逆行した進藤ヒカルのTSモノ   作:アオハルなんて無かった

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其の七

「なんで真柴さんなんだよ! 理不尽だろ……! なんで私のところに来てくれなかったんだ……!」

 

 この日、ヒカルは荒れた。

 そのショックはかつて佐為と別れたときに匹敵し、逆行して女に生まれ変わったときを凌いだ。

 彼女は佐為に自分の碁打ちとしての人生を全て捧げても良いと思っている。生涯、佐為という親友の影として碁を打ち続けてもいいと願っていた。

 その夢は叶えられるはずだった。自らが藤原佐為となることによって。

 もう少しで佐為の碁は完成するはずだったのである。

 

 ここに来ての()()()佐為の出現はヒカルにとって碁に対する情熱を失わせるに等しかった。

 

「プロになるの辞めちまおうかな……」

 

 本物の佐為がいるのなら自分が藤原佐為を演じる意味はない。

 真柴はきっと佐為に全部打たせるだろう。碁の世界は佐為の碁を知ることとなるだろう。

 ヒカルのやろうとしていたことは何もしなくても達成されるのだ。

 彼女の中に大きな虚無感が生じても無理はないことであった。

 

(本物の私、見つかっちゃいましたね)

 

 イメージの佐為はどこか他人事のように言った。

 

(私は嬉しいです。あなたが私のために碁を打ってくれるなんて。私のために私として生きると言ってくれたことも。ですが私の望みはヒカル……あなたの囲碁人生の礎になることです)

 

 そう言って彼は優しく笑った。

 その笑顔を見て、ヒカルの中で何かが切れた。

 今まで溜め込んできたものが一気に噴出する。

 

「うわああああっ!! うぐっ……」

 

 彼女は号泣した。それはもう子供のようにわんわん泣きじゃくった。

 

「私が一体何をしたって言うんだよぉ!!」

 

 佐為はそんな彼女を黙って見つめている。

 

「私は、私は、お前に居てほしかった! ずっと碁を打ち続けたかった! 居なくなったなら、私がお前になるしかないじゃないか!? それなのにどうして……!」

 

 佐為はそっと手を伸ばした。そして涙で濡れる頬に触れようと手を伸ばす。

 しかし指先は彼女に触れることなくすり抜けた。

 

(……ごめんなさい)

 

 佐為は悲しげな表情を浮かべた。

 彼が望んでいることは分かっている。だがそれを言葉にすることはできなかった。

 

「謝んなよ……。そんなこと言われたら、余計辛くなるじゃんか……」

 

 ヒカルの目から再び大粒の涙が零れた。

 今、彼女には二つの選択肢がある。

 本物の佐為がいる以上、自分はヒカルとして、進藤ヒカルとして自らの碁を打つという選択。

 そしてもう一つは――。

 

「認めない、真柴さんのところにいる佐為なんて私は知らない! 本物の佐為はここにいる! 私の打つ碁が本物の“佐為の碁”だ!」

 

 歪んだ佐為の碁へのこだわり、執着、そして愛憎。

 

 それが彼女の心を狂わせた。

 ヒカルは佐為を見据えると強い口調で言う。

 

「いいか、よく聞け。私は佐為の碁を打ち続ける! 本物の佐為だって、世界中の誰もがそうだと疑わなくなるその日まで!」

 

 佐為はその言葉を聞いて大きく目を開いた。

 

(ヒカル……)

 

 ヒカルの中に新たな決意が生まれた瞬間だった。

 そしてこの日からヒカルは佐為の碁にさらに磨きをかけることになる。

 彼女の心に迷いはなかった。それが彼女が選んだ道……。

 

「私が藤原佐為になってやる」

 

 ヒカルは本物の佐為がいるにも関わらず、自らが藤原佐為となることを決意したのであった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 そしてプロ試験は続いていく。ヒカルは当然のように圧倒的な棋力を見せつけて全勝をキープしている。

 

「へっへっへ、こりゃあプロ試験は楽勝だな」

 

 そしてもう一人……全勝をキープしているものがいる。

 彼女と同様に完全無欠の棋力を見せつけて、受験者たちを蹴散らす院生。そう、真柴充である。

 

「どうも~、伊角さん。よろしくお願いします」

「あ、ああ」

 

 対局相手の顔色など全く気にせず、真柴は自分のペースで対局を始める。

 彼の実力に圧倒されて、院生トップの実力者である伊角ですら序盤から防戦一方であった。

 

 真柴の碁はまさに神業の一言である。

 まるで神様が盤面全体を見通しているかのごとく棋譜。

 その光景を間近で見ている他の受験生たちは唖然としていた。

 

「真柴さん、一体どうしちまったんだ?」

「伊角さんですら、手玉に取られるなんて」

「あの塔矢アキラを倒したのもどうやら偶然じゃないらしい」

 

 真柴の碁を目の当たりにした者たちは口々にそう呟いた。

 

「あ、ありません」

「あれぇ? もう終わりですか? 残念ですねぇ。伊角さんならもうちょっと粘ってくれると思いましたが」

 

 投了した伊角に対して真柴は平然と言った。

 

(こいつは……本当に何者なんだ?)

 

 真柴の正体を知っているのはヒカルだけである。

 他の受験生は冴えない院生にすぎなかった真柴の棋力が神域に迫っていることをただ、不思議に思うばかりであった。

 

「真柴、失礼だぞ。いくら勝ったからといって――」

「敬語使ってるだけマシですよね? 直に俺はタイトルホルダーになりますし、そしたら伊角さん俺に敬語使ってくださいね」

「……」

 

 傍から聞いていたヒカルは呆れ果てた。

 こんな奴にどうして佐為が憑依したのか理解できない。

 

「さて、じゃあ俺は先に白星の記録つけてきますわ。伊角さんも相手が悪かったということで次頑張ってくださいね」

「くっ……」

 

 こうして真柴は難なく全勝をキープして、ヒカルとの対戦する日を迎えることになった。

 

「進藤さん、明日は真柴さんと対戦だけど勝算はあるのかい?」

「えっ? 塔矢……、じゃなかった、塔矢アキラくん? どうしたの、珍しいね。私に声をかけるなんて」

 

 真柴の対戦を見たあと家に帰ろうとしたヒカルはアキラに話しかけられる。

 アキラは名人の息子として期待されていたが、初日に真柴に惨敗。しかし、その後は全勝をキープしており、真柴とヒカルに次ぐ戦績を残している。

 

「いや、別に深い意味はないよ。君は全勝でずっと首位だし、それに……」

「ん? 何か言いたいことがあるならはっきり言ってよ」

「その……、君の棋風がまた少し変わったように見えて……」

「そっか……。まぁ、あなたにはバレちゃうよね。でも大丈夫だよ。私は負けないから」

 

 ヒカルは自信満々な様子だった。

 その笑顔はどこか大人びて見えて美しく、アキラは思わず見惚れてしまう。

 だがすぐに我に返ると慌てて視線を逸らした。

 

(いけないっ……! 思わず進藤さんの顔を凝視してしまった)

 

 アキラの顔は見る間に赤く染まる。

 だが、ヒカルはそんな彼の気持ちにはまったくといっていいほど気付いていない。

 

 まさか、前世で憎まれ口を叩き合うライバルだった彼が彼女に好意を抱いているなど想像だにしていなかった。

 

「塔矢くん、熱でもあるの? 明日の対局に緊張してるとか?」

 

 ヒカルは心配そうな表情を浮かべながら、アキラの額に手を当てる。

 

(――ッ!?)

 

 その瞬間、アキラの心臓がドクンと高鳴った。

 

(……あ、温かい。父さんと打つときよりも緊張している)

 

 ヒカルの手の感触が心地よい。このまま時が止まってしまえばいいのに……。

 アキラは心の中でそう思った。

 

「うん、やっぱり熱いかも。無理しない方がいいんじゃない?」

「あ、ありがとう。僕は大丈夫だから」

「本当? それならいいけど」

 

 ヒカルは安心したような笑みを見せる。

 彼女の微笑みを見て、アキラの胸は再び大きく鼓動を打った。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 そして翌日、いよいよプロ試験も大詰め。

 この日は真柴対ヒカルの全勝同士の対局である。

 

「アイドルのクセに強いんだって? ちっとは俺を苦戦させてくれると期待しているぜ」

「ふんっ、余裕ぶっていられるのも今のうちだ。私があなたを倒してやる」

 

 二人は対局開始前から火花を散らしていた。

 ヒカルの挑戦的な態度が気に入らないのか、真柴は舌打ちすると乱暴に座る。

 

「チッ、芸能人でちやほやされて調子に乗ってるかもしれねぇが、お前なんかこの場でボコボコにしてやるから覚悟しとけ!」

「ふーん……。言うじゃないか。幽霊に打たせて勝っているくせに口だけは達者なんだな」

「――っ!? な、なんのことだ? 言ってる意味がわかんねぇな……」

 

 ヒカルの言葉を聞いて真柴は明らかに動揺した。

 

(こいつ……、何故それを……?)

 

 真柴は確かに佐為の力を借りて全勝をキープしているが、それは誰にも知られていないはずなのだ。

 なのにどうしてヒカルが知っているのか真柴は混乱した。そんな真柴に対してヒカルは不敵な笑みを浮かべる。

 まるで全てを見透かすかのように――。

 

(お、おい! 佐為てめぇ! 俺の他に誰かに取り憑いたことあるのかよ!?)

(ええ、ですから江戸時代に虎次郎という――)

(そんな昔じゃなくて! 最近の話だ!)

(いいえ、虎次郎の次は(みつる)、あなたのもとに行きましたから)

(そ、そうか。霊感が異様に強くて佐為が見えるとか? まぁどうでもいいか。それより早くあいつをぶちのめしてくれ)

(……わ、わかりました)

 

 佐為にしては珍しく渋々といった様子で返事をする。

 だが真柴にとってはそんなことはどうでもよかった。今は目の前にいる女を倒すことだけを考える。

 佐為が打てば負けることはない。佐為は絶対だ。それに、ヒカルがどんなに幽霊を使って対局していると主張しても証拠などどこにもない。

 

 そう思うと真柴は自信を取り戻していく。

 そして定刻になり、対局が始まった――。

 

(こちらの女性、今までの対戦相手とは実力がまるで違いますね。虎次郎の時代にはこれほどの使い手はいませんでした)

 

 佐為は真剣な眼差しで盤面を見ながらつぶやく。

 

(それでもお前が負けるなんてあり得ねぇだろ! さっさと打てよ!)

(…………)

 

 佐為は黙々と指し進める。その動きには迷いがない。まさに神業だった。

 

 しかし、ヒカルにもまた佐為が宿っている。幾千、いや幾万のイメージによる対局によって完成された佐為が彼の脳内には存在するのだ。

 

 つまりこの対局は、佐為VS佐為。本来ならあり得ぬはずの対局だった。

 互いに一歩も譲らぬ激しい攻防が続く。

 

「…………」

 

(流石は佐為と言いたいところだが、ところどころに甘い部分がある。勉強サボっていたのか知らねぇけど! 佐為はそんなに弱くねぇ!)

 

 ヒカルは内心イラつきながらも懸命に応戦する。

 その一手、一手の読みの深さは並ではない。

 ヒカルは自らの心の中に創り出した佐為の力は彼の記憶の中の全盛期の彼を超えていたのである。

 前世で本因坊を獲得したほどのヒカルとイメージの対局を数え切れぬほど経験した佐為の力は、もはや神の域に達しているといっても過言ではなかった。

 

 一方、真柴に取り憑いた佐為は真柴充という男が怠惰な性格ということもあり、前世のヒカルに取り憑いていたころと比べて勉強不足が目立つ。

 

 その上まだ現世にきて間もなく、幸運にもプロ試験に挑む者たち――比較的にレベルの高い対戦者に恵まれて現代の定石をマスターしていたが、そこ止まりであった。

 

 つまりヒカルのイメージによって生まれた佐為の実力が経験値の差によって、真柴に取り憑いた本物の佐為を上回るという逆転現象が起こってしまったのである。

 

(……なるほど、そういうことでしたか)

(はぁ? なにを納得しているんだ?)

(彼女は私です……、いえ、彼女の中にもまた私がいるのです)

(意味が分からんぞ! もっと分かりやすく説明しろよ!)

(私にもよくわかりませんが、そこにもう一人私がいるんですよ。正確には私になり済まそうとしていると言いましょうか)

 

 真柴は佐為の言っていることが分からずに首を傾げる。

 一方、佐為はそんな会話をしながらも一切の手を止めていない。

 

(もういい! とりあえず俺のために勝ってこい!)

(はい! ……と、言いたいですが、彼女は私よりも強い。まるで未来の私と戦っているような感覚です)

 

 最後の言葉は真柴には聞こえないように彼は呟く。

 そして佐為は心より残念に思う。仮初の自分を装っているヒカルにすら敵わぬことと……ヒカル本人の碁を見ることが叶わぬことに。

 

(ですが、この先どうなるかはわかりませんね)

 

 だが佐為は気づいていた。この勝負は自分の()()だと――。

 

 佐為は勝利を確信していた。

 なぜならヒカルの打つ手が徐々に弱くなっているからである。

 

 彼女は佐為のイメージをするにあたって脳細胞に多大なる負担をかけていた。

 そのため、彼女の思考回路は徐々に鈍くなり、ついにはまともに考えることすらできなくなっていたのだ。

 

 それでも、ヒカルは必死になって喰らいついてくる。

 佐為の前に座っているヒカルもまた佐為なのだ。

 二人は同時に互いの存在を認め、己の存在を賭けて戦う。

 

(あなたが勝つにはあなた自身に戻るしかありませんよ)

(……くっ、私は佐為だ! 見ただろ! 私のほうが強い! より洗練された佐為の碁を打っていた!)

 

 一手打つたびにヒカルの頭の中に佐為の声が響き渡り、自らの中にある佐為の力が弱まるのを感じて焦るヒカル。

 

(それはあなたが作り上げた幻想です。本当の強さは本物にしか宿らない)

(う、うるさい! そんなことない!)

 

 佐為の言葉を聞かずにヒカルは盤面に集中する。

 しかし、次の瞬間――。

 

 パチンッ。

 ヒカルが打った一手に佐為が反応した。

 

(あ、あれ? どうしてこんなところに石を?)

 

 その手はあまりにも強引な一手だった。

 佐為ならば決して打たないような手。……それはまさしくヒカル自身の一手である。

 

(な、なぜ私はこんな手を!? こんなの佐為の碁じゃねぇ!)

 

 その一手に最も動揺したのは他でもない打ったヒカル自身。

 

 佐為が打たぬ手を打ったという……そう佐為の碁を否定するという。矛盾した行動をしたからだ。

 

(ほら、やっぱりあなたはあなたの碁を打ちたいんですよ)

(ち、違う! 今のはちょっと間違っただけ!)

(……ふふ、楽しくなってきました。それで生き延びられる自信があるなら見せてください)

 

 ヒカルは動揺していたが、それと同時に歓喜する気持ちもあった。

 またあの日のように佐為と碁を打っている。その事実に興奮していたのだ。

 

(手が止まらない! ダメなのに! こんなの佐為の碁じゃないのに!)

(そうですか。これが本来のあなたの碁なのですね! 進藤ヒカルの碁……!)

 

 ヒカルは自らの意志とは無関係に手を動かし続ける。

 まるでもう一人の自分が勝手に打っているかのように――。

 

 佐為が打ち、ヒカルが受け、そして返す。

 先程まで清流のような碁を打っていたヒカルだが、今は違う。まるで苛烈な炎が吹き荒れているようだった。

 

(……この勝負、私の負けですね)

 

 佐為は静かに微笑む。

 

(えっ、今なんて言った?)

(……私の敗北です)

 

 その言葉を聞いてヒカルは驚く。

 目の前に座っているのは間違いなく佐為であり、ヒカルが憧れ続けた最強の棋士。

 そんな彼が、進藤ヒカルに……そう自分に負けたと言ったのだ。

 

(そっか、勝ったのか……。私があの佐為に……。……でもなんでだろう、全然嬉しくないや……)

 

 ヒカルは喜びよりも虚しさを感じていた。

 佐為に成ろうとして、佐為として一局に挑んだヒカル。

 だが、結局はそのヒカルが彼女自身のヒカルの碁を打ってしまったが為に佐為を倒してしまったのだ。

 

 それがどれほど残酷なことか彼女以外には理解できないだろう。

 

(充、私負けてしまいました。すみません)

(はぁ? くそっ、複雑すぎて俺には全然わからん! 本当にここから逆転できんのか!?)

 

 真柴は佐為の言葉を聞いても、まだ信じていなかった。

 それほどまでに今までの佐為の碁は完成されていたからである。

 

(まぁいいさ。一敗くらい……佐為が打つ限り俺はプロになっても安泰だ)

 

 しかし真柴も考え直す。たかが一敗、佐為ならばすぐ取り戻すだろうと……。

 だが、彼の予想は大きく外れることになる。

 なぜなら、この対局で佐為は満足して近い将来、成仏してしまうのだから……。

 

「ありません……」

「ありがとうございました」

 

 真柴はヒカルに敗北を宣言して対局は終了した。

 ヒカルはゆっくりと立ち上がり、深々と頭を下げてから部屋を出て行く。

 

「ちくしょう……!」

 

(私、まだ佐為に成れていなかった)

 

 ヒカルは自らの行いを恥じて涙を流す。

 しかし、ヒカルはすぐに気を取り直した。

 なぜなら自分にはまだまだ時間が残されていたから……。

 

「今度はもっと佐為として、佐為らしく……。私の碁はもっと心の奥底に消し去ってやる」

 

 ヒカルは決意を新たにした。

 そして二度と自らの碁は打たないと心に誓う。

 たとえどんな劣勢になろうとも――。




真柴さんのこと知らぬという人はググってね!
プロ棋士編はまたいつか、書けたらいいな!!
あと、念のためですが佐為とヒカルの会話は全部ヒカルの妄想です!

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