんじゃないのかしら」

 

 もしも病院施設から彼女を連れて出たなら、少なくとも彼女よりは詳しい情報を知っているかも知れない。

 淡い期待を込めて尋ねるが、韻牙は首を横に振った。

 

「それが分からないんです。……施設から逃げ出すのに協力してくれたはずなのに顔も思い出せなくて……。でも、すごく私のこと、気にしてくれたのは覚えてます。口調は少し乱暴でしたけど」

 

『本当に何も覚えてないのだな。手掛かり一つないとは、役に立たない小娘だ』

 

「ちょっとその言い方はないんじゃない? この子だって、好きで忘れた訳じゃないでしょうに」

 

 口を挟んだゾルバに叱責をするが、韻牙はすみませんと申し訳なさそうに頭を垂れる。

 気にしないように慰めてから、爪磨は布団を敷いて彼女に寝るように言った。

 借宿として選んだ手狭なアパートである。客間どころか来客用の布団の予備もない。

 故に、韻牙に貸したのは彼が買い置きしていた唯一の寝床であった。

 

「あの、爪磨さんは……」

 

「アタシはその辺のソファで寝るから安心して。あ、それとも襲われるかもって心配させちゃったかしら?」

 

 茶目っ気たっぷりにそう言うと、彼女は頬を朱に染めて、布団の中に潜り込んだ。

 爪磨はそのからかい甲斐のある反応にくすりと笑って、電気を消してソファに横たわる。

 

『本当にあの小娘を斬らないつもりか? ホラーに完全に憑依されてはいないとはいえ、体内にホラーが潜伏しているのは事実だぞ』

 

 声量を落としたゾルバはそう尋ねる。

 クッションを枕代わりに頭の下に置いた爪磨は彼に冷めた口調で返す。

 

「別にそれだけが理由って訳じゃないわ。話を聞いた限り、彼女の居た病院も何だかキナ臭い。世にも珍しい魔胎がメシアの力だけで偶然生まれたって考えるより、人為的に作り出されたって考える方が自然じゃない?」

 

『なるほど……もし病院施設の奴らが小娘を魔胎にしたのであれば、回収しに来るということか。クク、善意ある対応の振りをして、その実、餌にするとは。貴様も存外食えぬ男だな』

 

 無論、決してそれだけが全てではないが、彼にとっては暗黒騎士が関与している可能性が高いこの一件の手掛かりである韻牙を斬るなど論外であった。

 その為だけに九曜爪磨は人喰いの魔獣と手を組み、己の系譜とは無縁の鎧まで持ち出したのだ。その執念たるや並ではない。

 例え、外道と呼ばれようとも彼にはやり通さなければならない使命がある。

 

「ハッ……大事なこと忘れてたわ」

 

『な、何だ……? 重要なことなのか⁉︎』

 

 暗闇の中で深刻そうな表情を浮かべる爪磨はぽつりと漏らす。

 

「どうしましょう……あの子に歯を磨かせるの忘れちゃったわ」

 

『馬鹿か、貴様……』

 

 仮にも契約を交わした騎士に遠慮なく吐かれた魔導輪の罵倒が闇に響いた。




『水を泳ぐ魚は人間よりも素早いように、闇を泳ぐホラーは愚鈍な騎士よりも遥かに機敏だ。奴が漁師になれるかは見ものだな。次回「怪魚」。俺とて、昔は犬掻きぐらいできたわ!』
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