三羽の鶴は二度、羽ばたかない。   作:小池蒼司

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4.池袋最強とは3

 地面が近づいた。

 

 受け身を取る余裕などなかった。

 

 身体がアスファルトにぶつかり、そのまま転がる。どこを打ったのか、もう一つずつ確かめることもできない。

 

 ようやく止まった時、私はうつ伏せになっていた。

 

 生きている。

 

 少なくとも、まだ。

 

 投げられた瞬間には遠のいていた恐怖が、身体が止まると同時に戻ってきた。

 

 また、あの男が近づいてくる。

 

 今度こそ、殺されるかもしれない。

 

 起きなければ。

 

 逃げなければ。

 

 そう思っているのに、手足が動かなかった。

 

「おーい。静雄」

 

 声がした。

 

 聞き覚えのある声だった。

 

「……なんすか、トムさん」

 

 静雄の返事が聞こえる。

 

 私は顔を上げようとしたが、少し首を動かしただけで、痛みに息が詰まった。

 

「いや、お前がさっき入れてったカップ麺、そろそろ三分経つぞ」

 

「……まじすか」

 

 足音が遠ざかった。

 

 私は、地面に伏せたまま耳を澄ませた。

 

 追いかけてくる気配はない。

 

 怒声もない。

 

 先ほどまで私を投げていた男は、カップ麺が出来上がるからという理由で、ビルへ戻っていったらしい。

 

 三分。

 

 私は、時間の感覚を失っていた。

 

 あの青年が降りてきてから、まだそれほどしか経っていなかったのか。

 

 私の中では、ずっと長い時間が過ぎていた。

 

 質問をして、失望して、挑発して、飛ばされて。

 

 その間に、彼の昼食が出来上がった。

 

 私は、アスファルトに頬をつけたまま、浅い呼吸を繰り返した。

 

 助かった。

 

 理由など、今はどうでもよかった。

 

 少しして、別の足音が近づいてきた。

 

「あーあー。だから怒らすなっつったべ?」

 

 トム氏だった。

 

 彼は、倒れている私を見下ろしているらしい。

 

「まあ、あいつは沸点も低いけど冷めるのも早いからよ。助かったな、おっさん。これに懲りたら、あいつを警察に訴えようとかすんなよ?」

 

 私は、頷いた。

 

 少なくとも、頷こうとはした。

 

 そんなことを考える余裕など、今の私にはなかった。

 

 トム氏はそれ以上何も言わず、ビルの方へ戻っていった。

 

 私は一人、道路に取り残された。

 

 しばらくして、どうにか仰向けになる。

 

 空が見えた。

 

 立ち上がれない。

 

 身体のあちこちに痛みが残っている。

 

 それでも、先ほどまでとは違っていた。

 

 もう、あの男が目の前にいない。

 

 それだけで、私は息を吸うことができた。

 

 私は今まで、取材の中で危険な目に遭ったことが何度もある。

 

 囲まれたことも、脅されたこともあった。

 

 そうした時の恐怖は、少しずつ身体の内側に染み込んでくるものだった。相手の言葉を聞き、逃げ道を探し、どうすれば無事に帰れるかを考える。

 

 しかし、今回は違った。

 

 何かを考えるより先に、身体が飛んでいた。

 

 私が相手をどう見ていようと、何を言おうとしていようと、それとは無関係に。

 

 細身の男が、大人一人を投げ飛ばした。

 

 私は、その事実を身体で知ってしまった。

 

 凄い。

 

 本当に、凄い。

 

 疑った自分が、どうしようもなく間抜けに思えた。

 

 そして――。

 

 その間抜けさのお陰で、私はようやく、自分が探していたものに触れたのかもしれない。

 

 私は、何のために記者になったのだろう。

 

 誰かが既に知っている話を、当たり障りのない言葉で書き直すためだったか。

 

 違う。

 

 自分の目で見たかった。

 

 自分で確かめたかった。

 

 そして、まだ知らない人間に、それを伝えたかった。

 

 結婚して、娘が生まれて。

 

 いつからか、その気持ちよりも、無事に取材を終えることを優先するようになっていた。

 

 それは当然のことだった。

 

 帰る場所があり、守らなければならない生活がある。

 

 しかし、今、私の頭の中には、新しい文章が次々と浮かんでいた。

 

 あの男の力を、どう書けば伝えられるだろう。

 

 私が味わった恐怖を、どうすれば、読者にも感じさせられるだろう。

 

 噂を並べるだけでは足りない。

 

 平和島静雄。

 

 あの男について、もっと知りたい。

 

 私は、痛む腕を動かした。

 

 少し離れた場所に、手帳が落ちていた。

 

 這うようにして手を伸ばし、拾い上げる。表紙が擦れ、開いたページの端に砂が挟まっていた。

 

 そこには、取材の途中で書き込んだ名前がある。

 

 三鶴。

 

 私は、その文字を見つめた。

 

 高校時代からの友人。

 

 最近、この街に戻ってきた女性。

 

 平和島静雄と、一緒に食事をする人間。

 

 それまでは、彼女自身も強いのではないかと、そんな単純な興味を抱いていた。

 

 だが、今は違う。

 

 あの男が、友達が帰ってきたと話した時の顔。

 

 そして、つい先ほど、私を見下ろしていた時の顔。

 

 同じ男だった。

 

 その二つが、私の中ではまだ繋がらない。

 

 彼女なら、知っているのだろうか。

 

 私が数分で怒らせた男と、何年も友人でいられる理由を。

 

 どういう時に笑い、何を嫌い、普段はどんなふうに過ごしているのかを。

 

 調べたい。

 

 力だけではない。

 

 あの男が、どのような人間なのか。

 

 彼の過去も、暮らしも、交友関係も。

 

 私が今日目にしたものを、もっと確かな記事にするために。

 

 そう考えるうちに、私はどうにか身体を起こしていた。

 

 立ち上がると、膝が震えた。

 

 背中が痛む。

 

 それでも、手帳を握る指には力が入った。

 

 まずは、身体を落ち着かせよう。

 

 それから、あの店へ。

 

 私は手帳を閉じた。

 

 表紙についた砂を払いながら、頭の中では既に、最初に何を尋ねるかを考えていた。

 

 

△▽

 

 

辿り着いた頃には、店の前に出ていた列はなくなっていた。

 

 "古今東西"

 

 看板の文字を確かめ、私は入口へ手を伸ばす。

 

 歩いている間は、まだ何とかなった。

 しかし、立ち止まると、身体のあちこちが痛みを訴え始めた。扉を引く動作だけで背中に響き、思わず顔を顰める。

 

「いらっしゃいませー!」

 

 明るい声がした。

 湯気と、スープの匂い。

 

 カウンターの向こうでは、数人の客が食事をしていた。厨房から器の触れ合う音が聞こえる。

 

 どこにでもある、飲食店の光景だった。

 少なくとも、入口に立った時の私には、そう見えた。

 

「お一人ですか? こちらのお席――」

 

 こちらへ歩いてきた女性が、途中で言葉を止めた。

 髪を後ろで結び、エプロンをつけている。

 彼女の視線が、私の顔から肩へ、そして手元へと移った。

 

「……大丈夫ですか?」

「ええ。少し、お話を伺いたくて」

「お話?」

「こちらに、三鶴さんという方がいらっしゃると聞いたのですが」

「あ、私ですけど……」

 

 私は、顔を上げた。

 

 この女性が。

 平和島静雄の友人。

 私を見ている目に、警戒よりも戸惑いが浮かんでいる。

 

 私は内ポケットへ手を入れ、名刺を取り出した。指先が震え、うまく一枚だけを摘まめない。

 

「私、東京災時記の――」

「え、待ってください。手、擦りむいてますよ」

 

 名刺より先に、彼女の視線が私の指に向いた。

 見れば、手の甲に赤い擦り傷ができていた。乾きかけた血に、細かな砂が張りついている。

 

「それに、服も……転んだんですか?にしてはボロボロすぎるけど…」

「まあ、そういうようなもので」

「頭は打ってないですか?」

「いえ、それよりも、取材で」

「取材は後で。まず座れます?」

 

 彼女はすぐ近くの椅子を引いた。

 私は断ろうとしたが、膝が痛み、結局そのまま腰を下ろした。

 

 背もたれに触れた瞬間、息が詰まる。

 それを見て、彼女の表情が変わった。

 

「……病院、行った方がいいんじゃないですか?」

「大丈夫です」

 

 そう答えながらも、自分の声には説得力がないと解った。

 三鶴は、私を少し見てから、厨房へ顔を向けた。

 

「二奈、お水と、救急箱ある?」

「あるけど……どうしたの?」

「怪我してるお客さん」

 

 厨房から顔を出した女性が、私を見た。

 そして、手元を確かめるように視線を落とした。

 

「……先に手、洗った方がいいね」

「だよね。すみません、立てます? こっちです」

 

 話をする間もなく、私は店の隅の洗面台へ案内された。

 蛇口から出た水が、傷に沁みる。

 思わず手を引くと、三鶴が水の勢いを弱めた。

 

「ゆっくりでいいです。砂、残ってるので」

 

 私は、自分の手を洗いながら彼女を見た。

 

 普通の女性だった。

 

 怪我をした客が来たから、水を出し、椅子を引き、傷を洗わせている。

 

 それ以上のことは、何もしていない。

 

 なのに、私にはそれが不思議だった。

 

 あの男を知っている人間が、こんなふうに、ごく当たり前の顔で暮らしている。

 

 席へ戻ると、彼女は水の入ったコップと、清潔なガーゼを置いた。

 

「何があったんですか?」

 

 私は、ようやく名刺を差し出した。

 

「池袋で一番強い人間について、取材をしていまして」

「……一番?」

「平和島静雄さんに、お話を伺ってきたんです」

 

 三鶴の手が止まった。

 

 彼女は私の顔を見て、それから、服についた汚れを見た。

 

「その怪我って……」

「ええ」

 

 彼女が、ゆっくりと息を吐いた。

 隣で救急箱を開いていた二奈も、何とも言えない顔をしている。

 

「……静雄を怒らせたんですか?」

 

 その聞き方に、私は少し引っかかった。殴られたのか、ではない。

 

 怒らせたのか。

 

「多少、踏み込んだ質問をしまして」

「どんな?」

「自動販売機を投げたという話について。それと、折原臨也氏の――」

「ああ」

 

 三鶴は、額に手を当てた。

 解ってしまった、という顔だった。

 私は身を乗り出した。

 

「やはり、その二人の関係には何か――」

「今、そんな勢いで動かない方がいいですよ」

 

 私は、また椅子に座り直した。

 三鶴はガーゼをこちらへ寄せる。

 

「私に聞きたいのって、静雄のことですか?」

「はい。高校時代からのご友人だと伺いました」

「そうですけど」

「彼は、昔からああいう力を?」

 

 三鶴は、すぐには答えなかった。

 

 私の手元を見ている。

 

 私はその沈黙に、続きを期待した。

 しかし、彼女が口にしたのは、別の質問だった。

 

「静雄、取材していいって言ってました?」

「質問には答えてくれました」

「……何を聞いてもいいって?」

 

 私は、黙った。

彼女は私の返事を待っていたが、やがて少し眉を下げた。

 

「静雄、嫌になったら帰ろうとしませんでした?」

 

 した。

 

 私は、それを引き止めた。

 

 答えずにいると、彼女は小さく頷いた。

 

「なら、そこで終わりにしてあげてほしかったな」

 

 声は穏やかだった。

 だが、曖昧に笑って流してくれる様子ではなかった。

 

「……怪我をさせていいとは思わないですよ。そこは、静雄が悪い」

 

 彼女は、私の傷を見た。

 

「でも、嫌だって言ってるのを追いかけて、挑発したりするのはやめた方が良かったね」

 

 私は、手帳へ伸ばしかけた手を止めた。

 

 この女性は、彼を怖がっていない。

 

 だからといって、何をしても肯定するわけでもないらしい。

 

 私が今日話した人間達は、平和島静雄を怪物のように語っていた。

 

 だが、目の前の女性は、困った友人について話している。

 

「あなたは……彼が怖くないんですか?」

 

 三鶴が、私を見た。

 

 少し考えてから、答える。

 

「怒鳴られたら、びっくりしますけど」

「それだけですか?」

「物が飛んできたら危ないから嫌ですよ」

「では、なぜ友人でいられるんです?」

 

 彼女は、今度こそ不思議そうな顔をした。

 

「……友達だから?」

 

 私は、返事ができなかった。

 

 彼女にも、私の質問の意味が十分には伝わっていないようだった。

 厨房から、二奈が声をかける。

 

「お姉ちゃん。お客さん、顔色悪いよ」

「あ、うん」

 

 三鶴の視線が、すぐに私へ戻った。

 

「すみません。長く話させちゃって。やっぱり、先に病院行きませんか?」

 

 私は、開こうとしていた手帳を見下ろした。

 

 聞きたいことは増えている。

 

 しかし、この店に入ってから、私はまだ、一行も書けていなかった。

 

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