「ただいまー」
キャリーバッグを引きながら、三鶴は『古今東西』の戸を開けた。
「もー! キャリーなくしたかと思えば帰ってこないで、何してたわけ!」
店の奥から二奈の声が飛んできた。
三鶴は戸を閉め、少しだけ肩をすくめる。
「ごめん。セルティに会って、そのまま泊めてもらってた」
「泊まるのはいいけど、連絡してよ。お姉ちゃんの部屋、用意して待ってたんだから」
「ごめんごめん」
今度は素直に謝った。
二奈は姉の顔を見てから、キャリーバッグへ目を落とした。
「荷物見つかったんだ!」
「うん。セルティが見つけてくれた」
「よかったぁ! じゃあ、先に置いてきなよ」
三鶴が頷いて歩き出すと、二奈はその後ろ姿に声をかけた。
「で、他に誰か会ったりした?」
「狩沢ちゃんたちと、サイモン。あと紀田君」
「へえ。お姉ちゃんからしたら懐かしい人ばっかりじゃん」
「はぁまぁ後は……臨也にも」
キャリーの車輪が止まった。
二奈は少し黙ってから、尋ねた。
「話したの?」
「逃げた」
「ああ……それで、そんなに急いで帰ってきたんだ」
二奈は少し考える。
「もうお姉ちゃんがこっちにいることバレたなら、うちで働くのはやめた方がいいね」
「なんで?」
「言ったでしょ、うちって訳ありの店だから。――裏稼業もやってるの」
三鶴は驚かなかった。
ただ、昔の記憶が蘇った。何度もさせられた〝修行〟と、それに耐え抜く妹の姿。
「二奈……」
「勘違いしないでよ? 私は結局、それでしか生きられなかったからさ」
二奈は、いつもと変わらない調子で言った。
「同じように悩んで、苦しんで、それでも光の世界で生きたい。そういう人を拾ってるだけ」
「そう。それが二奈のやりたいことならいいの」
「うん、そゆこと!」
頷いた二奈は、そこで少し声を落とした。
「だけど……臨也にまた目をつけられたら、ここで働くと、また〝こっち側〟に戻ってきちゃう可能性は高いよ。だから、大人しくしてた方がいい」
「はー、二奈には昔から助けてもらってばっかだな」
「何言ってんの!」
二奈は呆れたように言って、それから少し声を落とした。
「……最初に助けてくれたのはそっちじゃん。それに、お姉ちゃんのためならなんでもしたいの、私は」
三鶴は妹を見つめた。
あの頃は、ただ守りたかった。自分と同じ思いをさせたくなくて、必死だった。
その妹に、今はこうして帰る場所まで用意してもらっている。
「……ありがと」
「うん。だから、仕事のことはゆっくり考えなよ。部屋は好きに使っていいから」
二奈はそう言うと、三鶴の手からキャリーバッグの持ち手を取った。
「ほら、とりあえず荷物置いてきて。ご飯まだでしょ?」
「うん。お腹すいた」
「だと思った」
いつもの調子に戻った妹の後を、三鶴もついていった。
▽
――折原臨也。新宿に拠点を構える、得体の知れない情報屋だ。
桜庭三鶴とは、高校時代の同級生である。
そんな彼は今、自身の事務所で考え事をしながら、指先で机を叩いていた。
「臨也さん、何を悩んでいるんですか?」
首を傾げて彼を見つめるのは、桜庭一姫。十六歳。
三鶴の末の妹であり、今は臨也の雑用係といったところだ。
ツインテールに結んだ茶色の髪と、大きな瞳。愛らしい顔立ちの少女だったが、その目が熱心に追うのは、折原臨也ただ一人だった。
「別に、悩んじゃいないさ」
「そうですか……」
一姫は少し安心したように答えた。それでも、彼の指先が机を叩くたび、そちらへ視線を落としている。
臨也はその様子を見て、薄く笑った。
「ちょっと、懐かしい顔を見かけてね」
「お知り合いですか?」
「うん。君もよく知ってる人だよ」
一姫の顔を見ながら、臨也は続けた。
「三鶴ちゃん。池袋に帰ってきてたんだね」
机を叩く音が止まった。
一姫は、すぐには答えなかった。
「……はい?」
「はは、どう探しても見つからなかったからさあ。俺から逃げたくせに、のこのこ戻ってきちゃって。何やってるんだろうね」
臨也は椅子の背もたれに身体を預けた。
「でもまあ、会いたかったから嬉しいよ」
それから、一姫へ視線を向ける。
「――ね、一姫ちゃん」
同意を求めるような声に、一姫の表情が変わった。
愛らしい顔には不似合いな、苦虫を噛み潰したような顔。その変化を眺め、臨也はくつくつと笑った。
一姫が何を不快に思ったのか、彼は尋ねなかった。
姉が戻ってきたことか。それとも、姉との再会を喜ぶ自分の言葉か。
ただ、返事を待つように、彼女を見つめていた。
「俺はさあ、三鶴ちゃんが昔から大大大大大大っっっ好きなんだよ! いつも明るくて、友達も多くて。容姿端麗、文武両道? そんな完璧な人間が、実は人殺しって最高だよね!」
臨也は楽しげに両手を広げた。
一姫は笑わなかった。
「それなのに、本人は辞めたいって言うんだ。普通の女の子になりたいんだってさ」
広げた手を下ろし、臨也は一姫へ顔を向ける。
「俺は、殺し屋だからあの子が好きなわけじゃないよ。人を殺してきたあの子が、普通の幸せを欲しがる。そこが面白いんだ」
一姫は唇を引き結んだ。
臨也の口から姉への賛辞を聞くために、ここにいるわけではない。
「……お姉ちゃんの話、もういいです」
臨也の顔から、ふっと笑みが消えた。
つい先ほどまで楽しげだった男が、無表情で一姫を見つめている。
「そう? 残念」
一姫は思わず視線を落とした。
「とにかく俺は、三鶴ちゃんに殺し屋をやめてもらいたくないんだよ」
臨也は笑みを消したまま、そう続けた。
一姫はゆっくり顔を上げる。彼が何を考えているのか探るように、その目を見つめた。
「……どうしてですか?」
「決まってるだろ? その方が面白いからさ」
あまりにもあっさりした答えだった。
一姫は、次の言葉を待った。しかし、臨也はそれ以上説明するつもりがないらしく、机の上の携帯電話へ手を伸ばした。
「じゃ、そういうことで、三鶴ちゃんの連絡先を手に入れてきてくれる? 三鶴ちゃん、人望厚いから誰も教えてくれないんだよ」
携帯電話をつまんで見せる臨也の顔には、もう軽薄な笑みが戻っていた。
一姫は少し苛立った。
姉の話はもういいと言ったばかりなのに、今度は自分に姉を探させるつもりらしい。
「……私が聞いても、教えてくれないかもしれません」
「そう? でも、俺が聞くよりは可能性あるでしょ」
臨也は携帯電話を机に戻した。
「頼りにしてるよ、一姫ちゃん」
その一言に、一姫は断ろうとしていた言葉を飲み込んだ。
「俺には一姫ちゃんしかいないんだよ。これは、君だけへの〝お願い〟だ」
臨也は一姫の目を見て、そう言った。
姉の連絡先を探すなんて嫌だった。見つければ、彼はまた姉のことばかり気にするかもしれない。
それでも、君だけ、と言われると断れなかった。
「……分かりました。私が聞いてきます」
臨也は満足そうに笑った。
「ありがとう。助かるよ」
一姫も、ようやく小さく笑った
△▽
日付が変わるまで、もう間もなかった。
南池袋公園の片隅で、セルティは仕事の依頼人と向き合っていた。
折原臨也は札を数えながら、満足そうに笑っている。その少し先のベンチには、セルティが運んできた二人の女が横たわっていた。
『で、こいつらを公園のベンチに座らせて終わりか?』
PDAの画面を見せると、臨也は手元から顔を上げた。
「そ。お疲れさま、助かったよ」
今回の仕事は、人間を二人運ぶ手伝いだった。
指定されたカラオケボックスへ向かうと、臨也は部屋の中で、意識のない女をスーツケースに収めていた。何をしているのか尋ねる暇もなく手伝いを頼まれ、結局、事情を知らされないまま公園まで運ぶことになったのだ。
「いつもの便利屋が手一杯らしくてさ。いつもなら車でこいつらの実家まで運ばせるんだけど、あんたのバイクなら、この辺が限界かなーって」
セルティはベンチへ視線を向けた。
女たちは動かない。呼吸をしていることは確かめてあるが、それで気分がよくなるわけではなかった。
『警察沙汰になるような事か?巻き添えは御免だぞ』
「心配しなくていいよ。死んでるわけじゃないんだから」
そういう問題ではない。
セルティは新たな文字を打ち込んだ。
『なぜスーツケースに入れる必要がある』
臨也は答えず、数え終えた報酬を差し出した。
これ以上説明する気はないらしい。
セルティが受け取ると、彼は残りの札をしまいながら、ふと思い出したように言った。
「そういえば、桜庭三鶴の連絡先は?」
セルティは、臨也の手元から顔へ視線を移した。
それから、PDAに短く打ち込む。
『またか?』
「今日は本人にも会ったんだけどね。話す前に逃げられちゃって」
『何度聞かれても、本人の許可なく教えるつもりはない』
臨也は画面を読み、困ったように笑った。
「連絡先一つ聞くのも大変だなあ」
セルティは返事を打ちかけて、指を止めた。
断れば諦めるだろうと思ったのは、最初の一度だけだった。この男は機会があるたびに、同じことを尋ねてくる。
『どうしてそんなに三鶴にこだわる』
「こだわる?」
臨也はその言葉を繰り返した。
「昔からの知り合いを気にかけるのって、そんなにおかしいかい?」
『三鶴はお前と関わりたがっていない』
「うん、知ってるよ」
返事は早かった。知っていて、それでも聞いているのだ。
「でも、俺は話したいんだよね」
セルティはしばらく彼を見つめ、それから画面の文字を消した。
『それなら、なおさら教えられない』
「……そう。残念だな」
臨也はそれ以上食い下がらなかった。
ただ、セルティには、これが最後の質問になるとは思えなかった。
PDAをしまおうとすると、また声がかかった。
「ところで、君は死後の世界を信じてる?」
セルティは動きを止めた。
連絡先の話から、どうしてそこへ飛ぶのか。
臨也は冗談を言っている様子もなく、返事を待っている。
『急に何だ』
「ちょっと聞いてみたくて。君はどう思う?」
セルティは少し考えてから、文字を打った。
『死んでからでなければ分からない』
それを見せたあと、もう一文を加える。
『お前は?』
「俺は、ないと思ってる」
臨也はあっさり答えた。
「だから死ぬのは怖いよ。できるだけ長く生きていたいね」
セルティはベンチにいる女たちを見た。
その視線を追った臨也が、軽く首を傾げる。
『そんなことを言いながら、人に薬を盛るのか』
彼は笑った。
悪びれるでも、取り繕うでもない。まるで、話の矛盾を指摘されたことまで楽しんでいるようだった。
「終わったら何もできなくなるんだから、生きてるうちに、やりたいことはやっておきたいじゃないか」
セルティはPDAへ視線を落とした。
胸の内に浮かんだ嫌悪を文字にしたが、臨也が覗き込む前に消した。これ以上、彼の反応を見る必要はない。
PDAをしまい、ベンチへ目を向ける。運んできた女たちは、まだ眠っている。
「後は俺がやるから。今日はありがとう」
セルティは頷いた。
これ以上ここに留まる理由はない。バイクへ戻る彼女の背中に、臨也がもう一度声をかけた。
「三鶴ちゃんのこと、気が変わったら教えてね」
足を止め、セルティは振り返った。
臨也は笑っている。先ほど断られたことなど、気にしていないような顔だった。
セルティはPDAを取り出すと、一文だけ打ち込んだ。
『変わらない』
「そう。じゃあ、また今度」
まるで、次に聞けば違う答えが返ってくるとでも思っているようだった。
セルティは今度こそ彼に背を向けた
△▽
公園を離れた臨也は、夜の街をゆっくり歩いていた。
今日会った女たちの顔は、もう思い出そうともしなかった。
死にたいと言っていたことも、会話の内容も、今となっては興味がない。彼女たちが目を覚ましたあと、何を思って帰るのか。それを見届けるつもりもなかった。
関心がなくなれば、それで終わる。
この街には、ほかにも知りたいことがいくらでもある。
あの運び屋も、その一つだった。
声を出さず、顔を隠し、奇妙なバイクを走らせる女。仕事上の付き合いだけでは、その正体までは見えてこない。
それから、ダラーズ。
噂ばかりが増えていく、輪郭の曖昧な組織だった。誰がどこまで関わっているのか、確かめたいことが残っている。
臨也は胸ポケットからPDAを取り出した。
住所録を開き、ある名前で指を止める。
今日、紀田正臣の隣にいた少年。
三鶴が逃げ出した時、事情も分からず立ち尽くしていた、どこにでもいそうな少年だった。
――竜ヶ峰帝人。
臨也はその名前を眺め、口元を緩めた。
これから彼がこの街で何を見て、誰と関わっていくのか。今日の出会いだけで判断するには、まだ早い。
指を動かし、住所録を戻っていく。
そして、別の名前で止まった。
――桜庭三鶴。
「……三年か」
臨也は小さく呟いた。
白いワンピース。丸い眼鏡。高く結んだ髪。
こちらに気づいた途端、彼女の顔から笑みが消えた。
伸ばした手は、その腕に触れる寸前で空を切った。
あの一瞬なら、鮮明に思い出せる。
「せっかく会えたのに、挨拶もさせてくれないんだから」
独り言に返事はなかった。
三年前、彼女が姿を消した時も同じだった。別れの言葉も、行き先も告げず、自分の手が届くところからいなくなった。
それでも、池袋には帰ってきた。
セルティは連絡先を知っているのだろう。あの断り方なら、少なくとも三鶴と接触している。新羅もそうだ。二奈の店を訪ねれば、顔を見られる可能性は高い。
ただし、また逃げられる。
画面に残っているのは、以前の連絡先だった。
繋がらないと分かってからも、削除していない。
臨也はその項目を開いた。
普通の女の子になりたい。
何度も聞かされた言葉だった。
仕事を渡すたびに嫌な顔をして、文句を言って、それでも引き受けてきた彼女が、今度こそ辞めるつもりでいる。
本当に辞められるのか。
普通の生活を手に入れたら、どんな顔をするのか。
知りたいことは、まだいくらでもあった。
そして、その答えを自分の知らないところで出されるのは、面白くなかった。
一姫には連絡先を探すよう頼んである。
それで手に入らなければ、別の方法を考えればいい。
今日会った女たちの名前は、もう覚えていない。
だが、三年間会わなかった三鶴の連絡先は、こうして残っている。
臨也はしばらく画面を眺めてから、PDAをしまった。
「今度は、ちゃんと話そうね。三鶴ちゃん」