樹海に入れる特殊体質の少年(前世持ち)が愛する三ノ輪銀のためにいろいろ頑張る話 作:exemoon
「暑いな……」
日光を遮るように手をかざし、ふぅ、と一息つく。
西暦二〇一六年八月。
丸亀城。
一の門をくぐると、一瞬だけ涼し気な風が頬を撫でる。
「もう八月ですから。それに、赤嶺さんは大きな荷物を背負っていますし」
「ああ、確かにこいつはね……」
背中に背負った平べったい布袋。
中身は、例の斧だ。
この袋にはリュックと同じショルダーストラップをつけているので、背負うのは簡単だが、反面、重いし蒸れる。
正直、この炎天下の中で持ち歩きたくはないが、かといって、人に預けようとしても、色々と面倒がある。
俺自身、可能な限り、この斧を他人に触れさせたくはない。
それでも、携行するのはちょっと大変だ。
ほんと、三百年後のシステムが羨ましい。
「それで、上里さん。俺の部屋は?」
「もうすぐですよ。急なことでしたので、仮設住宅なのが申し訳ないですが………」
「こればっかりは仕方ないから。上里さんの気にすることじゃない。それに、プレハブでも何でも、自分の部屋ってだけで十分すぎる」
こうして話していると、つくづく上里さんの精神年齢の高さを感じられる。
頭が回り、それでいて温和。
人との距離の詰め方もうまい。
神官との会話も見たが、まるで物怖じしない辺り、度胸も中々。
小学生でこれなら、成長して大赦を牛耳るようになったというのも頷ける。
須美がもう少しだけ柔らかくなったら、似た感じになっていたかもしれないな……。
……いけない。
頭を振って、感傷を振り払う。
気を抜くとすぐこれだ。
今の俺に、感傷に浸る余分はないのだから、注意しないと。
「赤嶺さん、どうかしましたか?」
「いや、何でもないよ。行こうか」
背中の重みを確かめ、また一歩踏み出した。
今は、前を向いて歩かないと。
「ここが、俺の部屋………か」
肩に担いだボストンバッグと背中の斧を下ろし、一息つく。
上里さんは、一旦荷物を置きに自分の部屋へと向かった。
後で迎えに来てくれるらしい。
ちなみに、彼女達の宿舎は、ここから割と離れている。
思春期に入る年頃なのだから、大人が間違いがないようにと配慮したのだろう。
当然の処置だな。
ふと、部屋を見渡す。
ワンルームの仮設住宅。
一人用の仮設住宅にすれば大きい方かもしれないが、三百年後の勇者の待遇と比べると雲泥の差だ。
やはり、この時代では勇者信仰は確立されていないらしい。
まあ、当然か。
勇者にせよ巫女にせよ、幼い少女ばかりなのだ。
年功序列の風が強いこの国では、勇者だからと言って、即崇められるはずもなし。
俺や上里さんの前では畏まった態度を見せていた神官達も、腹の中では何を考えていたのやら。
まあ、いい。
今はそんなことよりも、勇者の面々とのファーストコンタクトについて考えるべきだろう。
記録で見た彼女達のことは尊敬しているが、今の彼女達は戦闘経験の少ない普通の少女。
事実上の別人だと考えるべきだろう。
接する時には、記録のことは可能な限り忘れよう。
安易にこっちのイメージを押し付けてしまって、嫌われましたじゃお話にならない。
先入観はなしにしなければ。
とはいえ、何とかなるだろうとも思う。
こういう経験は、神樹館で十分積んでいるのだから。
とまれ、大事なのは初対面の印象だ。
ここで躓いたら、後々面倒になる。
彼女達とは、可能な限り迅速に信頼関係を結ぶ必要があるのだからな。
まあ、考えるのは後にしよう。
ベッドの上に置かれていた、ビニール袋に包まれた制服を手にする。
半袖のシャツと、長ズボン。
それにネクタイ。
ブレザータイプの制服だ。
まぁ、今は夏だからブレザーは着ないが……うん、神樹館のそれに近いな。
と、服を脱いでると、何やら外から騒がしい声が聞こえてきた。
「だ、駄目だよタマっち。急に押しかけちゃ……」
「大丈夫だって!それに、タマたちはここの先輩なんだから、色々と教えてやらないとだろ?」
「で、でも、男の人の部屋だよ………?」
「タマたちと同い年だろ?気にしなくてい~じゃんか!」
この部屋はやはり、防音性はまるで駄目だな。
材質のせいか、外の声が丸聞こえだ。
とりあえず、急ぎ目に着替えよう。
汗にまみれた服を脱ぎ捨てると、随分涼しくなるが、のんびり涼む間はない。
来客を待たせるわけにはいかない。
「あっ、勝手に入っちゃ―――」
柔らかな少女の声が響くと同時に、玄関のドアがガチャリと音を立てた。
「ちょ―――」
今入られるのは―――
ズボンだけ素早く履く。
途端、玄関のドアが開いた。
「おーい新入り!案内しにきて………」
玄関の前には、ボーイッシュな少女が立っていた。
思わず、目が合ってしまい、互いに固まる。
ぎりぎりズボンは履けたからセーフでは?
上半身だけ裸とかは、プールとか海水浴場じゃよく見るだろうし、多分大丈夫だろう。
…………いや、大丈夫じゃなさそうだなこれ。
次の瞬間、少女の叫びがこだました。
「ぎゃーーー!!」
ぎゃーはやめてくれ。
「どうしたのタマっち―――きゃーーーー!!」
きゃーもやめてくれ。
「何で裸なんだ!服を着ろー!」
あらあらまあまあ、完全にパニックになってしまっている。
落ち着いてもらわないとならぬな。
「とりあえず、閉めてもらっていい?もう着替え終わるから」
落ち着かせるため、出来るだけ穏やかに言う。
「えっ、あっ………わ、悪い!」
「し、失礼しましたーー!」
ようやく事態を把握したのか、玄関のドアは凄い勢いで閉められた。
さて…………。
着替えを済ませ、天井を仰ぎ見る。
ファーストコンタクト、失敗しちゃったなぁ………。
「それで、お二人が悲鳴を上げたんですね……」
「はい……」
「ま、まあ……事故みたいなもんだしさ、ひなたも許してくれよ」
着替えを終え、部屋の外に出ると、先ほどの二人が上里さんと何かを話していた。
どうやら、ちょうど鉢合わせたので、さっきの悲鳴のことを説明していたらしい。
「だからといって、勝手に入るのはよくありませんよ?」
「うっ、それはさぁ……」
「上里さん、鍵をかけてなかったこっちも悪かったんだ。それに、彼女は俺の為に来てくれたみたいだし」
会話に割り込む。
こんなことで、空気を悪くするわけにもいかない。
「そ、そうだぞ!これはタマ達だけのせいではないのだっ!」
「タマっち……それはちょっと……」
「タマの方が上級生なんだから、タマっちはやめタマえ!タマっち先輩と呼べ!」
ボーイッシュな少女は誤魔化すように、もう一人の少女へ視線を移す。
タマっちはいいのか……。
あんずと呼ばれた少女は、えー?と少し不満げだったが。
タマっち……タマ……なるほど、この子が土居球子か。
で、隣の子があんずと呼ばれていたし、伊予島杏なのだろう。
「まあいいです。お二人とも、これからは注意してくださいね?」
「はい……」
「ああ、もうしないって。それより、お前が新入りだな!」
怒られてたことなどなかったかのように、少女がこちらを向いた。
「土居球子だ!よろしくな!それでこっちが―――」
「え、えっと、い、伊予島杏です!よ、よろひく……よろしくお願いします!」
土居さんに背中を押された伊予島さんが、恥ずかしそうな顔をして自己紹介をした。
おそらく、さっきの件がまだ尾を引いているのだろう。
「ん。自分は赤嶺頼人。お二人とも、どうぞよろしく」
「頼人か!ここで分からないことがあれば、タマに何でも聞きタマえ!なんたって、タマ達はここの先輩だからな!」
土居さんが胸を張る。
快活で、親しみやすそうな子だ。
さっきの件ももう気にしてないみたいだし、素直に好感が持てる。
「そうさせてもらうよ、球子先輩」
「うむうむ。どうやら頼人はれーぎというものを分かってるらしいな!あんずも見習うんだぞ?」
「でも~」
「でもじゃない!ほら、タマっち先輩!リピート!」
「タマっち先輩……」
気がつけば、彼女達は楽しそうに話し始めた。
やはり、この二人は随分仲がいいらしい。
「お二人はそろそろ教室に向かって下さい。もうすぐ始業時間になっちゃいますから」
二人の様子に諦めたのか、上里さんは二人に教室に向かうよう勧めた。
「おっと、そうだな。じゃあな頼人。また後でな!」
「ま、待ってよタマっちせんぱーい!」
伊予島さんは軽く会釈すると、走っていった土居さんを追いかけて行った。
「元気な子達だね」
「ええ。あの二人はとても仲が良くて、いつも一緒なんですよ」
いつも一緒、か………。
教師達への挨拶を終え、教室に入ると、席に着いた少女たちの視線が刺さった。
三人ほど初めて見る顔があったが、それぞれの名前は分かった。
「赤嶺頼人です。今日から、よろしくお願いします」
黒板の前に立ち、少女達に簡単に挨拶する。
流石に、これだけでは味気ないだろう。
もう一言二言喋ろうか、と思ったが、その前に担任の教師は席につくように求めた。
これで終わりにするのか。
質問などを受けるかと思ったのだが、そういう余分はこの学級にはないらしい。
というか、彼女達からの自己紹介も聞けていない。
こういうプロセスが無視されるとは、中々に普通じゃない学級だ。
いや、普通じゃないのはこの状況か。
席に着くと、授業はすぐに始まった。
といっても、世間一般では夏休みの為、義務教育としての授業は控えめだった。
夏休みの宿題と言うモノが存在しない分の、申し訳程度の授業と言ったところだろう。
神樹館の時と同じで、ただただ聞くのは退屈だが、これが学生の本分と言うモノだ。
我慢するべきだろう。
どうせ、そのうち受けなくなるのだから。
そうして、休み時間。
真っ先に、やってきたのは―――
「という訳で、転入生の赤嶺頼人です。改めて、よろしく」
「うん、よろしくね頼人君!私は――」
「高嶋さん、だね?」
高嶋友奈。
写真で見たご先祖の顔にとてもよく似ているおかげで、簡単に判別できた。
「あっ、うん!どうしてわかったの!?」
「上里さんから色々と聞いててね。聞いてた特徴的に、高嶋さんかなって思ったんだよ」
「そうなんだ!あっ、私のことは、気軽に友奈って呼んでね!」
「ん。分かった友奈。よろしくな」
人懐っこい笑みに答える。
それにしても、彼女もまた距離が近い。
会って間もない人間に、下の名前で呼んでほしいと言うとは。
いや、まだ小学生なのだし、先ほどの土居さんも似た感じだったのだから、気にすることもないか。
むしろ、彼女に乗っかって、周囲との距離を縮めた方が賢明かもしれない。
こちとら新参者な上に、異性。
さっさと打ち解けておかないと、後からしこりが生まれかねない。
と、そこで、後ろから声を掛けられた。
「お前が赤嶺か」
振り返ると思わず、言葉を失った。
目鼻立ちの整った容貌。
後ろにまとめられた美しい長髪。
「私は乃木若葉だ。四国を守る者同士、これからよろしく頼む」
「……ああ、よろしく」
一瞬、遅れて返事をする。
乃木若葉。
唯一生き残った勇者。
先祖とも深い関わりを持った存在。
そして……園子の先祖。
雰囲気はまるで違うし、立ち居振る舞いもあまり似ていない。
けれど、その姿はどうしようもなく園子を想起させた。
「ん、どうかしたか?急に固まったが……」
「ふふ、きっと若葉ちゃんが美人で驚いたんですよ」
「……いや、友達によく似てたから驚いたんだよ。しかも、そいつも乃木姓だったから」
とりあえず、嘘を吐かない範囲で誤魔化す。
こうも簡単に感情が揺さぶられるとは、つくづく、赤嶺頼人にとって彼女は感傷が深すぎる。
しかも一方的なモノだから質が悪い。
ある意味で、片想いの相手に抱くそれにすら近いかもしれない。
気をつけないと……。
「へー!凄い偶然だね!」
「もしかすると、若葉ちゃんの親戚の方かもしれませんね」
「いや、同年代にそんな親戚はいなかったと思うが……」
乃木若葉の、困ったように腕を組み考え込むその横顔は、やはり、園子との血の繋がりを感じさせた。
鎮めようと思っても、心はざわめき続ける。
「なぁなぁ頼人、これ見てもいいか?」
「タマっち先輩、また勝手に触って……」
気がつけば、土居さんが教室の壁に立てかけておいた、斧を入れた布袋に触っていた。
「いや、構わないよ。ただ、重いだろうから気を付けて」
「ああ、サンキューな!……って、なんだこれ!?」
布袋の中から姿を現したのは、包帯のような白い布が巻かれた斧だった。
「刃がむき出しだと布袋が破れかねないから、そういう風に巻いているんだよ。中身は斧」
「斧……?それにしては大きいですね。ハルバードやバルディッシュでもこんな形は見たことがありません……」
伊予島さんが呟くように言う。
すぐにそういう単語が出て来るとは、伊予島さんの知識量は中々のものらしい。
「確かに大きいな……。こんな大きさの武器があるとは……」
「まぁ、斧というよりかは斧剣とでも言うべきかも。こんな形の戦斧はほぼないし。……と、そろそろ戻しといて。もうすぐ次の授業が始まるから」
そういうと、土居さんは素直に俺の言葉に従った。
後は………。
まだ話していない少女に目を向ける。
彼女はイヤホンをし、ただゲームを続けている。
彼女が、郡千景。
存在を抹消された勇者。
「ゲーム中にすみません。今、ちょっといいですか?」
彼女の席に赴き話しかけるも、返事はない。
見向きもせず、俺の存在がないかのようにゲームを続けている。
これは…………。
「新人の挨拶も無視かー………」
「ぐんちゃん、折角だから―――」
土居さんや高嶋さんがそう言うも、おそらく、これ以上話しかけても反応はないだろう。
「いや、気にしないでくれ。郡さん、急に話しかけちゃって、すみませんでした」
俺がそう言った直後、担任の教師が入室してきた。
郡さんのことは、後で上里さんに聞かないといけないだろう。
あの状態は、ひょっとすると、山伏の時よりもひどいかもしれない。
次の授業では、バーテックスと陸自の戦闘を記録した映像を見せられた。
いや、正しくは、自衛隊が蹂躙される場面の記録映像というべきだろう。
戦闘というには、あまりにも一方的過ぎた。
89式小銃の5.56mm弾はおろか、10式戦車の120mm滑空砲ですら、傷一つつかない。
一方で、奴らの顎は10式の最も硬い、正面の複合装甲すらも、容易く喰い破った。
人については、言うまでもない。
なるほど、世界が滅ぶわけだ。
奴らはまさしく、人間殺しに最適化されている。
そのことがよく分かる映像ではあるが、同時にほとんど役には立たない代物だ。
なぜなら、この映像では分かるのは、所詮バーテックスの殺傷能力だけだ。
例えるなら、空手家と戦えと言われて、空手家の瓦割を見せられるようなもの。
勇者に対して、どのような戦い方をしてくるかはまるで分らない。
ほとんど役に立たない情報だと言っていい。
だが、一つだけいいことを知れた。
おそらくだが、国民や政府の自衛隊への信頼は失墜していると考えるべきだろう。
国内の治安維持なら警察力のみで十分。
ということは、自衛隊はよくて冷や飯喰い。
悪ければ、解体。
この状況下で自衛隊に出す金などないだろうしな。
とはいえ、あの日からたった一年で組織の全てが処理されているかと問われると疑問ではある。
組織の解体にかかる手間などを考えれば、形骸化していると考えるべきか。
ならば――――使える可能性がある。
映像が終わると、担任の教師は告げた。
「大赦の研究によれば、未だ、バーテックスに有効な兵器は見つかっていません。あなたたち勇者だけが、バーテックスに対抗できるのです」
分かっているよ……嫌というほど。
昼休み。
高嶋さんがせっかくなので、皆で食べようと言ってくれたので、食堂に集まった。
郡さんはと尋ねるも、彼女はいつも昼休みになると姿を消すという。
何処で食事をとっているのかも分からないらしい。
やはり、彼女のあれは回避症状の疑いがあるな。
この徹底ぶりからするに、彼女の場合は家庭環境ではなく学校生活に問題があったのか……?
いや、結論を出すのは性急だな。
複合的な要因もあり得る。
ともあれ、今は食事だ。
セルフサービスなので、好きなものを頼めるのはいいことだ。
ざるうどんを注文し、席につく。
「あっ、頼人君もうどんなんだ」
「好物なんだよ。というか、皆うどんなんだな……」
見れば、肉だとかきつねだとか多少の種類はあるものの他の皆もうどんを選んでいた。
確か、香川県民は若葉さんと上里さんだけだと聞いていたが……。
「一度、おいしいおうどん屋に連れて行ってもらったんです。その時のうどんが衝撃的で、それ以来、うどんをよく頼むようになっちゃったんですよ」
伊予島さんが思い返すように言う。
ふむふむ。
讃岐うどんの良さが分かるとは、流石勇者といったところだな。
「ああ、あの時の味は、三万ぶっタマげぐらいの衝撃だったな!」
「何、その単位……?一ぶっタマげでどれくらいの衝撃なんだ……?」
この時代に、そんな珍妙な単位はなかったはずだが?
「一ぶっタマげは、自動販売機でジュースを買おうとしたら、財布の中身が八十円しかなかった時ぐらいの衝撃だぞ」
さっぱり分からん。
「ちなみに、勇者になった時の衝撃は二万七千ぶっタマげぐらいだったぞ」
増々分からん。
「タマっち先輩は、時々よく分からない事を言うんですよ……」
「なるほど。覚えておくよ」
「覚えなくていい!」
土居さんが怒ったような顔で言った。
おもわず、クスリと笑ってしまう。
「けど、あの時のうどんは本当に美味しかったなぁ……。紅茶に浸したマドレーヌを食べた語り手のように、いつか私も、うどんから過去の記憶を旅することになると思います……」
伊予島さんが思い返すようにそう言った。
紅茶に浸したマドレーヌ。
プルースト効果のことか。
ということは。
「伊予島さん。失われた時を求めて、読んだことあるの?」
「え?もしかして、赤嶺さんも読んだことがあるんですか!?」
「あるけど……。あれ、全部読めたの?」
『失われた時を求めて』はプルーストの長編小説なのだが、長い。
とにかく長い。
世界最長の小説として、ギネスにのっていたくらいだ。
おまけに比喩が多く、構文も複雑なため、読み込むのは非常に難解。
内容も、同性愛に芸術、社交界の煩雑さなど、子供には分かりづらいテーマで満ちており、大人ですら読むのが大変な小説といえるだろう。
自分も読み終わるまで、随分苦労した記憶がある。
だが一方で、環境や人物描写の緻密さは素晴らしく、読んでいると、自分自身の失われた記憶が蘇っていく感覚すら生まれる。
そのような小説は、自分の知る限りこの小説しかない。
「はい!私は特に、『スワン家の方へ』のジルベルトに恋するところが好きで―――」
「確か、庭園で偶然見かけて、だったな。凄いな、ほんとに読んでるんだ」
褒めると、伊予島さんは照れるように笑った。
思っていた以上に、この子は本好きらしい。
ふむ、彼女とは、この手の話題を通じて仲良くなれそうだ。
「赤嶺も本をよく読むのか?」
「まあ、それなりにはね」
一応これは嘘ではない。
特に前世では、色々と本を読んでいた。
「す、好きなジャンルは何でしょうか!?」
伊予島さんが身を乗り出していった。
そんなに話したいのか……。
「乱読家だから割と何でも。強いて言うなら……推理小説とかかな。伊予島さんは?」
「わ、私は恋愛小説が好きで……あ、赤嶺さんはそういうの読んだりしますか?」
「恋愛小説か……」
記憶の底から、昔読んだ本のタイトルを引っ張り出す。
うっかりすると、神世紀に出版された本や園子の書いた小説が出て来そうになるので、前世の記憶に絞り込む。
この時代だと、俺が読んだことがあって、若者向けなのは…………。
「最近のだと、有川浩の本が好きだな。村上春樹もいいけど、個人的にはそっちの方がよく読むよ。阪急電車とかあの辺り」
有川浩の作品は、作者が女性なこともあってか、女性視点の恋愛話が多い。
それでいて、コメディチックな面も多く、伊予島さんのような女の子なら好きな部類に入るはずだ。
個人的には、自衛隊絡みの作品が好きだったけど……。
「あっ、私も好きです!あの作品は、いろんな人間模様が描かれていていいですよね!」
そう言うと、伊予島さんはパッと笑顔になって、どこが好きかとか語り始めた。
とりあえず、当たりを引けたらしい。
「あんず、テンションがおかしいぞ……」
「確かに、こんなに嬉しそうな杏さんも珍しいですね」
なるほど。
伊予島さん以外は、あまり本は読まないらしい。
まあ、この年代でそんなに本を読む子はいないだろう。
この時代は、若者の本離れも進行してたって話だし。
「なんだか楽しそうだね!アンちゃんアンちゃん、今度、私にも何か本貸してくれない?」
「勿論です!好きなジャンルがあれば教えてくださいね、おすすめをリストアップしておきますから!」
「タ、タマにも何か貸してくれ!」
何だか、妙な方向に話が流れてしまったな。
まあ、話のきっかけが色々と生まれたので良しとするか。
さっきまではやや様子を伺っている風があったが、今の話で、彼女の態度は一気に軟化した。
いい兆候だろう。
「ところで、赤嶺。聞きたいことがあるんだが……」
と、そこで若葉さんが何か尋ねてきた。
少し言い難そうだ。
「ん、いいよ。何?」
「ああ、お前はこの一年、どこで何をしてたんだ?」
「あっ、若葉ちゃん。それは………」
「それ、タマも気になるぞ!そもそも、なんでこのタイミングで、勇者って分かったんだ?それに、男は勇者になれないみたいな話もあったのにさ」
まぁ、やっぱり聞かれるよな。
というか、事前に教師から話がいっていなかったのか。
いや、そもそも大社が教師にまで情報を落としているかも疑問だな。
むしろ、彼女達を利用して俺の過去を探っている可能性すらあるもしれない。
無論、彼女達自身にそう言った意図はないだろうが、ここは食堂。
大社の人間もいるのだ。
なら………。
「それがねぇ……こっちも知りたいんだよね……」
「ん?どういうことだ?」
「そのままの意味。色々あってね、ここしばらくの記憶が断片的にしかないんだ。気がつけば香川にいて、勇者だーみたいなことになってるし」
嘘だ。
俺の過去について、一切の詮索をしないこと。
それが勇者になるときの、条件の一つだった。
そのため、大社の連中から直接、過去について聞かれることはない。
中々に荒いやり方ではあるが、自分がなぜここにいるかも分からないのだ。
こうでもしないと、色々と面倒なことになるだろう。
だが、この嘘にも一応、整合性はある。
まず、バーテックスによる死者が多すぎるため、戸籍の処理が追いついておらず、記録から俺を辿ることはほぼ不可能。
そして、目覚めた当日の、俺が錯乱した際の言動とも一致する。
こういう内容なら、大社も納得こそしないだろうが、これ以上詮索することもないはずだ。
そういう打算による産物だったが、若葉さんをはじめとした皆が曇った顔を見せた。
思った通りの反応。
大方、俺が酷い体験をしてきたと考えているのだろう。
「まぁ、今は全然大丈夫だけどね。おいしいうどんは食べられるし」
フォローするように、心にもない事を言っておく。
これで、彼女達もこの件にはあまり触れないはずだ。
「そっか!それじゃあ、これからいっぱい思い出を作っていこうね!」
と、そこで突然、高嶋さんがそんな事を言いだした。
「友奈、どういうことだ?」
若葉さんがよく分からないと言った様子で、高嶋さんに尋ねる。
「え?だって、記憶がないってことは、これからいっぱい思い出を詰め込めるってことだよね?だから、みんなで楽しい思い出を作っていけたらなって!」
予想外の反応。
少し、言葉に詰まる。
これは、どういう風に受け取ればよいものか。
素直に受け取るには、少しだけ違和感があった。
俺自身に向けた言葉でもあるが、同時に空気を意識したかのような……。
「ああ、そうだね」
一言だけ言って微笑むと、高嶋さんも笑った。
気がつけば、他の子達の表情も明るくなっている。
これは、もしかすると………。
高嶋さんは暫く観察が必要らしい。
午後からは戦闘訓練。
まず、運動による基礎体力の向上。
筋トレやランニングをやらされる。
ここ最近、まるで体を動かしていなかったので、身体がまともに動くか多少の心配はあったが、杞憂に終わった。
「頼人君速いね!全然追いつけなかったよ!」
「ああ。基礎体力は十分あるようだな。安心したぞ」
「そりゃあ、まあ、足を引っ張るわけにもいかないから」
ランニングの後、軽くストレッチをしながら答える。
昔から鍛えてきたおかげか、ランニングにも体はついてきてくれた。
とはいえ、真夏なので汗は凄いことになっている。
なお、ランニングを終えたのは今のところ、俺のほかには高嶋さんと若葉さんだけ。
他の三人は、まだ走っている。
というか、この歳の少女に真夏にランニングをさせるとは、なんというか時代錯誤的なモノを感じる。
勇者が体力勝負なのは分かるが……まぁ、オーバーワークになってなければ、良しとするべきか……。
と、そこで、郡さんが戻ってきた。
よし……。
「お疲れ様です。これ、どうぞ」
荒い息をして座り込む彼女に、ペットボトルを差し出す。
中身はスポーツドリンクだ。
さて、受け取ってくれるか?
そう思いながら見ていると、郡さんは一瞬、ペットボトルに手を伸ばすも、すぐにその手を引っ込め、立ち去ってしまった。
上手くいかなかったか……。
これ以上の接触は、彼女がああなった原因を特定してからのほうがいいだろう。
運動後は、武器を使用した訓練だった。
道場で、斧剣を握る。
「しっ―――!」
斧を振り回すと、銀が我流で動いていた理由がよく分かる。
こいつは、力回せに振るだけでも、十分すぎるほどに強力だ。
ただ、それでは芸がない。
そも、銀が二本同時に扱っていたのに対し、こちらは一本。
銀の動きを再現することはできない。
無理に再現しても、隙だらけの無様な動きとなるだろう。
故に、自分なりの戦い方を考えなければならない。
焦点は、こいつを如何に、素早く、正確に振るえるか。
示現流の二の太刀要らず、のような戦い方もないではないが、想定されるバーテックスの物量からして、それでは対応しきれない可能性もある。
ううむ………試しにこの斧で、燕返しの一つでも試してみようか。
元の技とはまるで違ったものになるだろうが、モノにすれば、手数もずいぶん増えるだろう。
そうして、色々と動きを試していると、後ろから声を掛けられた。
若葉さんだった。
「いい動きだな、赤嶺。やはりお前も、何か武術をやっていたんじゃないか?」
「それなりにね。そっちこそ凄いじゃないか。あれほどの居合を抜けるなんてさ」
先程から、少し見せてもらってはいたが、彼女の才能は凄まじい。
居合というものは、長い時間磨き上げることで成立する技術であり、人を選ぶ武術だ。
何十年も修行することで、正しい居合というものを抜ける。
居合と呼べる抜刀を成立させるだけでも何十年もかかり、型を完全に習得するとなると、努力を超えた、まさしく才能という次元の世界に入る。
なのに、彼女は齢十二にして、居合を成立させており、型を自分のものにしつつある。
才能は、確実に俺以上にある。
「おお、分かるのか!」
そんな俺の考えを知ってか知らずか、彼女は目を輝かせた。
おそらく、彼女は彼女でこういった話を分かる人間が周囲にはあまりいないのだろう。
この手の武術は、経験のある人間にしかわからないものだしな。
「まあ、居合や剣術もやってたから」
「そうか!なら、後で一度立ち会ってくれないか?こういう機会はあまりないんだ」
「ん、いいよ。訓練終わったらね」
そう言うと若葉さんは、喜んでくれた。
こういう所には少しだけ、子供らしさもあるんだな。
「はぁ……………」
気がつけば、あっという間に一日は終わっていた。
自室のベッドで大の字になると、程よい疲労感が身を包む。
とりあえず、初日にしては上々だろう。
彼女達と仲良くなる取っ掛かりも生まれた。
共通の話題というものさえあれば、親しくなるのはあっという間だ。
若葉さんとは武術。
伊予島さんとは本。
今のところ、土居さんと高嶋さんからは聞けてないが、彼女達は他の勇者と比べると、社交的な性格をしているため、問題はないだろう。
もっとも、高嶋さんに関しては、少々気になるところがあるが……。
まぁ、本格的に動くまで、あと数ヶ月はあるのだから、急がなくてもいい。
問題は………郡さんだ。
上里さんから聞いた話を思い返すだけで、嫌な気分になる。
郡千景さんの置かれた、どうしようもない環境。
精神が幼く、家族を蔑ろにする父親。
そんな父が嫌で不倫し、娘を捨てた母親。
そういう両親を侮蔑し、その娘までもを村八分にした周囲の大人たち。
そんな大人たちに育てられた子供達による、陰湿なイジメ。
郡さんが塞ぎ込むのも、無理はない。
というよりも、あれで済んでいるのが奇跡的だとすら言える。
もっとも、問題はそれだけでは済まない。
担任の教師や、大社の人間は、郡さんの心理的なケアに有効な手立てを何一つ講じていない。
これが、現時点における最大の問題点だ。
多少、彼らなりに手段を講じたらしいのだが、効果がなければ意味がない。
仮に教師が、何らかの手段で郡さんに手を伸ばしたとして、彼女はその手を拒んだのかもしれない。
だがそうなると、増々彼女の心理的な問題が根深いことになる。
憶測の域を出ないが、彼女は通っていた学校の教師に、助けを求めたことがあったのではないだろうか。
子供である以上、親を頼れないとなると、それ以外に取りうる手段はない。
だが、彼女はその期待を裏切られたのではないだろうか。
そうなると、徹底的に周囲を拒絶するその態度にも説明がつく。
郡さんにとって、大人子供問わず、周囲の人間は皆、敵でしかなかったのだろう。
その結果が、ある種の人間不信。
PTSDになっている可能性すらある。
もしそうなら、学級内での彼女の行動は、PTSDの回避症状だと考えられる。
学校自体が彼女にとっての、トラウマだとすれば………。
「どうしたものか………」
教師を使うのは、難しいかもしれない。
彼らは雇われの身。
そして、勇者は現時点で、この国において最も大切な『兵器』だ。
下手に関わって、『兵器』の性能を低下させてしまえば、教師の責任問題になるだろう。
ならば、いっそのこと関わらない方がいい。
ああ、クソ。
痛い程に理解できる。
ある意味では同情すらできるかもしれない。
だが………致命的なまでに無責任だ。
ああ、そうだ。
大赦も、大社もこの国も、皆、無責任なんだ。
一億総無責任社会とはよく言ったものだ。
まぁ、そこに付け入る隙があるのだがら、ある意味では感謝するべきかもしれんが……。
「どのみち、頼れるのは自分だけか……」
大社にしろ、この学級にしろ、問題が起きた時に頼れるのは自分だけ。
彼女達に頼る気はない。
下手に巻き込めば、不測の事態を引き起こしかねないし、そもそも見ているモノが違いすぎる。
この戦争の勝利を目的とする彼女達が、俺の目的を是とするかは微妙だ
まあ最悪、利用することはあるかもしれないが………。
こんな結論が出てしまうとは………本当に笑えてしまう。
ああいう無垢な少女を利用するなんて考えは、本来赤嶺頼人が最も嫌う行為であったはずなのに、今はそれをも可能性に入れている。
これじゃ、碌な死に方はできないだろうな……。
まぁ、道半ばで倒れた時は、赤嶺頼人は自惚れ深い、ただの馬鹿だったというだけのことだ。
気にするほどのことでもない。
兎にも角にも、今は郡さんのことが先決だ。
これ以上、彼女を放っては――――
違う。
頭を振り、思い直す。
チームの輪の乱れは士気に直結する。
郡さんと最低限コミュニケーションがとれる状態にしないと、これからの戦いに悪影響を及ぼしかねない。
彼女の記録が抹消された経緯については知らないが、今日の彼女を見れば凡その見当はついた。
大方、精霊を使用しすぎて精神的に不安定になり、暴走でもしたのだろう。
この先のことを考えると、そういったリスクは可能な限り避けたい。
そう、あくまでも目的の為だ。
彼女達に情があるわけではない。
あってはならない。
故に、今やるべきは………。
携帯をとり、電話をかける。
相手は、上里さん。
驚いたことに、ワンコールで出てくれた。
怒りもせず、柔らかな声でどうかしましたか、と尋ねてくれる。
「夜遅くにごめんね、上里さん。ちょっと、相談したいことがあって」
『相談したいこと……ですか?』
「ああ、会いたい人がいてね。前話してくれた、郡さんを見つけた巫女さん」
『それって……』
「そう、花本