三羽の鶴は二度、羽ばたかない。   作:小池蒼司

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4.桜庭一姫

 

 

「ただいまー」

 

キャリーバッグを引きながら、三鶴は『古今東西』の戸を開けた。

 

「もー! キャリーなくしたかと思えば帰ってこないで、何してたわけ!」

 

 店の奥から二奈の声が飛んできた。

 三鶴は戸を閉め、少しだけ肩をすくめる。

 

「ごめん。セルティに会って、そのまま泊めてもらってた」

「泊まるのはいいけど、連絡してよ。お姉ちゃんの部屋、用意して待ってたんだから」

「ごめんごめん」

 

 今度は素直に謝った。

 二奈は姉の顔を見てから、キャリーバッグへ目を落とした。

 

「荷物見つかったんだ!」

「うん。セルティが見つけてくれた」

「よかったぁ! じゃあ、先に置いてきなよ」

 

 三鶴が頷いて歩き出すと、二奈はその後ろ姿に声をかけた。

 

「で、他に誰か会ったりした?」

「狩沢ちゃんたちと、サイモン。あと紀田君」

「へえ。お姉ちゃんからしたら懐かしい人ばっかりじゃん」

「はぁまぁ後は……臨也にも」

 

 キャリーの車輪が止まった。

 二奈は少し黙ってから、尋ねた。

 

「話したの?」

「逃げた」

「ああ……それで、そんなに急いで帰ってきたんだ」

 

 二奈は少し考える。

 

「もうお姉ちゃんがこっちにいることバレたなら、うちで働くのはやめた方がいいね」

「なんで?」

「言ったでしょ、うちって訳ありの店だから。――裏稼業もやってるの」

 

 三鶴は驚かなかった。

 

 ただ、昔の記憶が蘇った。何度もさせられた〝修行〟と、それに耐え抜く妹の姿。

 

「二奈……」

「勘違いしないでよ? 私は結局、それでしか生きられなかったからさ」

 

 二奈は、いつもと変わらない調子で言った。

 

「同じように悩んで、苦しんで、それでも光の世界で生きたい。そういう人を拾ってるだけ」

「そう。それが二奈のやりたいことならいいの」

「うん、そゆこと!」

 

 頷いた二奈は、そこで少し声を落とした。

 

「だけど……臨也にまた目をつけられたら、ここで働くと、また〝こっち側〟に戻ってきちゃう可能性は高いよ。だから、大人しくしてた方がいい」

 

「はー、二奈には昔から助けてもらってばっかだな」

「何言ってんの!」

 

 二奈は呆れたように言って、それから少し声を落とした。

 

「……最初に助けてくれたのはそっちじゃん。それに、お姉ちゃんのためならなんでもしたいの、私は」

 

 三鶴は妹を見つめた。

 あの頃は、ただ守りたかった。自分と同じ思いをさせたくなくて、必死だった。

 その妹に、今はこうして帰る場所まで用意してもらっている。

 

「……ありがと」

「うん。だから、仕事のことはゆっくり考えなよ。部屋は好きに使っていいから」

 

 二奈はそう言うと、三鶴の手からキャリーバッグの持ち手を取った。

 

「ほら、とりあえず荷物置いてきて。ご飯まだでしょ?」

「うん。お腹すいた」

「だと思った」

 

 いつもの調子に戻った妹の後を、三鶴もついていった。

 

 

▽

 

――折原臨也。新宿に拠点を構える、得体の知れない情報屋だ。

 桜庭三鶴とは、高校時代の同級生である。

 

 そんな彼は今、自身の事務所で考え事をしながら、指先で机を叩いていた。

 

「臨也さん、何を悩んでいるんですか?」

 

 首を傾げて彼を見つめるのは、桜庭一姫。十六歳。

 三鶴の末の妹であり、今は臨也の雑用係といったところだ。

 

 ツインテールに結んだ茶色の髪と、大きな瞳。愛らしい顔立ちの少女だったが、その目が熱心に追うのは、折原臨也ただ一人だった。

 

「別に、悩んじゃいないさ」

「そうですか……」

 

 一姫は少し安心したように答えた。それでも、彼の指先が机を叩くたび、そちらへ視線を落としている。

 

 臨也はその様子を見て、薄く笑った。

 

「ちょっと、懐かしい顔を見かけてね」

「お知り合いですか?」

「うん。君もよく知ってる人だよ」

 

 一姫の顔を見ながら、臨也は続けた。

 

「三鶴ちゃん。池袋に帰ってきてたんだね」

 

 机を叩く音が止まった。

 一姫は、すぐには答えなかった。

 

「……はい?」

「はは、どう探しても見つからなかったからさあ。俺から逃げたくせに、のこのこ戻ってきちゃって。何やってるんだろうね」

 

 臨也は椅子の背もたれに身体を預けた。

 

「でもまあ、会いたかったから嬉しいよ」

 

 それから、一姫へ視線を向ける。

 

「――ね、一姫ちゃん」

 

 同意を求めるような声に、一姫の表情が変わった。

 愛らしい顔には不似合いな、苦虫を噛み潰したような顔。その変化を眺め、臨也はくつくつと笑った。

 

 一姫が何を不快に思ったのか、彼は尋ねなかった。

 姉が戻ってきたことか。それとも、姉との再会を喜ぶ自分の言葉か。

 

 ただ、返事を待つように、彼女を見つめていた。

 

「俺はさあ、三鶴ちゃんが昔から大大大大大大っっっ好きなんだよ! いつも明るくて、友達も多くて。容姿端麗、文武両道? そんな完璧な人間が、実は人殺しって最高だよね!」

 

 臨也は楽しげに両手を広げた。

 一姫は笑わなかった。

 

「それなのに、本人は辞めたいって言うんだ。普通の女の子になりたいんだってさ」

 

 広げた手を下ろし、臨也は一姫へ顔を向ける。

 

「俺は、殺し屋だからあの子が好きなわけじゃないよ。人を殺してきたあの子が、普通の幸せを欲しがる。そこが面白いんだ」

 

 一姫は唇を引き結んだ。

 臨也の口から姉への賛辞を聞くために、ここにいるわけではない。

 

「……お姉ちゃんの話、もういいです」

 

 臨也の顔から、ふっと笑みが消えた。

 つい先ほどまで楽しげだった男が、無表情で一姫を見つめている。

 

「そう? 残念」

 

 一姫は思わず視線を落とした。

 

「とにかく俺は、三鶴ちゃんに殺し屋をやめてもらいたくないんだよ」

 

 臨也は笑みを消したまま、そう続けた。

 

 一姫はゆっくり顔を上げる。彼が何を考えているのか探るように、その目を見つめた。

 

「……どうしてですか?」

「決まってるだろ? その方が面白いからさ」

 

 あまりにもあっさりした答えだった。

 

 一姫は、次の言葉を待った。しかし、臨也はそれ以上説明するつもりがないらしく、机の上の携帯電話へ手を伸ばした。

 

「じゃ、そういうことで、三鶴ちゃんの連絡先を手に入れてきてくれる? 三鶴ちゃん、人望厚いから誰も教えてくれないんだよ」

 

 携帯電話をつまんで見せる臨也の顔には、もう軽薄な笑みが戻っていた。

 一姫は少し苛立った。

 

 姉の話はもういいと言ったばかりなのに、今度は自分に姉を探させるつもりらしい。

 

「……私が聞いても、教えてくれないかもしれません」

「そう? でも、俺が聞くよりは可能性あるでしょ」

 

 臨也は携帯電話を机に戻した。

 

「頼りにしてるよ、一姫ちゃん」

 

 その一言に、一姫は断ろうとしていた言葉を飲み込んだ。

 

「俺には一姫ちゃんしかいないんだよ。これは、君だけへの〝お願い〟だ」

 

 臨也は一姫の目を見て、そう言った。

 姉の連絡先を探すなんて嫌だった。見つければ、彼はまた姉のことばかり気にするかもしれない。

 

 それでも、君だけ、と言われると断れなかった。

 

「……分かりました。私が聞いてきます」

 

 臨也は満足そうに笑った。

 

「ありがとう。助かるよ」

 

 一姫も、ようやく小さく笑った

 

 

△▽

 

 

日付が変わるまで、もう間もなかった。

 

 南池袋公園の片隅で、セルティは仕事の依頼人と向き合っていた。

 折原臨也は札を数えながら、満足そうに笑っている。その少し先のベンチには、セルティが運んできた二人の女が横たわっていた。

 

『で、こいつらを公園のベンチに座らせて終わりか?』

 

 PDAの画面を見せると、臨也は手元から顔を上げた。

 

「そ。お疲れさま、助かったよ」

 

 今回の仕事は、人間を二人運ぶ手伝いだった。

 

 指定されたカラオケボックスへ向かうと、臨也は部屋の中で、意識のない女をスーツケースに収めていた。何をしているのか尋ねる暇もなく手伝いを頼まれ、結局、事情を知らされないまま公園まで運ぶことになったのだ。

 

「いつもの便利屋が手一杯らしくてさ。いつもなら車でこいつらの実家まで運ばせるんだけど、あんたのバイクなら、この辺が限界かなーって」

 

セルティはベンチへ視線を向けた。

 女たちは動かない。呼吸をしていることは確かめてあるが、それで気分がよくなるわけではなかった。

 

『警察沙汰になるような事か?巻き添えは御免だぞ』

「心配しなくていいよ。死んでるわけじゃないんだから」

 

 そういう問題ではない。

 セルティは新たな文字を打ち込んだ。

 

『なぜスーツケースに入れる必要がある』

 

 臨也は答えず、数え終えた報酬を差し出した。

 これ以上説明する気はないらしい。

 

 セルティが受け取ると、彼は残りの札をしまいながら、ふと思い出したように言った。

 

「そういえば、桜庭三鶴の連絡先は?」

 

 セルティは、臨也の手元から顔へ視線を移した。

 それから、PDAに短く打ち込む。

 

『またか?』

「今日は本人にも会ったんだけどね。話す前に逃げられちゃって」

『何度聞かれても、本人の許可なく教えるつもりはない』

 

 臨也は画面を読み、困ったように笑った。

 

「連絡先一つ聞くのも大変だなあ」

 

 セルティは返事を打ちかけて、指を止めた。

 

 断れば諦めるだろうと思ったのは、最初の一度だけだった。この男は機会があるたびに、同じことを尋ねてくる。

 

『どうしてそんなに三鶴にこだわる』

「こだわる?」

 

 臨也はその言葉を繰り返した。

 

「昔からの知り合いを気にかけるのって、そんなにおかしいかい?」

『三鶴はお前と関わりたがっていない』

「うん、知ってるよ」

 

 返事は早かった。知っていて、それでも聞いているのだ。

 

「でも、俺は話したいんだよね」

 

 セルティはしばらく彼を見つめ、それから画面の文字を消した。

 

『それなら、なおさら教えられない』

「……そう。残念だな」

 

 臨也はそれ以上食い下がらなかった。

 ただ、セルティには、これが最後の質問になるとは思えなかった。

 

 PDAをしまおうとすると、また声がかかった。

「ところで、君は死後の世界を信じてる?」

 

 セルティは動きを止めた。

 

 連絡先の話から、どうしてそこへ飛ぶのか。

 臨也は冗談を言っている様子もなく、返事を待っている。

 

『急に何だ』

「ちょっと聞いてみたくて。君はどう思う?」

 

 セルティは少し考えてから、文字を打った。

 

『死んでからでなければ分からない』

 

 それを見せたあと、もう一文を加える。

 

『お前は?』

「俺は、ないと思ってる」

 

 臨也はあっさり答えた。

 

「だから死ぬのは怖いよ。できるだけ長く生きていたいね」

 

 セルティはベンチにいる女たちを見た。

 その視線を追った臨也が、軽く首を傾げる。

 

『そんなことを言いながら、人に薬を盛るのか』

 

 彼は笑った。

 

 悪びれるでも、取り繕うでもない。まるで、話の矛盾を指摘されたことまで楽しんでいるようだった。

 

「終わったら何もできなくなるんだから、生きてるうちに、やりたいことはやっておきたいじゃないか」

 

 セルティはPDAへ視線を落とした。

 

 胸の内に浮かんだ嫌悪を文字にしたが、臨也が覗き込む前に消した。これ以上、彼の反応を見る必要はない。

 

 PDAをしまい、ベンチへ目を向ける。運んできた女たちは、まだ眠っている。

 

「後は俺がやるから。今日はありがとう」

 

 セルティは頷いた。

 これ以上ここに留まる理由はない。バイクへ戻る彼女の背中に、臨也がもう一度声をかけた。

 

「三鶴ちゃんのこと、気が変わったら教えてね」

 

 足を止め、セルティは振り返った。

 臨也は笑っている。先ほど断られたことなど、気にしていないような顔だった。

 

 セルティはPDAを取り出すと、一文だけ打ち込んだ。

 

『変わらない』

「そう。じゃあ、また今度」

 

 まるで、次に聞けば違う答えが返ってくるとでも思っているようだった。

 セルティは今度こそ彼に背を向けた

 

△▽

 

 

 公園を離れた臨也は、夜の街をゆっくり歩いていた。

 

 今日会った女たちの顔は、もう思い出そうともしなかった。

 死にたいと言っていたことも、会話の内容も、今となっては興味がない。彼女たちが目を覚ましたあと、何を思って帰るのか。それを見届けるつもりもなかった。

 

 関心がなくなれば、それで終わる。

 

 この街には、ほかにも知りたいことがいくらでもある。

 

 あの運び屋も、その一つだった。

 声を出さず、顔を隠し、奇妙なバイクを走らせる女。仕事上の付き合いだけでは、その正体までは見えてこない。

 

 それから、ダラーズ。

 

 噂ばかりが増えていく、輪郭の曖昧な組織だった。誰がどこまで関わっているのか、確かめたいことが残っている。

 

 臨也は胸ポケットからPDAを取り出した。

 住所録を開き、ある名前で指を止める。

 

 今日、紀田正臣の隣にいた少年。

 三鶴が逃げ出した時、事情も分からず立ち尽くしていた、どこにでもいそうな少年だった。

 

 ――竜ヶ峰帝人。

 

 臨也はその名前を眺め、口元を緩めた。

 これから彼がこの街で何を見て、誰と関わっていくのか。今日の出会いだけで判断するには、まだ早い。

 

 指を動かし、住所録を戻っていく。

 

 そして、別の名前で止まった。

 

 ――桜庭三鶴。

 

「……三年か」

 

 臨也は小さく呟いた。

 

 白いワンピース。丸い眼鏡。高く結んだ髪。

 こちらに気づいた途端、彼女の顔から笑みが消えた。

 

 伸ばした手は、その腕に触れる寸前で空を切った。

 あの一瞬なら、鮮明に思い出せる。

 

「せっかく会えたのに、挨拶もさせてくれないんだから」

 

 独り言に返事はなかった。

 

 三年前、彼女が姿を消した時も同じだった。別れの言葉も、行き先も告げず、自分の手が届くところからいなくなった。

 

 それでも、池袋には帰ってきた。

 

 セルティは連絡先を知っているのだろう。あの断り方なら、少なくとも三鶴と接触している。新羅もそうだ。二奈の店を訪ねれば、顔を見られる可能性は高い。

 

 ただし、また逃げられる。

 

 画面に残っているのは、以前の連絡先だった。

 繋がらないと分かってからも、削除していない。

 

 臨也はその項目を開いた。

 

 普通の女の子になりたい。

 

 何度も聞かされた言葉だった。

 仕事を渡すたびに嫌な顔をして、文句を言って、それでも引き受けてきた彼女が、今度こそ辞めるつもりでいる。

 

 本当に辞められるのか。

 普通の生活を手に入れたら、どんな顔をするのか。

 

 知りたいことは、まだいくらでもあった。

 そして、その答えを自分の知らないところで出されるのは、面白くなかった。

 

 一姫には連絡先を探すよう頼んである。

 それで手に入らなければ、別の方法を考えればいい。

 

 今日会った女たちの名前は、もう覚えていない。

 だが、三年間会わなかった三鶴の連絡先は、こうして残っている。

 

 臨也はしばらく画面を眺めてから、PDAをしまった。

 

「今度は、ちゃんと話そうね。三鶴ちゃん」

 

 

 

 

 

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