新宿。
「臨也さん、これ、帰ったら一緒に食べません?」
一姫はコンビニの袋を持ち上げ、隣を歩く臨也へ笑いかけた。
袋の中には、飲み物と、二人分の菓子が入っている。
どれがいいかと迷う一姫に、臨也は好きなものを選べばいいと言った。それだけのことが、彼女には嬉しかった。
「君、夕飯も食べたよね?」
「甘いものは別腹です♡」
「分かるけど、俺の分まで食べないでね」
「臨也さんがくれたら、食べます」
一姫が笑った。
そのまま顔を上げると、臨也の視線が前方で止まっていた。
マンションの入口に、男が立っている。
金髪に、サングラス。足は今にもドアを蹴破ろうとしている。
バーテン服を着た男は、二人に気づくと、口元だけで笑った。
「なーんで、シズちゃんが俺のマンションの前にいるのかな?」
臨也の声から、先ほどまでの気軽さが薄れた。
一姫は、袋を握り直した。
「……お前を殴りに来たからに決まってんだろう」
静雄が答えた。
冗談を言っている顔ではない。
臨也は一姫をちらりと見て、入口から少し離れた場所で足を止めた。
「なんで、殴られなくちゃいけないのかな?」
「ムシャクシャしたからだ」
「……いい年して、そういうジャイアニズム百パーセントな台詞はよくないよ、シズちゃん」
「うるせえな。あえて言うなら……手前が怪しいからだ」
臨也の眉が、僅かに動いた。
「怪しいって、何が?」
「今、俺の街で騒いでる辻斬りの件……手前は、どこまで絡んでる?」
「なんで俺が絡むのさ」
「わけがわかんねえ物騒な事件は、九十九パーセント手前が絡んでるからだ」
「残り一パーセントを信じてくれないかな……」
「一パーセントでも手前が信じられる要素のある奴だったら、多分俺と手前はもっと上手くいってただろうよ」
静雄の顔に、血管が浮いた。
ふと、一姫は臨也の横顔を見た。
彼はまだ笑っていた。
しかし、その手にはいつの間にかナイフが出ていた。
「辻斬りの件がなかったとしてもよお、最近のブクロはなんか変だ。手前が原因だろ、ええ? 一体何を企んでやがる」
「酷い言いがかりもあったもんだね」
「三鶴にも何か言っただろ」
一姫の指が、袋の持ち手へ食い込んだ。
臨也は静雄を見た。
「本人から聞かなかった?」
「聞いてんのは俺だ」
「切り裂き魔について、知ってることを教えただけだよ」
「それだけで、あいつがナイフ持って出てくんのか」
臨也の目が、少し細くなった。
「……持ってきたんだ?」
その声を聞いて、静雄の表情が険しくなった。
「知らなかったみてえな顔すんな」
「知らないよ。持ち物まで俺が指定したわけじゃないし」
「あいつが何のために戻ってきたか、知ってんだろ」
「知ってるよ」
「だったら、余計なことすんな」
臨也は、すぐには返さなかった。
一姫はその間に、彼の袖へ手を伸ばした。
「臨也さん、もう中に――」
「一姫ちゃん。少し離れてて」
声は穏やかだったが、視線はこちらへ向かなかった。
一姫は唇を結び、数歩下がった。
静雄が、マンションの前のガードレールへ手を置く。
臨也の笑みが薄れた。
「……まさか、それ引っこ抜いて戦うわけじゃないよね」
静雄の指に、力がこもった。
「マジで?」
ならば、やられる前にやるだけ。臨也はナイフを握りしめ、静雄へ向かおうとした
ーーその時、黒いバイクが二人の間へ滑り込んだ。
静雄の手が止まる。
「おやおや」
「セルティ……なんだよ?」
セルティは臨也へ軽く手を上げ、近づかないよう制した。
それから静雄にPDAを向ける。
先程書き込まれた、罪歌のチャットのログだった。
静雄は画面を読み、眉を寄せる。
「……なんだ、こりゃ」
セルティは続けて、別の画面へ切り替えた。
届いたばかりの、二奈からの連絡。
古今東西の前に、刃物を持った常連が現れた。
目が赤い。
三鶴が襲われている。
読んだ静雄の目つきが変わった。
「……今か?」
セルティが頷く。
「三鶴は?」
彼女はPDAへ文字を打った。
『まだ詳しいことはわからない。二奈から、助けてほしいと来た』
「三鶴ちゃんが襲われたの?」
臨也の声がした。
一姫は、彼を見た。
先ほどまで静雄へ向けていた顔とは違う。
臨也はセルティへ近づきかけ、静雄に視線で止められた。
「怪我は?」
『書いてない』
「場所は店の前なんだね?」
セルティが頷くと、臨也は少しの間黙った。
ナイフをしまい、携帯を取り出す。
その口元に、僅かな笑みが浮かんだ。
「……帰ったんだ」
「何笑ってんだ、手前」
「いや。彼女、店を気にしてたからね」
臨也は携帯の画面を見ながら答えた。
「結局、自分で確かめに行ったんだなと思って」
静雄の手が、ガードレールから離れた。
「三鶴が襲われてんだぞ」
「聞こえてるよ。だから、今連絡しようとしてる」
臨也は静雄を見た。
「君も、ここで俺を殴ってる場合じゃないんじゃない?」
静雄は睨んだまま、セルティのバイクへ歩み寄った。
一方、一姫は、臨也の携帯を見ていた。
つい先ほどまで、自分と一緒に買い物をしていた。
何を食べるか話して、帰ったら一緒に袋を開けるつもりだった。
それが、姉の名前が出ただけで変わった。
怪我をしたのかと、すぐに聞いた。
そのくせ、三鶴が動いたと知ると、嬉しそうに笑った。
心配しているのか、楽しんでいるのか。
一姫にはわからない。
わかるのは、その両方が三鶴へ向いていることだけだった。
「……お姉ちゃん、強いですよ」
臨也が、ようやく一姫を見た。
「知ってるよ」
当然のような返事だった。
一姫は、それ以上何も言えなくなった。
静雄はセルティのバイクに跨がっても、まだ臨也を見ていた。
「これも、手前の計算か?」
臨也は携帯を持つ手を下げた。
「なんのことか知らないけど、セルティが偶然ここに来てくれることまで計算できるなら、俺はとっくに君の家に隕石でも落としてるよ」
静雄は暫く睨んでいたが、やがて舌打ちした。
黒いバイクが走り出す。
臨也はその背中を見送り、もう一度携帯へ目を落とした。
一姫は、コンビニの袋を胸元へ抱えた。
臨也はすぐには、マンションへ戻ろうとしなかった。
「まったく……単細胞の癖に、どうしてあんなに鋭いんだろうねえ?」
笑っている。
けれど、その笑顔には苛立ちも残っていた。
「これだから、俺はシズちゃんのこと、大嫌いなんだよ」
△▽
ーー古今東西。
変わらず刃物を振りかざすシゲさんに、三鶴は愛刀で応戦していた。
なるべく傷つけないように、こちらからの攻撃はせず、拘束を目的に抵抗する。
「っ、気絶させればいいんだろうけど……」
迫ってくる刃を避け、どうするか考える。相手も素人じゃない。正気じゃないとはいえ、弱くない。
倒すだけなら簡単だった。しかし傷をつけない、傷をつけられないようにする、というのは中々に難しい。
「無傷で拘束は無理かこりゃ…」
三鶴がため息をついて、別の手を考えようとした時だった。
突然シゲさんの動きが止まる。
「……?」
突然止まったシゲさんは、そのままくるりと向きを変えて歩き出す。その先は、確か公園のある方向なはずだ。
「なんなの?…まぁ、終わったのか?」
三鶴はナイフを鞘に収め、一息つく。
応戦中には気付かなかったが、携帯が何度も震えていた。
開いてみれば、着信、メール、何件もの通知が届いている。二奈、セルティ、静雄、それから臨也。
『お姉ちゃん、笹木と店閉めて帰ったよ。終わったら教えて』
『三鶴、大丈夫か。私は今静雄と共にいる。いつもの公園で合流しよう』
『俺は、お前の友達だ。それを忘れんなよ』
『三鶴ちゃん、無事かな?君ってばホントに思い通りに動いてくれるよね笑笑 意思が弱いって言うのかな……あぁ、勘違いしないで!俺はそれを君の良さだと思っているよ。そういうとこが大好きなんだ。君のーー』
一通り目通して、臨也のメールは最後まで読まずに消去した。
シゲさんの背中が段々見えなくなっていく。セルティによれば公園で集合するらしい。ちょうどシゲさんと同じ方向なら、ついていこう。
△▽
足早にシゲさんの跡をつけ、もう少しで公園が見えてくると思った時。
路地から見覚えのある女が前へと出てきた。
「……一姫」
にこやかな笑顔を浮かべ、ツインテールを揺らした少女、一姫がゆっくりと歩いて近づいてくる。
その両手には指にもった何本かのナイフ。まるで臨也を思い出させるそれは、確実に三鶴を殺るために来ている事が感じられた。
「自己犠牲の精神とか、そういうの一番嫌いなんだよね、私」
一姫は足を止めない。
三鶴は愛刀に手をかける、が。一姫に対してそれを向けるつもりはなかった。
「いっつも皆お姉ちゃんのことばっかでさ、誰も私の事見てくれないの。大好きな臨也さんも、お姉ちゃんの事ばっかり……ねぇ、誰が私を愛してくれるの!?」
突然飛び出してきた一姫は、容赦なくナイフをふるう。
三鶴は避けきれずに右腕を押さえた。
指の隙間から血が滲んだ。
「……一姫、話を」
「今更何を話すの?」
一姫は三鶴の右腕を見た。その傷を確かめるように目を細める。
「二奈お姉ちゃんの為には武器を使えても、私には何もしてくれないんだね」
「……状況が違うでしょ」
「そうやって、いつも困った顔するよね」
三鶴が口を開くより先に、再び刃が迫った。
身を引くと、服が裂ける。
「っ、一姫!」
伸ばした手を、別の刃が遮った。
三鶴は腕を引き戻す。一姫はそのまま距離を詰めてきた。
「私がこんなことしても、まだ可哀想だと思ってる?」
「そんなこと――」
「じゃあ、抜けばいいじゃん」
一姫の視線が、三鶴の腰へ落ちる。
「持ってるんでしょ。それで私も止めれば?」
三鶴は柄にかけていた手を離した。
「……私は、一姫を傷つけたくない」
「傷付けたくない?親を殺して、助けた気になって、私を1人にして捨てたお前が言うな!!」
一姫の笑顔が消え、三鶴は息を止めた。
その一瞬を、一姫は見逃さなかった。
刃が迫る。
三鶴は咄嗟に身を捻った。
避けたつもりだった。けれど、一姫のもう片方の手が動く。
「っ……!」
脇腹に痛みが走った。
三鶴は一姫の腕を掴み、次の刃を止める。
近くで見る妹の顔には、もう笑みがなかった。
「離せ」
「……一姫」
「名前呼べば済むと思ってんの?」
一姫が腕を引く。
三鶴は離さなかった。離せば、また刃が来る。
「二奈お姉ちゃんとは、ずっと一緒にいたくせに」
掴んだ腕に力が入った。
「二人で逃げて、二人で暮らして。私がどうしてたかなんて、知らないでしょ」
「……知らない」
声にすると、余計に苦しかった。
一姫のことを気にしていなかったわけではない。
けれど、それで妹が一人だった時間がなくなるわけでもなかった。
「ごめ、ん」
「それ、もう聞き飽きた」
一姫が空いている手を持ち上げた。
三鶴はその手首も押さえる。刃先が頬のすぐ横で止まる。
「じゃあ、離してよ」
「それは、できない」
「ほら。結局、私の言うことなんか聞かないんじゃん」
三鶴は唇を噛んだ。
右腕の傷が痛む。指に力が入りきらない。
一姫はそれに気づき、腕を強く引いた。
「いい子で待ってたら、帰ってきてくれると思ってた」
三鶴が顔を上げる。
「でもね、臨也さんだけは私を受け入れてくれたんだ。私に大切にするって、言ってくれたんだ……なのに、またお姉ちゃんのことばっかになって、私の私の私の私の私の臨也さんなのに!!!!」
一姫は再び三鶴を刺した。何度も振りかざすナイフは、小さくてよかったなぁ、などと呑気に思った。
何度刺されたか、途中から数えられなくなっていた。
それも、一姫の携帯が鳴って止まった。
「もしもし……はい、今帰ろうと思ってたとこです」
一姫は幸せそうな顔で答える。
きっと、相手は臨也だろう。
「もう帰るから、またねお姉ちゃん」
一姫はナイフをしまうと颯爽とその場を去った。
遠ざかっていく足音を、三鶴は聞いていた。
「……またね、って」
笑おうとしたが、息が漏れただけだった。
追いかけることはできなかった。
壁に手をつく。
そのまま身体を預けると、ようやく立っているだけでも辛いことに気づいた。
足元に血が落ちた。
「……あー、まずいな」
二奈には、見せられない。
帰ってきたばかりで、守ると言ったばかりなのに。
携帯を取り出そうとして、指が滑った。
落としかけたそれを胸元で押さえ、画面を開く。
『いつもの公園で合流しよう』
すぐそこだ。
シゲさんを追っていた時には、そう思っていた。
その下に、静雄の言葉が残っている。
『俺は、お前の友達だ。それを忘れんなよ』
三鶴はしばらく画面を見つめた。
それから、震える指で短く打った。
『今、そっち行く』
送信して、携帯をしまう。
壁から身体を離すと、膝が揺れた。
三鶴はもう一度手をつき、倒れずに済んだことに小さく息を吐く。
「……待ってて、静雄」
今度は、一歩だけ進めた。
一姫の足音が聞こえなくなってから、三鶴は壁に手をついた。
「……あー、痛い」
口にした途端、余計に痛くなった気がした。
傷を押さえた手が濡れている。上着で隠せるだろうかと考えて、無理だな、と諦めた。
携帯を開く。
『俺は、お前の友達だ。それを忘れんなよ』
静雄のメールが、まだ画面に残っていた。
公園までは、もう少しだったはずだ。
何も打たずに携帯をしまい、壁から身体を離す。
一歩進むたび、脇腹が痛んだ。
それでも路地の出口まで来た時、前から歩いてきた男と目が合った。
「……臨也」
黒いコート。
見慣れた顔が、こちらを見て足を止める。
「やっと見つけた。電話くらい出てくれてもいいんじゃない?」
三鶴は答えず、その横を通ろうとした。
「一姫なら帰ったよ。お前んとこ」
「うん、知ってるよ。やばそうだから帰らせた」
返事をする気にはならなかった。
公園の方へ目を向けたまま、歩き続ける。
その腕を、臨也が掴んだ。
「どこ行くの」
「静雄んとこ」
「その状態で?」
「お前には関係ない」
三鶴は腕を振り払おうとした。
だが、踏み込んだ足に力が入らない。
臨也に向き直った拍子に身体が傾き、背中が壁へ触れた。
近づいてきた彼を押し返そうとした手まで、捕まる。
「っ、離せ!」
両手首を頭の上で押さえられた。
脇腹が引きつり、三鶴は息を詰める。
臨也はその顔を見下ろした。
乱れた髪も、裂けた上着も、隠しようがなかった。
「三鶴ちゃんさぁ、ほんとバカだよね」
「お前に言われたくない……っ、離せ!」
「止められたはずだろ。一姫ちゃんのことくらい」
三鶴は彼を睨んだ。
手首を引いても、臨也の手は離れない。
「……あの子は、私の妹だから」
「うん。だから?」
あまりに軽い返事だった。
「妹なら、君を何度刺してもいいの?」
三鶴の唇が震えた。
言い返そうとして、言葉が出ない。
臨也はわずかに顔を近づけた。
「いい加減に諦めなよ。君に妹は救えない」
臨也は笑っていた。
この状況が面白くてたまらないようだ。
三鶴は掴まれた腕を振り払い、臨也の胸ぐらを掴んだ。
「一姫に、大切にするって言ったんだろ」
「あぁ、言ったね」
「だったら、ちゃんと見てやれよ、私になんか構わないで……」
三鶴の呼吸が荒くなる。刺された所から流れる血が止まらない。
「大事にしてるよ?衣食住も与えてるし。ただそれは三鶴ちゃんが俺に振り向いてくれるまでの投資だからね」
「なにいってんだ、」
「そのままの意味だよ。一姫ちゃんがいれば、君は俺との縁を切れない。実際、連絡先も教えてくれたし」
三鶴は胸ぐらを掴む手に力を込めた。
「……あの子は、本気で臨也のこと」
「うん、知ってるよ」
臨也は笑っていた。
「だから、期待には応えてるつもりだけど。住む場所も、話を聞いてくれる相手も、あの子が欲しかったものだろ?」
「それを、投資って言うわけ」
「君に関わるためなら、ずいぶん安いものじゃない?」
三鶴は彼を突き飛ばそうとした。
だが、腕に力が入らなかった。臨也の上着を握る指が、少しずつ滑っていく。
「……最低だな、お前」
「それ、今さら?」
臨也の胸元に、血の跡が残った。
三鶴は手を離し、傷を押さえる。
「罪歌の愛は歪んでるけど、俺の愛も相当歪んでると思うよ。自分で言うのもアレだけど」
「こんなの、愛じゃ……ない」
「そうだね、俺も愛は信じてない。だから仮にこれを愛だと定義した場合の話でーー」
次第に意識が薄れていく。こんな所で倒れてたまるか、三鶴は臨也を睨むが、もう視界がぼやけていて顔が見えない。
「あぁ、おやすみ三鶴ちゃん。また会おう」
膝から力が抜けた。
地面に倒れるより先に、臨也の腕が三鶴を抱き留める。
――静雄の所に、いかないと。
彼の上着を押し返そうとした手は、もう動かなかった。
最後に見えたのは、臨也の満面の笑みだった。