ーー夏。
まだまだ暑い日が続く中、厨房でぐったりした二奈が一言、「プール行きたい……」と呟いた。
「プール?」
三鶴はカウンターで餃子をつつきながら聞き返す。フロアにいた笹木は珍しくため息をついていた。
「最近ボスはずっとこればっかりで…次の休みプール行きませんか姉御」
もう鬱陶しいと言わんばかりに、笹木は横目で二奈を見ながらそう言った。
プール、か。三鶴は少し考える。
プールなんて久しく行ってない、水着もない、そもそも誰と行くか。
「二奈と笹木と、私?」
三鶴が順番に指さすと、二奈が厨房から顔を出した。
「お姉ちゃんが行くなら、もっと誘いたい!」
「急に元気になったね」
「行くの?」
「まだ何も言ってないけど……まあ、楽しそうではある」
その一言で、二奈はカウンターまで出てきた。
「じゃあ行こう!ね、いつ空いてる?」
「先に店の休み確認した方がよくない?」
「次の定休日でいいじゃないですか」
笹木がすかさず口を挟む。
「ここで日を決めないと、明日からもずっと聞かされますから」
「そんなに言ってた?」
「言ってましたよ。皿洗いながらも、仕込みしながらも」
「だって暑いんだもん……」
二奈が頬を膨らませる。
三鶴は笑い、最後の餃子を口へ運んだ。
「私、次の店休日なら空いてるよ」
「よし!」
「でも、水着ない」
「買いに行こ。私も新しいの欲しかったんだよね」
楽しみ!と元気になった二奈に、三鶴は呆れながら笑った
「誰誘う?」
二奈が携帯を開く。
三鶴は空になった皿へ箸を置き、少し考えた。
「京平たちは? 狩沢ちゃん、こういうの好きそう」
「いいね。お姉ちゃん、聞いてみてよ」
三鶴が鞄から携帯を取り出すと、笹木も近くの椅子へ腰を下ろした。
「門田さんたちが来るなら、車も相談できそうですね」
「まだ来るって決まってないよ」
笑いながら、三鶴は門田宛てのメールを開く。
『次の休み、二奈たちとプール行くんだけど、京平たちもどう?』
送信して顔を上げると、二奈は既に何か調べ始めていた。
「ねえ、お姉ちゃん。水着、いつ買いに行く?」
「行く場所より先にそっち?」
「大事でしょ!」
その勢いに笑っていると、携帯が震えた。
『聞いてみる。どこのプールだ?』
三鶴は画面を二奈へ見せる。
「サマーランド行こう!」
二奈は携帯を見たあと、思いついたように顔をあげる。
「流れるプールあるし、スライダーもあるし!」
「いいね。じゃあ、そう送っとく」
三鶴がメールを打ち直していると、笹木が二奈の手元を覗き込んだ。もう地図を調べているようだ。
「ここなら車ですね。何台かに分かれれば行けそうです」
「笹木、運転よろしくね」
「……最初からそのつもりだったでしょう」
二奈はにこっと笑った。
送信を終えた三鶴が、携帯をカウンターへ置く。
「何か、ちゃんと遊びに行く感じになってきたね」
「ちゃんと遊びに行くんだよ? お姉ちゃん、仕事入れないでね」
「入れないよ。水着まで買って行けなかったら悲しいじゃん」
そう答えたところで、また携帯が震えた。
『全員行けるそうだ。遊馬崎と狩沢がもう騒いでる』
三鶴は思わず吹き出した。
「京平たち、みんな来るって」
「やった!」
二奈が両手を上げる。
その横で、笹木は早くも人数を数え始めていた。
「じゃあ明日、水着見に行こ!」
「明日?」
「早く買った方が楽しみになるでしょ」
身を乗り出してくる妹に、三鶴は笑って頷いた。
「うん。行こっか」
さっきまで厨房でぐったりしていたのが嘘のように、二奈は上機嫌で戻っていく。
笹木がその背中を見送った。
「……ようやく静かになりますね」
「今度はプールの話が増えるんじゃない?」
三鶴が言うと、厨房の奥から早速声がした。
「ねえ、浮き輪も買おうよ!」
笹木は静かに目を閉じた。
△▽
翌日。
水着売り場へ着いた途端、二奈は三鶴の腕を引いた。
「お姉ちゃん、こっち!」
「待って。そんな引っ張らなくても逃げないよ」
色とりどりの水着が並んでいる。
三鶴は近くにあった一着を手に取り、その小ささに眉を上げた。
「……これ、泳いでる途中で脱げない?」
「ちゃんとサイズ合わせれば大丈夫でしょ」
「紐じゃん」
「紐だね」
二奈が笑いながら、別の水着を差し出す。
「これは?」
「あ、可愛い」
黒地に、胸元のリボンが目を引くデザインだった。
三鶴が鏡の前で身体へ当てると、二奈は少し離れて眺める。
「うん。お姉ちゃんっぽい」
「そう?」
「着てみてよ。私も探してくるから」
背中を押され、試着室へ入る。
着替えてから鏡を見ると、思っていたより肌が出ていた。
普段も薄着ではあるけれど、水着となると少し勝手が違う。
「二奈?」
「どう?」
カーテンから顔を出すと、待ち構えていた妹が目を輝かせた。
「可愛い!」
「……ちょっと、出すぎじゃない?」
「何が?」
「色々」
曖昧に答えると、二奈は声を出して笑った。
「水着なんだから、そんなもんでしょ。似合ってるよ」
「ほんとに?」
「うん。ほら、一回ちゃんと見せて」
渋々カーテンを開ける。
二奈は上から下まで見て、満足そうに頷いた。
「それにしよう」
「決めるの早いなあ」
「お姉ちゃんも気に入ってるでしょ?」
鏡へ視線を戻す。
胸元のリボンを少し直してみる。
確かに、可愛い。
「……うん。これにする」
二奈がにっと笑った。
「じゃあ次、私の見て!」
今度は三鶴が試着室の前で待つ番になった。
△▽
水着を選ぶより、浮き輪を選ぶ方が時間がかかった。
「お姉ちゃん、これ大きすぎない?」
「でも、背中預けられそうじゃない?」
「車に積むんだよ?」
「膨らませてから持ってくわけじゃないでしょ」
「あ、そっかぁ」
二奈が箱を裏返し、大きさを確かめる。
三鶴は隣に並んだ別の浮き輪へ手を伸ばした。
「二奈はどれにする?」
「私は普通のでいいかな。スライダーも乗りたいし」
「じゃあ、疲れたら私の貸してあげる」
「お姉ちゃん、ずっと乗ってそう」
「ちゃんと降りるよ」
話しながら、三鶴はふと思い出した。
「そういえば、一姫には聞けた?」
二奈が箱を持ち直す。
「……うん。今回は行かないって」
「そっか。予定あった?」
「分かんない。行かないとしか」
三鶴は少し残念そうに頷いた。
「久しぶりに会えるかなって思ったんだけどな」
二奈は姉の顔を見てから、手元へ視線を戻した。
「……また誘おうよ」
「うん。そうだね」
三鶴は浮き輪を一つ選び、二奈の持つ箱へ重ねた。
「次は三人で買いに来られたらいいね」
二奈は小さく頷いた。
△▽
「おかえりなさい。買えました?」
古今東西へ戻ると、笹木が買い物袋へ目を向けた。
「買えた! 見たい?」
二奈が袋を持ち上げる。
「いえ、水着は当日で結構です。それより、門田さんから集合の件で連絡がありましたよ」
「何時?」
「朝、店の前に。姉御の方にもメールが来てると思います」
「あ、ほんとだ」
三鶴は鞄から携帯を取り出した。
門田からのメールには、集合時間と車の分け方が簡潔に書かれている。
その末尾に、一行だけ付け足されていた。
『狩沢が、浮き輪は買ったかと聞いてる』
三鶴は笑い、足元の袋を見た。
『買ったよ。大きいのにしたから、みんなで使おう』
返信していると、二奈が横から覗き込む。
「お姉ちゃん、集合時間見た?」
「見たよ」
「起きられる?」
三鶴はもう一度、画面の上へ目を戻した。
……早い。
「うん。二奈、起こしてね」
「やっぱり!」
△▽
「キターー!!」
当日、プールに着いて早々テンションが上がったのか、二奈と狩沢は雄叫びを上げていた。
「ちょっと、まだ入口だよ」
三鶴が笑うと、二奈は振り返った。
「もう暑い! 早く入りたい!」
「まず着替えろ。その荷物持ったまま入る気か」
門田に言われ、二奈は肩にかけた袋を持ち直す。
運転を終えた渡草が、首を回しながら息を吐いた。
「着いた途端、元気だな……」
「行きの車からずっとこんな感じでしたよ」
笹木の言葉に、三鶴は小さく笑った。
後部座席で二奈と一緒になって騒いでいたので、あまり人のことは言えない。
「じゃ、着替えたら合流ね!」
狩沢が三鶴と二奈の腕を取る。
「行こ行こ。二人の水着、楽しみにしてたんだから!」
「狩沢ちゃんも見せてね」
「もちろん!」
女三人が更衣室へ向かうのを、門田たちは荷物を抱えて見送った。
△▽
「三鶴ちゃん、可愛い!」
着替え終えた三鶴を見るなり、狩沢が声を上げた。
「二奈ちゃんと選んだんだっけ?」
「うん。これがいいって、ほぼ決められた」
「だって似合ってたんだもん」
二奈が得意げに胸を張る。
三鶴は胸元のリボンへ触れ、それから羽織っていたパーカーの前を少し寄せた。
「何か、店で着た時より恥ずかしいな」
「大丈夫大丈夫。ほら、行こう!」
狩沢に背中を押され、更衣室を出る。
水の音と、楽しそうな声。
目の前に広がるプールを見て、三鶴も思わず足を速めた。
「あ、いた。京平!」
待っていた門田が顔を上げる。
「揃ったか?」
「うん。待たせちゃった?」
「いや、今来たところだ」
門田の隣で、遊馬崎が大きな浮き輪を抱えていた。
足元には、もう一つ。
「三鶴さん、そっちも膨らませといたっすよ」
「え、ありがとう! 助かる」
三鶴は駆け寄り、自分で選んだ浮き輪を受け取った。
「いいね。早く浮きたい」
「お姉ちゃん、準備運動してからね」
「分かってるって」
さっきまで誰より早く入りたがっていた二奈に言われ、三鶴は笑った。
荷物をまとめ、パーカーを脱いで置く。
腕を上げ、肩を回す。
「……よし」
「なぁ」
準備運動をしたところで、門田が歩み寄り声をかけた。
「お前あんま一人でうろちょろしない方がいいぞ」
「え、なんでよ。ちゃんと泳げますけど私」
「ちげーよ、……やっぱなんでもない」
門田が目をそらす。変なの、と三鶴は首を傾げた後、あ!と流れるプールを指さした
「あれ入ろ!二奈、狩沢ちゃん!」
「お姉ちゃん、待って!」
浮き輪を抱えて歩き出す三鶴を、二奈が追いかける。
狩沢もその後に続きかけて、門田を振り返った。
「ドタチン、ちゃんと言わないと分かんないよ」
「……何をだよ」
「三鶴ちゃん、水着似合ってるから目立つぞーって」
「そういう話じゃねえ」
言いながら、門田はもう一度三鶴たちの方へ目を向けた。
浮き輪が大きくて通りづらかったらしい。
三鶴が二奈へ何か言い、二人で笑っている。
狩沢はそんな彼を見て、にやりとした。
「はいはい。迷子にならないように、みんなで行こうね」
△▽
流れるプールに入ると、三鶴は早速浮き輪へ身体を預けた。
「あー……いい」
ゆっくりと足が浮く。
水の流れに任せているだけで、景色が少しずつ動いていった。
「お姉ちゃん、もう満足してない?」
「してる。来てよかった」
「まだ入ったばっかりだよ!」
二奈が笑いながら浮き輪を押す。
「ちょ、そんな押さないで」
「進むかなって」
「勝手に進むから!」
三鶴が振り返って水をかけると、二奈もすぐにかけ返した。
その水が狩沢へ飛び、今度は三人で騒ぐことになる。
「お前ら、周りにかけんなよ」
追いついた門田に言われ、三鶴は慌てて手を下ろした。
「はーい」
「お姉ちゃんからだからね」
「先に押したの二奈でしょ」
言い合う二人の横から、遊馬崎が浮き輪へ手を添えた。
「これ、思ってたより大きいっすね」
「でしょ。背中預けられるのがよくて」
「なるほど。移動する玉座みたいな」
「何それ」
三鶴が笑うと、狩沢がすかさず浮き輪の反対側を押した。
「じゃあ、お姫様こちらへどうぞー」
「自分で行けます!」
笑い声を上げながら、一行は流れに運ばれていった。
△▽
何周かしたところで、二奈と狩沢がスライダーへ行くと言い出した。
「お姉ちゃんも行こ!」
「うーん……私はあとでいいかな。もうちょっとここにいる」
「ほんとに浮いてるの好きだねえ」
「気持ちいいんだもん」
浮き輪へ顎を載せて答えると、二奈が笑った。
「じゃあ、行ってくる。あとで荷物のところね」
「うん。楽しんでおいで」
門田たちも一度水から上がり、三鶴は一人になった。
離れていく二奈たちを見送り、ゆっくり足を動かす。
こんなに遊んだのは久しぶりだった。
明日のことも、これからのことも、今は考えなくていい。
もう一周したら上がろう。
そう思いながら、縁に近いところを流れていた時だった。
「やあ、楽しそうだね」
「うん、楽し――」
三鶴は顔を上げた。
プールサイドに、見覚えのある男が立っている。
「……え?」
黒い半袖に短パン。
いつものコートがないことよりも、ここにいること自体が理解できなかった。
「こんにちは、三鶴ちゃん」
「何でいるの!?」
身体を起こした拍子に、浮き輪が傾いた。
慌てて掴み直すと、臨也は上から楽しそうに見ていた。
「そんなに驚く?」
「驚くよ! え、誰と来たの?」
「一人だけど」
「……一人で?」
「何か問題ある?」
問題というか、想像がつかない。
この男が一人で準備をして、ここまで来て、着替えて。
三鶴は少し流されてから、慌ててプールサイドへ手を伸ばした。
「ちょっと待って。誰から聞いたの?」
「君、楽しそうにあちこちで話してたじゃないか」
「別に、臨也には話してないけど!?」
「うん。俺にはね」
妙に強調され、三鶴は眉を寄せた。
「……来たかったの?」
臨也が笑う。
「呼んでもらえなかったから、確かめに来たんだよ。俺抜きで何してるのかなって」
「普通にプールでしょ。見たら分かるじゃん」
「そうだね。思ってた以上に楽しそうで、何よりだよ」
三鶴は彼を見上げたまま、しばらく考えた。
臨也もそれを待つように、縁へしゃがみ込む。
「で、いつまでそこにいるの?しゃがんでて疲れない?」
「いや?ここから君という人間を観察する分には、全く問題ないよ。泳ぐ気のない浮き輪を持ってきたバカだってことが分かっただけでも収穫かな」
「あー、ははは。なんだろ、今日は一旦保留しとくわ」
三鶴は浮き輪から片腕を外し、水の中へ沈めた。
「観察ありがとう、きっと臨也も、暑いよね」
「別に――」
三鶴は勢いよく水の中に入れていた手を出し、両手ですくった水を思い切りかけた。
臨也が顔を背ける。
黒いシャツに水が飛び、前髪から雫が落ちた。
ゆっくり戻ってきた視線を見て、三鶴は声を上げて笑った。
「ぎゃははは!!バカはどっちだっつーの!!ここまでついてきちゃったのが運の尽きってやつだよね!!雑魚臨也!!」
「……ずいぶんな歓迎だね」
「ここ、プールだもん。濡れるつもりで来たんでしょ?当然だよねっ!」
三鶴はもう一度水をかける。
臨也は濡れた前髪を指で払い、口元を緩めた。
「君にかけられるつもりで来てはないんだけどなぁ」
「じゃあ、今度から来る時は気を付けてね」
もう一度水へ手を入れると、臨也が立ち上がった。
「あ、逃げるの?」
「降りるところを探すんだよ」
三鶴の笑いが、ぴたりと止まった。
「……入るの?」
「君が誘ったんでしょ」
彼はそう言い残し、プールサイドを歩き始めた。
三鶴はその背中を見送ってから、浮き輪へ両腕を戻した。
まずい。
少しだけ、調子に乗ったかもしれない。
逃げるなら今のうちだ。
三鶴は浮き輪へ身体を預け、何事もなかったように流れに乗った。
別に逃げているわけではない。流れるプールなのだから、流れているだけだ。
少し進んだところで、後ろから浮き輪を掴まれた。
「どこ行くの?」
「……流れてるの」
「へえ。随分、熱心に足を動かしてたけど」
振り返ると、臨也がいた。
さっきまで着ていたシャツは脱いでいる
三鶴は彼の肩から下へ視線を落とした。
「ほんとに水着で来たんだ」
「君に水をかけられるために、わざわざ服で入ると思った?」
「いや、泳ぐところ想像できなくて」
「君はここまで来て、まだ泳いでないみたいだけどね」
浮き輪を掴む手に、少し力が入る。
三鶴はすぐに振り返った。
「まってまって、ひっくり返すのはなし」
「まだ何もしてないよ」
「しようとしてるよね」
「ふっ。俺は、君みたいに急に水をかけたりしないから」
「……じゃあ、その手は?」
臨也は笑った。
「君が勝手に流れていかないように、押さえてあげてるんだよ」
絶対に嘘だ。
三鶴は浮き輪へ回していた腕を外した。
彼が何かするより先に、するりと水の中へ身体を滑らせる。
「おっと」
浮き輪だけが臨也の手に残った。
三鶴は少し離れた場所で顔を出し、濡れた髪を後ろへ撫でつける。
べー、と舌を出して挑発したあと、臨也が呆れた顔をするのが見えた。
「ちゃんと泳げますから私」
「泳ぐ気がないって言ったんだよ。泳げないとは言ってない」
「細かいなぁ」
臨也の手から浮き輪を取り返そうとすると、僅かに遠ざけられた。
「返して」
「さっきのお礼は?」
「何の?」
「ずいぶん楽しそうに笑ってくれたよね」
三鶴は唇を引き結んだ。
思い出すと、また笑いそうになる。
濡れた前髪から雫を垂らして、こちらを見ていた顔。
「っ、くくっ……ごめん」
「笑ってるけど」
「だって、臨也がプールにいるの、面白くて……」
堪えきれず肩を震わせると、臨也は少し黙った。
「君、俺が何をしても面白いんじゃない?」
「今日はそうかも」
「失礼だなぁ」
そう言いながら、浮き輪が返ってくる。
三鶴が手を伸ばした瞬間、その向こうから水が飛んできた。
「ぶっ!」
顔にまともにかかり、慌てて目を閉じる。
「ちょっと!」
「急にはかけてないよ。十分待ったでしょ」
顔を拭うと、今度は臨也が笑っていた。
三鶴は浮き輪を片腕で抱え、もう片方の手を水へ沈める。
「……いいんだね?」
「君から始めたんじゃないか」
次の水をかける前に、岸から声が飛んだ。
「おい、お前ら!」
二人揃って顔を向ける。
門田が立っていた。
その後ろから、笹木と渡草もこちらを見ている。
「周りにかけんなって、さっきも言っただろ」
三鶴はそっと手を水から出した。
「……はーい」
「つか、何でお前までいるんだ」
「三鶴ちゃんに遊んでいけって誘われたからね」
「来たのは勝手にでしょ!」
すぐに訂正すると、渡草が呆れた顔をした。
「お前ら、よくここでも会うな……」
「会いたくて会ってない」
三鶴は門田へ顔を上げた。
「ね、京平。さっき、一人でうろちょろするなって言ったじゃん。あれ、当たったよ」
「……あ?」
「変なのに捕まった」
隣で臨也が笑った。
「どっちかっていうと、捕まったのは俺ね」
「自分から来た人が何言ってるの」
三鶴が呆れると、門田は二人を見比べて息を吐いた。
「まあいい。お前ら、一回上がれ。そろそろ休憩にするぞ」
「はーい」
浮き輪を抱え直し、三鶴は出口へ向かった。
臨也もついてくるので、肩越しに振り返る。
「臨也も来るの?」
「君、さっきは遊んでいけって言ったじゃないか」
「言ったけどさ。みんなの荷物、どこにあるか知ってるの?」
「知らないよ。だからついていってるんでしょ」
何とも堂々としている。
三鶴はもう聞くのをやめた。
△▽
「あれ、臨也さん?」
スライダーから戻ってきた二奈が、足を止めた。
隣の狩沢も目を丸くしてから、すぐに笑う。
「えー、来たんだ!」
「こんにちは。楽しんでる?」
「うん。臨也もめっちゃ楽しそうじゃん!」
狩沢が彼の濡れた髪を見る。
その視線に気づいた三鶴が、また笑い始めた。
「私が水かけた」
「それで、ずぶ濡れなんだ?」
「二回もかけた!」
「三鶴ちゃん、何を自慢してるの?」
臨也に言われても、口元が緩むのを止められない。
二奈はそんな姉を見て、臨也へ視線を戻した。
「誰に聞いたんですか? 今日のこと」
「さあ。誰だったかな」
「教えてくれないんだよ、さっきから」
三鶴が口を挟むと、狩沢が思い出したように手を叩いた。
「あ、たまたま会ったから、この前セルっち達に話したよ。三鶴ちゃんたちと出かけるって」
「……それだ」
三鶴は臨也を見た。
彼は否定せず、濡れた髪をかき上げる。
「楽しそうな話だったからね」
「だったら、普通に来たいって言えばいいじゃん」
「君、俺の連絡先知らないでしょ」
「……そういえば、そうだった」
「そこから?」
狩沢が吹き出した。
三鶴は肩をすくめ、浮き輪を荷物のそばへ立てかけた。
「でも臨也は二奈に聞けるじゃん。来るつもりなら、一言くらい言いなよ」
「驚かせた方が面白いだろ」
「……そーですか」
話すだけ無駄だった。
三鶴がタオルを探していると、横から声がした。
「それにしても、その水着、どうにかならなかったの?」
「え?」
臨也がこちらを見ていた。
三鶴は自分の身体へ目を落としてから、また彼を見る。
「何で? 変?」
「布、足りなかった?」
「は?」
思わず声が低くなる。
「君、痴女みたいだよ」
三鶴は一瞬、何を言われたのか分からなかった。
それから、自分の水着と臨也の顔を交互に見る。
「……はぁ!?最低!!」
「率直な感想を言っただけなんだけど」
「聞かなきゃよかった! 二奈と選んだのに!」
「ちょっと、私の趣味にも文句あるってこと?」
二奈まで口を挟むと、臨也は笑った。
「君たちが気に入ってるなら、いいんじゃないかな」
「じゃあ言わなくてよくない!?」
三鶴が言い返す。
その肩へ、不意にタオルがかかった。
「わっ」
「休憩するんでしょ。いつまで濡れたままで立ってるの?」
臨也がタオルから手を離す。
三鶴はその端を掴み、眉を寄せた。
「……言い逃げしようとしてる?」
「ずいぶん疑り深いね」
「臨也相手だからね」
二人のやり取りを見ていた二奈が、にやりと笑った。
「可愛いなら、素直に可愛いって言えばいいのに」
臨也の視線が二奈へ向く。
「別に、どう見えるかを最初に言っただけだからね。勝手に盛り上がったのは三鶴ちゃんだよ」
「痴女って言われて盛り上がる人いないでしょ!」
ばかなの!?と、三鶴はタオルを前で合わせた。
少し考えてから、臨也をじっと見る。
「……ていうか、そんなこと思いながら見てたんだ」
「何?」
「臨也のえっち……」
わざと胸元を隠して、一歩下がる。
狩沢が吹き出した。
「三鶴ちゃん、その返しはずるい!」
「だって、私、普通に遊んでただけなのに」
臨也は少し黙った。
目の前でわざとらしく警戒する三鶴と、笑っている二奈たちを見比べる。
「はぁ、言うけど、絶対俺だけが思ってるわけじゃないと思うよ、ドタチンだって同じ気持ちだろ」
「おい、やめろ巻き込むな」
門田がすぐ返した。
三鶴は臨也から門田へ顔を向ける。
「……京平も、痴女みたいだと思ってたの?」
「思ってねえよ」
「じゃあ、さっき一人でうろちょろするなって言ったのは?」
門田が黙った。
狩沢が隣で口元を押さえる。
「ドタチン、ここで黙るのはまずいって」
「アレだよ、変なやつに絡まれんなって話だよ」
三鶴は少し考えてから、臨也を指さした。
「えーん、ちゃんと絡まれた」
「だから言っただろ」
「俺を指さして、その会話を成立させないでくれる?」
臨也が笑顔で口を挟む。
三鶴はタオルを肩へ掛け直した。
「とにかく、京平はそんな失礼なこと言わないから。勝手に同じにしないでよ」
「言わないだけで、思ってることは分からないじゃないか」
「お前、本当に黙れ」
門田はそのままそそくさと逃げるように遊馬崎達の元へと行く。それを横目に見た後、三鶴は視線を臨也へと戻した。
「じゃあ、聞きかた変える。可愛い?」
すかさず聞く三鶴に、臨也が黙った。
狩沢が二奈の腕をつつき、二奈もにやにやしながら成り行きを見守っていた。
三鶴は少しだけ顎を上げる。
「自分から水着の話したんだから、感想くらい言ってよ」
臨也は三人の顔を順番に見たあと、笑った。
「随分と自信があるね。君たちが楽しそうで何よりだよ」
「逃げた!」
「逃げてない」
そう言って、彼は門田たちの方へ歩いていった。
三鶴はその背中を見送り、タオルを肩に掛け直す。
「……何しに来たんだ、まじで」
隣で二奈が笑った。
「お姉ちゃんに会いに来たんじゃない?」
「水着に文句言いに、の間違いでしょ」
三鶴がむくれると、狩沢はとうとう声を上げて笑った。
△▽
ーー新宿
「……随分、楽しんできたのね」
事務所へ戻るなりそう言われ、臨也はドアを閉める手を止めた。
「ただいまくらい言わせてくれない?」
「おかえりなさい。机の上、確認しておいて」
波江は書類から顔を上げ、もう一度彼を見た。
「焼けたわね」
臨也は自分の腕へ目を落とした。
確かに、袖から出ていたところが少し赤くなっている。
「外にいたからね」
「知ってるわ。プールでしょう?」
「そ、涼みに行ったんだけど、結局暑かったよ」
「それでも、一日いたのね」
臨也は答えず、持っていた鞄を置いた。
波江の視線が、その鞄へ移る。
「それで、三鶴さんは驚いてくれた?」
「ああ。期待以上にね」
「そう」
彼女は淡々と頷いた。
「誘われてないのに行くなんて、いい年した大人がすることじゃないんじゃない?」
「……ずいぶん棘があるね」
「事実を言っただけよ」
臨也は笑い、椅子へ腰を下ろした。
「別に、彼女たちだけの施設じゃないでしょ。俺がいつ行こうと自由じゃないか」
「ええ。わざわざ同じ日を選んで、同じプールで、知り合いを捜すのも自由ね」
「君、今日はよく喋るね」
「貴方が帰ってくるまで仕事をしていたから、口くらい動かさせてちょうだい」
机の上には、きちんと揃えられた書類が積まれていた。
臨也は一枚取った。
目を通そうとしたところで、波江が続ける。
「次は誘ってもらえるといいわね」
「来るなとは言われなかったよ」
「聞いてないわ」
「遊んでいけとは言われた」
波江の手が止まる。
顔を上げ、臨也を見た。
「……そう。よかったわね」
「何、その言い方」
「嬉しかったのね、と思っただけ」
臨也は書類へ視線を戻した。
「彼女、俺に水をかけて大笑いしてたよ。ずいぶんな歓迎だったけどね」
「じゃあ、楽しませてあげられたんじゃない?」
「俺は、見てるつもりだったんだけどなぁ」
「その格好を用意して?」
波江が鞄から覗く濡れたシャツを指した。
臨也は少し黙った。
「ま、楽しめたようで何よりだわ。あの子が今のあなたを見たら、暴れるだろうけど」
「その時はどうにかするさ」
少しひりひりする腕に、臨也は目を細め笑った。
来年は誘ってもらえるだろうか、なんて柄にもないことを思いながら。