地面が近づいた。
受け身を取る余裕などなかった。
身体がアスファルトにぶつかり、そのまま転がる。どこを打ったのか、もう一つずつ確かめることもできない。
ようやく止まった時、私はうつ伏せになっていた。
生きている。
少なくとも、まだ。
投げられた瞬間には遠のいていた恐怖が、身体が止まると同時に戻ってきた。
また、あの男が近づいてくる。
今度こそ、殺されるかもしれない。
起きなければ。
逃げなければ。
そう思っているのに、手足が動かなかった。
「おーい。静雄」
声がした。
聞き覚えのある声だった。
「……なんすか、トムさん」
静雄の返事が聞こえる。
私は顔を上げようとしたが、少し首を動かしただけで、痛みに息が詰まった。
「いや、お前がさっき入れてったカップ麺、そろそろ三分経つぞ」
「……まじすか」
足音が遠ざかった。
私は、地面に伏せたまま耳を澄ませた。
追いかけてくる気配はない。
怒声もない。
先ほどまで私を投げていた男は、カップ麺が出来上がるからという理由で、ビルへ戻っていったらしい。
三分。
私は、時間の感覚を失っていた。
あの青年が降りてきてから、まだそれほどしか経っていなかったのか。
私の中では、ずっと長い時間が過ぎていた。
質問をして、失望して、挑発して、飛ばされて。
その間に、彼の昼食が出来上がった。
私は、アスファルトに頬をつけたまま、浅い呼吸を繰り返した。
助かった。
理由など、今はどうでもよかった。
少しして、別の足音が近づいてきた。
「あーあー。だから怒らすなっつったべ?」
トム氏だった。
彼は、倒れている私を見下ろしているらしい。
「まあ、あいつは沸点も低いけど冷めるのも早いからよ。助かったな、おっさん。これに懲りたら、あいつを警察に訴えようとかすんなよ?」
私は、頷いた。
少なくとも、頷こうとはした。
そんなことを考える余裕など、今の私にはなかった。
トム氏はそれ以上何も言わず、ビルの方へ戻っていった。
私は一人、道路に取り残された。
しばらくして、どうにか仰向けになる。
空が見えた。
立ち上がれない。
身体のあちこちに痛みが残っている。
それでも、先ほどまでとは違っていた。
もう、あの男が目の前にいない。
それだけで、私は息を吸うことができた。
私は今まで、取材の中で危険な目に遭ったことが何度もある。
囲まれたことも、脅されたこともあった。
そうした時の恐怖は、少しずつ身体の内側に染み込んでくるものだった。相手の言葉を聞き、逃げ道を探し、どうすれば無事に帰れるかを考える。
しかし、今回は違った。
何かを考えるより先に、身体が飛んでいた。
私が相手をどう見ていようと、何を言おうとしていようと、それとは無関係に。
細身の男が、大人一人を投げ飛ばした。
私は、その事実を身体で知ってしまった。
凄い。
本当に、凄い。
疑った自分が、どうしようもなく間抜けに思えた。
そして――。
その間抜けさのお陰で、私はようやく、自分が探していたものに触れたのかもしれない。
私は、何のために記者になったのだろう。
誰かが既に知っている話を、当たり障りのない言葉で書き直すためだったか。
違う。
自分の目で見たかった。
自分で確かめたかった。
そして、まだ知らない人間に、それを伝えたかった。
結婚して、娘が生まれて。
いつからか、その気持ちよりも、無事に取材を終えることを優先するようになっていた。
それは当然のことだった。
帰る場所があり、守らなければならない生活がある。
しかし、今、私の頭の中には、新しい文章が次々と浮かんでいた。
あの男の力を、どう書けば伝えられるだろう。
私が味わった恐怖を、どうすれば、読者にも感じさせられるだろう。
噂を並べるだけでは足りない。
平和島静雄。
あの男について、もっと知りたい。
私は、痛む腕を動かした。
少し離れた場所に、手帳が落ちていた。
這うようにして手を伸ばし、拾い上げる。表紙が擦れ、開いたページの端に砂が挟まっていた。
そこには、取材の途中で書き込んだ名前がある。
三鶴。
私は、その文字を見つめた。
高校時代からの友人。
最近、この街に戻ってきた女性。
平和島静雄と、一緒に食事をする人間。
それまでは、彼女自身も強いのではないかと、そんな単純な興味を抱いていた。
だが、今は違う。
あの男が、友達が帰ってきたと話した時の顔。
そして、つい先ほど、私を見下ろしていた時の顔。
同じ男だった。
その二つが、私の中ではまだ繋がらない。
彼女なら、知っているのだろうか。
私が数分で怒らせた男と、何年も友人でいられる理由を。
どういう時に笑い、何を嫌い、普段はどんなふうに過ごしているのかを。
調べたい。
力だけではない。
あの男が、どのような人間なのか。
彼の過去も、暮らしも、交友関係も。
私が今日目にしたものを、もっと確かな記事にするために。
そう考えるうちに、私はどうにか身体を起こしていた。
立ち上がると、膝が震えた。
背中が痛む。
それでも、手帳を握る指には力が入った。
まずは、身体を落ち着かせよう。
それから、あの店へ。
私は手帳を閉じた。
表紙についた砂を払いながら、頭の中では既に、最初に何を尋ねるかを考えていた。
△▽
辿り着いた頃には、店の前に出ていた列はなくなっていた。
"古今東西"
看板の文字を確かめ、私は入口へ手を伸ばす。
歩いている間は、まだ何とかなった。
しかし、立ち止まると、身体のあちこちが痛みを訴え始めた。扉を引く動作だけで背中に響き、思わず顔を顰める。
「いらっしゃいませー!」
明るい声がした。
湯気と、スープの匂い。
カウンターの向こうでは、数人の客が食事をしていた。厨房から器の触れ合う音が聞こえる。
どこにでもある、飲食店の光景だった。
少なくとも、入口に立った時の私には、そう見えた。
「お一人ですか? こちらのお席――」
こちらへ歩いてきた女性が、途中で言葉を止めた。
髪を後ろで結び、エプロンをつけている。
彼女の視線が、私の顔から肩へ、そして手元へと移った。
「……大丈夫ですか?」
「ええ。少し、お話を伺いたくて」
「お話?」
「こちらに、三鶴さんという方がいらっしゃると聞いたのですが」
「あ、私ですけど……」
私は、顔を上げた。
この女性が。
平和島静雄の友人。
私を見ている目に、警戒よりも戸惑いが浮かんでいる。
私は内ポケットへ手を入れ、名刺を取り出した。指先が震え、うまく一枚だけを摘まめない。
「私、東京災時記の――」
「え、待ってください。手、擦りむいてますよ」
名刺より先に、彼女の視線が私の指に向いた。
見れば、手の甲に赤い擦り傷ができていた。乾きかけた血に、細かな砂が張りついている。
「それに、服も……転んだんですか?にしてはボロボロすぎるけど…」
「まあ、そういうようなもので」
「頭は打ってないですか?」
「いえ、それよりも、取材で」
「取材は後で。まず座れます?」
彼女はすぐ近くの椅子を引いた。
私は断ろうとしたが、膝が痛み、結局そのまま腰を下ろした。
背もたれに触れた瞬間、息が詰まる。
それを見て、彼女の表情が変わった。
「……病院、行った方がいいんじゃないですか?」
「大丈夫です」
そう答えながらも、自分の声には説得力がないと解った。
三鶴は、私を少し見てから、厨房へ顔を向けた。
「二奈、お水と、救急箱ある?」
「あるけど……どうしたの?」
「怪我してるお客さん」
厨房から顔を出した女性が、私を見た。
そして、手元を確かめるように視線を落とした。
「……先に手、洗った方がいいね」
「だよね。すみません、立てます? こっちです」
話をする間もなく、私は店の隅の洗面台へ案内された。
蛇口から出た水が、傷に沁みる。
思わず手を引くと、三鶴が水の勢いを弱めた。
「ゆっくりでいいです。砂、残ってるので」
私は、自分の手を洗いながら彼女を見た。
普通の女性だった。
怪我をした客が来たから、水を出し、椅子を引き、傷を洗わせている。
それ以上のことは、何もしていない。
なのに、私にはそれが不思議だった。
あの男を知っている人間が、こんなふうに、ごく当たり前の顔で暮らしている。
席へ戻ると、彼女は水の入ったコップと、清潔なガーゼを置いた。
「何があったんですか?」
私は、ようやく名刺を差し出した。
「池袋で一番強い人間について、取材をしていまして」
「……一番?」
「平和島静雄さんに、お話を伺ってきたんです」
三鶴の手が止まった。
彼女は私の顔を見て、それから、服についた汚れを見た。
「その怪我って……」
「ええ」
彼女が、ゆっくりと息を吐いた。
隣で救急箱を開いていた二奈も、何とも言えない顔をしている。
「……静雄を怒らせたんですか?」
その聞き方に、私は少し引っかかった。殴られたのか、ではない。
怒らせたのか。
「多少、踏み込んだ質問をしまして」
「どんな?」
「自動販売機を投げたという話について。それと、折原臨也氏の――」
「ああ」
三鶴は、額に手を当てた。
解ってしまった、という顔だった。
私は身を乗り出した。
「やはり、その二人の関係には何か――」
「今、そんな勢いで動かない方がいいですよ」
私は、また椅子に座り直した。
三鶴はガーゼをこちらへ寄せる。
「私に聞きたいのって、静雄のことですか?」
「はい。高校時代からのご友人だと伺いました」
「そうですけど」
「彼は、昔からああいう力を?」
三鶴は、すぐには答えなかった。
私の手元を見ている。
私はその沈黙に、続きを期待した。
しかし、彼女が口にしたのは、別の質問だった。
「静雄、取材していいって言ってました?」
「質問には答えてくれました」
「……何を聞いてもいいって?」
私は、黙った。
彼女は私の返事を待っていたが、やがて少し眉を下げた。
「静雄、嫌になったら帰ろうとしませんでした?」
した。
私は、それを引き止めた。
答えずにいると、彼女は小さく頷いた。
「なら、そこで終わりにしてあげてほしかったな」
声は穏やかだった。
だが、曖昧に笑って流してくれる様子ではなかった。
「……怪我をさせていいとは思わないですよ。そこは、静雄が悪い」
彼女は、私の傷を見た。
「でも、嫌だって言ってるのを追いかけて、挑発したりするのはやめた方が良かったね」
私は、手帳へ伸ばしかけた手を止めた。
この女性は、彼を怖がっていない。
だからといって、何をしても肯定するわけでもないらしい。
私が今日話した人間達は、平和島静雄を怪物のように語っていた。
だが、目の前の女性は、困った友人について話している。
「あなたは……彼が怖くないんですか?」
三鶴が、私を見た。
少し考えてから、答える。
「怒鳴られたら、びっくりしますけど」
「それだけですか?」
「物が飛んできたら危ないから嫌ですよ」
「では、なぜ友人でいられるんです?」
彼女は、今度こそ不思議そうな顔をした。
「……友達だから?」
私は、返事ができなかった。
彼女にも、私の質問の意味が十分には伝わっていないようだった。
厨房から、二奈が声をかける。
「お姉ちゃん。お客さん、顔色悪いよ」
「あ、うん」
三鶴の視線が、すぐに私へ戻った。
「すみません。長く話させちゃって。やっぱり、先に病院行きませんか?」
私は、開こうとしていた手帳を見下ろした。
聞きたいことは増えている。
しかし、この店に入ってから、私はまだ、一行も書けていなかった。