池袋の街は、いつも通りに見えた。
あれだけ切り裂き魔の事件があっても、人々は皆変わらない。
駅から流れてくる人、客を呼び込む声、携帯を見つめる人。
その間を三鶴は歩いていた。
腰に隠したナイフだけが、唯一いつもと違う。
「はぁ、なーんか、癪に障るんだよなぁ」
三鶴は歩きながら、臨也との通話を思い出す。
切り裂き魔のことは、元々気になっていた。
静雄の名前が書き込まれた時には連絡もしたし、セルティにも会いに行った。古今東西の常連達が襲われていることだって、放っておきたかったわけではない。
ただ、二奈が怪我をしていた。
店のこともあったし、少なくとも、自分で刃物を持ち出して犯人を探すつもりはなかった。
それが、今はこうして街を歩いている。
――“普通”になるのをやめるだけさ。
思い出すだけで、眉間に皺が寄った。
何とかしたいと思ったのは、自分だ。
ナイフを持ち出すと決めたのも、自分だった。
それなのに、臨也の言葉どおりに動いているような気がしてならない。
断ったところで、静雄や常連達のことが気になっていたはずだ。それを知っていて、あいつは話を持ちかけてきた。
「…あー、まじで嫌いだわアイツ」
今頃、満足そうに笑っているのかもしれない。
そう考えると、引き返したくなる。
けれど、そのために誰かが襲われるのを見過ごしたいわけでもなかった。
三鶴は小さく息を吐き、通りの先へ目を向けた。
臨也への苛立ちを持て余したまま、足だけは止めずに歩き続けた。
客引きの声が、背後からまた聞こえてくる。
誰かが笑っていた。
こんなふうに人が行き交う街の、どこかにいるのだ。
人を斬って、さらに誰かを斬らせるものが。
大通りを外れると、足音がよく聞こえるようになった。
「……?」
前をすれ違う男に目が行く。
静かになった道で、見覚えのある男が横を通り過ぎて行った。
立ち止まってそいつを目で追いかけた。
「誰だっけな…」
思い出そうにも、もう後ろ姿になっていた為顔が見えない。
まぁいいか、と無視しようとした時。街灯の光を受け、男の手元で何かが光った。
包丁だった。
鞄にしまうでも、何かで包むでもない。男はそれを剥き出しのまま握り、歩いている。
三鶴は足を止めた。
男の少し先に、制服姿の少女がいた。
眼鏡をかけた、見覚えのある横顔。以前、路地で助けた少女だった。
少女が歩調を速める。
男も、速くなった。
「……おい」
三鶴は踵を返した。
男との距離を詰めながら、腰へ手を伸ばす。
少女が振り返った。
その視線が男の手元へ落ち、足が止まる。
「危ない!」
男が包丁を振り上げた。
三鶴はナイフを抜き、走った。
刃を持つ腕を止める。
そう判断して踏み込んだ瞬間、横から強い光が差した。
「――っ!」
エンジン音。
三鶴は咄嗟に足を止め、身体を引いた。
目の前を車が横切る。
鈍い衝突音とともに、男の身体が跳ね飛ばされた。
タイヤが路面を擦り、車が止まる。
三鶴は数歩後ずさった姿勢のまま、倒れた男を見ていた。右手には、振るう寸前だったナイフが残っている。
「死んだかな?」
「まったく酷い人っすよ門田さんは!人が平穏に生きたいって言った直後にこの仕打ち!」
「おい、大丈夫か!」
車から聞き覚えのある声がした。
「…京平?」
顔を上げた三鶴を見て、門田も一瞬目を見開いた。
「三鶴? お前、何で――」
「それ、こっちの台詞」
三鶴は言いかけて、少女へ向き直った。
「怪我はない?」
「……はい」
小さな返事があった。
少女の視線が、三鶴の手元で止まる。
三鶴はナイフを身体の脇へ下げ、彼女から刃を遠ざけた。
「ごめん。びっくりしたよね」
言ってから、倒れた男へ目を戻す。
今度は、顔が見えた。
服の汚れと、頬の傷。
記憶の中で、カウンターに座っていた姿と重なる。
「……あれ、この人」
古今東西へ来た男だった。
傷を洗わせ、病院へ行くよう勧めた。静雄について聞かれて、話もした。
あの時、自分を見ていた目とは違う。
男の目は、赤かった。
三鶴がそれを確かめた時、地面についた男の指が動いた。
まだ、包丁を握っている。
男は身体を起こし始めた。
「は、嘘でしょ」
三鶴は少女の前へ移動した。
今度こそ、腰を落として相手を見る。
男の左腕は妙な方向に曲がっていた。
身体も撥ねられたあとで、普通なら立ち上がることさえ難しいはずだ。
それでも男は、右手に包丁を握ったまま起き上がった。
赤い目が、三鶴の後ろにいる少女へ向く。
「下がってて」
三鶴は、少女へ短く声をかけた。
返事を待たず、男との間に身体を入れる。
男はぎこちなく足を動かし、こちらへ近づいてきた。
「おい!?」
門田達も動いた。
三鶴と少女へ向かう男を止めようと、門田が距離を詰める。
男の目が、一瞬だけそちらを向いた。
包丁が横に振られる。
「うおッ!」
門田が身を引いた。
刃は鼻先を掠め、そのまま振り抜かれる。後ろにいた遊馬崎達まで、慌てて距離を取った。
「京平!」
三鶴は男の腕を追ったが、踏み込めなかった。
包丁が止まらない。
右腕を振り回しながら、男は少しずつこちらへ進んでくる。
刃の届く範囲へ入れば、斬られる。
動きを読んで腕を取ろうにも、傷ついた身体を庇う様子がまるでなかった。左腕がどれだけ痛むかも、気にしていないようだった。
三鶴は少女を背にしたまま、半歩下がった。
ナイフを握る指に力が入る。
斬れば止められるかもしれない。
けれど、今ここで斬ってしまえばもう取り返しがつかない。
男の視線は、三鶴の向こうへ向いていた。
少女を見ている。
三鶴が動けば、その分だけ向こうを見ようとする。
「京平、この子、先に――」
「やめろ、バカ!」
門田の声が重なった。
今から車へ戻って、もう一度はねる余裕はない。
彼は男の動きを見ながら、身体を低くした。刃の中へ飛び込もうとしている。
三鶴も足に力を込めた。
その瞬間、門田のすぐ横を黒い影が通り過ぎた。
音に気づくより、先だった。
大きく持ち上がった前輪が、男の振り回す刃へ突っ込む。
ーー黒いバイク。
「……セルティ!」
タイヤが包丁を振るう腕を押し込み、そのまま男の身体へ乗りかかった。
三鶴は咄嗟に後ろへ手を伸ばし、少女を下がらせた。
男が地面へ倒れる。
バイクは倒れた男の上を走り越え、少し離れた場所で止まった。
そこで初めて、三鶴は後ろにもう一人乗っていたことに気づいた。
黒いヘルメットに、バーテン服。
「え、静雄?」
静雄がゆっくりと地面へ降り立つ。
続いてバイクを降りたセルティが、こちらへ向き直った。
三鶴はナイフを下げたまま、静雄を見た。
捜していた本人がいる。
無事だった、と息をつきかけた、その時だった。
背後で、男が跳ね起きた。
「――っ!」
三鶴は少女を庇う位置へ戻った。
だが、男はもう、こちらを見ていなかった。
「静雄……あなたが、平和島静雄なのね? 本当に、あなたが……そうなのかしら?」
男が突然喋り出す。
古今東西で聞いた話し方とは、まるで違う。
男は赤い目を静雄へ向け、折れた腕も気にせずに立っていた。
「会ってみたかったのよ……とっても、とっても、とっても、とってもね……」
三鶴は、男と静雄を交互に見た。
チャットに並んでいた文字が、頭を過ぎる。
愛する。
斬る。
平和島静雄。
目の前の男の口から、それと同じ言葉が出ていた。
「わかった。殺す」
静雄が、一歩踏み出した。
「静雄、待って。この人――」
「嬉しいわ……とうとう会えたのね。私の愛する人」
三鶴の声に、男の声が重なった。
「嬉しいか。じゃあ殺す」
話が噛み合っていない。
三鶴は静雄へ近づこうとしたが、背後で少女が動いた気配に足を止めた。
まだ、この子を離れた場所へ連れていけていない。
「愛してるわ、平和島――静雄」
男が、包丁を握り直した。
三鶴の指にも力がこもる。
相手の狙いは変わった。
それでも、刃をしまっていいとは思えなかった。
セルティがこちらへ来た。
手には携帯がある。彼女は少女に画面を向けた。
『大丈夫? 怪我はない?』
少女は黒いヘルメットを見上げ、少し戸惑ってから頷いた。
「え……あ、はい。大丈夫……です」
『そう。それならよかった。離れていた方がいいよ』
三鶴も、その文字を横から読んだ。
「そうだね。こっちに」
少女と一緒に、車の方へ下がる。
セルティは二人を見送りかけて、三鶴の右手へ視線を落とした。
ーーナイフ。
その先を辿るように顔を上げる。
目が合って、三鶴は唇を結んだ。
「……後で話す」
セルティは少しの間こちらを見ていたが、頷いた。
三鶴は男との距離を確かめ、ようやくナイフを鞘へ戻した。
少女を車の傍まで連れていくと、狩沢が迎えた。
「大丈夫? こっちにいて」
その声を聞いてから、三鶴は静雄達へ向き直った。
セルティの手元から、黒い影が伸びていた。
影は形を変え、長い柄と大きな刃を持つ鎌になる。
少女が、息を呑んだ。
三鶴はその横顔を見て、それから再び前を向いた。
セルティと静雄。二人が、赤い目をした男と向かい合っている。
臨也から聞いた時には、信じ難い話だったが
男の言葉を聞いた今は、疑って済ませることもできなかった。
三鶴は、腰に収めたナイフへ手を添えた。
まだ、使わずに済んでいる。そのままで終わってほしい。
男は、右手に持った包丁を腰の左側へ構えた。
その姿勢のまま、静雄との距離を詰めていく。
折れた左腕は、垂れ下がったままだった。
静雄は、こめかみに血管を浮かべながら、静かに笑っていた。
「俺は、真剣白刃取りなんざできねえ」
三鶴は、その顔を見て眉を寄せた。
怒鳴っている時より、こうして笑っている時の方が危ない。
セルティも同じことを考えたのか、鎌を構え直した。
静雄は、横に停まっているバンへ手を伸ばす。
「そんな俺に包丁を振り回すってこたあ……殺されても文句は言えねえよなあ……」
「静雄、待って」
「何をしても無駄よ」
三鶴の声を、男が遮った。
赤い目が、静雄を捉えている。
「私の剣が避けられるとでも思ってるの? 言っておいてあげるけど――かすり傷。貴方と私が愛し合うのに、ほんの一ミリのかすり傷でもOKなのよ?」
三鶴の手が、腰の傍で止まった。
かすり傷。
先ほど、ナイフを抜いて踏み込もうとした時の距離を思い出す。
相手を止められたとしても、無傷で済んだとは限らない。
臨也から聞いてはいた。
だが、その危険を理解するのと、目の前の刃に自分が触れかけていたと気づくのは、違った。
「そうか! よくわからないけど、きっと切っ先に毒でも塗ってあるっすよ!」
遊馬崎が声を上げた。
狩沢も、何かを思いついたように頷く。
「もしくはあれね! 傷口さえ作れば、そこに寄生虫とか花の種を植えつけて、ジワジワと――」
三鶴は最後まで聞かず、静雄へ目を戻した。
静雄の得意なやり方は知っている。
多少殴られても、傷ついても、そのまま相手へ手を伸ばす。普通の人間なら倒れてしまうような攻撃を受けても、止まらない。
だが、今はその頑丈さだけでは足りない。
刃を一度でも通せば、それで相手の目的が果たされてしまう。
セルティが前へ出ようとした。
三鶴も少女の傍から離れかけたが、静雄の手元を見て止まる。
「門田ぁ……ドア、借りるぞ」
「?」
門田が返事をするより先に、静雄の指が、バンの開きかけた後部ドアへかかった。
音がした。
金属が軋み、続いて、何かが千切れる。
ドアが外れた。
「……は?」
誰の声だったのか、三鶴にはわからなかった。
静雄は片手でそれを持ち上げていた。
足を踏ん張るでも、身体を大きく傾けるでもない。
まるで、そこに立てかけてあった板を取ったような動作だった。
三鶴は、門田の顔を見た。
門田は、自分の車からなくなったドアと、静雄の手にあるドアを交互に見ている。
だが、文句を言う間もなかった。
男の表情が変わった。
「あ……」
初めて、足が止まる。
静雄はドアを身体の前へ構えた。
三鶴は、その意図に気づいた。ドアを盾にするつもりだ、これで刃を通さなければいい。
相手の包丁が、静雄の身体へ届かなければ。
「俺は理不尽に生きてるからな。素手で戦うほどお人好しじゃあ……ねえッ!」
静雄が踏み込んだ。 速かった。
三鶴が息を吸うより先に、ドアを構えた身体が男へ迫る。
男が包丁を動かした。
しかし、刃の先には、引き剥がされた車のドアがあった。
三鶴は咄嗟に少女を庇い、身体を引いた。
その目の前を、静雄が一直線に突き進んでいった。
「ちょっと……待っ……」
男の言葉は、衝突音に掻き消された。ドアが身体を捉える。
そのまま押し上げられた男は、抵抗する間もなく運ばれ、道の塀とドアの間に叩きつけられた。
三鶴は息を詰めた。
包丁を避ける必要も、振るわせないよう腕を取る必要もなかった。
静雄は、相手の攻撃ごと押し潰していた。
誰も、すぐには言葉を発しなかった。
沈黙を破ったのは、運転席から降りてきた渡草だった。
「……で、ドアの修理代は誰に請求すりゃいいんだ?」
三鶴は、穴の空いた車の側面を見た。
「むちゃくちゃだ」
静雄らしい、と言えばそれだけなのだが、これには門田もすぐには答えなかった。
「さて……これからこいつ、どうするよ?」
静雄はそう言いながら、塀に押しつけていたドアを引いた。
その向こうから、男の身体が崩れ落ちる。
三鶴は一歩近づきかけ、止まった。まだ、右手には包丁がある。これが妖刀ならば少しでも触れてしまえば乗っ取られるはずだ。
セルティが携帯を取り出した。
『まず武器を取り上げて、縛っておこう。妖刀に操られていたのか、本人がやったことなのか、確かめないと』
三鶴はその画面を読み、頷いた。
店へ来た時の男を思い出す。
あの時は、普通に話ができていた。
だからといって、今ここで自分が襲われない理由にはならない。
「この人さ、二奈の店に来たんだよね」
セルティがこちらへ顔を向けた。
「静雄の取材してて、怪我してきたから、二奈と手当てしたんだけど」
セルティの手が止まる。
彼女は男へ視線を戻し、顔を覗き込んだ。
それから、静雄を手招きする。
「なんだぁ?」
三鶴も、二人の方へ近づいた。
男の身体は動いていない。
しかし、包丁を握る手だけは、まだ緩んでいなかった。
「セルティちょっとーー」
言いかけた時、男が起き上がった。
折れた腕も、車にはねられた身体も関係ないように、右腕が動く。
三鶴は手を伸ばしたが、間に合わなかった。
ーーそのまま鈍い音がした。
包丁が、セルティの胸元へ突き立っている。
「セルティ!」
背後で、少女が息を呑む。それに気づいて三鶴は咄嗟に腰へ手をやった。
だが、ナイフを抜くより先に、セルティが男の手首を掴んでいた。
血は出ていなかった。
胸から刃を引き抜き、その腕を離さずに、男の足を払う。
男が倒れる。
セルティは包丁を持った腕を背中へ回し、うつ伏せになった身体を地面へ押さえつけた。
三鶴は、腰から手を離した。
すぐ傍まで来た静雄も、セルティと男を見下ろしている。
「……大丈夫?」
セルティは片手で男を押さえたまま、三鶴へ頷いた。
胸元に血はない。
それでも、刺さった瞬間の音が耳に残っていた。
三鶴はしゃがみ、男の手元へ目を向ける。
今度こそ、刃を離させなければならない。
「そっち、押さえてて。包丁、取るから」
セルティが頷き、三鶴は刃に触れないよう慎重に手を伸ばした。
包丁に触れたところで、男はが押さえつけられたまま身体を捩る。
セルティの手から逃れようとしても、腕は動かない。
「あなた……人間じゃないわ! 汚らわしい、汚らわしいわ!」
三鶴は伸ばしていた手を止めた。
「私の愛がこんなわけの解らない、頭の悪そうな化け物に――」
「うるさいなぁ」
三鶴が溜息をつき、セルティの腕に力が入った。
男の身体が跳ねる。
同時に、包丁が手から落ち、アスファルトへ金属音を響かせた。
それきり、男は動かなくなった。
三鶴は一瞬黙ってから、セルティを見た。
「結果オーライ?」
セルティは男を押さえたまま、少しだけ顔を伏せた。
怒っていたのだろう。
三鶴はその気持ちを責める気にはならなかった。
だが、落ちた包丁へ手を伸ばしかけると、セルティが片手を上げた。
待て、という仕草だった。
セルティの手を、黒い影が覆っていく。
影は厚みを増し、指先まで包み込んだ。その状態で、彼女は包丁の柄を慎重に摘み上げる。
特別な光も、音もない。
ただの包丁にしか見えなかった。
それでも、これに斬られた人間が、誰かを襲うようになるのだとしたら。
三鶴は、男の顔へ目を落とした。
「これが罪歌?」
セルティが頷く。
男が話している間に確かめられればよかったが、今は目を覚ますのを待つしかなかった。
セルティは包丁を安全な場所へ移し、男の身体を影で縛った。
三鶴は立ち上がり、静雄を見る。
「静雄、どこも斬られてない?」
「ああ」
短い返事だった。
「まだイラついてんね」
「かなりな」
その顔は、まだ晴れていない。
セルティがPDAを使い、門田達へ妖刀の話を説明し始める。その横で、静雄がぽつりと呟いた。
「なんだかよ……完全にはすっきりしないんだよな……。なんでだ……?」
三鶴は何も言わず、彼を見た。
静雄は少し考え、やがて眉を寄せる。
「ああ、くそ。すっきりしねえ……ちょっと新宿に行って、臨也の奴をぶっ殺してくる」
「何でそうなるのさ」
三鶴が言うと、静雄はセルティへ黒いヘルメットを投げ返した。
ヘルメットが彼女の手元で影へ戻り、身体へ吸い込まれていく。
「俺は、お前の事もムカついてんだ」
静雄はそのまま三鶴に向き直った。視線は腰のナイフを見ている。
「…」
「お前、臨也になんて言われた」
三鶴は上着の裾を引き、そこを隠す。
その動きに、彼の眉間の皺が深くなった。
「二度と人を傷つけることはしない、そう決めたんだろ。臨也に何か言われてそれを辞めるなんて、三鶴らしくねえ。俺はそれにムカついてんだ」
三鶴はすぐには返事をしなかった。
「とりあえず臨也のやつをぶっ殺す」
静雄は三鶴の返事を待たずに、新宿の方へ歩き出す。
三鶴は、その背中を見送った。
狩沢が、少し身を寄せてくる。
「ねえねえ。絶対シズちゃんって、イザイザのこと好きだよねー」
「……今の見て、何でそう思える!?」
「だって、すっきりしないから会いに行くんでしょ?」
セルティが、すぐに携帯を向けた。
『いや、それはない』
「それ言ったら、狩沢さんでもギタギタにされるっすよ!」
遊馬崎も慌てて口を挟む。
三鶴は、静雄の姿が遠ざかっていく方へ目を戻した。
臨也に会いたい理由なら、自分にも一つあった。
一姫を使って、また自分を動かした理由。
「ごめん、私も行きたいとこがあるから先に行く」
『気を付けて行くんだぞ』
三鶴は拳を握りしめ、頷いた。
△▽
三鶴が向かった先は古今東西。早めに閉店作業を始めていた二奈が、外で暖簾を下げていた
「お姉ちゃんおかえり!…ねぇ、それ」
二奈は暖簾を片手に、視線の先には腰から見える赤い持ち手があった。
二奈の声を聞き、店の中から笹木も出てくる。
「このお店を、二奈の事を守りたいって思ったから…決めたんだ」
「…それでいいの?」
三鶴は寂しそうに頷いた。臨也に煽られたからじゃない、自分で決めたんだと言い聞かせて。
「ボス、姉御、感動的なところ申し訳ないんですが…」
ふと、2人のやり取りを見ていた笹木が、三鶴の後ろを指さす。
「!?」
「お姉ちゃん!」
そこには刃物を持った屈強な男が、立ち尽くしていた。
瞳は赤く、つい先程見た切り裂き魔と同じだ。
男は刃物を大きく振りかぶって三鶴へと向かっていく
「――っ!」
三鶴は身を引いた。
振り下ろされた刃が、服のすぐ傍を通る。
「厄介なことになったな、こりゃ……」
男は刃を振り抜いた姿勢から、すぐに向き直った。
先ほどの記者と同じだ。
あの包丁は、セルティが取り上げた。
それなのに、ここにもいる。
臨也の話したとおり、斬られた人間が次の誰かを斬っているのなら、あの一本を取り上げただけでは終わらない。
「あっ!」
二奈が声を上げた。
「ねえ、暗くてわかんなかったけど、シゲさんじゃん!」
笹木の肩を叩き、男を指さす。
二奈は笹木の肩を叩いて言った。
ーーシゲさん、それは古今東西に来る常連で、この前二奈が帰り道を気をつけるように忠告したばかりだった。
カウンターでラーメンを啜りながら、切り裂き魔の話をしたし、
次はおじさんかもよ、と二奈がからかうと、冗談を言うなと顔を顰めた男だ。
「シゲさん! 何してんの!?」
男は二奈を見なかった。視線は、三鶴から離れない。
三鶴が横へ動くと、男もそちらへ身体を向けた。
「とりあえず店閉めて、逃げて。二奈」
「でも――」
「笹木、二奈お願い」
三鶴は二人を見ずに言った。男が、また刃物を振り上げる。
三鶴は店の入口から離れるように動いた。
しかし、追ってくる。
少なくとも今は、自分を狙っている。
それなら、二奈達が離れる時間は作れる。
「姉御はどうするんです?」
「こっちは何とかするから。早く」
二奈は暖簾を握ったまま、三鶴を見ていた。
その腰には、ナイフがある。
姉が何を選ぼうとしているのか、わからないはずがなかった。
「……お姉ちゃん」
三鶴は返事をしなかった。
できなかった。
刃を避け、男との距離を取り直す。
シゲさんの赤い目が、こちらを追った。
店で笑っていた時の面影が、その顔には残っている。
三鶴の手が、赤い持ち手へと伸びた。