満月の夜に
強くても、力がなければ意味がない。
力があっても、強くなければ意味がない。
○●
少女は夢を見ていた。
夢の中では、荒廃した大地が広がっていた。空は闇に覆われ、月は見えない。無数の流星が光だけが見える。その光は次々と地平線に突き刺さり、虹色の波導を撒き散らして、大地を侵食していく。
少女は、朽ちていく大地の上に、茶色の巨体が立ち尽くしているのを見た。巨体は空を見上げ、降り注ぐ流星を見つめていた。
呆然と空を見上げる巨体へと、少女は声をかけた。その声は響かなかった。流星の轟音が無惨にも掻き消し、誰にも届くことはなかった。少女は叫び続けた。涙が頬を伝い足下へ落ちた。雫が弾ける。消音を突然解除されたテレビのように、少女の声の波は瞬時に辺りに響きわたった。
流星の一つは巨体を貫いた。少女の声は巨体へは届かなかった。大地の崩壊する音と共に虚しく波打つだけだった。
そこで夢は途切れた。
少女は目を開いた。冷たい液体に全身を犯されているかのような不快感が、全身を包み込み、少女は身震いした。
「ここは、何処――」
胸の奥で少女は呟いた。緑色の視界に映るのは、黒くてごつごつとしている塊。手を伸ばせば、それにはすぐに触れられそうなのに、透明な何かが、少女の白く華奢な指先を阻む。
少女は、自分の指先を拒む透明な何かをじっと見つめていた。そして、そこに小さな刻印がなされているのを見つけた。溺れるような意識の中で、少女は目を凝らし、刻印の意味を考えた。考えながら、また深い眠りへと沈んでいった。
”№7”の刻印。その意味。その思考だけが、最後に残った。
○●
冷たい汗が額から流れ落ちた。汗は白い頬を伝い、二の腕まで辺りまで達して消えた。小さな身体が微かに震え、軽い寝返りをうつ。
木の幹に寄りかかり、小柄な女の子が蹲るように眠っていた。何か恐い夢でも見ているのか、可愛らしい童顔が、時折苦しげに歪んでいる。澄んだ水色の髪を二つに束ねたツインテールが、寝返りの度に揺れた。髪の隙間から覗く頬は、頼りなさげなか細い四肢は、雪のように白い。
柔らかそうな身体をくねらせ、ポケモントレーナーの少女、洲先瑞穂は目を覚ました。軽く息を吐き、自慢のツインテールの先端についた汗を振り払う。脱力したように木の幹にもたれ、虚ろな視線で辺りを見回しながら、先程まで見ていた奇妙な夢の内容を思い起こして、自問に近い呟きを漏らした。
「変な夢だったな。何だったんだろう、今のは」
瑞穂は掌で額を撫で、ゆっくりと空を仰いだ。だが、無数に生い茂る葉っぱに覆い尽くされ、本来の青い空は隠れている。感じることができるのは、木々の静かな息づかいだけだった。湿気を多分に含んだ空気が肌にまとわりつき、不気味な感触を残す。太陽の光は、背の高い木々に阻まれ森の奥底まで届くことはない。その為にこの森は、ウバメの森は常に薄暗く、湿った空気に包まれていた。
「もう、こんな時間だ。ちょっと寝過ごしちゃったかな」
瑞穂は腕に付けたポケギアに目をやり、木の幹を支えにしながら立ち上がった。すぐ傍に置いていたウエストポーチへ手を伸ばし、身に着ける。眠気に緩んだ身体を引き締めるように軽く背を伸ばし、腰についた土埃を払うと、少女は森を後にした。
透き通るような青空から光の帯が降り注ぎ、長く続く一本道に広がっていた。光を遮る葉も幹も、何も無い風景。瑞穂は眩しそうにそれらを眺め、降り注ぐ光を避けながら歩いた。
瑞穂はポーチから一枚の紙を取り出して広げ、掲げるように見つめた。一週間前に預けたフシギソウを引き取るために必要な、育て屋の預かり証明書だった。
「おい、そこのピクニックガール。俺とポケモン勝負しろ!」
「はい?」
突然の大声に驚いて、瑞穂は反射的に手にしていた証明書をポーチに戻し、振り返った。
視線の先に立っていたのは、短パン小僧のような風貌をした少年だった。少年は、モンスターボールを持って仁王立ちしている。自信に満ちあふれた少年の顔に、まるで鏡を見ているかのような気恥ずかしさを覚えて、瑞穂は思わず顔を背けた。
「あの、何の用ですか?」
少年から眼を逸らしたまま、瑞穂は訊いた。
「おまえ、馬鹿か?」
鼻を鳴らし、少年は笑った。瑞穂は横目で少年の顔を見つめた。唇がひきつっている。嫌味な笑い方だった。
「ば、馬鹿って言わなくてもいいじゃないですか」
「人の話を聞いてなかったのか? 俺はポケモン勝負をしろって言ったんだ」
反論する隙を与えずに、少年は手に持っていたモンスターボールを瑞穂の鼻先へ突きつけた。
少年の言動に微かな怒りを感じながら、瑞穂は首を引き、鼻先に突き付けられたボールを避けた。上目遣いに少年の顔を、自信と優越感に満ちた表情を見つめ、困ったように眉を潜める。
今の状況は、瑞穂にとって圧倒的に不利だった。手持ちのポケモンで一番頼りになり、強い実力を持つポケモンであるフシギソウは育て屋に預けており、現在の手持ちはたったの1匹だけ。それも、残っているのはあまりバトルが得意でないポケモンだった。
押し黙る瑞穂に我慢の限界がきたのか、少年は蔑むように少女を睨んだ。
「お前、ポケモントレーナーだろ? 勝負を挑まれたら、とっとと準備しろよ!」
少年の怒気に気圧されたように、瑞穂は後ずさった。膝が小刻みに震える。身体の芯から響いてくる震えを必死に堪えながら、瑞穂は自分が怯えていることに気付いた。
「ルールはどうする?」
「あの、私は今、1匹しかポケモン持ってなくて――」
それだけを声に出すので精一杯だった。瑞穂は情けなくなった。不意に情けない自分が我慢できなくなって、目頭が熱くなった。
「ダセエなおい。やっぱお前も、そこら辺のザコトレーナーと同じかよ。いいぜ、ザコ相手の特別ルール。1対1で相手をしてやるぜ」
少年は吐き捨てるように言うと、モンスターボールを放り投げた。中から出てきたのは、炎タイプのポケモン、マグマラシ。流線型の鋭い体躯が特徴的なポケモンだった。逆立つ体毛のように見えるのは、燃え盛る背中の炎であり、その熱は少し離れた瑞穂にも感じ取る事ができる。
「私は、バトルするなんて一言も言ってないのに」
口でそう言いながらも、瑞穂は咄嗟にモンスターボールを取りだして放り投げた。このまま無視して去ってしまえば試合放棄として負けと見なされ、トレーナーとしての評価は大きく下がる。だが、手持ちのポケモンが心許ない時は、いたずらにポケモンを傷つけるべきではないという判断から勝負を回避することも珍しくない。
瑞穂は勝負を受けることを選んだ。大人しい少女の中に隠れた、父親譲りの負けず嫌いな性格が、試合放棄を許さなかった。半ば、自棄になってもいた。
瑞穂が繰り出したのはノーマルタイプのポケモン、ヒメグマ。小熊の人形のような小さく丸っこい姿をしており、瑞穂がヒメちゃんと呼んで、昔から可愛がっているポケモンだった。
勝負が始まって数分と立たない内に、ヒメグマは追い込まれていた。翻弄され、手も足も出なかった。ヒメグマには動きが鈍いという弱点があり、マグマラシの素速い動きについていくことができなかったのだ。そして、弱点を補うだけの力を、ヒメグマの小さな身体は持ち合わせていなかった。
「マグマラシ! 体当たりだ!」
少年の指示で、マグマラシは一直線にヒメグマへと向かっていく。
「ひ、ヒメちゃん! 受け止めてから、乱れひっかき!」
鈍い音がした。ヒメグマは、突進してきたマグマラシを受け止めていた。だが、マグマラシの力は予想以上に強かったようで、ヒメグマの腹部にはマグマラシの頭がめりこんでいた。
ヒメグマはあまりの痛みに耐えきれず、呻き声をあげた。
「ヒメちゃん! 大丈夫?!」
瑞穂の声など聞こえなかったかのように、ヒメグマは両腕でマグマラシの身体を掴み、腹から強引に引き抜くと、短いが鋭い爪で斬りつけた。
マグマラシはヒメグマの両腕を振りほどき、大地を蹴りつけて跳び上がった。ヒメグマが渾身の思いで繰り出した乱れひっかきは、宙を舞うマグマラシの遙か下で空気を切った。
「そんな!」
瑞穂は叫んだ。少女の叫び声を、せせら笑うかのように少年は言った。
「全然、動きがなってねえじゃねえか。バカじゃねえの?」
マグマラシは太陽を背にして地面に降り立つと、電光石火の勢いで、再びヒメグマの懐に肉迫する。瑞穂は動揺のあまり、ヒメグマに指示をだすことすら忘れていた。少女の動揺ぶりを見つめ、少年は笑い出した。そして、叫んだ。
「マグマラシ! トドメの火炎車だ!」
マグマラシの周りが激しい炎につつまれた。回転しながらヒメグマに突っ込んでいく。
「や、やめて! やめてくださいよ!」
瑞穂は我を忘れて叫んだ。その途端、マグマラシの炎がヒメグマの身体を覆い尽くした。猛火の中で、ヒメグマはもがき苦しんだ。
「も、戻って! ヒメちゃん!」
瑞穂は、ヒメグマをボールへ戻した。
今すぐにでも逃げ出したい衝動に駆られて瑞穂は胸を押さえた。適わないことは初めから解っていた筈だったが、こんなに早く勝負がつくとは思わなかった。
「ヘッ、この程度でやられちまうなんてな、ヨエぇ。」
少年は下品な笑みを浮かべ、瑞穂の目の前に掌を突きだした。
「え? なんです?」
瑞穂は震える声で訊いた。
「”なんです?”じゃねぇよ。ほら、はやく賞金を寄こせよ!」
「あ――」
路上のポケモンバトルでは、負けたトレーナーが勝ったトレーナーに対して、今持っているお金の半分を「賞金」と称して渡さなければならない。ポケモントレーナー協会は、このような行為を禁止しているが、実際には強いポケモントレーナーの育成という国家規模の目標のために、黙認されているのが現状だった。
瑞穂は俯いたまま、少年にお金を渡した。
「たったの240円かよ。貧乏人だな。ま、こんだけ弱けりゃ、無理もないけどな」
思いつく限りの悪態をつき、マグマラシをボールへ戻すと、少年は振り向きざまに瑞穂の頭を張り飛ばした。
乾いた音が響いた。瑞穂の目の前に火花が散った。少女は口を開いたまま、呆けたようにその場に座り込み、紅く腫れた頬を掌で押さえた。胸元の冷たい部分から、瞳へとこみ上げてくる涙を喉元で堪えつつ、か細い声で呟く。
「どうして、叩くんですか――」
「弱い奴が、強い俺に逆らうからだよ。弱い奴はな、強い人間に逆らっちゃいけないんだよ。だけど、お前はそれを破った。罰みたいなもんなんだよ」
「そんな決まり、無いですよ。無いです」
項垂れた瑞穂の瞳から、堪えきれずに溢れた涙がこぼれた。情けなさと悔しさで、顎と肘が振るえ、何度も上下した。
「あるんだよ。俺はな、強いポケモンだけがポケモンだと思ってんだ。弱いポケモンなんてな、ポケモンじゃないんだよ。お前のポケモンも、ポケモンじゃねえよ。ペット以下だな。人形ごっこがしたいなら、自分のお家でやれよ」
悪態をすべて吐き出し終え、少年は駆け出した。
「ちょっと、まって!」
瑞穂は少年を呼び止めた。少年は振り向いた。汚い物でも見るような、蔑むような目つきだった。彼にとって、瑞穂は用済みの存在だったのだから。道ばたに転がっている石ころよりも、どうでもいい存在だったのだから。
「なんだよ、ザコトレーナー!」
膝の震えが甦った。ヒクつく喉を懸命に抑え、瑞穂は訊いた。
「あなたの名前――」
「ああん? お前みたいなのに付き合ってる暇無いんだよ。俺は!」
「名前、教えてくれないかな?」
「うるさい女だな。俺はゴールドってんだよ。とっとと消えろ負け犬!」
少年は最後の罵声を瑞穂に浴びせ、視界から消えた。
瑞穂は項垂れたまま、白い息とともに呻き声を吐いた。冷たい涙の雫が少女の唇を濡らし、手の甲に滴り落ちていく。透明な液体は空の色を映しだしていた。少女の哀しみをそのまま複写したかのような、青く暗い色を。