慈英怒〈JEIDO〉-翡翠の三日月-   作:唐揚ちきん

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第三話 怪魚(前編)

 朝靄が漂う川縁。

 一人のチンピラ風の男が浮かない顔で水面を眺めている。

 痩せこけた頬や目の下にできた隈などを見る限り、健全とは言い難い生活をしていることは一目瞭然だった。

 生活苦か、何らかの精神的な悩みを抱えているか、もしくは麻薬の類の副作用に蝕まれているように見える。

 呆けた顔で数分程、水面を見つめていると、チャプン、と水面から何かが顔を出した。

 

「……!」

 

 文字通り、それは『顔』であった。

 美しく整った女性の輪郭。川面から浮上するその美女の顔は、水の上まで跳ねた。

 裸体を晒し、柔らかそうな乳房と引き締まった胴周りは男性であれば、目を奪われずにはいられないであろう妖艶なものだった。

 しかし、それ以上に注意を引いたのはその下半身。淡い水色の鱗で覆われたそれは魚の尾を彷彿とさせる尾ヒレが付いていた。

 人魚。古来より、伝承にて言い伝えられてきた人の上半身と魚の下半身を持つ空想上の生き物。

 特に西洋では美しい歌声で海の男を惹き付ける魔性の存在として位置付けられている。

 川の中の人魚もまた、伝説に登場する彼女たちのように心地良い美声を響かせて、川縁に佇む男へとゆっくり近づいて行く。

 人間では発音不可能な高音で流すのは人類史にあるどの言語とも異なる言葉。

 魔界語と呼ばれる魔獣・ホラーのみが使う特殊な言語だ。

 男は夢現の焦点が定まらない瞳で人魚を眺めている。

 川縁まで這い上がった人魚はそこでぴたりと歌を止めた。代わりに顔が剥がれ、内側から醜い魔獣の本性を露わにした相貌が飛び出してくる。

 真っ黒いぶよぶよとした顔面に、白く濁った眼球と、裂けた口から覗く鋭い牙。人魚ではなく、半魚人と評した方が相応しい様相を呈している。

 しかし、半魚人のホラーの牙が男に触れることはなかった。

 

「がっ……があ……何、何故?」

 

「何故だろうなぁ?」

 

 痩せたチンピラ風の男は、愉快げに首を傾げて、視線で半魚人を舐めるように笑ってみせた。

 ホラーはようやく男が普通の人間でないことを理解した。

 だが、それに気付くにはあまりに遅過ぎた。

 喉元を鷲掴みにされた半魚人ホラーが最期に見た光景は男の口から覗く漆黒の闇だけだった。

 “食事”を取っている男の背後に、別の人物の足音が近寄る。

 忍び寄るというには些か存在感を主張し過ぎる足音の主は、男の真後ろに立って言った。

 

「“一番”。……また釣りか?」

 

「“二番”かよ。なんだぁ、鈍亀野郎? 飯なら分けてやらねぇよ。こいつは俺が釣った獲物だ」

 

 ホラーを喰らいながら、背後に立つ相手を鬱陶しそうに喋る一番と呼ばれたチンピラ風の男。

 “二番”は彼の罵倒を気にした様子もなく、淡々とした口調で答えた。

 

「要らん。それより連絡事項がある。聞け」

 

「あんだよ?」

 

「昨夜、“十番”が脱走した」

 

 それを聞くと、“一番”は弾けたように噴き出した。

 ゲラゲラと品性に欠けた笑いを巻き散らしながら、背後の二番に振り向いて嘲る。

 

「間抜けか、おめえ。数合わせとはいえ、あんなガキに逃げられて、何平然と報告してんだよ。ちったあ慌てろ、ボケが。ほんっとに鈍い野郎だな」

 

 侮辱を受けているというのに、二番は顔色一つ変動させない。

 冷め切った視線だけを一番に向けて連絡事項を続けた。

 

「それともう一つ。街の中に魔戒騎士が紛れ込んだ。“五番”が得た情報では、その魔戒騎士が十番を確保しているそうだ」

 

「かーっ、そこまで分かってんなら、何ボサっとしてんだノロマが。さっさと取り返しに行けよ」

 

「先生は一番、お前にその役割を任せるそうだ」

 

 二番がそう言うと、一番は苛立たしげにボサボサ頭を掻き乱し、ホラーの残りを一片残さず啜る。

 

「先生かぁ。先生ねぇ。まったくあの人何考えてんのか、さっぱりだわ。番号で呼び合うのも意味分かんねぇと思ったが、今度のそれは輪をかけて意味不明だなぁ、おい」

 

 ぴくりと二番の眉が動く。

 

「……聞き捨てならんな。それは先生への翻意か?」

 

 どんな罵倒を受けても聞き流していたにも拘らず、その声音には紛れもなく怒気が孕んでいた。

 地鳴りがする程の勢いで川縁が踏み締められる。一番が居た場所は窪地になって、川の水が流れ込んでゆく。

 土に埋まった足首を引き抜く二番を尻目に、一番はいつの間にか土手まで移動していた。

 

「怒るなよ。俺だって先生には恩がある。この力をくれたのはあの人だからな。ま、義理は果たすぜ」

 

 そう言って彼は去って行く。二番はその背を睨むように見つめた後、川縁を後にした。

 残された円形の窪みには川の水が流れて溜まり、小さな池のようになっていた。

 

 

  ***

 

 

 テーブルに街の地図を広げていた爪磨は、スマートフォンを操作しながらチェスの駒を要所要所に置いて行く。

 それを見ていた魔導輪・ゾルバは彼の行動の意図が読めず、尋ねた。

 

『何だ、それは?』

 

「スマートフォンよ。最先端の電子端末。お爺ちゃんのゾルバちゃんには分からないと思うけど、魔道具じゃない通信機って考えてくれればOKよ」

 

『馬鹿にするな。そのくらいは知っている。そうではなく、何をしているのかと聞いているのだ』

 

 意外にも現代テクノロジーに理解のあるゾルバに対し、爪磨は行っている工程を一から順に説明し始めた。

 

「いい? ゾルバちゃん。ちょうど昨日の夜にホラーが溜まっていた荒屋がここ」

 

 スマートフォンで番地を確認しつつ、地図上の同じ地点にルークの駒を設置し直した。

 

「次いで、韻牙ちゃんが寝ていたゴミ捨て場がここ」

 

 さらにゴミ捨て場があった地点にクイーンの駒を置き直す。そこまで聞けば、ゾルバにも理解できた。

 

『なるほど。では、この点在するポーンの場所が……』

 

「そ。その近辺に設立されている病院よ」

 

 ルークとクイーンを中心にして点在する八つのポーンの駒を眺め、スマートフォンの地図アプリを指差して頷いた。

 少なくともこの八か所の病院の内、どれかが韻牙の居た病院ということになる。彼女の脚の速さや移動時間が分かれば更に絞れるかもしれないが、今はこれが限界だった。

 病院がホラーとは無関係の可能性もあるが、現状手がかりと言えるものは韻牙の発言しかないため、調査をしないという手はない。

 

「ホラーが病院に巣食っていた事例もあるしね」

 

『蝙蝠ホラー・パズズのことだな。奴は生に満ち溢れた人間を好んで食べる美食家だった。だから、わざわざ死にそうな人間を治療してから喰らう』

 

「悪趣味なホラーも居たものねぇ」

 

『貴様ら風に呼ぶのなら“調理”というものだ。手間を掛けてでも美味いものを食べたいという気持ちは分かる。俺も人間より鋭い嗅覚で肉を食すために、人ではなく犬に憑依していたことがある』

 

 ゾルバが言う肉というのは即ち、人肉であるのは明白だったが、爪磨はあえて言及しなかった。

 死んだ人間のことまでとやかく言う程、彼は人間至上主義ではない。どちらかと言えば、彼はホラーに対してある程度の寛容さを持っていた。

 そのことはゾルバも認識しており、だからこそ前々から気になっていた。

 

『どうにも解せない。貴様、ホラーが人間を喰らうことを許容している節があるな?』

 

「解せないと言われてもね。そもそもホラーが人間を食べるのって本能の延長線じゃない。それ自体は責める気にはなれないわ」

 

 あっさりとそう答える彼にゾルバの方が面食らう。

 彼が知り得る魔戒騎士と言えば、使命だの誇りだのを理由に己の行いを正当化してホラーを狩る人間の総称だった。

 

『厳密には趣味も混ざっているが、概ねその通りだ。魔道具になるような変わり者のホラーたちのように僅かな魂の欠片だけで満足できる奴もいる。しかし、それを言ってしまっていいのか? 自分の存在意義を否定する発言だろうに』

 

「あら、心配してくれるの? 可愛いとこあるじゃない」

 

 にやっと笑って指輪の先を撫でると、ゾルバは途端に不機嫌になり、吐き捨てる。

 

『そんな訳あるか、(たわ)けが』

 

「でも、アタシはホラーも含めてこの世界って成り立ってる気がするのよね。陰我を生む人間が居て、それを食べるホラーが居て、それを狩る魔戒騎士が居る。結果論だけど、そのおかげで陰我のある人間は魔獣としてこの世から消える……まあ、情状酌量の余地がある人間も取り憑かれたりするんだけどね」

 

『…………』

 

 人類の守護者たる“守りし者”とは思えぬ発言にゾルバは、本気で呆然としてしまった。

 ホラーの在り方を受け入れる魔戒騎士など、数千年近く存在して初めて出会った。想像すらしていなかった思想に言葉を奪われる。

 ゾルバが黙ったことで彼は話を終わらせて、地図や駒をテーブルから片付け始めた。

 

「うー……朝ぁ?」

 

 そんな中、(まなこ)を擦って布団から韻牙が這い出して来る。

 「おはよう」と挨拶をして、爪磨は彼女と自分のために朝食の用意を行なう。

 昨日の今日で、訪れたばかりの人柄もよく知らない男の家で無防備な姿を晒す彼女に対し、苦笑する爪磨は買い置きしていた食材で朝食を(こしら)えた。

 

「ねえ。韻牙ちゃん」

 

「はい? 何ですか、爪磨さん」

 

 彼女はベーコンエッグの黄身を先の割れたスプーンで潰して、そこを穿(ほじく)る。

 

「ちょっと今日はアタシとお洋服を買いに出掛けない? いつまでも短い貫頭衣のままっていうのはあんまりだし、ひょっとしたらお家の場所を思い出すかもしれないわ。勿論、アタシからのプレゼントだから、お金については気にしないで大丈夫よ」

 

「うーん、そうですね……」

 

 韻牙はその提案に対して即答できずに視線を巡らせる。

 彼女としても薄い貫頭衣でいつまでも過ごすのは嫌だった。

 とは言え、出会って間もないにも拘らず、親切に接してくれる彼にこの上、衣服まで購入させてしまうことに躊躇いがあった。

 その心情を察した爪磨は、小狡くも一言付け足す。

 

「実は新作のレディースファッションを見たいんだけど、男のアタシが一人で行ったら追い出されちゃうの。だから、ここはアタシを助けると思って、ね? ね?」

 

 自分がジェンダーフリーであることを巧妙に利用して、断る方が悪いと思わせる話術。

 口を挟みはしないものの、ゾルバは内心で彼の吐いた嘘に気付いていた。

 魔戒騎士の身に付ける外套、“魔法衣”。この衣装には人間の認識を阻害する効果もある。透明になる訳ではないが、人に記憶や意識から己の存在を除外させることは容易い。

 その気になれば、警備の人間の真横を素通りして、立ち入り禁止の場所に足を踏み入れることも可能だ。

 彼の発言は、韻牙を連れ歩くことで囮りとして効果を期待してのものでしかない。

 少し悩んだ末に爪磨の顔を見つめた彼女は、おずおずとした様子で上目遣いをする。

 

「じゃあ、お言葉に甘えて……お願いしていいですか?」

 

「決まりね。それならうんと可愛い服選んであげちゃうわ!」

 

 

 ***

 

 

 近くにあるショッピングモールを訪れた二人は、早速女性服専門店へと足を運んだ。

 貫頭衣で表に出る訳にはいかなかったため、韻牙は爪磨のシャツや上着を着込んでいる。服を買いに行くための服を買ってからにするべきだったとぼやいていた。

 ゾルバはてっきり連れ出すための建前と思っていたのだが、爪磨は宣言通りに彼女の服を楽しそうに選んでいる。

 

「韻牙ちゃんくらいの歳くらいの子なら、あんまり大人びたものよりフェミニンな可愛らしいものがいいわよね。あ、こっちのフレアスカートなんてどうかしら?」

 

「う、うーん。爪磨さんが言うなら着てみますけど……」

 

「あら、好みじゃなかった?」

 

 尋ねると彼女は顎の先に手を当てて、難しい表情を浮かべた。

 

「どうなんでしょうか? 私、自分がどんな服が好きなのかとか、どんな服を着ていたのか、全然思い出せないんです」

 

 困惑しているようでは、別段記憶を失ったことに対する悲観は見て取れなかった。

 故に爪磨もまた必要以上に同情せずに、明るく軽快に微笑んだ。

 

「それなら好みはこれから作りましょう。ほらほら、向こうには可愛いカーディガンとか売ってるわ」

 

 韻牙の手を掴んで、店の中を連れ回す。その姿は少し年の離れた仲の良い兄妹のように見えた。

 常に周囲の気配を気にしていたゾルバも彼らの能天気な様子を目の当たりにして気が抜けそうになる。

 どれくらい店内で時間を潰したのだろうか。明確な時間を測るのが億劫な程に経過していた。

 最終的に韻牙が選んだのは、白い無地の半袖VネックTシャツと、ぴっちりとした黒のスキニーデニムだった。

 おっとりとしたところのある彼女のセンスとは思えぬボーイッシュな服装にゾルバは僅かに驚く。

 

『小娘にしては意外だな。本当に貴様は選んだのか?』

 

「はい! 何だか、こういう服が着たいなって思って……似合ってませんか?」

 

 購入してすぐに着替えた韻牙は魔道輪の言葉に自信を無くして、爪磨へと聞く。

 すると、彼は首を左右に振るった。

 

「そんなことないわ。とっても似合ってるわよ。んー……こうするともっといいかもね」

 

 持っていた紙袋からグレーのキャップを彼女の頭に被せる。

 それを見て、彼はにんまりと満足げに口の端を引いた。

 

「うん。韻牙ちゃんみたいな可愛い女の子が、ボーイッシュな格好をするのもアリね。非常にグーだわ」

 

「ありがとうございます! この帽子ももしかして……」

 

「プレゼントよ。せめてアクセントにする帽子くらいはアタシが選ぼうかと思ってね」

 

 表情を華のように綻ばせる彼女を見て、爪磨もまた今回の買い物は悪くなかったと評価する。

 あえて警戒をゾルバに任せることで、自分たちに近付く存在をおびき寄せようとしていたのだが、今回の釣りは“ボウズ”で終わった。

 しかし、満更無意味だった訳でもない。韻牙の中に宿るホラーの活性化を防ぐ意味でも、彼女自身の精神状態を安定させるのは重要だ。

 あくまでも彼女には無害な囮であってもらわねばならない。それが彼女のためでもあり、ひいては自分の目的のためだ。

 

「少し散歩してから、どこかでランチにしましょうか。新しい服で歩くのは気持ちのいいものよ」

 

 黄緑色の魔法衣を纏ったままの彼は、そんな風に彼女を誘う。

 

「はい! 何だかとても新鮮な感じがしますね」

 

 すっかり爪磨に心を許した韻牙は疑うこともなく、彼の隣を歩き出した。

 そんな二人を遥か後方から眺めるのは、チンピラのような風貌の痩せこけた男、“一番”であった。

 




導入から書いていたら敵と邂逅する前に五千文字を超えてしまったので、ここで区切ります。
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