「お姉ちゃん、それ三番テーブル」
「はいはーい」
三鶴は出来上がったラーメンを盆に載せ、厨房を出た。
昼時の古今東西は、思っていた以上に忙しい。
席が空いたと思えば次の客が入り、注文を運び終えれば、今度は食器を下げるよう声をかけられる。
「お待たせしましたー」
丼を置いて戻る途中、入口の扉が開いた。
「いらっしゃいませ!……って、静雄」
「お前、ここで働いてんのか」
「臨時ね。人手が足りなくてさ」
カウンターへ案内すると、静雄は厨房にいる二奈へ目を向けた。
袖をまくった腕には、まだ包帯が巻かれている。
「……腕、どうした」
「あー、ちょっとね!」
二奈は笑って、片手でメニューを差し出した。
「シズ先輩、いつもの?」
「おう」
三鶴は空いた器を重ねながら、その包帯を見た。
電話では、ちょっと切られただけだと言っていた。
けれど、あの日、店へ戻った三鶴を迎えたのは、床に残る血の跡だった。
△▽
――携帯が鳴ったのは、セルティと話している最中だった。
「あ、二奈だ」
三鶴は画面を確かめ、通話を繋ぐ。
「もしもーし。どうしたの?」
『……お姉ちゃん、まだ新羅さんのところ?』
「うん、いるよ。何、帰ってきてって?」
いつもなら、すぐに返事がある。
けれど、電話の向こうでは短い呼吸の音がしただけだった。
「……二奈?」
『一姫が来た』
三鶴はソファから身体を起こした。
『お姉ちゃんの居場所、聞きに来た。臨也に言われたって』
「そっか。今もいるの?」
『もう帰った。そっちに行くかもしれないから、気をつけて』
セルティがこちらへ顔を向ける。
三鶴は携帯を耳に当てたまま、膝に置いていた手を握った。
「二奈、何かされた?」
返事がない。
「……ねえ」
『腕、ちょっと切られただけ』
「切られた?」
自分の声が思ったより大きく響いた。
隣で、セルティが立ち上がる。
『大丈夫。お姉ちゃんは――』
「今から帰る。笹木さんは? 近くにいる?」
『呼べば来ると思うけど』
「じゃあ呼んで。一人で待ってないで」
三鶴は通話を切り、すぐに二奈へ短いメールを送った。
送信を確かめてから顔を上げると、セルティが画面を差し出していた。
『何があった?』
「……妹が、妹を刺した」
口にしても、うまく頭に入ってこなかった。
「ごめん。私、帰るね」
立ち上がろうとした三鶴の腕を、セルティが掴む。
続いて廊下の方を指した。
奥の部屋には、新羅がいる。
三鶴は一瞬だけ動きを止め、それから頷いた。
「……そうだね。まず、二奈の手当てだ」
一姫に何を言うかも、臨也に何を聞くかも。
今はまだ、考えられなかった。
店へ戻ると、二奈は椅子に座っていた。
そのそばには笹木が立ち、腕に当てた布を押さえている。
「……二奈」
二奈は三鶴を見るなり、困ったように笑った。
「だから、大丈夫だって」
「大丈夫かどうかは、新羅に診てもらってから」
三鶴は隣にしゃがみ、血の滲んだ布へ目を落とした。
手を伸ばしかけて、傷に触れないよう膝へ戻す。
「……ごめん」
「なんでお姉ちゃんが謝るの」
二奈の声が、少し強くなった。
「刺したのは一姫だよ。お姉ちゃんじゃない」
三鶴は何も言えなかった。
二奈もそれ以上は続けず、無事な方の手で、姉の手を握った。
△▽
「三鶴」
名前を呼ばれ、顔を上げる。
カウンターの向こうで、静雄がこちらを見ていた。
「……それ、どこに持ってくんだ」
手元を見れば、下げてきた器を載せた盆を、まだ持ったままだった。
「あ、ごめん。ちょっとぼーっとしてた」
「落とすなよ」
「落としませんよー」
三鶴は笑って厨房へ戻った。
器を流しに置くと、二奈が出来上がったラーメンを指さす。
「シズ先輩の分、お願い」
「はいはーい」
盆を持ち直し、もう一度カウンターへ向かう。
静雄の前へ丼を置いたところで、低い声がした。
「……言いたくねえなら、聞かねえけどよ」
三鶴の手が止まる。
「何かあんなら、言えよ」
厨房では、二奈が次の注文を読み上げていた。
三鶴はそちらを一度振り返り、それから静雄へ頷いた。
「……うん。ありがと」
三鶴が答えたところで、店内のテレビから聞き慣れた地名が流れた。
『池袋周辺で相次ぐ、連続通り魔事件――』
画面には、夜の街を映した映像とともに、事件が起きた場所を示す地図が表示されていた。
「あ、これ」
三鶴は顔を上げた。
昨夜、チャットでも話題になっていた事件だ。
日本刀のような刃物を持った人物に襲われたという証言。犯人はまだ捕まっておらず、夜間の一人歩きには注意するよう呼びかけている。
「物騒だねぇ」
「お前も気をつけろよ」
割り箸を割りながら静雄が言う。
「気をつけてるよ」
「夜中に酔ってふらふら歩いてた奴が言うな」
「……それは、はい」
厨房から二奈が笑った。
「シズ先輩、もっと言ってやって」
「二奈まで!」
テレビでは、街頭インタビューが続いていた。
通り魔について尋ねられた若者が、興奮した様子で別の噂を話し始める。
『池袋って、あの首なしライダーもいるじゃないですか』
三鶴は思わず静雄と顔を見合わせた。
番組はそのまま、首なしライダーの特集へ移っていく。
夜の道路を走る黒いバイク。ぶれた映像の中でも、見慣れたヘルメットだけは分かった。
「……セルティまで出てきちゃった」
三鶴は小声で呟く。
画面の下には、通り魔事件との関連を疑うような見出しが出ていた。
「いやいや、関係ないでしょ」
さっきまでの軽い調子が、少しだけ薄れる。
静雄もテレビへ目を向け、眉を寄せた。
「……適当なこと言いやがって」
三鶴はエプロンのポケットから携帯を取り出した。
セルティへのメールを開き、少し迷ってから文字を打つ。
『今、お店のテレビに出てるよ。変なこと言われてるけど、気にしないでね』
送信して顔を上げると、二奈と目が合った。
「お姉ちゃん、四番テーブル」
「あ、はい! 今行く!」
三鶴は携帯をしまい、盆を手に取った。
背後ではまだ、首なしライダーの正体を巡る憶測が流れ続けていた。