三鶴は一姫と会った後、古今東西へ帰ってきた。
扉を開けても、いつもの賑やかさはなかった。
空いたカウンター席。注文を待つ必要のない厨房。
二奈はカウンターに肘をつき、暇そうにテレビを見ていた。画面では、また切り裂き魔について報じられている。
「おかえりー。セルティさん、大丈夫そうだった?」
「うん。自分も斬られたって聞いた時はびっくりしたけどね」
「そっかそっか」
「新羅と付き合ったのも聞いたし。……セルティもーー」
「大丈夫? なんかあったでしょ」
三鶴は、途中で言葉を止めた。
二奈はテレビから目を離し、姉を見ている。
「……そんな顔してた?」
「してる。セルティさんのこと?」
「ううん。それは大丈夫」
鞄を置き、三鶴はカウンターの椅子を引いた。
座ってから、少し迷う。
二奈の腕には、もう包帯がなかった。
「帰りに、一姫に会ったんだ」
二奈が姿勢を起こした。
「……あそこに来てたんだ」
「出口で待ってた」
「何かされた?」
「何もされてないよ。話しただけ」
二奈は姉の顔を確かめ、それから視線を落とした。
「そう」
三鶴は鞄の持ち手から手を離した。
「連絡先、教えてって言われて」
「……教えたの?」
「うん」
二奈はすぐには何も言わなかった。
テレビの音だけが、二人の間に流れる。
「臨也に渡すかもしれないのは、わかってる」
三鶴が先に言うと、二奈は小さく息を吐いた。
「たぶん、もう渡してるよ」
「……そうだね」
「お姉ちゃんが嫌がってるのも、知ってるくせに」
三鶴は俯いた。
一姫に向けられた言葉だとわかっていても、何も返せなかった。
二奈は姉を見て、少し声を和らげる。
「別に、お姉ちゃんを責めてるんじゃないよ」
「でも、勝手に教えちゃった」
「お姉ちゃんの番号でしょ」
二奈はカウンターを回り、三鶴の隣へ来た。
「ただ……また嫌な思いするの、わかってるから」
三鶴は頷いた。
一姫が約束を守ると、信じ切っていたわけではない。
臨也の名前を出した時の、あの僅かな間も覚えている。
それでも、番号を渡した。
「何かあった時、私に連絡できないのは……嫌だったんだよね」
「うん」
「あの子から親を奪ったのは、私だから」
二奈が、姉の方へ顔を向けた。
「……私が、ちゃんとしないとって」
「お姉ちゃん」
静かな声に、三鶴は口を閉じた。
二奈は隣の椅子に座った。
「いっちゃんのこと、放っておけないのはわかるよ。私だって、妹だし」
そこで一度、言葉を切る。
「でも、お姉ちゃんが嫌なことまで、全部我慢しなくていいんだよ」
三鶴は、二奈の腕へ目を落とした。
「二奈には、怪我までさせちゃってさ」
「それはいっちゃんがやったこと!」
二奈は、はっきりと言った。
「番号を教えるのと、あの子のしたことを許すのは別でしょ?」
「……うん」
「じゃあ、それは別にしよう」
二奈は立ち上がり、厨房へ戻った。
冷蔵庫を開け、何かを取り出している。
「ご飯食べた?」
「まだ」
「じゃ、食べて。暇だから、今ならすぐ作れる」
三鶴が顔を上げると、二奈はいつもの調子で笑った。
「お客さん来ないの、こういう時だけ助かるね〜」
「……それ、喜んでいいの?」
「よくない。だからお姉ちゃんが食べて」
三鶴は、ようやく小さく笑った。
その時、ポケットの中で携帯が震えた。
二人の視線が、同時にそちらへ向いた。
三鶴は取り出しかけて、画面を見た途端に顔を引きつらせた。
登録していない番号。
つい先ほど、一姫に連絡先を教えたばかりだ。
「……絶対、臨也じゃん」
二奈が厨房から顔を出した。
「早かったね」
「早すぎるでしょ」
三鶴は通話を拒否し、携帯をカウンターへ伏せた。
ひとまず、これでいい。
そう思った数秒後、また震え始めた。
二奈と顔を見合わせる。
三鶴は画面を確かめ、同じ番号だとわかると、もう一度切った。
「出ないってわかるでしょ、普通」
「相手、折原臨也だよ?」
「……はぁ」
三度目の着信。
三鶴は無言で切った。
携帯を鞄へ戻そうとする。その途中で、また手の中から振動が伝わってきた。
「うっざ……」
三鶴はとうとう通話ボタンを押した。
『もー、酷いよ三鶴ちゃん! こういうのはワンコールで出ないとダメなんだよ。大切な取引先だったら大事だよ』
「あぁ、出なきゃ良かった」
『酷いなぁ、君に有益な情報をあげようと思っただけなのに』
「それに一姫を使うのはどうなの?」
三鶴は声を低くした。
臨也は、少しも困った様子を見せなかった。
『連絡先を聞いてきてもらっただけだよ。君が俺にも教えてくれてたら、頼む必要はなかったんだけどね』
「頭悪いね、教えたくないから教えてないんでしょ」
『ははは、でもちゃんと一姫ちゃんには教えただろ?』
「あの子が困った時、連絡できるようにね。臨也に渡すためじゃない」
『うん。そういうところ、変わらないね。だから一姫ちゃんを使ったのは正解だった』
三鶴は口を閉じた。
その返事だけで、番号を渡すまでのやり取りを見られていたような気がした。
「……あの子が何したか、知ってるよね」
『二奈ちゃんのこと? 知ってるよ。ただ、俺は居場所を調べてほしいと頼んだだけだ。刺せなんて言ってない』
「それで済ませるつもり?」
『一姫ちゃんが自分でやったことまで、俺の指示にされても困るなあ』
厨房で、器の触れ合う音が止まった。
三鶴は二奈の方を見ずに、携帯を握り直した。
「もう、私に何かさせたい時は、私に言って。妹達を間に入れないで」
『じゃあ、こうして電話して正解だ』
「……臨也」
『こうして今、君に話してるだろ?』
軽い声だった。
三鶴が黙ると、臨也はそのまま話を続けた。
『――最近の切り裂き魔について、興味ない?』
不意に変わった話題に、三鶴の視線がテレビへ向いた。
音を絞った画面では、事件現場の映像が流れている。
「……何か知ってるの?」
『君に有益な情報があるって、言ったじゃないか』
「先に内容を言って。聞くかどうかは、それから決める」
臨也は、笑いながら続けた。
『お店、随分寂しそうじゃないか』
三鶴は、ばっと顔を上げた。
入口のガラス。その向こうを行き交う人影。店の隅へ視線を走らせると、厨房にいた二奈が怪訝そうな顔をした。
『お店の中を見てるわけじゃないよ、三鶴ちゃん。まあ、見る必要もないね』
「どこまで嗅ぎ回ってんだ、お前」
『やられた常連、みんな共通して腕がいい奴らだよね』
三鶴の視線が、空いた席で止まった。
刃物を持った相手に、何もできずにやられるような連中ではない。二奈から聞いた顔ぶれを思い返せば、確かにそうだった。
「……それが?」
『たまたまにしては、随分偏ってると思わない?』
「強いやつを狙ってるって言いたいの?」
『君もそう思う?』
「先に言い出したのは、そっちでしょ」
臨也は笑った。
それから、妖刀――罪歌について話し始めた。
人を愛する刀。
斬った相手を支配し、その相手を通して、さらに人を斬る。
三鶴は黙って聞いていた。
にわかに信じ難いそれも、セルティを思い出せば何とか飲み込めた。
『そのままにしておけば、店のお客さんも困るだろうね』
「……」
『訳ありの店に通う客は、それこそ訳ありだからね』
『シズちゃんも。いくら強くても、事情を知らずに巻き込まれるのは厄介だろ?』
この妖刀をどうにかしないと、と臨也は言う。
「私に、どうして欲しいの?」
『決まってるじゃないか、"普通"になるのをやめるだけさ』
△▽
ギラリと光る、銀の刃。
返り血に濡れても目立たないようにと選ばれた、赤い持ち手。
三鶴の愛刀だったロングナイフ。
幾度となく人を斬り、刺してきたそれを、もう使わずに済むよう、しまっていたはずだった。
三鶴は持ち手を握った。
指が、慣れた位置に収まる。
何も考えなくても持ち方を覚えていることが、少し嫌だった。
臨也の言葉が、耳に残っている。
――“普通”になるのをやめるだけさ。
そんなつもりはない。
この街に帰ってきたのは、また人を殺すためではなかった。
けれど、古今東西の空いた席を思い出す。
二奈の困ったような笑顔も、チャットに繰り返し書き込まれた静雄の名前も。
事情を知った今、何もせずに待つことはできなかった。
臨也に言われたことが、きっかけではある。
それでも、身近な人達へ迫っている危険を、何とかしたいと思ったのは本当だ。
三鶴は刃を見つめた。
これを持って出れば、解決するとは限らない。
また使わずに済むなら、その方がいい。
そう思いながらも、置いていくことはできなかった。
「……行こう」
小さく呟き、ナイフを鞘へ収める。
向かう先は、池袋の街だった。