池袋に戻ってきた三鶴は、二奈が所有する社宅に身を寄せることになった。
ようやく始まった新生活。
しかし、一つだけ困ったことがあった。
「戸籍変えたせいで、お金使えなくなった……」
何もない部屋で、三鶴は一人呟いた。
博多で使っていた名前は、桜庭三鶴。
会社が襲撃される少し前、仕事の都合で、戸籍ごと坂堂芹奈へと変えていた。
それに合わせて、口座の金も引き出したり、移したり、隠したりしていたのだが、その途中で会社がなくなってしまった。
蓄えがないわけではない。
ただ、今の身分で自由に使える金は、思っていたより少なかった。
当面の生活には困らない。住む場所も、二奈が用意してくれた。
けれど、改めて部屋を見渡すと、三鶴はため息をついた。
何もなさすぎる。
持ち帰ったキャリーバッグと、借りた布団。それだけで、部屋の隅が埋まっていた。
「やっぱり、せめて洗濯機とベッドは欲しいよねぇ」
普通に暮らすにも、案外金がかかるらしい。
うー、と唸りながら携帯電話を取り出し、二奈へメールを打った。
『買い物行きたいんだけど、付き合ってくんない?』
△▽
「全くさあ、こっちも店あんだから、暇なわけじゃないんだよ?」
某家電量販店の洗濯機売り場で、二奈が言った。
「ごめんごめん」
いつもの軽い調子で謝ると、仕方ないな、とため息をつかれる。
「だって、頼れる人が二奈しかいないんだよ」
「分かってるけどさ……洗濯機くらい自分で選べば?」
ごもっともです。
三鶴は何も言えなかった。
だが、突然呼び出したにもかかわらず、メールを送ってからわずか五分ほどで迎えに来てくれたのだ。文句を言いながらも、こうして一緒に洗濯機を見てくれている。
なんだかんだ、姉に甘い妹である。
「笹木さんも、また来てもらってごめんね」
少し後ろに控えていた笹木へ声をかけると、彼は真面目な顔で答えた。
「いえ、自分はただの運転手なので。姉御のためなら、どこまでもお供します」
「お、おうよ」
そこまでの覚悟で洗濯機を買いに来てもらったつもりはなかった。
三鶴は曖昧に頷き、再び目の前の値札へ視線を戻した。
「買うもの決めてるの?」
二奈は洗濯機を一台ずつ見ては、蓋を開けたり閉めたりしている。
何の確認なのかは知らない。
「とりあえず洗濯機とベッドかな。その二つさえあれば生きてけるし」
「お姉ちゃん、もっとまともな生活した方がいいよ」
「今のどこでまともじゃない判定くらったん、私は」
二奈は答えず、隣の洗濯機へ移った。
「これとかいいじゃん!」
指さしたのは、ドラム式洗濯機だった。
例に漏れずドアを開け閉めしてから、満足そうに頷く。
「さっきから、それ何の確認なの? ……って、高っ!」
三鶴は値札を見て、思わず声を上げた。
――三十万。
もちろん、裏稼業で生計を立ててきた三鶴にとって、払えない額ではない。隠してある蓄えも、かなりある。
ただしそれは、坂堂芹奈として今すぐ使える金ではなかった。
「え? お姉ちゃんなら安いでしょ、こんなの」
「いや、うーん……」
三鶴は値札と洗濯機を交互に見た。
普通の女の子になる前に、まずは普通の女の子の予算を妹に説明しなければならないらしい。
「姉御、引っ越し祝いに自分が出しますよ」
「いやいや、初対面の人に出させるわけには」
三鶴は慌てて首を振った。
「厳密には、初対面ではありません。駅までお迎えに上がりましたので」
「そういう問題じゃなくてね?」
笹木は至って真面目だった。
三十万円の洗濯機を買うと言った人間より、買ってもらう側の方が動揺している。
「いいじゃん、笹木が出すって言ってんだから」
「二奈、あんたも止めてよ」
「だって、お姉ちゃんに快適に暮らしてほしいし」
「そのために笹木さんの財布を犠牲にしないで?」
困って笹木を見ると、彼は小さく頷いた。
「お気遣いなく。自分の意思です」
「逃げ道なくすのやめてもらっていい?」
むしろ払わせてほしい、と言わんばかりの笹木に、とうとう三鶴は根負けした。
「……じゃあ、お願いします」
小さな声でそう言うと、笹木は嬉しそうに頷いた。
「承知しました」
「よかったね、お姉ちゃん。これ、乾燥までやってくれるって」
二奈は何事もなかったように、洗濯機の説明を読んでいる。
三鶴はもう一度、値札を見た。
普通の生活を始めるつもりが、初日から三十万円の洗濯機を買ってもらってしまった。
△▽
「ご飯食べに行こうよ」
二奈の提案で家電量販店を出た三人は、少し歩いて、六十階通りの方へと向かった。
「案外変わってないんだね」
「そりゃ、たった三年で色々変わってたらたまんないよ!」
三鶴は通り沿いの店を眺めながら、二奈の隣を歩いていた。
ふと、前を行く男の後ろ姿に目が留まる。
「あれ。ねえ、あれ見て。なんか見覚えない?」
二奈の肩を叩き、その先を指さした。
金髪に、バーテンダーのような服。背が高く、がっしりした体格。
顔を見なくても、思い当たる人物は一人しかいなかった。
「おお! シズ先輩じゃん! おーい!」
二奈はすぐさま大きく手を振った。
気づいた男――平和島静雄が振り返り、こちらへ歩いてくる。
「おまっ、でかい声で叫ぶなよ」
「あはは! でも来てくれたじゃん!」
「ったく……」
呆れたように言いながら、静雄の視線が二奈の隣へ移った。
「……ん? おい、お前三鶴か!?」
「久しぶり」
三鶴が笑うと、静雄は驚いた顔のまま言った。
「帰ってきてたのか!連絡くらい寄越せよ」
三鶴は苦笑した。
静雄とは高校時代の同級生で、学生の頃はよく一緒に遊んでいた。
――臨也絡みで、揃って嫌な思いをしたこともある。
「連絡したかったんだけど、色々あって連絡先消えちゃって、できなかったんだよね。でも、この前からこっち戻ってきたからさ。また仲良くしてよ」
「当たり前だろ。とりあえず連絡先」
その即答に、三鶴の笑みが深くなった。
二人は携帯電話を取り出し、連絡先を交換した。
それから、二奈と笹木も一緒に、通りを歩き始める。
周囲には、来良学園の制服を着た生徒が大勢いた。
「それにしても、懐かしい制服だなあ。いつ来ても学生ばっかね、ここ」
「新学期始まる時期だしな」
静雄は行き交う生徒を一瞥し、三鶴へ顔を向けた。
「それより、こっち戻ってきて言うのもアレなんだけどよ。臨也、こっちにもたまに来てんだ。気をつけた方がいいぜ」
「あー……それなんだけど――」
三鶴がそう言いかけた時だった。
通りから少し入った路地で、騒がしい声がした。
その向こうに、この前会ったばかりの紀田の友達――竜ヶ峰帝人と、見知らぬ女子生徒がいた。
それから、折原臨也も。
「帝人君? うおっ」
声をかけようとした三鶴に、路地から走ってきた女子生徒がぶつかった。慌てて身を引くと、彼女たちはそのまま通りへ駆け抜けていく。
奥では臨也が高笑いしていた。
事情は分からないが、何かしらのトラブルなのは察した。
その時、隣からピキピキという音が聞こえた気がした。
ふと見ると、静雄の額に血管が浮いている。先ほどまで一緒に話していた男の視線は、臨也に釘づけになっていた。
「あ、ちょっと、静雄――」
止める間もなかった。
静雄は近くのコンビニエンスストアに置かれていた金属製のゴミ箱を持ち上げると、迷わず臨也へ投げつけた。
鈍い衝突音が響いた。
ゴミ箱は臨也の身体に直撃し、その足元へ落ちた。金属の音が路地に響き、帝人と女子生徒が身をすくめる。
臨也はよろめき、その場に膝をついた。
「……し、シズちゃん」
「いーざーやーくーん」
静雄の声を聞いて、三鶴はそっと二奈の方へ下がった。
「最悪だ」
三鶴は頭を抱えた。
学生時代に何度も見た光景を、今また目にするとは。
「池袋には二度と来るなって言わなかったっけかー? いーざーやー君よぉー」
「シズちゃん、君が働いてるのは西口じゃなかったっけ」
「とっくにクビんなったさー。それに、その呼び方はやめろって言ったろー? いーざーやーぁ。いつも言ってるだろぉ? 俺には平和島静雄って名前があるってよぉー」
静雄は低い声を響かせながら、臨也へと近づいていく。
通りを歩く人々まで、彼の進む先を避けていた。
三鶴はため息をついた。
その姿が静雄越しに見えたのか、臨也の顔がぱっと明るくなる。
「み、三鶴ちゃん! こんなところで会いたくなかったけど、嬉しいよ! はは、なんだかちょっとした同窓会みたいだねッ!?」
言い終えるより早く、静雄が拳を振るった。
臨也は寸前で身をかわしたものの、体勢を崩し、数歩後ずさる。
「てめえが三鶴の名前を呼ぶんじゃねえ!」
「やだなあ、シズちゃん。君に俺の罪をなすりつけたこと、まだ怒ってるのかな?」
「怒ってないぞぉー。ただ、ぶん殴りたいだけさぁ」
「困ったな。見逃してよ」
口ではそう言いながら、臨也は袖口からナイフを取り出した。
三鶴はそれを見て、二人から視線を外した。
路地に立ち尽くしている帝人と女子生徒へ声をかける。
「帝人君、だったよね。その子と、今のうちに逃げちゃって」
「三鶴さん、でも……」
「だいじょーぶ。ここにいたら危ないの、分かるでしょ?」
三鶴は通りの方を指した。
帝人は怯える女子生徒と顔を見合わせ、互いに頷いた。
「ありがとうございます!」
礼を言うと、二人はその場を離れ、走って路地を出ていった。
△▽
今日も、首の手掛かりは得られなかった。
セルティはバイクを走らせながら、新羅の言葉を思い返していた。
捜すのをやめれば、今の生活をそのまま続けられる。
帰る家もある。待っている者もいる。それを不幸だと思ったことはない。
それでも、首を捜すことだけは諦められなかった。
信号が赤に変わり、セルティはバイクを止めた。
「あ、セルティ」
歩道から声がした。
振り向くと、バーテンダーの服を着た男が立っている。
平和島静雄だった。
「ちょっと付き合ってくれないかな」
服のあちこちに、切り裂かれた跡があった。
その傷をつけた相手には、心当たりがある。
信号が青に変わると、セルティは交差点を曲がり、路地へ入った。邪魔にならない場所にバイクを止め、降りて静雄を待つ。
「臨也の奴がまた池袋に来ててさ……もう少しでぶん殴れたんだけど、あと一歩のところでサイモンに止められたんだ」
やはり、と思った。
静雄は、こうして話している限りでは落ち着いた男だった。セルティの姿にも、声を出さないことにも、余計な詮索をしない。
ただ、臨也の話になると、言葉の端に苛立ちが混じる。
高校時代から続く二人の喧嘩は、臨也が新宿へ拠点を移してからも終わっていなかった。どちらかが相手の街へ出向けば、また騒ぎになる。
静雄の服に残る傷は、今日もその繰り返しがあったことを示していた。
「俺は門田とか遊馬崎とは違って、何かやらかす時はいつも一人だった。それは臨也だって同じだと思う。あいつには仲間ってものがいないからさ」
静雄はそこで言葉を切った。
「……でも、思い出した。俺にはいたんだ」
セルティがヘルメットを傾けると、彼は少し声を落とした。
「三鶴。今日、会ったんだよ。帰ってきてた」
セルティはPDAを取り出した。
『知っている。うちにも泊まりに来た』
「そうか。……元気そうだったよな」
確かめるような言い方だった。
セルティは頷き、続きを打ち込む。
『お前も嬉しかったんじゃないか』
「そりゃな。三年も顔見てなかったんだ」
静雄は切り裂かれた袖へ目を落とした。
「あいつ、昔から俺がキレても、次の日には普通に話しかけてくるんだよ。昨日はうるさかったとか、あれ壊すなとか、文句は言うけどな」
セルティには、容易に想像できた。
「俺が何か投げたら、危ねえって逃げるくせに、昼になったら飯食いに行こうって来るんだ。……そういう奴なんだよ」
静雄の口元が、わずかに緩んだ。
「臨也のことで一緒に腹立てたり、くだらねえ話したりさ。あいつといると、俺も普通に友達と遊んでるだけだった」
『大事な友人なんだな』
「ああ」
今度は、迷わず答えた。
「三鶴みてえな奴は、ほかにいねえよ」
セルティは静雄を見つめた。
それから、PDAへ視線を落とす。
『三鶴は、もう殺し屋を辞めたいと言っていた』
「……そうか」
静雄はしばらく黙ったあと、頷いた。
「なら、辞めりゃいい。あいつがそうしたいなら、それでいいだろ」
『臨也は放っておく気がなさそうだ』
静雄の眉間に皺が寄った。
「だろうな。今日もあいつ、三鶴を盾にしやがった」
声に苛立ちが戻る。
だが、すぐに息を吐き、セルティへ顔を向けた。
「三鶴が困ってたら、俺にも言ってくれ。俺にできることなんざ、大してねえけどよ」
『本人にも、そう言ってやればいい』
「……連絡先は聞いた」
静雄はポケットの上から携帯電話を押さえた。
「今度は、ちゃんと飯でも食いに行くさ」
セルティは頷いた。
先ほどまで臨也への不満を口にしていた男が、今は友人と食事をする約束を考えている。
今日の再会は、静雄にとっても嬉しいものだったのだろう。
静雄は壁へ背を預け、通りを眺めた。
「俺だって、人と関わりたくねえわけじゃないんだよ」
セルティは黙って続きを待った。
「一人でいる方が面倒は起きねえけどさ。それで、ずっと一人でいたいかって言われりゃ、そうでもねえし」
通りを歩く人々が、二人へちらりと目を向けては通り過ぎていく。
破れたバーテンダーの服と、黒いヘルメット。
奇妙な組み合わせではあるが、足を止める者はいなかった。
静雄からは酒の匂いがした。喧嘩を止められたあと、露西亜寿司で飲んできたのかもしれない。
セルティは急がせず、しばらくその話に付き合っていると___
「しかし、臨也の奴、何でこの街に来たんだ?」
セルティはPDAへ視線を落とした。
臨也が池袋へ来ること自体は、珍しくない。
だが、新宿を拠点にする男が、二日続けて姿を見せている。静雄と鉢合わせする危険を冒してまで来るなら、それなりの理由があるのだろう。
「そういやあいつ、来良学園のガキに何か話しかけてたような気が……」
セルティの指が止まった。
そちらも気になるが、臨也がこの街へ足を運ぶ理由は、もう一つ思い当たる。
『三鶴のことも気にしている』
静雄は画面を読むと、眉をひそめた。
「……あいつ、何か言ってたのか?」
『昨夜も連絡先を聞かれた。断ったが』
「まだ探してんのかよ」
静雄は舌打ちした。
セルティは、昨夜の臨也を思い出していた。
三鶴に逃げられたと話す顔には、困惑よりも楽しさがあった。断られても、嫌われていると告げられても、話したいと言っていた。
そして今日も、池袋にいる。
帝人への用事があったのだとしても、三鶴がこの街に戻ったことは、臨也にとって足を運ぶ理由を一つ増やしたのかもしれない。
『三鶴が戻ったと知って、来る機会が増えなければいいが』
「増やさせねえよ。新宿に引っ込んでりゃいいんだ、あいつは」
静雄は吐き捨ててから、少し間を置いた。
「三鶴は、やっと帰ってきたんだぞ」
セルティは頷いた。
三鶴にとっては、ようやく始められる普通の生活だ。
臨也がその変化を面白がっているとしても、彼女が付き合ってやる必要はなかった。
「……あいつに、余計なちょっかい出させたくねえんだよ」
そこまで呟いて、静雄は不意に言葉を止めた。
街の雑踏へ目を向け、眉をひそめる。
「何の騒ぎだ?」
静雄の呟きに、セルティも周囲へ視覚を向けた。
通りを歩く人々の何人かが、同じ方向を振り返っている。その視線の先には、一人の女がいた。
十代後半ほどに見える、パジャマ姿の女。
彼女はおぼつかない足取りで、夕暮れの街を歩いていた。