刹那の夢と嘘の玩具   作:月影 梨沙

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#3 姉妹。
すれ違い哀しみ


 

 月の光を浴びながら、少女は物思いに耽っていた。 

 

 滑らかで雪のように白い肌が、より一層、白色を帯びている。強すぎず弱すぎず、汚れた下界を優しく照らすその光は、物事を考えるときには最良の光だった。 

 

 少なくとも少女は、そう思っていた。 

 

 穏やかになれる。そんな感じがした。だが、この日だけは違っていた。歯を噛締め、食いしばる乾いた音が、コガネホテルのバルコニーに響いている。艶やかで腰のほうにまで達している、紫色のロングヘアが細やかに揺れている。 

 

「なによ――それ」 

 

 もう何十回、同じことを呟いたのだろうか。他に言うべき言葉など見つかるはずがないのに。慰め、守ってくれるはずの親もいない。帰るべき故郷もない。そして唯一の肉親であり、もっとも信頼し、もっとも頼りにしていた姉も、ベッドに篭り、この世界のすべてとの接触を拒むかのように、眠っている。少女の姉は、この街の、コガネシティの汚らわしい男達に犯されていた。 

 

 何故、こうも悪いことばかりが、続くのだろうか。 

 

 無表情のまま、少女は月を見上げた。丸いが少しだけ欠けている月が、硝子のように透き通った瞳に映った。漆黒の空に彩られた宝石のように、月は輝いている。だが、それがどんなに幻想的でも、美しかったとしても、少女の心を癒やすことはできなかった。 

 

 何故なら、少女の心の傷まで月の光は届かないから。暗く濁った心の表面を照らすことはできても、一番奥の、一番深い部分にある傷までは届かないから。 

 

「なによ――それ」 

 

 同じことを、何回くらい呟いたのだろうか。少女は思考の片隅で考えた。私は何をしているのだろう。何で、こんなことに、なっちゃったんだろう。 

 

 黒々としたノースリーブのワンピースが怒りに震え、風に煽られてはためいた。冷たい冬の風が吹いている。空気は微かに死臭を含んでおり、少女はそれを吸い込むのを拒否するかのように軽く息を吐いた。鋭利な表情とは不釣り合いな、可愛らしい黄色のリボンが、はらはらと風に吹かれて揺れた。 

 

 ゆっくりと少女が後ろを振り返ると、ガラス越しに姉の姿が見えた。布団を頭から被り、なにかに怯えているように眠る姉の姿は、痛々しく虚しかった。 

 

「なによ……それ……」 

 

 洲先瑞穂が、コガネジムのベッドの中で、アカネと共に静かな寝息をたてていたとき、少女はいつまでもコガネシティを見下ろしながら、同じ呟きを発し続けていた。  

 

 

 ○●

 

 

 体が、軽いような、重いような……不思議な感覚の中に彼女はいた。目の前では、記録映画のように、自分の姿が映し出されている。所々、白い靄がかかっていて、全体像は見えないのだが、紛れもなくそれは自分の記憶だった。 

 

「これは、夢なの?」 

 

 彼女は訊いた。答えは返ってこない。その代わりに、目の前のスクリーンは別の記憶を映しだした。 

 

 映像の中で、何かが彼女の体を強く押さえつけていた。激痛が彼女を襲う。彼女は抵抗していたが、相手の力に押されて、なす術は無かった。 

 

「ねぇ、答えてよ……。これは、なんなの? どこなの?」 

 

 彼女は叫んだ。 

 

 月の光が照らされた。その”何か”の全体像が、一瞬だけだが彼女の目に映った。それは男だった。いや、野獣の一人だとでも言った方が適切かもしれなかった。 

 

 彼女は恐る恐るスクリーンを凝視した。そこには紺のジャンパー、黒いジーパンを着た、長髪の男がニヤニヤと笑っている様子が映し出されていた。 

 

 男は彼女の髪の毛を引っ張り、その場に引きずり倒していた。嫌らしい笑みを浮かべながら、男は彼女の身体を舐めるように見つめた。 

 

「い……いたぃ……ぅぅ……」 

 

 彼女は、か細いうめき声をあげた。引きずり倒されたときの痛みで蹲っている。その時、彼女は男の二の腕にタトゥのような模様を見つけた。ニドリーノのタトゥのように見えた。すると、目の前のスクリーンが、突然真っ暗になり、何も映っていない状態になった。 

 

「なに……? どうしたの……。ねぇ、どうしたの?」 

 

 彼女の問いかけは、モヤモヤとした不思議な空間に、虚しく響いた。 

 

 暫くして、再びスクリーンに、自分の姿が映し出された。先程よりも、多少時間が経過しているらしい。 

 

 彼女は犯されていた。金髪の男は、犯されている彼女の身体を眺めている。スクリーンの中の彼女は、ただ呆然と、焦点のあっていない瞳で夜空を見上げているだけだった。苦しいのか、時折、顔を歪めて悲痛なうめき声を発している。 

 

「きゅ……くぅぅ……」 

 

 彼女の頭についた水玉模様のリボンが、狂ったように揺れていた。細く華奢な身体が、折れてしまいそうなほどに彼女は身体を捩り、男の身体に抗っている。 

 

「や……やだ……」 

 

 思わず彼女は呟いた。彼女の目の前で、記憶の中で、彼女は泣き叫んでいた。 

 

「ねぇ、やめて! 誰か、この映像を停めて! お願い!」 

 

 彼女の叫びは誰にも届かない。何故なら、スクリーンの中の自分自身の声に、掻き消されてしまったのだから。 

 

 背中を砕かれたような痛みに、彼女は泣き叫んだ。男は彼女の足首を掴み、子供の玩具のように乱暴に握り締めている。男の臭い息が鼻先を掠めた。彼女は顔を背けたが、男の汚い身体は、既に彼女の身体を浸食していた。異物が彼女の細い身体を貫いていた。 

 

「ああ……や……や……」 

 

 ……嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ……。 

 

 彼女の頭には、拒絶の叫びが鳴り響く。しかし、それは無意味であり、なにより手遅れだった。 

 

「誰でも、いいから、はやくこの映像を停めてっ!」 

 

 半ば自棄になって、彼女は叫ぶ。 

 

「やめてっ! やめてよっ!」 

 

 叫ぶと同時に、彼女は目を閉じた。スクリーンの中の自分は、涙声になりながら、細々とした苦悶の悲鳴をあげていいた。 

 

 救いはなかった。自分の身体と精神が音を立てて崩壊する音が、彼女の耳に鳴り響くだけだった。最後に聞こえる硝子瓶の鳴る音だけが、不協和音として彼女の耳に焼きついた。

 

 

○●

 

 

 朝日は既に、かなり上方に昇っていた。朝と言うよりも昼に近かった。コガネホテルの足下からのびる影も、次第に短くなっていく。 

 

 眠っているように静かな303号室は、突然の叫び声で目を覚ました。 

 

「いや……あぁッ!」 

 

 掛け布団を蹴り飛ばし、叫び声を上げながら射水 冷は飛び起きた。悪い夢でも見ていたのか、全身から汗が滲み出ている。羽織っていたパジャマは、ぐっしょりと濡れていた。 

 

 物音で異変に気づき、彼女の妹である射水 氷も目を覚ました。バルコニーでそのまま寝入ってしまっていた妹は、ゆっくりと部屋の方を覗き込んだ。姉はベッドから転げ落ちている。飛び起きた反動で足を痛めたのか、その場で蹲っていた。 

 

「姉さん?」 

 

 氷は小さな、虫の鳴くような声で呟いた。滑るようにしなやかに部屋の中へ入り、妹は蹲る姉を抱きかかえた。 

 

「姉さん、大丈夫? 落ち着いて。ここには、私達しかいない」 

 

 妹に言われ、冷は落ち着きを取り戻した。痛みを堪えて、疲れ切ったようにベッドに座り直す。 

 

「大丈夫? 姉さん」 

 

 目を細めて冷を見つめ、氷は心配そうに呟いた。だが、表情は微動だにしない。無表情という仮面が張り付いたまま、凍りついているかのようだった。姉である冷ですらここ数年、氷が感情を表に出したところを見たことがない。 

 

「大丈夫だよ……ちょっと、足を打っただけ」 

 

 静かに俯き、冷は言った。 

 

「姉さん」 

 

「ん……なに?」 

 

「生身の身体じゃ、この寒さは辛いでしょ。なにか、暖かい飲み物でも飲む?」 

 

 痛みのために、冷は今まで気付かなかったが、この部屋には暖房が無かった。いくら昼頃だとはいっても、凍てつくような冬の寒さは厳しかった。 

 

 冷は首を縦に振りながら、氷に訊いた。 

 

「うん、そうね。暖かいもの欲しいな。ミルクティーとか、ある?」 

 

「ミルクティーね。わかった」 

 

 氷は、ショルダーバッグの中からティーバッグを取り出した。ティーバッグを入れたティーカップに、ポットの熱湯をそそぎ込む。紅茶の良い香りが部屋に充満した。冷蔵庫からミルクを取りだし、紅茶へ注ぐ。 

 

 ティーバッグを取り出してから、ミルクティー完成まで、ほんの数秒だった。冷は、氷の異常なまでの手際の良さに、いつもながら驚いていた。 

 

 逆に言えば、つい最近まで、こんな事ばかりをさせられていたことを意味していた。それを思うと、何故もっと早く、この計画を実行しなかったのかと悔やんでしまう。 

 

 なにより、氷が可哀相だった。あの時の、一番、辛かった時期の氷のことは、もう思い出したくもない。 

 

 でも――今でも、その状況は、あまり変わっていないのかもしれない。 

 

 ――だって、私は。 

 

「姉さん。ミルクティーできた」 

 

 氷は、冷の目の前でティーカップを持ちながら立っていた。 

 

「あ……ありがとう……」 

 

 そう言って、冷は氷からミルクティーを受け取ると、一口すすった。甘く暖かなミルクティーが、のどを通って、お腹へと伝っていく。冬の冷気に冷やされた、冷の体はホンの少しだけ暖かみを取り戻した。 

 

「どう? 姉さん。おいしい?」 

 

 ミルクティーにつかったミルク瓶を冷蔵庫にしまいながら、氷は訊いた。冷は、はにかみながら微笑んで見せた。 

 

「うん。おいしいよ。氷のつくる料理は、なんでもおいしいもの」 

 

 姉の笑顔を見て、氷は一安心したのか軽く息を吐いた。 

 

「よかった、姉さんに喜んでもらえて」 

 

 氷はミルク瓶を冷蔵庫の中に押し込んだ。ミルク瓶は冷蔵庫の中のジュース瓶とぶつかり、カチャカチャと冷ややかな音をたてた。 

 

 その瞬間、冷の眼の色が変わった。 

 

「あ……あぁ」 

 

 乾いた叫び声を上げ、冷は蒼白になった顔をふるふると左右に振った。彼女は悪夢の最後に聞いた、あのミルク瓶の冷ややかな音を忘れてはいなかった。 

 

 夢で見た、スクリーンの情景が、今、自分の目の前で再生し始めた。 

 

 コレハ、ゆめナノ? ネェ、こたエテヨ……。コレハ、ナンナノ? ドコナノ?! 

 

「い……いや……ぅぅ……」 

 

 突然、冷は呻き声をあげた。そして苦しそうに表情を歪め、身体を無理矢理に捩った。 

 

 姉の不可解な行動に気付いた氷は、驚いて冷に話しかけた。 

 

「姉さん? 姉さん、どうしたの? どうしたの」 

 

 妹の問いかけで、冷は正気を取り戻した。冷は怯えた様子で、目の前に立ちつくしている氷の顔を見つめた。 

 

「……た」 

 

 思うように声が出ないのか、意味の分からない言葉が姉の口から発せられた。 

 

「え? 姉さん、今なんて――」 

 

 言ったの? 

 

「……見えた」 

 

 だから、なにが……? 

 

 と言いたいのを、氷は堪えた。表情から察するに、良からぬものを見て――思い出してしまったのだと、推測したからだ。 

 

 細々と、冷は呟いた。 

 

「もう、二度と思い出したくない、昨日の夜の――夢」 

 

「――夢?」 

 

 思わず、氷は聞き返した。 

 

「それは、確かに――」 

 

 夢だった方が、良いに決まってる。 

 

 夢だった方が、どれだけ楽なことか。 

 

 夢だった方が、これほど苦しまずにすんだのに。 

 

 夢だった方が……、いえ、夢であってほしかった。 

 

 ……でも、これは、現実なの……。 

 

「なんで……」 

 

 逃げようとするの? 

 

「どうして……」 

 

 逃げようとするの? 

 

 氷は、次から次へと沸き上がる言葉を、心の中でかみ殺した。今の姉に、そこまで言うのはあまりにも酷だから―― 

 

 冷の白く細い腕に鳥肌がたっているのに、氷は気付いた。 

 

 ミルクティーを一気に飲み干した冷は、突然、布団の中に潜りこんだ。甦った悪夢よりも非道い記憶が、か弱い冷の心を突き刺していた。 

 

 ――闇――暗闇――ギラつク男の眼――叫ビ、呻き、悲鳴、羞恥、血涙、恐怖、死――? 

 

 いつしか、冷は震えていた。 

 

「姉さん……」 

 

 氷は悲しい瞳で、姉を見つめ続けることしかできなかた。それでも尚、その表情は変わらなかった。 

 

「嫌……もう疲れた……」 

 

 布団の中から、冷のくぐもった声が聞こえてくる。その声は、哀しみに満ちていた。 

 

「疲れたって――姉さん。私達は、まだこれから」 

 

 溜まりかねて、氷は言った。その瞬間、冷は再び布団から飛び起きると、氷を睨み付けながら言った。 

 

「これから……? 私に、これから何があるって言うのよ……?」 

 

 冷は、体ばかりではなく、唇に至るまで震えさせながら続けた。 

 

「これからなんて、なにもない。なにも良い事なんてあるわけないよ。それに、なんで、あんな目に……あうの……氷も一回、同じ目にあってみたら解るわ。死にたくなるよ。絶対。あぁ、もう、……いやだいやだ……イヤダイヤダ……」 

 

 氷は、姉をを見つめたまま制止していた。 

 

「もう嫌だよ……辛いよ……死にたいよ……」 

 

 冷の眼は、沢山の涙で溢れていた。氷にとって、そんな姉を見るのは辛かった。 

 

「そんな事……言わないで。それに、姉さんが死んじゃったら、私はどうなるの……どうすればいいの?」 

 

 錯乱していた冷の表情が、少しだけ元に戻った。 

 

「姉さん、死んじゃったら、私は独りぼっちになるの……? そんなの……」 

 

 嫌に決まっている。 

 

 氷は、冷を強く抱きしめていた。一晩中、外で眠っていたせいなのか、雪のように冷たい肌が、ヒヤリと冷の体を包んでいた。 

 

 

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