白雲朧の妹がヒーローになるまで。   作:セバスチャン

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※1/18追記:杳が治崎について言及するシーン書き足しました。


No.49 誰かの為に

『それなら心配ないわ。壊理ちゃんの身柄はアメリカで保護します』

「……()()()()?」

 

 愛らしい女性の声が、自身の腹部ら辺で聴こえる。――ラブラバの声だ。杳は慌ててパーカーの前ポケットを探り、スマートフォンを取り出した。なんと画面上にラブラバが映っていて、こちらを見つめて”Hi”と手を振っている。

 

 杳はラブラバやジェントルの連絡先を知らない。なのに何故、ラブラバが自分とLive通話が出来ていて――そして更に追及するならば――壊理の話も知っているのか。杳は頭の中が質問で溢れすぎて、黙りこくってしまった。よく見ると、ラブラバは自室のテーブルに腰かけているようだった。周りには無数の電子媒体が設置されている。恐らくその一つと繋がっているのだろう。ラブラバは恥ずかしそうに頬に両手を当てた後、もじもじとしながらこう言った。

 

「ごめんなさい。びっくりしたわよね?……実は貴方が心配で、時々()()()()()()()して様子を見ていたの」

「え?」

「ストーカーじゃないの」

「それで今回の件を聞いて……」

 

 マグネのツッコミを右から左へ聞き流し、ラブラバは憂わしげな表情を浮かべた。――ラブラバは人一倍愛情深い性格で、自分達の恩人である杳の動向をずっと気にかけていた。”お互いの状況が一段落したら帰国して、杳に会いに行こう”とはジェントルと話していたが、その前に彼女の身に何かあっては大変だからだ。目の前で攫われかけた前例もある。そのため、ジェントルがHeat Campに勤しんでいる間、ラブラバは杳のスマホにハッキングして定期的に近況を傍受していた。そして、壊理の件を知ったのだ。

 

 ラブラバは優しい目で笑いかけた。あの時に淹れてくれたハーブティーの香りを思い出し、杳の目尻に涙が滲む。

 

「私達にも協力させて」

「ダメだよ!ジェントルはヒーローになったんでしょ?ラブラバは支えてあげなくちゃ」

 

 このタイミングで話しかけてきた事から鑑みて、ラブラバの言葉は予想できなかったものではなかった。だが、杳は激しく(かぶり)を振る。――二人はずっと暗い場所で、息を潜めて生きてきた。ジェントルがアメリカでプロヒーローになったという吉報は、真からのReinメッセージで知っている。やっと念願叶い、新しい人生のスタートを切ったのだ。邪魔をしたくなかった。けれども、ラブラバは小首を傾げて、悪戯っぽく笑ってみせる。

 

「ええ。もちろん支えるわ。貴方を救けるヒーロー(ジェントル)をね」

「ラブラバ……」

 

 ラブラバの言葉に迷いはなかった。後に続く言葉もなく、杳は抑え切れなくなった涙を零れ落とす。それは二人に対する感謝の涙であり、彼らを犯罪に巻き込んでしまった事に対する後悔の涙でもあった。二人の援助を振り切れるほど杳の精神は熟達しておらず、また戦力も潤沢ではない。俯いて泣きべそをかく杳の顔を掬い上げるように覗き込んで、ラブラバは明るい声で言葉を続けた。

 

「ジェントルは夜更け頃に着くはずよ。……それに、作戦にオペレーターは必要でしょ?」

 

 杳はぐしゃぐしゃになった顔でぎこちなく笑い、白い息を吐きながら小さく頷いた。――仲間が増える毎に、杳の精神的重圧も高まっていく。今や彼女の肩には、支えきれないほど大勢の人々の命運がかかっていた。

 

 

 

 

 ラブラバは早速、死穢八斎會と関係の深い建築会社を特定し、社内システムにハッキングして本拠地の構造図を盗み出した。実際に屋敷内を歩き回って測量した嘘田の地図と照らし合わせ、改めて作戦内容を話し合う。議論が一段落つき、ふと腕時計を見ると、もう時刻は18時を過ぎていた。――作戦は夜明け前に始まる。正直食欲はなかったが、皆の腹ごしらえは必要だ。杳はリュックを背負って立ち上がった。

 

「食料買ってくるよ」

「私も行くわ」

「いいよ。一人で大丈夫。ご飯炊いといてくれない?」

 

 杳は夢路の助けをやんわりと拒絶した。外は台風の真っ只中、風に煽られた看板や他の何かにぶつかり、怪我でもしたら大変だ。――”怪我でもしたら”。杳は虚ろな声で呟いた。今宵の作戦は夢路も同行する。台風の怪我が可愛く思えるほどの大傷を負うかもしれない。心の奥底で蠢き出したマイナスな思考を、杳はなんとか振り払った。夢路が傘代わりにとくれた、やたらにファンシーなデザインのレインコートを着ると、玄関のドアノブに手を掛ける。

 

「お酒もお願ぁい」

「いや未成年だから」

 

 マグネのおねだりを軽くいなし、杳はドアを開け――た途端に凄まじい豪風と雨が吹き込んできて、思わずギュッと目を閉じる。周囲の世界は濃灰色に染め上げられ、激しい水流の中をもがきながら進んでいるようだった。幸いな事にコンビニは歩いて数分足らずの場所にある。入口の前でさっと水気を落とすと、杳は店内に入った。

 

「らっしゃーせー」

 

 杳はフードを下げると、店員の気のない挨拶に小さく礼をして会計カゴを取った。飲料や缶詰、惣菜などの類をカゴの中に放り込んでいく。大量に食料を買っても、この台風という状況下では、うっかり()()()()準備を忘れたためだと思われ、後々不審がられる事はないだろう。――”不審がられる”。まるで(ヴィラン)の考え方だと、杳は苦笑いした。だが、すぐにその笑みは消える。そう、敵なのだ。自分のしようとしている事は。ふとデザートコーナーを通りすがった時、苺のタルトを見つけ、杳は吸い寄せられるようにその前に立った。

 

「……」

 

 もし兄の魂が黒霧の中じゃなく天国にあって、今の自分の姿を見ていたとしたら、一体どう思うだろう。杳は想像しようとして、()()()()()()。苺のタルトの隣にあるチョコレートケーキを取り、レジに向かう。

 

 ――だが、もし(ヴィラン)と認定されても、兄の(かたき)と手を組んでも、全てを失っても、壊理を救いたかった。その想いだけが杳の心の底でエンジンとなって唸りを上げ、今に至るまで彼女を我武者羅に前進させ続けていた。

 

(貴方は誇りに思うべきだ。彼に選ばれた事を)

 

 かつて黒霧の放った言葉が、自身の心に突き刺さる。あんな恐ろしい事を言えるまでに、兄は変貌してしまった。壊理にはそうなってほしくない。自分も夢路と同じで、救えなかった家族の無念を晴らそうとしているだけなのかもしれなかった。”救えなかった”、その語句が杳の心にまたもやブレーキを掛ける。――本当に救えないの?未練たらしく叫び始めた内なる声を無視し、杳は吸入器を取り出して薬を服用した。ずっしりと重たいレジ袋を持って、俯いたまま歩き出す。

 

 

 

 

 帰る道すがら、ふと視線の先に()()()()()を認め、杳はレジ袋を持ち直した。このまま行けばぶつかってしまう。迂回するために進行方向を変えようとしたその時――

 

「こんな台風模様に外出とは感心しないな」

 

 ――静かな男の声が、杳の耳朶を打った。杳は顔を上げ、思わず()()()()()。白のシンプルなレインコートをきっちり着込んだ長身の男が、こちらを見つめている。緑色の髪に走る金色のメッシュ、眼鏡の奥に光る鋭い眼差し――この界隈を守るヒーロー”ナイトアイ”だ。心臓が早鐘を打ち始める。それを何とか押さえつけ、杳は愛想笑いをした。

 

「はい。食べもの買うの忘れちゃって。これから帰るとこです」

「ならば送って行こう。君は確か、友人宅に滞在していたな」

 

 杳は眉をひそめて、ナイトアイを仰ぎ見た。彼の表情は依然として冷たく無表情なままだ。だが、その目は異様に鋭かった。まるでサーチライトのように力強い光を帯びている。周囲を吹き荒れる雨風の音が急速に遠のいて、自身の心音だけが体内でドクンドクンと響き始めた。

 

「何故そんな事を知っている?と言いたげな顔だ」

 

 ナイトアイは眼鏡を指で軽く持ち上げた後、フードの位置を微調整した。

 

「白雲杳。君の保護網は解除されたわけじゃない、()()()()()だけだ。スマートフォンに内臓されたGPSによって、君の位置情報や大まかな近況はHN(ヒーローネットワーク)で常時共有されている」

「そ、そうなんですか。びっくりした」

 

 杳は必死でその場を取り繕おうとした。――神野事件から凡そ一月余りが経過している現在、保護網は緩められ、許可を取れば外出できるようになり、スマートフォンなどの電子媒体の使用も許可されたという事は知っていた。だが、()()()()()は初耳だ。主な手続きを取っていたのは両親だったので、気を遣って言わなかったのかもしれない。知っていたなら、もっと慎重に動いたのに。そう思ったが、今となってはどうしようもできない。

 

 兄の演技をしていた頃の感覚を思い出せ。杳は自身を叱咤した。ちょっと驚いた振りをして肩を竦めてみせた後、杳はナイトアイの隣を通り過ぎようとする。

 

「お気遣いありがとうございます。でも……すぐ近くなので大丈夫です」

「私が付いていくと困るのか?まるで誰かを匿っているような反応だ」

 

 杳の歩みがピタリと止まる。気持ちを顔には出さなかったが、彼女の体は正直に表現した。手足が細かく震え出す。恐る恐る見上げたナイトアイの目は、かつてエンデヴァーが自身に向けたものと同じ()()()を内包していた。

 

「我々は秘密裏に指定敵団体”死穢八斎會”を違法薬物の製造・販売容疑で追っていた。本日昼頃、私の相棒(サイドキック)が……公園で君と胡蝶夢路、そして構成員の嘘田要助が会話をし、胡蝶の自宅に入っていくのを確認した」

 

 公園のベンチでタコ焼きを食べていた青髪の女性を思い出し、杳の全身から冷たい汗がぶわっと吹き出した。今や心臓は口から飛び出しそうなほどに激しく脈打っている。――あのアパートには()()()がいる。今乗り込まれたら言い逃れはできない。杳は覚悟を決め、ナイトアイの前に立った。

 

「ナイトアイ。全て話します。私が首謀者です。だから、皆に手を出さないで。……死穢八斎會の本拠地に少女が捕えられています。どうかあの子を救けてください」

 

 ナイトアイは杳の自白を聞いても動揺する素振りを見せなかった。寸分の狂いもなく整えられた眉をわずかにひそめ、彼は冷たい声でこう言った。

 

「君は指定敵の()()を間に受けたのか?嘘田の個性は”嘘吐き”だ」

「……え?」

 

 杳はポカンと口を開け、間抜けな声を出した。嵐のように吹き荒れていた脳内が、漂白剤をぶちまけられたように()()()になる。――嘘田の個性が嘘吐き?そんな事実、知らなかった。だが、どんな個性にしろ、彼は治崎の手でそれを奪われているはずだ。

 

「でも、”個性を奪われた”って」

「それも嘘だ」

 

 ナイトアイは目頭を押さえると、溜息を零した。――最近、この界隈で若者が行方不明になる事件が相次いでいる。恐らく八斎戒の差し金だろうと踏んでいたが、まさかこの子が餌食になるとは。敵とは賢しい存在である事を、ベテランヒーローであるナイトアイは誰よりも知っていた。息をするように嘘を吐き、誰かを苦しめる。でまかせのエピソードを語り、自分を哀れに見せて警戒心を解く手法は、敵の十八番だ。

 

「夢の個性で見たんです。夢路の個性で……ッ!」

「胡蝶夢路は長年、躁うつ病で治療を受けている。精神安定剤と睡眠導入剤を常用中だ。個性で見た夢かどうかも定かではない。……君は、少女が()()()()()()だと証明できるのか?」

(だけど、これは夢なのよ。警察もヒーローも信じてくれない。……妄想だって。弟の時も)

 

 それは、今まで信じてきたものを根底から覆そうとする言葉だった。かつて聞いた夢路の嘆きが、耳内で虚ろに反響する。杳は思わずよろめいて、レジ袋を地面に落とした。――ダメだ、絶望するな!杳は弱気になりかけた自身を叱咤した。ナイトアイは嘘田が嘘を吐いていて、夢路の夢は妄想だと言う。だけど、()()二人を信じる。壊理ちゃんを救けるんだ。

 

「胡蝶の家まで同行してもらおう。君達を精査する。もしその少女が実在するなら、()()()、我々が必ず救出する」

「それじゃ遅いんです、()()()じゃなきゃ!あの子は明日から三日間、酷い目に遭わされ続けるんです!」

 

 杳は形振り構わずにナイトアイにしがみ付き、切なる声で訴えた。鋭利な刃のような瞳と、涙に濡れた瞳がぶつかり合う。極限状態に置かれた事で、いつになく精神が研ぎ澄まされた杳は――ナイトアイの目の奥に――わずかな()()()()()が滲んでいるのを感じ取った。ナイトアイは抵抗する素振りも見せず、冷静に言い放つ。

 

「我々はオールマイトにはなれない。回りくどいと思うだろうが、確実にその子を救うために分析と予測を重ね、慎重に動く必要がある」

 

 杳は茫然として立ち竦んだ。――ナイトアイの言葉は尤もだ。しかし、理解できても納得はできなかった。変わり果てた兄の姿が閉じた瞼の裏に浮かび、杳は静かに頭を振った。もう二度と、あんな想いは。指先が真っ白になるほど強く両の拳を握りしめると、杳は今にも怒りで爆発しそうな声で唸った。

 

「あなたが動かないなら()()行きます。この場を見逃してください」

「愚かな考えだ。君は(ヴィラン)になるつもりか?」

「壊理ちゃんを救うためです。だけど、あなたは違う。()()()()()()だけだ!」

 

 杳の悲痛な叫びは空中で鋭い矢に変わり、ナイトアイの心臓に突き立った。思わず凝視した少女の瞳に、()()()()()()が映り込む。――オール・フォー・ワンとの決闘で深刻な後遺症を負っても尚、ヒーローで在り続けようとしたオールマイトの背中に、ナイトアイは涙ながらに言葉を叩きつけた。

 

(私はあなたの為になりたくて、ここにいるんだ!オールマイト!)

(世の中の為に、私はここにいるべきじゃないんだ。ナイトアイ)

 

 五年間、身を粉にして尽くしてきた相棒(サイドキック)の懇願は、オールマイトの足を止めるに至らなかった。ナイトアイにとって、オールマイトは全てだった。だからこそ、オールマイトがいずれ迎えるだろう()()()()を肉眼で見る事など堪えられなかった。

 

 杳の言葉は、ナイトアイの心的外傷(トラウマ)を無情に穿り返した。ナイトアイは一度目を閉じて古傷の痛みを振り払った後、厳格な眼差しを杳に向ける。若者の未来を閉ざすわけにはいかない。ナイトアイは右耳に付けたインカムに軽く触れた。

 

「安い挑発には乗らない。……バブルガール。1分後に突入を」

 

 ――夢路のアパートに相棒を待機させている!杳は決死の覚悟で、ナイトアイに()()()()()()。だが、彼の方が数枚上手だった。完全に雲化する前に杳の体を地面に叩きつけ、個性を強制解除した後、難なく組み伏せる。そして何事もなかったかのように、相棒との会話を続行した。突然揉み合っているような物音が耳に飛び込んできて、アパートの付近に潜んでいるバブルガールは思わず警戒した声を発する。

 

『サー?大丈夫ですか?』

「問題ない。……白雲杳。君を個性不正使用、及び公務執行妨害で逮捕する」

「……いっ……ッ!」

 

 杳は泥だらけの地面に組み伏せられたまま、ピクリとも動く事ができなかった。ナイトアイが四肢の関節を押さえているために激痛が生じ、雲化する事ができないのだ。雨と泥で塗れた顔を、悔悟の涙が伝った。――私のせいだ。全部、無駄になる。皆が罪に問われてしまう。

 

 対するナイトアイは、杳が()()()()抵抗した事を疑問に思った。プロヒーロー相手に個性を使って挑むなんて浅はかな行為を――いくら興奮状態にあったとしても――ヒーロー科の雄英生がするとは思えない。まさか、この奥にもっと()()()()()が潜んでいるのでは。敵連合の面々が脳裏に浮かび、ナイトアイは少女の顎を掴むと、素早く自分に向けた。

 

「すまないが、事は急を要する。君の全てを見せてもらおう」

 

 見る間にナイトアイの眼球が黒く染まり、不可思議な文様が浮かぶ。――彼の個性は”予知”、1時間の間その人物の取りうる行動を先に"見る"事ができる。カメラのフィルムのような形式で、ナイトアイの視界に、杳の未来が一コマずつ映し出されていく。数時間後の未来に、杳と共に戦う敵連合の一味を目の当たりにし、ナイトアイはぎりっと唇を噛み締めた。やはり不安は的中した。だが、その先にある未来を見る内に、彼の思考はどんどん混乱の最中に巻き込まれてゆき、やがてあるワンシーンで完全に停止した。

 

 ――オールマイトが生きている。()()()()姿()を取り戻し、自分の傍らに立って、いつものように笑っている。

 

 どうあっても変えられなかった絶望が、明るい色に塗り替えられている。積年の想いが怒涛のように込み上げて来て、あっという間に脳内を埋め尽くし、集中力を削がれたナイトアイは予知を解除した。杳はかすかな違和感を覚えたものの、何が起きているのかまでは分かっていなかった。数分前に服用したばかりの鎮静剤が、知覚能力を鈍らせていたためだ。

 

「君は何だ?」

 

 ナイトアイの言葉は杳に対する問い掛けではなく、独白に近いものだった。呆気に取られたままの杳を置き去り、ナイトアイはインカムの通信を再開する。

 

「バブルガール。突入は中止だ。私の勘違いだった」

「え……?」

 

 最早何がどうなっているのか分からないと言わんばかりの杳を助け起こすと、ナイトアイは地面に落ちたレジ袋を拾い上げ、渡した。杳は小さく礼をしながら受け取り、訝しげにナイトアイを仰ぎ見る。――”全てを見る”と彼は言った。一体、彼は自分の()を見たのだろう。そして何故、自分を見逃してくれたのだろう。ナイトアイはインカムの通信を切ると、再びこちらを見下ろした。

 

「君の作戦、私も微力ながら援助しよう。だが、今回限りだ。この先、どれほど多くの人々を救おうと、私は君をヒーローとは認めない。認めてはならない。……これは、私への戒めだ」

 

 ――ヒーローとしての矜持よりも、オールマイトの命を選んだ自分自身への。

 

 ナイトアイの瞳は、冷たくも優しくもない、複雑な感情を宿した光を帯びていた。ただ訳もなく、杳の瞳から涙が流れた。――悲しいのか嬉しいのか、安心しているのか、自分の感情が分からない。最早何が正しいのか、間違っているのかも分からなかった。今まで生きてきた家を追い出され、宛もなく一人で歩いているような気分だった。

 

 とても悲しくて、寂しくて、けれど前に進まなければならなかった。激しい雨風に弄られ、よろめきながらも、杳はあるべき場所に向けて歩き続ける。その後ろ姿が商店街の角を曲がり、完全に見えなくなった直後、ナイトアイは静かに口を開いた。

 

()()()()

「あららバレてた」

 

 飄々とした声と共に、路地裏の暗がりからホークスが姿を現した。剛翼を傘代わりにして雨風を器用に防いでいるため、コスチュームは一切濡れていない。人を食ったような笑みを浮かべると、ホークスはナイトアイに向け、力強くサムズアップしてみせた。

 

「さすがはナイトa――」

「茶番はいい。君は彼女の何を知っている?」

 

 ――途端にホークスの軽薄な笑みは消え去り、目の奥に猛禽類を思わせる鋭さが燃え上がった。

 

「いーや、まだ何も。泳がせてる最中で。逆に何か知ってます?」

 

 

 

 

 杳は黙ってアパートに帰り着いた。濡れ鼠となった杳を見るや否や、夢路は浴室からバスタオルを取ってきて、小さな子供にするように杳の体を拭き始めた。

 

「どうしたのよ。泥だらけじゃない」

「ちょっと転んじゃった」

「ドジねぇ」

 

 ナイトアイと出くわした事を、杳は誰にも言わないと決めていた。言ったとして、余計な混乱を招くだけだ。

 

 杳が買い物に行っている間に、夢路は塩をまぶしたおむすびを大量に作ってくれていた。杳がおむすびに齧りついていると、夢路のスマートフォンが震え出した。夢路は口をもごもごさせながらロックを解除し、素っ頓狂な声を上げる。

 

 夢路のスマートフォンには町内会の回覧板代わりのアプリが入っていて、それに”台風接近に伴う近隣住民避難のお知らせ”という通知が更新されたらしい。杳がそっとカーテンを開いて外の様子を伺うと、住民達がヒーロー達の先導に従って、公民館へ避難しているところだった。

 

(君の作戦、私も微力ながら援助しよう)

 

 ナイトアイの言葉が、杳の心に跳ね返ってくる。――ヒーローとしての矜持を度外視して、自分を救けてくれた彼の為にも、ますます負けるわけにはいかなかった。

 

 だが、杳の悲壮な感情はそう長く続かなかった。いよいよ夢路の住む地区に辿り着いたジェントルがアパートとの距離を縮める度、ラブラバが画面越しに黄色い歓声を上げるからだ。皆が迷惑そうな顔で装備の点検をしていると、ついにインターホンが鳴った。卒倒しそうなほどの勢いでラブラバが叫ぶ。

 

『きゃあああっ!ジェントルが来たわ!私も一緒に連れてって!』

「分かったから落ち着いて……」

 

 杳はスマートフォンを手に取って立ち上がり、玄関のドアを開けた。そして口をあんぐりと開けたまま、茫然とした。

 

 ――そこには()()()()()()()とした男性が立っていた。英国紳士風のスマートな雰囲気はそのままに、服の上からでも分かるほどの筋肉が育っている。精神的にも肉体的にも、一回りほど大きくなった印象だった。ジェントルが渡米してから三週間も経っていない。本場アメリカのヒーロー訓練はそんな短期間で、これほど結果にコミットするのかと、杳は舌を巻いた。

 

 画面越しの恋人に熱烈な投げキッスを送った後、ジェントルは杳を真っ直ぐに見つめた。杳はおずおずと口を開いた。新天地で幸せに暮らしていた二人を戦いに巻き込んでしまった事を、謝りたかったのだ。けれども杳が何かを言う前に、ジェントルは優しく微笑んで、彼女の肩にポンと手を置いた。

 

「杳。大丈夫だ。必ず成功させよう」

「……うん」

 

 太陽のように力強いその言葉とスマイルは、杳の心中に渦巻くネガティブな感情を瞬く間に融かしていった。幼子のように泣きじゃくる杳、その様子をからかうマグネを見ながら、嘘田は静かに思いを馳せた。

 

 ――独りで戦い、死ぬのだと思っていた。だが、今はこんなに大勢の仲間がいる。全て()()()()のおかげだ。どこにでもいる平凡な子供のように思えるが、不思議な事に皆、彼女の下に集っている。義爛が何故、彼女と商談をしたのか、嘘田には分かったような気がした。じんわりと滲んだ目元の涙を拭っていると、スピナーが引き攣った声を出した。

 

「おいジジイ……まだ何も始まってねーぞ」

「うるせーな耄碌(もうろく)しちまったんだよ、年のせいでなぁ!」

 

 根っからの()()()である嘘田は、素直にお礼を言う事ができなかった。嘘田は鼻をすすりながらもスピナーに言い返し、ジェントルと軽い挨拶をした後、杳の頭を撫でてからアパートを出た。

 

 週に一度、嘘田は昼から夜頃まで外出するという習慣を作っている。遊びのためではなく、()()()()()のためだ。今更、掃除夫である自身を気にかける人間などいないと思うが、念には念を入れ、彼はいつも通りに酒とつまみを買った後、屋敷の門をくぐった。自分の(ねぐら)である庭先のバラック小屋に足を向けると――庭の片隅に一株だけ、ポツンと花開いた――紫陽花(あじさい)が目に入った。激しい雨風に負けじと、小さな花の群れが身を寄せ合っている。嘘田の脳裏に、()()()()の記憶が蘇った。

 

 

 

 

 今を遡る事、数時間前。嘘田達はローテーブルを囲んで、作戦の再考に勤しんでいた。ジェントルとラブラバという新たな仲間が参入した事で、選択肢も増える。皆であれこれと作戦内容を話し合っていたその時、杳がおもむろに口を開いた。

 

(治崎さんって人、逮捕されるのかな)

(そりゃそうでしょ。証拠品と壊理ちゃん、サツに突き出すんだから)

 

 マグネはおどけて肩を竦めた。それから首を掻っ切るジェスチャーをして、舌をペロリと出してみせる。

 

(良くて終身刑、悪けりゃ死刑になるでしょうね。こんだけ悪いコトしてんだし。……私も人の事言えないけど)

(……そっか)

 

 杳は膝を抱えて俯いた。しばらくの間、何かに想いを馳せているかのように目を閉じて黙り込んでいたが、やがてゆっくりと瞼を持ち上げ、悲しそうな声でポツリと呟いた。

 

()()()だね)

(ちょっとあんた、ガン萎えなんだけど。そういうのやめてくれない?)

(ご、ごめん。別にその、かばうとかそんなんじゃないんだけど)

 

 マグネがサングラス越しに放った非難の眼差しに思わず首を竦めつつ、杳は浮かない顔で言葉を続けた。

 

(大切な人の為に一生懸命頑張ってたはずなのにな、と思って)

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 風に弄られて、淡い紫色に輝く花弁が飛んでくる。嘘田は空いた手を伸ばしてそれを掴み取った。杳の言葉を聞いたからと言って、彼の決心が揺らぐ事はない。治崎はあまりにもやり過ぎた。然るべき場所へ連れてゆき、報いを受けさせるしか道はない。今更、後に引く事はできないのだ。しかし――

 

(大切な人の為に一生懸命頑張ってたはずなのに)

(返したいだけだ)

 

 ――かすかな花の香りと記憶の声が、一陣の風と共に、嘘田の心を撫でていった。佐伯と一緒に帰ってきた時の治崎の幼い顔がふと思い起こされ、嘘田は耐え忍ぶように唇を噛むと、花弁を握り込んだ。刹那、吹き荒ぶ雨風に紛れて、ゾッとするほど()()()()が彼の背中に突き刺さる。

 

「遅かったな。何してた?」

 

 嘘田は静かに振り返った。広々とした玄関の屋根下に、()()が影のようにひっそりと立って、こちらを睨んでいた。仄暗い闇の中、金色の目だけが不気味に浮かんでいる。嘘田は卑屈な笑みを口元に浮かべると、まとわりつくような猫撫で声でこう言った。

 

「なぁ、治崎。()()()があるんだ」

 

 

 

 

 翌日、午前3時10分前。杳は浅い睡眠から目覚めると、枕元に置いた自身のリュックを引き寄せた。サイドポケットからスマートフォンを取り出し、一ヶ月振りにラジオアプリをタップする。チューニングを”HERO FM”に合わせ、イヤフォンを耳に突っ込んだ。毎週金曜日――つまり今日――プレゼント・マイクは深夜1時から早朝5時まで”PresentMICのぷちゃへんざレディオ”というラジオをノンストップで放送している。

 

 ――怖気づいているのかもしれないと、杳は思った。平和な頃は聴こうと思わなかったマイクの声が、有事の際に恋しくなるなんて。自分勝手も甚だしい。杳は自分がますます嫌になって、布団の中で縮こまった。やがて波長が合ったのか、懐かしい陽気な声が耳に飛び込んでくる。杳の予想通り、この時間帯は”PresentMICのお悩み相談室”のコーナーを開いているようだった。彼女は息を潜めて、()()()を待った。

 

『……マイリスナー・ホワイトクラウドからのお便りだ』

 

 マイクが杳のラジオネームを読み上げた途端、彼女の目から熱くて塩辛い涙が溢れ出た。

 

『”間違う私を許してくれますか?”』

 

 杳が送ったメッセージは――ありきたりな挨拶も何もかもをすっ飛ばした――怪文書めいたものだった。ほとんどのリスナーはラジオ前で茫然としている事だろう。さしものマイクもその意味を解読するのに時間を要したのか、しばらく黙り込んでいた。やがて彼は、静かに燃える炎のような声を絞り出す。

 

『許すぜ、マイリスナー。他の誰が許さなくたって、俺が許す。たとえ間違いだろーが……()()()()にすることなら、それは間違いじゃない』

 

 ――その言葉で、杳の心はどれほどに救われただろう。マイクに()()()()しまったのかもしれないと、杳は思った。マイクは杳がしようとしている事を知らないし、弱きを救う模範的なヒーローだから。だけど、やっぱり私にとってあなたはヒーローだ。こんなどうしようもない生徒で、ファンでごめんなさい。でも、今日だけは甘えさせてください。杳は布団の中で一頻(ひとしき)り泣いた後、立ち上がった。

 

 リュックの中身を出していると、着替えに混じって――かつて航一が自分にくれた――オールマイトのなりきりパーカーが入っている事に気付いた。急いで準備をしたので、箪笥の奥にしまっていたのを一緒に掴んで、持って来てしまったらしい。

 

 杳はリュックの底にタオルを敷き、捕縛用ワイヤーロープ、マスク、スタングレネードと催涙手榴弾を仕舞い込んだ。ハーフズボンのベルトにキーホルダーを取り付け、ベレッタとアサルトライフルをホルスターで肩から吊るす。そしてその上から、鮮やかな三原色のパーカーを羽織った。所々に傷やほつれのあるパーカーの生地をなぞり、それから腰元で揺れるキーホルダーを握り締め、杳は心の中で()()に謝った。

 

 ――約束を守れなくて、ごめんなさい。でも、今日だけでも、あなた達に誇れるヒーローになれるように頑張るから。必ず壊理ちゃんを救け出す。全員で生きて帰るんだ。杳は決意と覚悟を秘めた眼差しで、戦支度を終えた仲間達を見渡した。

 

 アパートのドアを開けると、凄まじい雨風が吹き込んだ。もう時刻は朝の4時を示しているのに、分厚い積乱雲が空を覆っているせいで、真夜中のように暗いままだ。恐ろしい咆哮を上げて雷が閃き、夢路は怖気づいたように一歩引いた。しかし、ごくりと唾を飲んで、震える声で囁く。

 

「行きましょう」

 

 ――そうして、ならず者部隊(ローグフォース)は出撃した。




いつもこの拙いSSを読んでくださり、そして感想や評価、誤字訂正してくださり、本当に本当にありがとうございます( ;∀;)
今年もマイペースに書いていきますので、気長にお見守りいただけましたら幸いです(*´ω`)

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