『どうも。運び屋のセルティです』
待ち合わせ場所の公園に現れた相手は、PDAに打ち込んだ文字を私へ差し出した。
私は、どう反応すればいいのだろう。
全身を黒いライダースーツで包み、個性的なヘルメットを被っている。跨がったバイクも、車体からタイヤまで漆黒だった。
ヘッドライトさえ見当たらない。
都市伝説の黒バイク。
こんなところで本人に会えるとは、思っていなかった。
最強についての取材も忘れかけるほど、好奇心が膨らんでいく。
しかし、今は目の前の仕事に集中すべきだ。
「えー……はじめまして。折原さんから、あなたがシズオさんの知り合いだと聞いて紹介していただいたのですが……」
セルティ氏は、恐ろしく速い指捌きでPDAのキーを押した。
『ああ、平和島静雄ね。うん、気の許せる友達ですよ。私にとってはね』
「はあ」
『ただ、怒らせると怖いかな』
ようやく話が繋がった。
私は逸る気持ちを抑え、取材の趣旨を説明した。
「実は、この街で喧嘩NO・1は誰なのかという企画で、色々な方にお話を伺っておりまして」
『あー、あなたのところの雑誌、そういうの好きですよね。前も暴走族ランキングとかやって、ランキング外にされた奴らから、ビルに火炎瓶とか投げられてませんでしたっけ?』
「あれは私の担当ではないので……。ともあれ、街の人の中には、あなたが最強なんじゃないかという人もいるんですが……?」
セルティ氏は一瞬黙った。
それから肩を揺らす。どうやら笑っているらしい。
『まさか! そんなこと言う人は、私のこの格好とかにビビってるだけです』
さらに少し間を置いて、文章が続く。
『私より――静雄の方がずっと強い。純粋な喧嘩であいつに勝てる奴なんて、この街にはいないんじゃないかな?』
「……そんなに、ですか?」
『ああ、あいつは強い強い。感動的なくらいヤバい。なんて言うのかな、喧嘩とか格闘技じゃなくて、生きてる世界が違うっていうか……私は、あいつが狼男とか竜人とか言われても納得するね。……あ、宇宙人はちょっと嫌だな。リトルグレイ、トラウマなんだよね』
最後の一文については、聞かなかった事にした。
会話と遜色のない速さで文章が増えていく。
静雄という友人の話をする彼女は、どこか楽しそうだった。
『格闘技をやってるとか、そういうんじゃない。どんなに鍛えた奴でも、拳銃で撃たれりゃおしまいだ。なんて言ったらいいのかな……』
少し迷ったあと、文字が大きくなった。
『そう、あいつの強さは――拳銃の強さだ。比べること事態がナンセンスなんだ』
私はその説明を書き留めた。
人間の強さを尋ねて、拳銃の話が返ってくる。
どうやら、私の考えていた比較の仕方では足りないらしい。
「その静雄さんに、普通に文句を言う女性がいると聞いたのですが」
セルティ氏の指が止まった。
「三鶴さん、という方です」
ヘルメットが僅かに傾く。
『三鶴の事も聞いて回っているのか?』
「街で名前が出たので。あなたもご存じなんですか?」
『友達だよ』
短い返事だった。
私は続けた。
「静雄さんが怒っていても、怖がらずにそばにいるそうですね」
『昔からの付き合いだからな。静雄がどういう奴か知っているんだ』
「それだけですか?」
セルティ氏は、私を見た。
顔は見えない。
それでも、今の聞き方が少し悪かった事は分かった。
「いえ……彼女自身も、強い人なのかと思いまして」
再びキーが押される。
『三鶴が静雄と一緒にいる時、喧嘩をしていたのか?』
「そういう話は、聞いていません」
『なら、友達と話していただけだろう』
私は手帳へ目を落とした。
街で聞いた話は、確かにそうだった。
静雄を叱った。笑っていた。隣に立っていた。
彼女が誰かを倒したという証言は、一つもない。
「三年ぶりに戻ってきたそうですね」
『ああ』
「それでも、すぐ以前のように付き合えるものなんですか?」
今度は、少し長く考えているようだった。
『静雄は、帰ってきて嬉しかったんだと思う』
『私もそうだから』
私は顔を上げた。
それまでの説明とは違い、強さについての言葉は何もなかった。
ただ、友人が帰ってきて嬉しいという、ひどく普通の話だった。
「折原さんも、同じ学校だったとおっしゃっていました」
『……臨也が?』
「ええ。彼女についても、よくご存じのようで」
セルティ氏は何かを打ちかけ、一度消した。
それから、新しい文章を見せる。
『三鶴に取材するなら、本人に了承を取ってくれ』
「勿論、そのつもりです」
『話したくないと言った事は、無理に聞かないでほしい』
私は頷いた。
四木氏は、彼女を店で働く女性として扱った。
寿司屋の二人は、静雄の友達だと答えた。
セルティ氏も、それ以上を話そうとはしない。
一方、折原氏は、私がいつ彼女に会うのかを知りたがっていた。
同じ女性を知る人々なのに、その反応は少しずつ違っている。
「……まだ、会ってもいないんですがね」
私が呟くと、セルティ氏は画面を差し出した。
『会えば分かるよ。よく喋る奴だから』
『ラーメンを運んでいる時は、邪魔しないようにな』
私は思わず笑った。
その後、いくつかの質問を重ね、静雄氏の職場も教えてもらう事ができた。
ひと通りの取材が済んだところで、私は気を緩めてしまった。
「あの……」
『なんですか?』
「これは取材ではなく、単なる好奇心なんですが……あなたは一体、何者なんですか? あの……よろしければ、ヘルメットの下を見せていただいてよろしいでしょうか?」
正体を暴いて通報しようというつもりではなかった。
ただ、性別や年齢くらいは知りたかったのだ。
実際に首がないなどとは、考えていなかった。
「いえ、お気に障ったら申し訳ない。ですが、どうしても気になって……」
セルティ氏は、躊躇いなくキーを押した。
『いいですよ。何者かっていうのは、ヘルメットを取れば答えが出ますから。それに――私の正体を知ったところで、雑誌の記事には書けない……いや、人に言うことすらできないと思いますから』
「は?」
意味を尋ねる前に、彼女はヘルメットへ手をかけた。
私は、その動きを見ていた。
そして――。
何を見たのか、すぐには理解できなかった。
そこにあるはずの顔がない。
目も、口も、何もない。
私は後ずさろうとして、足をもつれさせた。
尻餅をついたまま、声も出せずに相手を見上げる。
セルティ氏はヘルメットを被り直し、PDAへ文字を打った。
『大丈夫か?』
私は頷こうとした。
うまく首が動かなかった。
彼女は少し待ち、もう一度画面を向けた。
『それじゃ。静雄を怒らせないようにな』
黒いバイクが、公園を離れていく。
私は走り去るその姿を、地面に座ったまま見送った。
手品師なのだ。
きっと、何かの仕掛けがある。
そう考えようとしても、先ほど見た光景が頭から離れない。
そして、不意に思い出した。
あの集会で、ヘルメットが飛んでも逃げなかったという三鶴。
彼女は、あれを知っていたのだろうか。
私は手帳を開いた。
三鶴の名前を見つめ、何か書き足そうとして、やめた。
今の私には、書き方が分からなかった。
△▽
その後も、私は色々な人間に取材を続けた。
平和島静雄に会う前に、もう一つ、訪ねると決めていた店がある。
そこを訪ねるつもりではいたが、先に約束していた取材がいくつか残っていた。
私は手帳に店の名前を書き留めたまま、再び街へ出た
黄色いバンダナを巻いたカラーギャング。
『黄巾賊』という、そのままの名前を持つチームだ。
一度は姿を消したと思われていた彼らは、昨年の中頃から再び勢力を伸ばしているという。
数十人が同じ色を身につけて歩いていれば、それだけでも周囲への威圧になる。
四木氏によれば、粟楠会と特別な利益関係があるわけではなく、商売の邪魔をしない限りは、特に気に留めていないらしい。
私は彼らの一人に接触し、幹部を紹介してもらう事ができた。
「俺らは別にどことも揉めてませんよ。ただいるだけ……仲のいい奴同士がつるんでるだけですから。ああ、ただ――黄巾賊って名前をつけた『将軍』……俺ら、トップのことを将軍って呼ばなきゃいけないんですよ。トップの人間がそろって三国志の漫画とか好きだから……。ああすんません。話が脱線したっすね」
男は笑い、話を戻した。
「まー、ぶっちゃけると、人数なら『ダラーズ』にだって負けないって自信はありますけどね、黄巾賊の『将軍』は、絶対に手を出しちゃいけない人間が二人いるって口をすっぱくして言ってますから。一人は、『話に乗っちゃいけない』って意味で、折原臨也って奴で……」
その忠告は、少し遅かった。
「もう一人……平和島静雄っていう、バーテン服でグラサンかけた奴には絶対近づくなって……。俺も、一回だけあの静雄って奴が揉めてんの見たことあっけど、マジで化けモンだわ、ありゃー」
私は頷きながら、手帳に書き込んだ。
「その静雄さんと一緒にいる女性を、見た事はありませんか?」
「女?……ああ、髪結んでる人?」
「三鶴という名前らしいのですが」
「名前までは知らないっすけど。普通に話してんのは見ましたね」
「怖がっていなかった?」
「全然。俺らは、静雄がいるって分かったら離れるんで、そんな近くじゃ見てないっすけど」
男はそこで首を傾げた。
「その人も、何かやってるんですか?」
「いえ、それを確かめようと思っているところです」
「へえ……。まあ、あの人に何かしたら、静雄が出てきそうっすよね」
そう言って、男は笑った。
私も曖昧に笑い、手帳を閉じた。
彼女について増えたのは、またしても静雄との関係を示す話だけだった。
△▽
続いて、『ダラーズ』と呼ばれる集まりの関係者にも話を聞けた。
「うちらは別に、池袋ででかい顔したいわけじゃないから……それに、でかい顔したくても、チームカラーが無いから証拠が無いんですよね」
どうやら、『最強』という言葉には、あまり興味がないらしい。
早々に取材を切り上げようとすると、相手は思い出したように声を上げた。
「あ、ただ! 一個だけ、でかい顔できますよ! うちのダラーズ、静雄さんっていう鬼みてぇに強い人がいて! サイモンとか臨也さんとか、あの黒バイクだってダラーズの仲間なんですよ! マジで! 凄いっしょ!?」
私は笑おうとして、うまく笑えなかった。
サイモン。臨也。黒バイク。そして静雄。
取材を通して知った人物が、また別のところで繋がった。
否定する材料もないが、積極的に確かめたい気持ちも起こらない。
私は礼を言い、その場を離れた。
△▽
雑誌社の伝手で、自称・警察関係者にも話を聞く事ができた。
現職の警察官ではないらしい。
何の関係者なのか尋ねても、機密だと言って答えてくれなかった。
「最近の池袋の子供達は本当に問題児ばかりでね……ダラーズだの黄巾賊だの……どうにもこうにもなりませんよ。おまけに最近じゃ斬り裂き魔だの黒バイクだの……まあ、臨也が池袋にいたころよりはましか……」
愚痴はしばらく続いた。
私は相槌を打ちながら、話が途切れたところで質問を差し込む。
「一番の問題児……ですか? 斬り裂き魔とかは除いて?」
「うーん……犯罪という面じゃ、そりゃダントツに折原臨也でしょう。ですが――一番手を焼いたのは、平和島静雄ですかね」
既に折原氏には会ったと伝えると、男は話が早いとばかりに、静雄の話を始めた。
「一度、その折原臨也を警察が追ってた時期がありましてね……共犯者として静雄の名前があがったんです。まあ、お恥ずかしい話……当時の担当者が嵌められたんですよ。冤罪で」
男は声を落とした。
「それでも当時未成年だった奴を連行しようって事になって……結局冤罪は証明されたんですが、結果として公務執行妨害と器物破損でしょっぴかれたらしいですな」
「器物破損?」
「私も大げさな話だと思うんですけどね……抵抗に抵抗を重ねるうちに、何を壊したと思います?」
「さあ……自転車とか、パトカーのガラスを割ったとかですか?」
「自動販売機ですよ」
私はペンを止めた。
街でも聞いた話だ。
だが、自動販売機を壊したというだけなら、まだ想像できる。バットを持った不良なら、それくらいの事はするだろう。
次の言葉で、その想像は崩れた。
「投げたんですよ」
「は?」
「自動販売機を――ぶん投げたんですよ。パトカーに向かって!」
私は、しばらく何も書けなかった。
△▽
取材を重ねるほど、静雄の話は大きくなる。
自動販売機を投げる。近づくなと言われる。拳銃と比べる事さえ無意味だと語られる。
私は手帳を開き、何度も出てきたその名前を眺めた。
そして、その下にある、もう一つの名前へ目を移す。
三鶴。
彼女について聞いた話は、拍子抜けするほど普通だった。
帰ってきた。妹の店を手伝っている。昔の友達と笑っている。
静雄の話が誇張なのか。
それとも、彼女から見れば、自動販売機を投げる男も普通の友達なのか。
私は手帳を閉じた。
三鶴という女性にも、話を聞いてみたい。
だが、ここまで来て、肝心の平和島静雄に会わずに済ませるわけにはいかなかった。
古今東西を訪ねるのは、そのあとにしよう。
______
実に面白い。
街で『池袋で一番強い人間は?』と尋ねた時には、それぞれ違う答えが返ってきた。
しかし、候補に挙げられた人物たちに同じ問いを向けると、誰もが同じ男の名前を口にする。
平和島静雄。
話を全て真実とするならば、これほど名前負けしている人物も少ないだろう。
その振る舞いは、『平和』とも『静か』とも程遠い。
そして、彼について知る人々は、揃って私に忠告した。
怒らせるな。
関わりたくない。
近づくな。
それなのに、その男の隣で平然と笑う女がいる。
三鶴という女性について聞いた話も、頭の隅に残っていた。
彼女は何を知っていて、そんなふうに接する事ができるのだろう。
本人に会えば、少しは分かるかもしれない。
私は教えられた職場を訪ね、小さなビルの前に立っていた。
看板もなく、何の会社が入っているのかは分からない。
「おっさんかい、静雄に会いてえってのは」
ビルから一人の男が現れた。
日焼けした肌にドレッドヘアー。服装は街でよく見かけるものだったが、顔だけならホストにも見える。
「あいつなら、上にいるから呼べば来るけどよ……。ぜってー怒らせんなよ」
「はあ……」
男は田中トムと名乗った。
静雄の現在の仕事の上司らしく、話を聞くと、出会い系サイトの料金を取り立てているという。
普段なら、そちらにも興味を持っただろう。
しかし、今は静雄について知りたかった。
「いいか、ぜってー怒らせるなよ。マジでうぜー事になっから」
トム氏は、念を押すように繰り返した。
「一つ忠告しとくけどな……喋るな。最初に聞きたい事だけ言って、あとは静雄の話を馬鹿みたいな面して聞いてりゃいい。それで最後に『ありがとうございました』って言えば、さすがにあいつが怒ることもねえだろうしな」
喋らなければ、取材にならない。
そう言い返したかったが、目の前の男も十分に喧嘩が強そうだった。
私は頷き、彼がビルへ戻るのを見送った。
今から会うのは、池袋で最も喧嘩が強いと言われる男だ。
だが、それで金や名声を得ているわけではない。格闘家でもなく、ただ料金の取り立てを仕事にしている。
私の中の好奇心が、心臓を強く打ち鳴らしていた。
「どうも……平和島ですけど」
いつの間にか、目の前に青年が立っていた。
金髪にバーテン服。
高級そうなサングラスの奥にある顔は、思っていたよりずっとおとなしく見えた。
「平和島……静雄さん?」
青年は無表情のまま頷いた
これが?
この男が――池袋最強?
私は、目の前の青年をもう一度見た。
頭の中で勝手に作り上げていた人物とは、あまりにも違っていた。もっと身体が大きく、見るからに凶暴で、近寄るだけでこちらの足が竦むような男を想像していたのだ。
だが、そこに立っているのは、細身の青年だった。
サングラスとバーテン服には多少の違和感がある。しかし、それを取り払えば、街ですれ違っても振り返らないかもしれない。
自動販売機を投げる?
この男が?
私は、ここまで集めた話を思い返した。
四木氏。寿司屋の二人。折原臨也。黒いライダー。街の若者達。そして、警察関係者。
誰か一人が話を盛ったのならともかく、偶然声をかけた人間まで同じ名前を口にしていた。全員が示し合わせて私を騙している、というのは無理がある。
では、目の前の青年は、実力を隠しているのだろうか。
いや――そういう感じでもない。
私を値踏みしている様子も、こちらの出方を窺っている様子もなかった。ただ、呼ばれたから降りてきた。それだけに見える。
そんな男を、私は既に何人もの人間から「関わりたくない」と評されている。
そして、その一方で。
彼と平然と食事をし、何年も友人であり続けている女性がいるという。
三鶴という、その女性も。
実際に会ってみれば、案外こんなふうに、拍子抜けするほど普通なのかもしれない。
私は浮かびかけた別の疑問を追い払い、まず目の前の取材に集中することにした。
「ええと……あのですね、静雄さんに二、三伺いたい事がありまして……」
「はあ」
気の抜けた返事だった。
最初は喫茶店にでも移動しようと思っていたが、今はもう、そのような気遣いをする余裕もない。
私は手帳を開いた。
「街の噂を色々と耳にしたんですが……静雄さんは……喧嘩とか揉め事には、よく関わられるんですか?」
「いえ……?」
青年は、不思議そうな顔をした。
なぜそんなことを聞かれるのか、心から解らないといった表情だった。
「本当ですか?」
「……暴力とか、そういうの嫌いっすから」
私は、手帳を持ったまま一瞬動きを止めた。
暴力が嫌い。
それ自体は、別におかしな発言ではない。
しかし、これまで聞いてきた数々の話と並べると、どうにも落ち着きが悪かった。
自動販売機を投げた男が、暴力を嫌っている。
ならば、投げたという話が嘘なのか。それとも、嫌いであることと、実際に暴力を振るうことは、彼の中では矛盾しないのか。
私の中にあった期待が、少しずつ萎んでいく。
目の前の青年は、それを気にする様子もなく、静かに立っていた。
「最近の街をどう思います?」
「別に……いい街だと思いますよ」
これも、あっさりした答えだった。
私は相槌を打ち、次の質問へ移ろうとした。
その時、青年が少しだけ視線を外した。
「……最近、友達も戻ってきたし」
「お友達、ですか?」
青年は頷いた。
「しばらく、こっちにいなかったんで」
そこで、私の頭に一つの名前が浮かんだ。
寿司屋でも、黒いライダーとの会話でも聞いた名前。
三鶴。
確か、彼女についても、最近帰ってきたという話を聞いている。
私は、その名前を口にしかけた。
だが、青年の表情を見て、いったん飲み込んだ。
ほんの僅かではあるが、先ほどまでの受け答えとは違っていた。
何かを誇っているわけではない。楽しそうに笑っているわけでもない。
ただ、友達が帰ってきた。
それを、この街を良いと思う理由の一つとして、ごく自然に口にしている。
私は手帳の片隅に、小さく印をつけた。
その女性には、本人から話を聞けばいい。
まずは、最後の質問だ。
「あの、噂の『黒バイク』とは知り合いだそうですが?」
「ああ……セルティはいい奴ですよ」
私は、顔を上げた。
セルティ。
確かに、あの黒いライダーが名乗っていた名前だ。
少なくとも、人違いではない。黒いライダーが池袋で一番強いと言っていた人物は、間違いなく目の前の青年なのだ。
ならば、もう少し詳しく聞けるはずだ。
彼が何を見て、どうしてそこまで評価されているのか。
私は次の言葉を探した。
しかし、その前に、青年がくるりと踵を返した。
「ちょ、ちょっと、どこに……」
「……もう、質問終わりでしょう?」
「は?」
思わず、間の抜けた声が出た。
青年は、ビルへ戻ろうとした姿勢のまま、こちらを振り返る。
「最初、『二、三質問がある』って言ったじゃないですか……。もう、三つ質問は終わりましたし、俺の方からは何も言うこと無いですから」
私は、返す言葉を見つけられなかった。
一つ目。喧嘩や揉め事について。
二つ目。最近の街について。
三つ目。黒いライダーとの関係について。
確かに、三つだ。
だが、普通はそういう意味ではないだろう。
私は、目の前の青年を見た。
彼は、冗談を言っている様子ではなかった。本当に、頼まれた三つの質問に答えたから、もう用事は終わったと思っているらしい。
あの女性も、こうした受け答えに付き合っているのだろうか。
何年も友人でいるなら、この男との話し方を知っているはずだ。
そう考えたところで、私は少し苛立った。
結局、私はここまで来て、何も掴めていない。
「いい街だと思う」と「友達が戻ってきた」では、池袋最強の取材になどならない。
このまま帰られては困る。
私は、歩き出しかけた青年を呼び止めた。
「ちょっと。じゃあ、あと一つだけお願いしますよ」
青年の足が止まった。
私は、その背中に向かって言葉を続けた。
「前に警察と揉めた時、自販機を投げたって噂があるんだけどさ……ぶっちゃけた話、それは嘘でしょう?」
「……」
返事はなかった。
青年が、ゆっくりとこちらを振り返った。
私はそれを、話を続けてもよいという合図だと受け取った。
その時には、トム氏から何度も念を押された言葉も、私の頭から殆ど抜け落ちていた。
怒らせるな。
喋るな。
最後に、ありがとうございましたと言え。
それだけの忠告を、私は聞いていたはずだった。
それでも、口は止まらなかった。
「結局あんたは臨也にはめられて――」
飛んでいる。
何が?
私が。
そう理解するまでに、妙に長い時間がかかった。
平和島静雄が振り返った。腕が動いた。その直後、足の裏から地面の感触が消えた。
それだけの出来事を、私の頭はなかなか一つに繋げられなかった。
視界の中で、青年が遠ざかる。
いや、彼だけではない。
ビルも、道路も、そこに立っていたはずの自分の影さえも、私から離れていく。
景色がゆっくりと流れているように見えた。
そのせいで、私はまだ、起こったことを他人事のように眺めていた。
認めたくなかったのだと思う。
あの細い腕に触れられただけで、大人一人の身体が宙に浮いたなどと。
次の瞬間、背中に衝撃が走った。
「……ッ! あっ……が……!」
息が止まった。
声を出そうとしても、喉からは潰れたような音しか出てこない。
地面に叩きつけられた。
その事実が、ようやく身体の痛みと結びついた。
背中が痛い。首が痛い。胸の奥が痺れている。
だが、地面にぶつかった痛みよりも、その前に受けた衝撃の方が、はっきりと身体に残っていた。
喉元を、青年の腕が捉えた。
そして、そのまま、私は飛ばされたのだ。
ラリアット。
以前、スポーツ面の記者に同行して、プロレスラーの取材をしたことがある。軽く技を受けてみないかと言われ、なるべく痛くなさそうなものを選んだ。
あの時も、私は簡単に倒された。
だが、今の衝撃は、それとはまるで違った。
力の強い人間に押し倒された、という程度ではない。
動いている何かに、身体ごと攫われたような感覚だった。
それを行ったのが、つい先ほどまで目の前で気の抜けた返事をしていた青年なのだ。
私は、必死に呼吸を整えようとした。
目が霞む。
輪郭の定まらない視界の中で、影が近づいてきた。
「俺が立ち去ろうとしたのは」
静かな声だった。
その静かさが、今は恐ろしかった。
私は顔を上げようとした。しかし、首を動かしただけで痛みが走り、まともに相手を見ることもできない。
「あんたがつまんなそうに質問すっから、ちょっと俺、キレそうになったんだよなあ」
言葉の意味が、遅れて頭に入ってきた。
つまらなそうに。
私は、そんな顔をしていたのか。
していたのだろう。
期待外れだと、思っていた。
この男なら、私でも勝てそうだと。
それが顔に出ていたことを、私は今になって理解した。
「だから、あんたを殺しちまわないように、とっとと場所を後にしてたんだよ」
私は、息を呑んだ。
殺す。
青年は、その言葉を、何か特別なものとして口にしたわけではなかった。
こちらを脅して反応を楽しむ様子もない。
ただ、自分が立ち去ろうとした理由を説明している。
それが、何より恐ろしかった。
ようやく視界が戻り始め、私は目の前の男を見た。
同じ男だった。
顔の形も、髪も、服装も、何一つ変わっていない。
なのに、先ほどは無理に外見を飾っているようにしか見えなかったサングラスが、今は不思議なほど似合っていた。
私はもう、その下にある目を見たいとは思わなかった。
襟首を掴まれた。
「……誰が寝てていいっつった?」
身体が持ち上がった。
足に力を入れるより先に、私は立たされていた。
彼にとっては、倒れた荷物を起こすのと大して変わらない動作なのだろうか。
そんなことを考えた途端、全身が震え始めた。
怖い。
先ほどまで、この男に何も感じていなかった自分が怖い。
弱そうだと思った。
話がつまらないと思った。
もう少し挑発すれば、面白い反応が引き出せると思った。
何をしていたのだ、私は。
トム氏の忠告が、頭の中で何度も繰り返される。
怒らせるな。
喋るな。
ありがとうございましたと言って、帰れ。
全部、聞いていた。
聞いていたのに、私は従わなかった。
「俺をわざと怒らせようとしてたんだろ……ああ? 俺だって馬鹿じゃねえんだ。そんぐらいは解る」
言い訳をしようとした。
違う、と。
いや、違わない。
少しだけなら、確かにそうだった。
何かを引き出そうとしていた。
だが、口を開いても、言葉が出てこなかった。
「だけど。それが解ってたからって、怒らないわけじゃあねえんだ……」
私は、目の前の男を見ていた。
この男と、一緒に食事をする人間がいる。
何年も友人でいる人間がいる。
彼が「戻ってきた」と、何でもないことのように話した女性。
三鶴。
その名前が頭に浮かんだ。
今なら、彼女について、聞きたかったことがある。
どうして怖くないのか。
どうすれば、この男の隣で普通に座っていられるのか。
けれど、尋ねることなどできなかった。
彼女の名前を口にしたところで、何が起こるか解らない。
私は、自分の口が勝手に何かを言わないよう、歯を食いしばった。
「挑発にのって怒ったら負け? ああ、負けでいい。負けでいいさ。この勝負、負けても俺はなんにも損はしねえからなあ? それに俺に勝ったお前をこれから殺すしな……」
その言葉を聞いた時だった。
「ああああああああああああああああ――ッ!」
叫び声が、路地に響いた。
私ではない。
私は、声も出せずに震えていた。
叫んでいたのは、平和島静雄だった。
それまでの静かな声が嘘のように、怒声が目の前で弾ける。
「あああッ! 暴力は嫌いだって言っただろうがッ! ああ? 俺に暴力を使わせやがって! てめえ何様だ? 何様のつもりだ? 神か、神気取りか? ああ?」
そんな理不尽な。
そう思った瞬間、私は再び宙に浮いていた。
今度は、何をされたのかが解った。
投げられたのだ。
技でも、駆け引きでもない。
平和島静雄は、私という人間の身体を、ただ前方へ放り投げた。
幼い子供を抱え上げるように。
それよりも、もっと無造作に。
私は、彼よりも重いかもしれない。
大人の男一人の体重がある。
その重さが、今は何の役にも立っていなかった。
地面が、遠い。
景色が、横へ流れていく。
なぜ。
なぜ私は、ほとんど水平に飛んでいるのだ。
そして――。
この男が暴力を嫌っているという言葉まで、嘘ではなかったのかもしれない。
そんなことを理解しかけた頭に、次の衝撃が迫っていた。