川のほとりに腰を下ろし、空を見上げると、彼はその眩しさに驚いた。今丁度夕焼けになろうとしているその空には、言葉では表し難い美しさがあると彼は思った。
ディラン・バレンタインは大学進学のために生まれ育った首都アンカレッジを離れ、この郊外の街にやってきておよそ一年になる。郊外といっても首都に続いて二番目の街なのだが、アンカレッジとの差は大きい。
寮での生活や学校生活にちょうどなれてきたところだと彼なりに感じていた。実際、授業中腹痛に悩まされることも前より随分と少なくなったし、アンカレッジにはなかった自然、緑の匂いや土の匂いが心地よく感じられるようになっていた。
澄み切った快晴のせいで申し訳無さそうに見える小さな雲をぼーっと見つめながら、そういえばサムは結局ミランダに気持ちを伝えたのだろうか、と友達のことを考えてみたりもした。今日の昼、突然サムからどんな言葉で告白しようかと相談をうけた。しばらく女性と関係のない生活を送っていたのに加え、女性にあまり興味のなさそうなサムに心中の女性がいて、しかもその女性は自分と同郷の友人だったというのは、ディランの思考を困惑させるのに十分だった。当然、二人がうまく行けば喜ばしいが、一年経ってもガールフレンドさえできない自分に対しての焦りがあり、抜け駆けされるようで素直には喜べない。次に会うとき、もしうまく行ったなどと言われれば、もちろん本気でではないが、とびっきりの悪口を言ってやろうと心に決めた。
学校は明日から一週間ほど休みで、明後日は両親から久しぶりに帰ってくるように言われている。いつ帰えるの?と口うるさい母より、父のほうが帰省を要求してきのが意外ではあったが、父にも自分に会いたくなるときがあるのだと感じ、安心したというか、自分は良い両親のもとに生まれてきたのだと思った。なんせ世の中には虐待や育児放棄、さらには新生児を殺してしまう親さえいるのだ。そういったことをする親たちも実は社会という漠然とした大きな存在の被害者なのだと言う人もいるが、ディランはそれでもやってはいけないことはなにがあってもやってはいけないと考える性格だった。
遠くから連邦放送局のアナウンサーの声が聞こえてきて、やはりこの国、サピア自治共和国は変わっているとディランは思った。遠隔のコロニーで独自のナショナリズムが生まれ自治独立を求める動きというのはあったが、地球で自治区が生まれるというのは初めてだろう。そもそも、特権階級しかその地に足をつけることを許されない地球において、民族独立運動は起きない。それでも、現にサピアは存在する。ことの始まりは二十年程前の連邦政府の言論統制とも受け取れるような政策だ。言論の自由を主張し、可決された一連の法案に反対した一部の過激な政府高官が、アラスカ地方一帯とそこでの自治を巨額の資金で買ったのだ。加えて、アナハイムなどの大企業がこの運動に賛同し、とてつもない金額の資金援助をしたという噂もある。金で独立できると地球圏全体に思われるのは懸念材料になったが、この国の治安維持に対する積極的な姿勢が高く評価されたため、自治は承認された。宇宙の貧困層の移住を受け入れたというのは大きかった。動乱の火種になりうる蕾を早々に摘んでしまえば全体の平和も維持されるし、外部からは自治そのものが一種の慈善事業のようにも見える。連邦も貧しい人々の扱いには手を焼いていたのでちょうどよかったのかもしれない。現に問題は何にひとつ起きていないが、ディランは、それこそ問題だと思っていた。
あれこれ考えてちょっとした満足感もあったし、足も休まったので、凝り始めた腰を厄介に感じながらも立ち上がって、再び寮へと歩き始めた。寮へはそれなりの距離がある。毎日この距離を歩いて学校に通っていると言うと驚かれることもあるが、歩けない距離でもないし、なによりも、バス乗ってしまうと財布が財政難に陥るというのが一番の理由だ。貧乏学生にそんなリッチな生活はできないし、仕送りをしてくれる親に申し訳ない。
この国は小さく貧しい。一方、大きくとも経済格差が広がり続けている国もある。宇宙世紀の象徴とも言える地球連邦がそれだ。ジオンとの幾度もの戦乱を終えて、長らく外敵は現れず平和が訪れたようにも思えた。戦争は過去のものとなり、死んでいった人々の悲しみや怒り、苦しくも平和を求めた人々の魂の叫びは忘れ去られた。誰もが平和と日常はそこにあり続けるものだと思い、誰もその死の悪臭を放つ腐った汁が自分たちから流れ出ていることを知らなかった。
「十五ドル。」
パン屋のレジの中年女性がぶっきらぼうに言った。もう一つのレジでは感じの良い若い女性がレジ打ちをしていたので、そっちが良かったと思いつつも大したことではないと自分に言い聞かせて代金を支払った。十九にもなって帰省の際に手ぶらというのも何だと思って、今日は近場にある全国的に有名なこのパン屋にやってきた。前に自分で買って食べたときはなんとも思わなかったのだが、きっと母親はネームバリューに負けるだろう。母はそういう人だ。
「はい。」
中年女性がパンの切れ端の入った袋をくれた。少し驚いて彼女の顔を見ると、思いの外優しい笑顔をしていた。
「ありがとうございます。」
愛想笑いをしながらディランは言った。
「ちょっと黒くなるぐらいまで焼いて食べると美味しいよ。」
彼女はそう言いってまた仏頂面に戻った。
もしかしたらこの人が店主なのだろうかなどと思いながらディランは店を出た。
右へしばらく歩くとバス停がある。このあたりは大学とは逆方面だが、サムたちとたまに遊びに来ていたのである程度の土地勘はある。もっとも、このあたりと学校の近くを除けば、部外者同然なのだが。
「ディラン。」
突然馴れ馴れしく呼びかけられてぞっとしたが、バスの車内によく知った短髪の青年がいた。
「お、サム。」
偶然の遭遇に驚きつつも友人と会えて家路が少し楽しくなると思い。ディランは少し心が弾んだ。
「どう、最近。」
サムが言った。昨日学校で会ったのにこんな事を言われて違和感があったが、その正体はすぐわかった。香水の匂いがしたのだ。
「最近どうって…お前はどうなんだよ。ミランダとはどうなったのか?」
返事はわかっていたが、こう聞かれたかったのだろうと思いディランはサムに質問を返した。煽ってやることができず、やられた、とも感じた。
「うん…まあ…ありがたいことに…ね。」
若干濁された返事とは裏腹に、サムの顔からははっきりと幸せが溢れていた。幼馴染と友人が男女の関係になったというのはディランを不思議な気持ちにさせた。ミランダのことは、小さい頃からよく遊んでいたので、女性というより家族のように感じていた。もし自分に女兄弟でもいればこの気持はすでに味わったことがあるのかもしれないと思った。
「よかったな。結婚式にちゃんと呼んでくれよ。」
ディランは茶化しながらもサムのことを祝った。喜ばしく感じていることに嘘はない。
「気が早いよ。」
そう言いながらでもまんざらでもなさそうなサムを見て、よっぽど好きだったんだなとディランは思った。出会いの場所や、今までその好意を教えてくれなかった理由を聞こうとも思ったが、やけに静かなこのバスの車内で聞くのも無神経だと思いやめた。サムとディラン。二人は登山サークルで知り合った。ディランは山登りというものが予想以上にハードだったのですぐに辞めてしまったのだが、サークルの仲間とは仲がよく今でも一緒に時々遊びに行く。特に仲がいいのがサムだ。根っこにある考え方が似ているというのが二人の仲の良さの理由なのだろう。そこまで自己主張しないが、わかりやすい性格で、人にやさしく、財布の紐も堅いというのが、サムの周りからの評判だ。もうじきそこに「女性には積極的」というのも加わるのだろうか。しかしまあこのことを知ればきっとみんな驚くだろうとディランは思った。あれこれ話しているうちに最寄りのバス停に着き、じゃあなと言ってディランはバスを降りた。
連休の初日なのに案外空いていて良かったとディランは思った。電車に乗るのは数カ月ぶりなのでそんなもんなのかもしれないが、ディランは単純に安堵した。駅までは、大学までほどではないが、それなりの距離があるので、親指の付け根が痛かった。ぼろぼろになったスニーカーのせいだろう。気に入っていたが、もうそろそろ買い換えなければいけない。
昨日買ったパンを忘れていないか確認してから、ふうと息をついて席についた。左右とも空席だったので割とリラックスして座ることができた。列車が走り始めてからしばらくして、ふと目線を窓外にやってみると、遠くに山々が凛々しくそびえ立っていた。こういった景色を消し去ろうとしたシャア・アズナブルというのはやはりわがままな男だと感じた。
その時だった。
「ヒュー…」
遠くから旅客機にしては冷たい騒音が聞こえた。本能的に危険を感じたディランはまばらに座ってる他の乗客に気を使いながらも、正面に見える窓と、後ろの窓を確認した。まだ、その異音を発するものは見えない。
「ギギギ…」
列車がその異物の発するソニックウェーブに揺らされて軋んだ。大きな音ではないが、明らかに異常な音がして、驚いている乗客もいた。ディランもその一人だ。
その異物を確かめようと席を立つと、爆発音のような、気をおかしくする轟音とともに三つの無機的な直方体の集合が太陽を逆手にして現れた。爆発音が爆発によるものではなかったことに安堵したのもつかの間、すぐに心臓から恐怖が溢れてきた。
「モビルスーツ!?」
動揺で静まり返った車内の緊張の糸がディランによって雑然と切られた。右からも左からも、いまにパニックに陥ろうとしている震えた声が聞こえる。あたかも自分が世の中で一番偉いかのような顔をして座っていた中年のビジネスマンも、眉毛を描きすぎて不自然な表情をしていた若い女も、全員が中腰で今何が起こっているのか確認しようとあたふたとあたりを見渡している。
ディランは大学でモビルスーツについて研究していた。そのためモビルスーツには見慣れていて、そこまでの動揺はしていなかった。しかしその恐怖は大きかった。今起こっていることを正しく認識しているがゆえの恐怖が彼の中には存在していた。このMSはこの国のものではない。しかも銃火器を携帯し、地上に衝撃がしっかり伝わるくらいの低空飛行をしていて明らかな戦闘態勢をとっている。一体何が起こっているのだろうか。
「ジェガンタイプ…。」
連邦の汎用MS、ジェガンは様々な作戦行動が可能だ。そして今のは空対地爆撃の装備をしてる。
電車と三機のMSは同じ方向に進んでいたので、速度が相殺されてディランはそのMSを目で追うことができたのだが、それは、自分が向かっているところにこのジェガンも向かっているということも意味している。そして連邦は味方ではない、どちらかといえば敵である。それがわかったとたん、今度は恐怖が具体的で現実的なものになってのしかかってきた。両親のもとへ早く向かわなければならないとディランは思った。
「ガガンッ!」
「ギギギギ…ギ…ギギ……ギ……」
ぐらりと体が揺れた後、乗客は皆、まるで誰かに押されたように、列車の進行方向に倒れた。列車が急停止したのだ。ブレーキの音が消えたと思えば、今度は似たような音で乗客が悲鳴を上げていた。皆爆撃でもあったとでも思っているのかもしれないが、もしそうであれば悲鳴などを発する時間はない。アナウンスが流れているようだが、ディランには聞こえない。彼の頭は真っ白になっていた。もし列車が止まれば、アンカレッジまで歩いていくしかなくなる。そうなれば、両親のもとまで行くのには何時間もかかる。あのジェガンより早くアンカレッジに行くのは不可能だが、でも、今は急ぐしかない。早く父さんに会わなければいけない。早く母さんにパンを渡さないといけない。ディランは運転手に列車を動かしてもらおうと一番前の車両へと向かった。
「列車を進めてくれ。」
ディランは言った。
「何だ。何を言っているんだ君は。」
車掌は叱るように言った。
「進めろ!!」
怒鳴ったつもりはないがディランは怒鳴っていた。
「母さんがいるんだ!父さんが俺を待っているんだ!早く行かないともう会えないかもしれない!」
「停車信号が出ているし、国から警報だって出たんだ。こっちだってよくわからないが、列車を進めるなんてして乗客を危険に晒すことなんてできない。行きたきゃ一人でいけ!」
車掌も恐怖に怯えているとディランにはわかった。
自分は自分勝手なことを言っている。焦りと恐怖に押しつぶされそうになりながらも、落ち着こうと大きく息を吸った。
「…わかった。」
ディランはそう言ってすぐ一番近くのドアに向かい、非常時用のボタンを押してドアを開けた。時間はない。ジェガンはかなり遠くに見えた。その忌々しい金属の塊から目線を外し、ドアから地面まで飛び降りた。
しかしその閃光は、あまりにも突然だった。