一仕事を終え、ようやく帰り着いたセルティを、新羅が出迎えた。
「よっ、お疲れさん。おやおや、何か苛立っているようだね。これはいけない。カルシウムの摂取が必要かな」
セルティは返事の代わりに、新羅へ手を差し出した。
話を聞いてほしい、と察した彼は、部屋の隅にあるパソコンデスクの椅子を引く。
声を持たないセルティにとって、文字は大切な会話の手段だった。腰を下ろし、仕事先であったことを打ち込んでいく。
しかし、やり取りを続けるうちに、話は思わぬ方へ転がった。
新羅の返事にセルティが反論し、その反論に新羅がまた言葉を重ねる。帰ってきた時よりも、苛立ちが増していた。
セルティは一度、キーボードから手を離した。
少し間を置いて、別のことを尋ねる。
『三鶴はどうした?』
「部屋で寝てるよ。君の帰りを待っていたかったみたいだけど、眠そうだったからね。寝るように言っておいた」
『そうか』
「それより、もうちょっと女の子らしくしたら?」
せっかく話を変えたのに、新羅は懲りずに続けた。
セルティは短く打ち込んだ。
『もういい。シャワーを浴びてくる』
椅子から立ち上がる。背後で新羅が何か言ったが、振り返らなかった。
シャワー室へ向かう途中、セルティは三鶴のいる部屋の前で足を止めた。
起こさないよう、そっと扉を開ける。
三鶴はよく眠っていた。
布団は半分ほど蹴り落とされ、片腕を大きく広げている。起きている時の賑やかさを思えば、この静けさが少しおかしかった。
近づいて布団を引き上げると、三鶴が小さく身じろぎした。
「……ん」
寝ぼけた声が漏れる。
セルティは手を止めたが、三鶴は目を開けず、そのまま規則正しい寝息に戻った。
布団から出ていた腕をそっと収め、肩まで掛け直す。
まるで母親になったような気分だった。
穏やかな寝顔を見ていると、彼女がこれまで殺し屋として生きてきたことが、ひどく遠い話に思える。
けれど、それも三鶴の人生なのだ。
辞めたいという言葉を、セルティは高校生の頃から聞いていた。
そして今日、ようやく辞められるのだと、彼女は笑った。
今度こそ、その願いが叶ってほしい。
ただ、仕事を失ったからといって、過去まで消えるわけではない。三鶴を知る人間も、彼女の腕を当てにする人間も、この街にはいる。
セルティに、その全てを遠ざけられるわけではなかった。
せめて、ここへ来た時くらいは、安心して眠れるように。
彼女は布団の端を整え、静かに部屋を出た。
扉を閉める頃には、新羅への苛立ちも少し薄れていた。
明日の朝、三鶴が起きたら、また話をしよう。
そう思いながら、セルティは改めてシャワー室へ向かった。
▽▽
「今日は出かけて、そのまま二奈のところに戻るよ。泊めてくれてありがとう! 楽しかった!」
玄関でキャリーバッグを引き寄せながら、三鶴は二人に笑いかけた。
『こちらこそ。何なら、昔みたいに住んでもいい』
「もう遠慮しとくわ。新羅に」
「僕!?」
三鶴は声を上げて笑い、手を振った。
新羅も手を振り返す。その隣で、セルティはどこか落ち着かない様子だった。
「まるで子供を送り出すみたいだね」
『三鶴は、無理をしているように見える』
「今は、したいようにさせておけばいいよ。本当に駄目になったら、君に飛びついてくるさ」
『だといいが』
二人は並んで、三鶴がマンションを出ていくのを見送った。
そんな姿は、まるで夫婦のようだった。
▽
今日の三鶴は、珍しく白いワンピースを着ていた。
鏡の前で少し迷ったが、せっかく出かけるのだからと選んだものだ。キャリーバッグさえなければ、デートへ向かうようにも見えたかもしれない。
久しぶりに歩く池袋は、思っていた以上に楽しかった。
昔よく通っていた店が、まだ残っている。その隣には、知らない店ができていた。懐かしい看板を見つけるたびに足を緩め、新しい店の窓を覗いては、また歩き出す。
そうして気の向くまま歩いているうちに、見覚えのある店先に着いた。
――とらのあな。
三年前、よく連れてこられた店だった。
誰に連れてこられていたかまで思い出し、三鶴は少し笑った。
せっかくだし、一冊くらい買っていこう。
中へ入ると、棚には同人誌や本がずらりと並んでいた。見覚えのある作品もあれば、知らないものもある。
気になった一冊へ手を伸ばした、その時だった。
隣から伸びてきた手が、三鶴の指に触れた。
「すみません、どうぞ」
「すみません、どうぞ」
同じ言葉が重なった。
二人は驚いて顔を見合わせる。
「あれ……三鶴ちゃん?」
相手の女性が、口元へ手を当てた。
三鶴もつられて、同じ仕草をする。
「狩沢ちゃん……!」
数秒、互いの顔を確かめるように見つめ合った。
「きゃー! 久しぶり!」
また声が重なった。
そして、ここが店内だと思い出すのも同時だった。
二人はぴたりと口を閉じ、周囲を見回した。
だが、声は既に届いていたらしい。
「どうしたんすか、狩沢さん――って、うわ!」
棚の向こうから顔を出した遊馬崎が、目を丸くした。
「桜庭さんじゃないすか! 三年ぶりくらいっすかね?」
その後ろから、門田も姿を現す。
「久しぶりだな」
小さく微笑まれ、三鶴は少し照れくさくなった。
「ど、どうも~……帰ってきましたよ~」
「いつ帰ってきたの? ずっとこっちにいる?」
狩沢に顔を覗き込まれる。
「この間。とりあえず、二奈のところで働く予定」
「古今東西? じゃあ会いに行けるね!」
その言葉に、三鶴の頬も緩んだ。
狩沢は何かを思い出したように、軽く手を合わせる。
「そういえば! さっき紀田君に会ったのよ」
「え、紀田君って……紀田正臣?」
思わず聞き返した。
紀田正臣。
三年前、いろいろと関わりのあった少年だ。
互いに苦手な相手が同じだったこともあり、三鶴は彼に、姉のようなつもりで接していた。
最後に会った頃の顔を思い浮かべる。
逃げるように池袋を離れた自分を、正臣はどう思っているのだろう。
何か恨まれていなければいいのだが。
「久しぶりに会ってきたら? 私たち、買い忘れた本を買いに戻っただけだから。後でゆっくり話しましょ! 多分、まだ遠くには行ってないと思うし」
「そうだね。うん、顔見たいし、そうする! ごめんね、また今度!」
狩沢たちに手を振り、三鶴は店を出た。
キャリーバッグを引きながら、通りを見渡す。
正臣と初めて会った時、彼はまだ中学生だった。
場所は、三鶴が依頼を終えたばかりの現場。
そこには、彼女が殺した人間が倒れていた。
見られたら、目撃者も消す。
そう教えられてきた三鶴は、その時も同じようにするつもりだった。
けれど、少年は逃げなかった。
「お姉さん、何してんの? うわ、人死んでんじゃん……まさか、例の殺し屋、斬鬼?」
まるで道端で知り合いに会ったような調子で、へらっと笑った。
その顔を見ているうちに、なぜか殺す気が失せてしまった。
今でも、あの時のことはうまく説明できない。
あとになって、彼が黄巾賊という組織のリーダーだと聞いた時には、不思議と納得した。
普通の少年のように話すのに、妙なところで肝が据わっている。人を引きつける何かが、正臣にはあった。
それから、三鶴は彼に姉のようなつもりで接するようになった。
池袋を離れてからも、最初は連絡を取っていた。ただ、最近はそれも途絶えている。
久しぶりに会えば、何を言われるだろう。
そんなことを考えながら探したが、正臣らしい姿は見当たらなかった。
まあ、歩いていれば会えるかもしれない。
三鶴が再び足を動かした時、背後から声がした。
「ミツル、ヒサシブリ」
振り返ると、大柄な男が客引きのチラシを手に立っていた。
板前姿の、見慣れた顔。
「うっわ、サイモン!? やだ、超久しぶり!」
サイモンがにこりと笑った。
彼の寿司屋にも、昔はよく通っていた。今日は懐かしい顔にばかり会う。
「三鶴、ナツカシイね。オー、そういえば、さっきキダに会ったよ」
「紀田君に!? どっちに行った?」
サイモンは通りの先を指さした。
「遠く、行ってない」
「おっけ、ありがとう! 今度、お寿司食べに来るから!」
「ワカッタよ。待ってる」
三鶴は手を振り、教えられた方へ歩き出した。
ようやく、正臣に近づけた気がした。
サイモンと別れ、三鶴は少し足を速めた。
キャリーバッグの車輪が、歩道の継ぎ目で跳ねる。
通りの先に、見覚えのある後ろ姿があった。
歩き方も、隣の相手へ顔を向ける仕草も、覚えている。
「紀田君!」
呼ばれた少年が、驚いて振り返った。
間違いない。探していた紀田正臣だ。
隣にはもう一人、少年が立っていた。友達なのだろう。
「紀田、君……!」
三鶴は二人の前で足を止め、息を整えた。
正臣は目を丸くして彼女を見つめる。
「三鶴さん……! 帰ってきてたんすか!」
驚きは、すぐに嬉しそうな笑みへ変わった。
「うん。狩沢ちゃんたちに会って、さっきまで一緒だったって聞いたから。ずっと探してたよ。元気そうで何より」
「連絡してくれればよかったのに!」
「ごめんごめん。……えっと、そっちは?」
「ああ、こいつは俺の友達。竜ヶ峰帝人っす」
正臣が親指で隣を示す。
紹介された少年が、ぺこりと頭を下げた。
「初めまして……あ」
三鶴も、その顔を見て瞬いた。
「あれ。駅でぶつかった子?」
「はい。その時は、すみませんでした」
「いいって。こっちもよそ見してたし」
「何だ、もう会ってたのかよ」
正臣が二人の顔を交互に見る。
帝人も、少し不思議な気持ちで三鶴を見ていた。
つい先ほど、正臣から聞いたばかりだったのだ。
この街には、桜庭三鶴という、すごく格好いい女性がいたのだと。
ただ、今は池袋にいないとも聞いていた。
駅ですれ違った女性が、その人だったとは思わなかった。
「竜ヶ峰帝人、か。何か格好いい名前だね!」
「ありがとうございます」
桜庭三鶴も綺麗な名前だと思ったが、初対面同然の相手に言うのは気恥ずかしく、帝人は笑うだけにした。
「えっと、桜庭さんは、今は池袋にいないって聞いてたんですけど……」
「ああ、仕事の都合で戻ってきたの」
答えた三鶴の笑顔が、少しだけ曇った。
それ以上は聞かない方がいいのかもしれない。
帝人が別の話題を探していると、背後から声がした。
「やあ」
気軽な、よく通る声だった。
誰かが知り合いを見つけて、挨拶した。それだけに聞こえた。
けれど、正臣の顔から笑みが消えた。
三鶴も同じだった。
「……臨也」
小さく呟いた彼女の手が、キャリーバッグの持ち手を握り直す。
帝人が振り向くと、黒い服を着た青年が近づいてきていた。
「あれ、三鶴ちゃんじゃない? 帰ってきてたんだ」
青年は笑いながら、まっすぐ三鶴を見る。
「そうそう、ちょっと話したいと思ってたんだよね。連絡先――」
腕へ手が伸びた。
触れられる寸前、三鶴は身を引いた。
キャリーバッグを引き寄せ、そのまま踵を返す。
「三鶴さん!?」
正臣が呼び止める間もなく、彼女は人の間を縫って走り去った。
「あーあ。また逃げられちゃった」
残された青年は、少しも残念そうではなかった。
笑っている。
正臣は三鶴が消えた方を見つめた。
――俺らを置いていきやがった。
ようやく会えたと思ったら、これだ。
その隣で、帝人は何も言えずにいた。
青年は三鶴の姿が見えなくなるまで眺めてから、くるりと正臣へ向き直った。
「久しぶりだね、紀田正臣君」
△▽
三鶴は角を曲がり、ようやく足を緩めた。
キャリーバッグを引いて走ったせいで、腕も肩も疲れている。
後ろを振り返る。
追ってくる姿はなかった。
息を吐いて、持ち手を握っていた指を一本ずつ緩めた。
今日は、懐かしい人に何人も会った。
会えて嬉しかった。
だからといって、あいつにまで会いたかったわけではない。
臨也の拠点は新宿だ。池袋に来ることもあると分かっていたが、帰ってきて早々に出くわすとは思っていなかった。
あと少しで、腕を掴まれるところだった。
三鶴は自分の腕へ目を落とし、唇を噛んだ。
高校時代の、あの出来事以来だ。
臨也の視線が自分に向くと、知られたくなかったことまで、もう全て知られているのだと思い出す。
何を言われるのか。
何をさせられるのか。
考えるより先に、体が逃げていた。
人を殺す現場でさえ、これほど動揺することはなかった。
それなのに、折原臨也が笑って手を伸ばしてくるだけで、足が止まらなくなる。
「……最悪」
呟いてから、三鶴はもう一度、通りの向こうを確かめた。
正臣たちを置いてきたことを思い出したのは、その後だった。