白雲朧の妹がヒーローになるまで。   作:セバスチャン

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※作中に恋愛表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。


No.59 想いは同じ”

 ――夢を見る。

 受刑者になる(ここに来る)までは、夢なんて見なかった。

 

 極道は絶滅危惧種と同じだ。敵にも民間人にも成り切れない、()()()()

 一瞬でも気を緩めれば、敵対組織に潰される。ヒーロー共に足を掬われる。

 

 肩肘張って、敵だらけの世界を泳ぐ。

 疲れ果てて帰って来ると、あの娘の怯えた顔が待っている。

 

 気の休まる時など、立ち止まる暇など、今まで少しもありはしなかった。

 

 

 

 

 神野事件の三日後、八斎會一家――()()達の判決が下った。全員、有罪。彼らは日本各地に点在する刑務所に移送され、ほとんどの者は独居房に入れられる運びとなった。

 

 室内にあるのはトイレとベッド、それ以外は何もない。あの戦いで、私物も全て――屋敷ごと無くなってしまった。手紙や差し入れを送りそうな連中は皆、自分と同じ刑務所に入っている。面会は週に一度、弁護士がガラス越しに裁判の進捗状況を伝える位のものだった。

 

 一日の間に数度ある食事と業務、そして弁護士との面談を終えれば、()()()()()が玄野達を待っていた。

 

 人は考える生き物だ。仕事、食事、恋愛、子育て、趣味、戦い――何かに没頭していなければ、心が、思考が循環する。立ち止まり、過去の行いを思い返し、それについて考え始める。”罪を悔い改める”。それこそが刑務所の存在意義であり、受刑者の務めだった。

 

 だが、そう簡単に人の心は変わらない。最初に玄野の頭を支配したのは、後悔と怨恨の感情だった。あの時、爪牙に背を向けてしまった事への後悔。白雲杳に対する恨み。治崎の計画の再考。玄野は薄汚れた天井を睨み、まるで壊れたレコードのように――何度も繰り返しそれらの事項を考え続けた。

 

 

 

 

 夢を見たのは、独居房に入った()()の事だった。内容は――急襲を受け、治崎や音本と防戦していた時の記憶の追体験。治崎を助ける為に敵に背を向けた直後、背筋に熱い痛みが炸裂し、玄野はバネ仕掛けの人形のように勢い良く跳び起きた。汗と涙と興奮でぼやけた視界に、見慣れた天井が映り込む。

 

 ――夢だ。そう悟った時、玄野の心に流れ込んできたのは安堵ではなく、治崎に対する()()()()()()だった。彼は息を弾ませながらベッドに座り込み、汗でぐっしょりと濡れた髪をかき上げ、涙を乱暴に拭った。

 

 しばらくそのままでいると、部屋の電気がパッと付いた。()になったらしい。玄野の住む独居房は地下にある為に窓がなく、時間の移ろいを照明で表現していた。

 

 次いで、ドアがノックされた。――ドアには二つの仕掛けがある。一つは、何か用事がある時に刑務官を呼び出せる”報知器”のボタン。もう一つは、食事や手紙等を出し入れする受け取り口だ。訝しんで目を向けると、受け取り口から薄くて平べったい何かが出て来て、ポトリと受け取り皿に落ちた。

 

()()だ」

 

 刑務官らしい無機質な声が、ドア越しに響く。一体、誰からのものだろう。玄野は警戒しながら立ち上がると、手紙を取った。

 

 ――空色の便せん。差出人は()()()だった。頭痛を伴った眠気はたちまち吹き飛び、マグマのように激しく煮え立つ憤怒の感情が、全身を支配する。わなわなと震える指先で封を破ると、中にはカサの付いたどんぐりが一粒、入っていた。それだけだった。便せんやメッセージカードの類は入っていない。

 

 玄野の怒りはさらに増し、怒髪天を衝いたように、先端の尖った髪が風もないのに逆立った。あまりの憎しみに視界が真っ赤になり、四肢が馬鹿みたいに震え出す。――嫌がらせか。”窓も何もない独房に閉じ込められているお前達とは違い、自分は外で自由を謳歌している”というメッセージか。

 

 ――虚仮にしやがって!玄野は()()()()()()を全て、あの少女に向けた。(ほとばし)る激情のままに、便せんごとどんぐりを叩き付け、踏みにじる。だが、それでも怒りは治まらず、彼は靴跡で汚れた紙クズと木の実の残骸を、部屋の隅へ蹴り飛ばした。

 

 

 

 

 だが、少女からの手紙はそれ以降、()()()()()。相変わらずメッセージの類は何も入っていない。空色の便せんに、植物が入っているだけだった。ただ植物の種類は毎日違った。葉っぱや木の実、見事な一輪花が専用の封筒に入っている時もあれば、そこら辺で摘んだらしい素朴なたんぽぽの時もあった。

 

 やがて玄野は怒りを通り越し、()()()に思うようになった。

 

 ――意味が分からない。あの少女は、知能に問題がありそうには見えなかった。何か意図があるはずなのだ。だが、それが分からない。

 実は精神異常者だったのか。それともわざと不可解な行動を取る事で、自分を得体の知れない、不快な気分にさせる事が目的なのか。義務教育を受けて育った十代半ばの子供が、受刑者に毎日せっせと葉っぱやどんぐりを送る意味を――玄野は来る日も来る日も考え続けた。

 

 花言葉が関係しているのか。それとも植物の頭文字か何かで、暗号を送っているのか。考える時間は山程ある。玄野は床に植物を並べ、考えを巡らせた。しかし、依然として答えは出ない。薄汚れた天井を睨み、過去の輝きや後悔に身を委ねるよりも、葉っぱや花弁に触れている時間の方が多くなっている事に、玄野はまだ気付いていなかった。

 

 ()が訪れ、ベッドに潜り込んだ玄野は、落ち葉を顔の前に持ってくると、朧げな輪郭をじっと眺めた。悪意、偽善、同情……きっと何か意味があるはずだ。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 気が付くと、玄野は()()()()()()()に立っていた。懐かしい八斎會の屋敷の前に立っている。

 広々とした中庭の中心では落ち葉がかき集められ、簡素な焚き火ができていた。その周りに、佐伯や嘘田を始めとした組員達が集い、ガヤガヤと話をしている。鼻を動かすと、火や枯れ葉の匂いに紛れて、優しい素朴な香りを感じられるような気がした。

 

 たまらずグウと腹が鳴る。治崎は学生帽を被ったまま、遠巻きに様子を見ていた。学校から帰って来たばかりの少年達を見つけると、入中はトングをカチカチ鳴らし、気さくに笑った。

 

(早いもん勝ちだからな。ま、俺の焼き加減は天下一、どれとってもホックホクだk――)

(カッスカスだぞこれ)

(あァ?!)

 

 ハズレの焼き芋を掴んだ嘘田と入中が早速言い合いになっているのを差し置いて、佐伯は玄野達に手招きし、一番大きくてずっしりした包みを放り投げた。

 

 落ち葉の山に、パチパチと赤い炎が上がる。アルミホイルに包まれた紫色の塊を割ると、湯気と共に金色の身が現れた。飾り気のない素朴な甘みが――学業と社会に疲弊した――幼い頭と心にじんわりと染み入っていく。

 

 まだ世界が平和だった頃。貧しくても、幸せだった頃。彼らは少しでも日の光の当たるところへ身を寄せ合い、笑っていた。

 

 

 

 

 パチンと明るい光が差し、玄野は目を開いた。朝だ。こんなに穏やかな夢を見たのは、初めてだった。

 

 ベッドの上を彷徨う手が、何かに触れる。()()()だった。鼻に近づけて匂いを嗅ぐと、あのセピア色の記憶が、薄暗い天井を彩った。素朴な甘い匂い、笑い声、パチパチと炎の爆ぜる音が、耳元でこだました。それは、玄野が鬼になる前の――まだ人だった頃の、他愛無い記憶の一欠けらだった。

 

 ――もしかしたら。心の一番奥底で、小さな声が囁いた。摘んだ草花を、子供がテーブルの端に置くように。何の他意もなく。

 

 玄野は静かに立ち上がると、部屋の隅へ向かった。紙クズでできた青い山の所々に、萎れた花や葉っぱ、どんぐりが埋まっている。パッと見ればゴミ屑だが、好意的な見方をするなら、まるで幼稚園児が創ったみたいに――()()()()()()()()のようにも思えた。くすんだ色の山に落ち葉を戻すと、彼は疲れ切って摩耗した瞳で、それらをじっと眺めた。

 

 

 

 

 同時刻、雄英高校・ハイツアライアンス寮の一室にて。遮光用カーテンを透かして、柔らかい朝陽が室内を満たしていく。秋風が梢を揺らす音、鳥のさえずる声が、それに続いた。

 

 ()は自室のローテーブルの前に座り込み、大量の手紙を書いていた。全ての住所欄を書き終わった後、分厚い紙束を輪ゴムでまとめ、リュックのサイドポケットに突っ込む。後は、校内にある郵便ポストへ投げ込むだけだ。

 

 ――本当は、彼らと直接話がしたかった。だが、暫定敵である自分は面会や手紙、電話等で、敵とコミュニケーションを取る事が禁じられている。行き詰った彼女は最後の足掻きとして、()()()()()()()を真似る事にしたのだった。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

()()()()()()、すまなかった)

 

 神野事件の翌日、快癒したシンリンカムイがお見舞いに来てくれた時、杳は両親と共に頭を下げた。本来ならば、傷つけたこちらが病室を訪れて謝るべきなのに、彼は杳の容態を一番に案じ、自分が至らぬせいだと詫びた。

 

 それから時が経ち、八斎會事件の翌日。シンリンカムイはまた手紙を送ってくれた。生花を送る事のできる特殊な封筒で、中には紫色のアネモネが一輪とメッセージカードが入っていた。優しい香りと色彩、そして絹のように繊細な花弁の感触を、杳は今でも克明に思い出せる。

 

『君がまたヒーローを志した事、心から嬉しく思っている。困難の中にこそ、希望はある。君を信じて待っている』

 

 ――”植物療法(フィトセラピー)”という精神療法がある。植物や植物の一部、葉、根、実あるいは種子など、様々な部位の薬理効果を使い、体の不調を整えたり、自身の治癒力を上げていくというものだ。

 

 シンリンカムイが植物療法に則り、花を送ってくれたのか、純粋な善意で送ってくれたのかは分からない。だが、確かにあの時、自分の心は励まされた。さらに――家族以外の誰とも話せない孤独な状況で――人使からの手紙は、杳の心を癒してくれた。

 

 手紙と花には人の心を慰め、上向きにさせる不思議な力がある。杳が植物入りの手紙を送ろうと思ったのは、そういう経緯(いきさつ)があったからだった。――植物だけなら何とかなるかもしれない。許可を取る為、真に事の次第を伝えると、彼女はしばらくの間、言葉を失ったように沈黙した。

 

(それは何故?)

(彼らと話をしたくて)

(”話をしたい”)

 

 真は噛んで含めるように、杳の言葉を繰り返した。”何故、話をしたいのか”――そう問われているような気がして、杳は答えに窮し、思案を巡らせる。

 

 刑務所は、特に彼らの入れられている独居房は窓もなく、外の景色も見られないと聞いている。八斎會の敷地内は――今でこそ瓦礫だけしかないが――嘘田が丹念込めて整えた、綺麗な日本庭園があった。四季の移り変わりを感じられるような、情緒ある草花があった。

 

 だが、手紙がきっかけとなり、それを思い出せたとして――家は壊され、もう二度と戻らないのだ。自分の行動の()()に、杳はやっと気付いた。

 

 ――”大勢の大人達を刑務所に押し込めた”という事実は、平凡な心を持つ杳にとって重すぎた。自分のせいで刑務所に入る事になった敵達を、どうケアしていいか分からない。だけど、その根底にあるものは、結局……。杳は乾いた唇を舐め、浮かない声で呟いた。

 

()()()……許して、ほしいのかも、しれません)

 

 なんて手前勝手な、薄っぺらい人間なんだ。杳がほとほと自分自身に呆れ果てていると、やがて電話口の向こうで小さな笑い声がした。

 

(そういう正直なところ、好きよ)

(……え?)

(分かりました。許可を取ります。彼らの住所録を送るわね)

 

 呆気に取られる杳に親しみを込めた挨拶を送った後、真は通信を切った。かくしてその日中に住所録が送られ、杳は手紙を送り始めた。だが、今日で二週間になるが、()()()()()()。――嘘田からもだ。

 けれども、逆に”送るな”という通達も来なかった。違う手段を考えるべきなのかもしれない。杳は溜息を零し、真っ赤なポストに手紙の束を放り込んだ。

 

 

 

 

 そして、それからさらに一週間が経過した。杳は人使と話し合うチャンスを伺うも、なかなかその機会を掴めずにいた。

 元々ヒーロー科は――放課後ヒロドもできないと相澤から事前通告されている程に――多忙なスケジュールを極めている。ストイックな性質である人使はそんなギュウギュウ詰めの時間割に、さらに自主トレや自習を詰め込んでいた。杳も補講などで忙しい身、人使をずっと付け回している時間はない。

 

「あ……」

「ドンマイ。何か知んないけど」

 

 今日も忙しく早足で駆け去っていく人使を見送っている間に、昼休みのチャイムが鳴った。がっくりとうな垂れる杳の肩に、何かを察した耳郎がポンと手を置く。

 

 杳はそのまま耳郎と葉隠に誘われ、大食堂へ赴く事となった。いつものように手早く食事を済ませ、杳は耳郎達に許可を取った後、読みかけの本を開く。アネモネの花で創ったしおりを取り払った時、ふと視線の端を()()()()が掠めた。――人使だ。焦凍と尾白と一緒のテーブルに着き、煮魚定食を食べている。

 

 ――今すぐ走って行って、話しかけろ。杳は自分の体に命じた。今までそうしてきたじゃないか。だが、体は怖気づいたようにその場を動かなかった。

 

 元の関係に戻りたい。でも、()()上手くいかなかったら。拒絶されたら。嫌われたくない。

 目に見えない()()()()が人使の前にあって、近づこうとする度に押し戻される。そんな風に感じられた。心臓の内側を引っ掻かれているような、もどかしくて切ない気持ちが、杳の気持ちを苛んでいく。

 

 きっと自分のカブトムシは、醜いモンスターの姿をしているに違いない。杳は自嘲気味に笑った。自分の心を覗き見る時、そこはいつだってゾッとする程、暗くて汚くて、薄っぺらで――おまけに自分勝手な嵐が、轟々と吹き荒れているのだから。

 

 やがて人使達の後ろを、ランチプレートを持った芦戸と切島が通りすがった。芦戸は悪戯っぽい笑みを浮かべると、立ち止まって人使の背中に寄りかかり、何事かを話しかける。人使はうっとうしそうに顔を歪めた。二人の様子はとても親し気に見えた。

 

「……ッ?」

 

 突然、心臓が鋭い痛みを訴えると同時に、杳の想像力が凄まじいスピードで働き始めた。

 人使の隣を歩いていた自分の姿が、芦戸の姿に上書き(オーバーライド)される。芦戸は可愛くて明るくて、人望がある。人使も優秀で堅実な人間だ。おまけに背が高く容貌も良い。並んでみると、二人はとてもお似合いだった。

 

 ――人間としてもヒーローとしても中途半端で、問題ばかり起こす自分なんかよりも、ずっと。

 

「……」

 

 だけど、そんなのは嫌だった。お似合いじゃなくても、ワガママでも、月とすっぽんでも――人使の傍にいるのは()()()()()()()。杳はやっと、自分の想いを自覚した。

 

 杳が泣きそうな顔で二人の様子を眺めていると、芦戸が不思議そうに首を傾げて、こちらを見た。彼女はそのまま周囲を見回し、杳の何か言いたげな視線の範囲内に、自分と人使がいる事をしっかりと認識する。

 

 次の瞬間、芦戸は――まるで砂漠の中から一粒の煌めくダイヤモンドを探し出した探検家の如く――黒曜石(オニキス)のような目をキラキラと輝かせ、(まばゆ)いばかりのスマイルを放った。

 

 芦戸は杳に向かってドンと胸を叩いてみせ、サムズアップした。それから、ついでに人使の肩も――彼が味噌汁の椀に顔を突っ込みそうになるほど――勢い良く叩き、突然の凶行に戸惑いと怒りを見せる彼に向け、サムズアップしてみせた。

 それから芦戸は人混みをかき分け、呆気に取られている杳の前に座ると、芝居がかった動作で自身の可愛らしい触角を指差したのだった。

 

「あなたの恋心……このアンテナがキャッチしました!恋愛マスターにお任せあれっ!」

「マスターって。彼氏いたことないじゃん」

「イメトレは完璧だからいーのっ!」

 

 芦戸はムキになって耳郎のツッコミに物申すと、プレゼントの包装を解く子供のように浮足立った表情で、杳にずいっと迫る。

 

「ねー()()あったの?」

 

 思春期の少女達にとって、恋バナは特別なスイーツと同じだ。頬をバラ色に染めた級友達に囲まれて、杳は根負けしたように口を開いた。あくまで八斎會事件の件は伏せ、”一か月間人使の連絡を絶った事がきっかけで仲違いし、仲直りの機会を模索しているのだ”という事だけを話す。

 

 なんとか全てを話し終わり、ジュースを飲もうと顔を上げた途端、杳はギョッとして仰け反った。

 目の前に、麗日や八百万、蛙吹――つまり1-Aクラスの女子メンバーが勢ぞろいしていたのだ。甘酸っぱい恋の香りを嗅ぎつけ、応援に来てくれたらしい。蛙吹は杳の顔を掬い上げるように見つめると、優しい声を出した。

 

「もう一度、心操ちゃんと話し合うべきね。問題はどこで話をするか。……学校だと気が削がれて、なかなか難しいでしょう?」

 

 八百万はプリンを掬う手を止め、人差し指を中空にピンと立ててみせた。

 

「そうですわ。オールマイト展にお誘いしては?話し合いができると同時に、授業の一環にもなります。有意義な時間を過ごせますわ」

「モモちゃん真面目かっ!そこは水族館とか遊園地とかでしょー」

 

 葉隠が杳の頭に顎を載せ、杳の手を操り人形のように持ち上げて、突っ込むジェスチャーをした。だが、杳は()()()だと思った。オールマイト展ならばお互いに勉強になるし、誘いやすい。どちらにせよ、このままずっと手をこまねいているより、少しでも足掻いた方がいいはずだ。

 敵との交流は禁じられているが、外出は制限されていない。――決戦は日曜日。相澤先生に許可を貰い、人使を誘おう。その事を告げると、皆は浮足立って喜んだ。そんな中、耳郎がイヤープラグを弄りながら、ふと口を開く。

 

「まさかとは思うけど……()()()()()()で行くんじゃないよね?」

 

 耳郎の言う”いつもの恰好”とは、兄のお下がりかマイクデザインの男物のトップスにズボン――という杳の基本スタイルだった。杳はあまりファッションに頓着がなく、男装していた時の服を今もそのまま愛用している。だが、大事な日にさすがにいつもの恰好で行くつもりはない。杳はきっぱりと首を横に振った。

 

「新品のシャツとジーンズ卸すよ」

「そうゆうことじゃないんよ……杳ちゃん……」

 

 麗日ががっくりと項垂れながら、杳の肩に手を置く。皆の頭の中に、マイクのどでかい顔が描かれた黄色いTシャツにジーンズ――という洒落っ気の欠片もない姿で人使とのデートに赴く、杳の姿が思い浮かんだ。

 マイクに罪はないのだが、少しでも乙女らしい格好をしてほしいというのが、皆の総意だった。皆は無言で目を合わせ、杳の肩を掴む。何事かと驚く杳に、彼女達は何かを企んでいるような顔で、にっこりと笑いかけた。

 

 

 

 

 そして時は流れ、日曜日。オールマイト展の最寄り駅――その改札口前で、人使は杳を待っていた。シンプルな私服に身を包んだ彼は、いつも通りの仏頂面でスマートフォンを取り出し、ロックを解除してREINアプリをタップする。

 

 今を(さかのぼ)る事三日前、杳から”オールマイト展に行かないか”という誘いのメッセージが来た。なかなか彼女と話をする機会を取れなかった彼にとっても、その提案は渡りに船だった。

 それにしても、()()()アクションを起こすなんてどういう風の吹き回しだろう。いつも自分からなのに。人使は電子チケットのQRコードを見つめながら、考え込んだ。おまけにチケットも彼女が取ったとの事で、今ここにある。ルーズな彼女らしくない用意周到さだった。

 

「ごめん。待った?」

 

 何にせよ、まともに杳と話すのは二週間振りだ。人使が内心そわそわしながら待っていると、すぐ近くで見知った声がした。

 本当は待ち合わせ時間の一時間以上も前に着き、イベント会場までの道程やガイドマップを予習していたという事情はおくびにも出さず――人使は至って冷静な表情で振り向くと、絶句した。

 

 ――そこには、女の子らしい格好をした杳が立っていた。秋物のワンピースとバッグを持ち、フワフワした髪をバレッタでまとめている。ヒールのあるサンダルを履いていて、踵を合わせると硬い音が鳴り、シフォン生地のスカートの裾が花弁のように舞った。

 

 人使の心の奥を熱いものが突き上げる。中身は同じだ。外装(パッケージ)が変わっただけなのに、何故こんなにも愛らしく見えるのだろう。世の女性が化粧をしたり着飾る事の意味を、彼はこの時、まざまざと思い知った。

 一方の杳は、人使が何も言わずに自分を凝視している事を不安に思った。居心地悪そうに身じろぎして、頼りない声で呟く。

 

「きょ、響香ちゃん達にしてもらったんだけど。変?」

「……ヒラヒラしてる。こけんなよ」

 

 人使はいつも以上にぶっきらぼうな声でそう返し、背を向けた直後、猛烈に後悔した。だが、すぐに謝ってご機嫌を取れる器用さがあれば、二人は今ここにいない。杳の靴音が遠のかないよう、一定のペースを保って歩くのが、現状における精一杯のフォローだった。

 

 一方の杳は完全に自信を失い、落ち込んでいた。――きっと人使は怒ってるんだ。私のせいで、皆の努力を無駄にしてしまった。杳は自信なさげに俯いて、人使の跡をついて歩き始める。兎にも角にも、二人の逢瀬はスタートを切ったのであった。

 

 

 

 

 オールマイト展は大勢の人でごった返していた。チケット売り場には気が遠くなる程の行列ができている。予め電子チケットを買っておいて良かったと、杳は心から安堵した。オールマイトをイメージした制服に身を包んだスタッフにチケットを見せ、入り口を通り抜ける。

 

 内部に入ると、ファンタジックな装いの建物に囲まれるようにして、見上げる程に大きく、荘厳なオールマイト像が立っていた。半透明の球状ドームが頭上を覆い、柔らかな陽光を観客達に投げかけている。

 

 取り潰す予定だったテーマパークをそのままイベント会場に再利用している為、周囲はとても賑やかで幻想的な雰囲気に包まれていた。陽気なポップミュージックが耳を躍らせ、ポップコーンの匂いが鼻腔を掠める。ソワソワと浮足立った子供に、オールマイトを模した着ぐるみが風船を配っていた。

 

 杳達は会場の中心部にある”平和の湖”へ足を運んだ。オールマイト像の真下に創られた人工湖で、希望者はランタンに火を点し、湖面に浮かべる事ができる。広大な湖面にはすでに、数え切れぬ程のランタンが浮かんでいた。

 

 エントランス付近の喧騒は、ここまで届かない。喪ったものを悼む気持ち、抱えきれない程の悲しみが、辺り一帯に漂っていた。湖畔に座り込み、泣いている人もいる。――皆、不安なのだ。杳はランタンを抱えながら、静かにそう思った。だから、ここに来ている。もう最後の蝋が溶け切り、今にも消えそうな残り火に縋って、心の平安を保っている。

 

 オールマイトはあまりにも偉大だったから。たった一人で、世界を支えていた柱だったから。なのに私は、その崩御に()()()()

 

 人使はランタンに火を点し、湖にそっと浮かべた。続けて、サファイアのように輝く水面に()()()ランタンを置く事は、今の杳には(はばか)られた。後で持って帰って部屋に飾ろう。人使の隣にしゃがみ込み、美しい火の群れを遠慮がちに見ていると、彼がぼそりと呟いた。

 

「立派なヒーローになって、自分の個性を人の為に使いたい。ってのが俺の夢だ。今も昔も」

 

 突然の独白に、杳は思わず人使を見上げた。彼もこちらを見ていた。ぼんやりした灰色の瞳と、強い意志を宿した紫色の瞳が、静かに交錯する。

 

 ――洗脳という特殊な個性を持つ自分。敵を救うという異質な考えを持つ彼女。ある意味で、自分達は同じ苦しみを有しているのかもしれなかった。だが、根底にある想いは()()である筈。人使は杳の持っているランタンに手を置くと、小さいけれど、とても力強い声で言葉を続けた。

 

「おまえも同じ想いなら、遠慮なんかしなくていい」

「……うん」

 

 擦れ違っていた二つの想いが、ゆっくりと向き合っていく。バラバラになっていた想いのコラージュが結集し、一つの決意を描き出す。杳は静かに頷くと、ランタンに火を点し、湖に浮かべた。不思議と涙は出なかった。しばらく幻想的な湖の様子を眺めた後、二人はオールマイトの歴史を見る旅に戻った。

 

 

 

 

 レストランコーナーはどの店も、うんざりするほどの人でごった返していた。人波をかき分けるようにして二人はレストラン街を彷徨い、空いている店を探したが、ほとんど全ての店に長蛇の列ができている。――駅で待っている間に予約しておくべきだったと、人使は後悔した。殊勝にも杳がチケットを準備していた為、店の予約もしているかもしれないと、余計な気を回したのが不味かった。

 

 結局、二人は三十分以上の待ち時間を経て()()()()()()でランチを買い求め、広場の芝生の端っこに何とか腰を落ち着けた。杳は限定ドリンクやクレープを口に運ぶ人々を羨ましそうに眺めながら、ハンバーガーの包みを剥く。

 

「せっかくオールマイト展に来たのに。ヒロドって……」

「胃に入れば一緒だろ」

「そんな相澤先生みたいな……」

 

 人使はそう返しつつ、レストラン街で杳が一番長く立ち止まり、食品ディスプレイを凝視していた――フレンチ風レストランの事前受付(プライオリティ・シーティング)を済ませた。限定フードやドリンク、デザートなどが全て付いた高級コース料理が看板メニューだ。まだイベント会場を半分しか見ていない。全てをゆったりと回り切った頃、ちょうど夕食時になるだろう。

 

 ふと、漠然とした不安が人使の心をよぎった。フレンチ料理はテーブルマナーが必要とされる。大丈夫だろうか。恐る恐る隣を見ると、杳が口周りをベタベタにケチャップで汚しながら、ハンバーガーにかぶり付いていた。毎回何故こんなに汚せるのかと感心する程に、口元が真っ赤になっている。ハンバーガーの包装紙の表紙には、オールマイトを模したヒロドナルドのキャラクターが描かれていた。

 

 突然、杳と過ごしてから駆け抜けてきた――数ヶ月間の記憶が、川のように人使の心を流れていった。その中で紡がれた絆は、恋愛や友情といったラインをとうに超えていた。

 

 あの日、差し出された手を取ってから、本当に色んな事があった。何もかもが変わって、今も現在進行形で変わり続けている。だけど、一番大事なものは変わっちゃいない。

 いつまで経っても、こいつは雨雲みたいに不安定で、幼いままで、他人を振り回す。だけど、たとえ無茶苦茶な方法でも――こいつなりに足掻いて、誰かを救おうと頑張っているんだ。あの時、俺を救ったように。人使が紙袋の中からナプキンを取り出した時、杳はポツリと呟いた。

 

「色んなことがあったよね」

 

 杳は、夕焼けを眺めているような――郷愁を帯びた瞳で、ヒロドナルドの紙袋を見つめていた。体育祭で被っていたものと似ている。あの頃を思えば、今の自分は本当に奇跡みたいだ。あれから沢山の出来事があった。今でも思い出すだけで笑っちゃうくらい、楽しい事も。眠れなくなる程に辛い事も、沢山。

 

「そうだな」

 

 人使は自分でも驚く程に優しい声でそう言うと、杳の口を拭った。周りの目もある。とても恥ずかしかったけれど、同時に杳は嬉しかった。いつもの人使が戻ってきたような気がしたのだ。杳は大人しく拭かれる事にした。拭き終わると人使は芝生に座り直し、バニラシェーキを手に取った。

 

(もう一度、心操ちゃんと話し合うべきね)

 

 蛙吹の言葉が、杳の背中をグッと押す。いつも人使に甘えてばかりではダメだと、杳は自分を叱咤した。拙くとも、自分の言葉で想いを伝えなければ。だけど、ちょうど良い言葉が見当たらない。頭の中をグルグルと回るのは、芦戸がスマホを片手に教えてくれた――ロマンチックな愛のセリフだけだった。

 

 杳がポテトを凝視しながら必死に考えていると、ふと小さな子供の悲鳴が上がった。次いで視界の端をカラフルな風船が掠める。杳は素早く立ち上がると同時に跳んで、子供の手を離れて中空に舞い上がらんとする――風船の紐を掴んだ。

 

「はいどうぞ。離しちゃダメだよ」

「ありがとー!」

 

 子供は嬉しそうに笑い、オールマイト型の風船を突いた。隣にいた母親が申し訳なさそうに頭を下げる。

 

 ――その瞬間、杳の脳裏に()()()()()()()が閃いた。人使が感心したような目でこちらを見て、労いの言葉を掛ける。杳はその傍に腰かけると、緊張気味に口を開いた。

 

「私、風船なんだよ。ヒトシはそれを持ってる人」

 

 突然の妄言に虚を突かれた人使は、人目を憚るように周囲を気にした後、ほんの少しだけ諦めの混じった――生暖かく優しい眼差しと頷きで、続きを促した。

 

「私……いつだって自分の事ばっかり。自分の事で精一杯だった。……でも、ヒトシはずっと傍にいてくれた。会わなかった時も、心の中にいた」

 

 体育祭の時、手を差し伸べてくれた()()()から、自分の歯車は回り始めた。怖気づいた時、本当の自分が何か分からなくなった時、深い絶望の中で苦しんでいた時――いつだって傍にいてくれたのは、彼だった。

 

「自分のした事、反省はしてる。でも、後悔はしてない。これから先も……こうやって迷いながら、進んでいくんだと思う。だから、できたら、その……傍にいてほしいんだ」

 

 人使はゆっくりと俯いて、片手で顔を覆った。色鮮やかな三原色のバルーンを持って歩く子供達を見守りながら、杳はただ素直な心のままに、想いを言葉にした。

 

「ヒトシがいるから、私はどんな形にもなれるし、どこにでも飛んでいけるんだと思う。私の紐を持ってて、時々引っ張ってくれる……ヒトシが、()()()()なんだ。その、上手く言えないけど、私にとって、とても大切な人で……だから、その」

 

 杳はごくりと唾を飲み込むと、真剣な表情で人使に向き直った。

 

「な、仲直りしてほしい……です」

 

 だが、その言葉は知り切れトンボになって終わった。人使が俯いたまま、黙りこくっていたからだ。彼の耳が赤く染まっている事に、杳は気付かない。返事がない事に焦った杳は、やがて暴走し始めた。――話し続けろ。挽回するんだ。現状の打開策を求め、杳の脳はやがて芦戸仕込みの愛のフレーズを思い出す。杳は上擦った声で、ひたすら話し続けた。

 

「あとね、もし、ヒトシがよければその、えっと……お、女の子として、見てくれたら、嬉しいなって。立候補っていうか。お兄ちゃんの事とか、色々あるんだけど……その、女の子としても、ヒーローの卵としても、一生懸命頑張るかr――」

 

 突然、人使にぐいと抱き寄せられ、杳の呼吸は止まった。

 

 ――全部、熱い。火のように燃え盛った大きな体が、自分を包み込んでいた。ギュッと押し当てられた耳に、忙しなく脈打つ人使の鼓動が聴こえてくる。人使はぐずる子供をあやすように、杳の体を揺らしながら背中を撫で、小さな頭をポンポンと撫でた。

 

「分かったから。一旦落ち着け。な」

「……ッ、う、うん」

 

 落ち着いていないのは、人使も同じだった。別に格好つけたわけでなく、杳に真っ赤になった顔を見られたくないが為に、抱き寄せただけなのだ。思いも寄らない形で告白を受け、人使の心は大いに乱れていた。

 

 ――暫定敵の件が解決するまでは。黒霧の件が落ち着くまでは。資格を取るまでは。卒業するまでは。自分が心の中で掛けていた無数のストッパーが、音を立てて崩れていく。塞き止めるもののなくなった想いは心から飛び出し、喉を駆け抜けて、口からポロリと零れ落ちた。

 

「もうとっくに女の子として見てる……っつーか()()()()()。大丈夫」

「……!」

 

 その瞬間、甘くとろけるような幸福の蜜がギュッと詰め込まれ、杳は胸が張り裂けそうになった。感極まったのか泣き出す友人の頭を撫で、周囲の人々が向ける好奇の視線に耐え忍びながらも――人使は彼女が落ち着くまで待った。

 

 鼻水を垂らしているのか、腕の中でズビズビという嫌な音がする。だが、そんな情けなく幼稚なところも、どうしようもなく好きなのだった。グシャグシャになった顔を拭いてやりながら、人使はちょっと厳しい声色を創り、ある宣言をする。

 

「卒業までベタベタすんのは禁止な」

「……()()()()()()ってこと?」

 

 杳は言葉の意味を考え、不思議そうに首を傾げながらそう言った。――”いつもと同じ”。そのフレーズが、人使の心にすとんと落ちる。

 

「そうだな。いつもと同じだ」

 

 友達から恋人に関係が変わったって、今までの何かが変わるわけじゃない。二人は真っ赤になった顔を見合わせ、小さく笑った。やがて続きを見て回ろうと芝生から立ち上がった、その時――

 

 ――杳のスマートフォンが鳴った。画面には”塚内直正”と表示されている。一体、何の用事だろう。もしかしたら植物入りの手紙に関して、ついに本格的なクレームが入ったのかもしれない。杳は覚悟を持って通話ボタンを押し、耳に押し当てた。

 

「白雲です」

『白雲君。今、話せるかい?』

「はい。大丈夫です」

『……落ち着いて聴いてほしい』

 

 直正の声には、隠し切れない焦燥の音が含まれていた。人使がパンフレットから顔を上げ、こちらを見る。さっきまで体内を満たしていた幸福の感情が、辺りの賑やかな歓声や音楽が、見る間に色褪せ、消えていく。

 

()()()()()()()。彼は、君に逢いたがっている』




次回より、残酷なシーンがずっと続きます。別途あらすじを付けます。すみません…。最終的に悪い感じにはならないので…。

ちなみにヨウは葉っぱ事件のせいで、後に八斎會の人々から、とある愛称で呼ばれるようになります。

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