如月
これは夢だと、すぐにわかった。
夢を見ている状態──それを自覚している。
俗にいう明晰夢ってやつなのかもしれない。
今すぐ目を開ければ、この夢から脱することができる。
意識すればそれはきっと叶う。難しい事じゃない。
だけど、そうはしたくない。
微睡みが心地良いのもある。生温かい泥濘の中に沈み込んでいくような感覚は、早朝の二度寝にも似た安堵を覚える。
でも、違う。
俺が覚醒を頑なに拒絶する理由は──
ここは、教室。
見慣れた学園内の教室だ。窓から差す斜陽が周囲を赤く染めている。
放課後なのだろうか。室内には俺と”もう一人の生徒”以外、誰も存在していない。
その生徒は、少女は、黒板にチョークで漢字をいくつも書き連ねている。
睦月。如月。弥生、卯月──和風月を順番に。
彼女が旧暦の月を書いている理由は……あぁ、思い出した。今日の授業中の小テストで、俺がろくすっぽ正解を書けなかったからだ。
隣の席ということもあって、彼女は俺に直前まで正解を教授してくれていたのだが、俺が書けたのは自分の苗字である如月となんとなく覚えていた皐月だけだった。
そうだ。ダメダメな俺を見かねて、放課後に彼女が暗記を手伝ってくれる話になったのだ。明日もまた同じ小テストをやるから。
「霜月。……えーと、師走……っと。はい、できた!」
途中でちょっと詰まりつつも、最後まで何も調べずに和風月を書ききった彼女がこちらを振り返る。肩まで伸ばしているセミロングの黒髪がふわりと揺れ、艶が良すぎる為か一瞬夕陽を反射した。
「ノート準備した? それじゃあまず書いてみよっか」
「……なぁ、別に難しい漢字とかはねぇし、書けないワケじゃないぞ」
「どの月が何月かちゃんと覚えてる?」
「うぐっ……」
痛いところを突かれた。長月と葉月が反対だったりとか、漢字自体は書けるけど順番なんて正直覚えてない。
「そもそも漢字の種類が月ばっかで紛らわしいんだよ。弥生とか師走を見習えって感じだ」
「難癖つけたって始まらないでしょ。ほら書く。十二個ぜんぶ書け~っ」
「わ、わかったから急かすな……」
彼女に促されてノートに漢字を書き始める。黒板とノートの間を視線が行ったり来たり。
やっぱり漢字自体はとても簡単だ。書こうと思えばすぐに全部書ける──の、だが。
この少女と過ごすこの時間が心地良くて。
一秒でも長く彼女と同じ空間にいたくて、わざとゆっくりペンを走らせてしまう。
──この夢から覚めたくない理由は彼女が関係している。
でも、どうしてかは分からない。
なんで彼女と一緒に居たいのか。
この記憶が一体いつのモノなのか。
何も覚えてないしわからないけど、こうしていると落ち着くんだ。
「どう? 書けた?」
「……」
顔が近い。横から覗き込んできた彼女の顔がとても近い。
あれだ、さっきの落ち着くってのは嘘だ。
コイツと一緒に居ると心臓が早まって落ちつかねぇわ。思春期の男子に対してその無防備な距離感はなんなんだよふざけてんのかコラ。
「どしたの、手が止まってるけど」
「……なんでもない」
でもこの良い匂いを嗅いでいたくて『離れろ』って言えないのが男の子心ってやつなんです。
いや露骨にクンクン嗅いだりはしないけど。
こいつから近くに来たときはちょっと鼻呼吸が多くなるだけだし。断じて変態ではない。健全な普通の男子だ俺は。
「…………あ?」
──
「如月くん?」
「あ、えっ……」
違和感を理解した瞬間。
視界は歪み、俺の意識は深層から浮上した。
◆
『No』『No』
目が覚めた時、目の前にはトマルちゃんがいた。
……なにしてたんだっけ。
「……トマルちゃん?」
「っ……! ~ッ!」
「ぉわっ」
俺が上半身を起こすとトマルちゃんはそのまま抱きついてきた。プルプル震えている様子を見るに、どうやらかなり心配させてしまっていたらしい。
彼女と手を繋いで立ち上がり、周囲を見回す。
そうして分かったことは、現在俺のいる場所が『船の上』だということだった。
辺り一面すべて海のど真ん中で船が動いていて、周囲には見慣れた人間もいる。
トマルちゃん、弥生くん、それから葉月寝子ちゃんだ。
……あぁ、思い出した。
たしかデパートの福引きでトマルちゃんが『南の島旅行券』を手に入れて、この4人で遊びに行くことになったんだった。
それで乗船したあとの海の移動中に、寝子ちゃんの物語の敵である巨大な時空獣が海上に出現。寝子ちゃんはロボットを出現させて戦うことになった。
しかし今回の時空獣はかなりの強敵で、さしもの寝子ちゃんでも苦戦していたところにーー
| ふっ、無事だったか。人間。 |
船の横から水面に顔を出しているこの大きな『サメ』に助けられたのだ。
「……ありがとう、サメさん」
「シャーク!」
サメってシャークって鳴くのか。知らなかった。
| 礼には及ばんぞ、人間。為すべき事を為しただけのこと。 |
吹き出しが出ていることから分かるように、このサメさんは人語が理解できるタイプの主人公だ。
聞くところによれば彼(彼女?)はこの海の守護者であるらしく、海に害なす存在であれば時空獣だろうと人間だろうと容赦なく成敗しているとのことだ。
むしろ昔はお母さんサメを人間に殺されてしまったらしく、人間に対しては敵対心すら抱いている。
そんな、決して友好的ではないサメさんが俺を気にかけてくれている、その理由は。
| まさか我を助けようとする人間がいるとは思わなかった。人間は常に傍観者の立ち位置を離れようとしない生き物だと決めつけていたが、どうやら認識を改める必要があるらしいな。 |
サメさんは寝子ちゃんのピンチを助けるためではなく、この海を守護する為に出てきた。
そんな彼が時空獣に不意を突かれてピンチに陥った際、俺が弥生くんの吹き出しを投げまくって時空獣の意識を逸らし、彼を助けたのだ。
そこから常時供給される寝子ちゃんと弥生くんの吹き出しを使って空中散歩をしながら時空獣を撹乱し、その隙に弥生くんが時空獣の目を潰して寝子ちゃんが攻勢に出た。あとはいつも通りに勝利すると、誰もがそう思った。
しかし時空獣は最後の悪あがきとして無差別広範囲ビーム攻撃を繰り出し、トマルちゃんや弥生くん、船員の人たちを守るために寝子ちゃんは船の方を庇ってしまったため、防御方法を持たないサメさんを守れるのは俺だけだった。
俺は駆け出し、吹き出しシールドでサメさんを庇ったが、ビームの余波によって発生した荒波に飲み込まれて溺れ掛けてしまって。
そんな俺を泳いで助けてくれたのが、他ならぬこのサメさんなのだ。
言うなれば、俺たちはお互いに【命の恩人】になった……というわけである。
以上が事の顛末だ。
「俺は如月……」
一瞬、言葉に詰まる。下の名前が出てこなかった。
……何を馬鹿な。俺はかなめ。如月かなめだ。
どうやら溺れて気絶した直後なせいで、頭がうまく働いていないらしい。
「如月かなめだ。あなたは?」
「シャーク!!」
「えっと、シャークさん?」
聞き返すと、サメさんは体ごと首を横に振った。
| 我が名はシー・ワズ。言葉が通じん故に伝えられないのが難儀だな。 |
「シー・ワズ……シーさん、でいいのかな?」
「シャッ!?」
| なんと。我が心を読み通すことができるのか。この少女は他の人間たちとはどこか違うようだ。 |
心読めるってことは基本的には秘密だけど、まぁ言葉が話せないサメさんなら大丈夫だろ。しゃーく。
「シャーク! シャーッ!」
| 我は先ほどのバケモノのような敵がまだ潜んでいないか探すために海を巡回してくる。後ほど港で合流しよう。 |
「う、うん。また、シーさん」
「シャーク!」
鳴き声で返事をしたサメことシーさんは再び海の中に潜り、姿を消した。
合流しようってことはまた後で会うのか……。サメってなんの食べ物あげたら喜ぶかな?
「如月っ。サメと話してたようだけど……大丈夫だったか?」
「え? ……ぁ、あぁ、大丈夫だ」
苦笑いしながら返事を返すと、なぜか弥生くんは眉を顰めた。
「ど、どうかしたか?」
「……いや、話し方っつーか……如月、ほんとに平気か?」
「えっ。……ぁっ」
今気がついた。なぜか俺の口調が男の頃のそれに戻ってる。
女子高生モードを解いたつもりはないし、今までだって家で不意に独り言をいうとき以外はちゃんと女の子らしいソレになってたはずだ。
なのに、どうしてか男口調に戻ってしまっていた。
……変な夢を見たせいかな。あんまり内容は覚えてないけど。
「本当に大丈夫だから、気にしないで」
いつものように女の子らしい口調に直して、なんとかその場を誤魔化した。
道中ハプニングもあったが、南の島でのバカンスはこれからだ。
しっかり遊んで英気を養っておかないとな。しゃーく。
次回は水着回!(*´ω`*)