すれ違い哀しみ
月の光を浴びながら、少女は物思いに耽っていた。
滑らかで雪のように白い肌が、より一層、白色を帯びている。強すぎず弱すぎず、汚れた下界を優しく照らすその光は、物事を考えるときには最良の光だった。
少なくとも少女は、そう思っていた。
穏やかになれる。そんな感じがした。だが、この日だけは違っていた。歯を噛締め、食いしばる乾いた音が、コガネホテルのバルコニーに響いている。艶やかで腰のほうにまで達している、紫色のロングヘアが細やかに揺れている。
「なによ――それ」
もう何十回、同じことを呟いたのだろうか。他に言うべき言葉など見つかるはずがないのに。慰め、守ってくれるはずの親もいない。帰るべき故郷もない。そして唯一の肉親であり、もっとも信頼し、もっとも頼りにしていた姉も、ベッドに篭り、この世界のすべてとの接触を拒むかのように、眠っている。少女の姉は、この街の、コガネシティの汚らわしい男達に犯されていた。
何故、こうも悪いことばかりが、続くのだろうか。
無表情のまま、少女は月を見上げた。丸いが少しだけ欠けている月が、硝子のように透き通った瞳に映った。漆黒の空に彩られた宝石のように、月は輝いている。だが、それがどんなに幻想的でも、美しかったとしても、少女の心を癒やすことはできなかった。
何故なら、少女の心の傷まで月の光は届かないから。暗く濁った心の表面を照らすことはできても、一番奥の、一番深い部分にある傷までは届かないから。
「なによ――それ」
同じことを、何回くらい呟いたのだろうか。少女は思考の片隅で考えた。私は何をしているのだろう。何で、こんなことに、なっちゃったんだろう。
黒々としたノースリーブのワンピースが怒りに震え、風に煽られてはためいた。冷たい冬の風が吹いている。空気は微かに死臭を含んでおり、少女はそれを吸い込むのを拒否するかのように軽く息を吐いた。鋭利な表情とは不釣り合いな、可愛らしい黄色のリボンが、はらはらと風に吹かれて揺れた。
ゆっくりと少女が後ろを振り返ると、ガラス越しに姉の姿が見えた。布団を頭から被り、なにかに怯えているように眠る姉の姿は、痛々しく虚しかった。
「なによ……それ……」
洲先瑞穂が、コガネジムのベッドの中で、アカネと共に静かな寝息をたてていたとき、少女はいつまでもコガネシティを見下ろしながら、同じ呟きを発し続けていた。
○●
体が、軽いような、重いような……不思議な感覚の中に彼女はいた。目の前では、記録映画のように、自分の姿が映し出されている。所々、白い靄がかかっていて、全体像は見えないのだが、紛れもなくそれは自分の記憶だった。
「これは、夢なの?」
彼女は訊いた。答えは返ってこない。その代わりに、目の前のスクリーンは別の記憶を映しだした。
映像の中で、何かが彼女の体を強く押さえつけていた。激痛が彼女を襲う。彼女は抵抗していたが、相手の力に押されて、なす術は無かった。
「ねぇ、答えてよ……。これは、なんなの? どこなの?」
彼女は叫んだ。
月の光が照らされた。その”何か”の全体像が、一瞬だけだが彼女の目に映った。それは男だった。いや、野獣の一人だとでも言った方が適切かもしれなかった。
彼女は恐る恐るスクリーンを凝視した。そこには紺のジャンパー、黒いジーパンを着た、長髪の男がニヤニヤと笑っている様子が映し出されていた。
男は彼女の髪の毛を引っ張り、その場に引きずり倒していた。嫌らしい笑みを浮かべながら、男は彼女の身体を舐めるように見つめた。
「い……いたぃ……ぅぅ……」
彼女は、か細いうめき声をあげた。引きずり倒されたときの痛みで蹲っている。その時、彼女は男の二の腕にタトゥのような模様を見つけた。ニドリーノのタトゥのように見えた。すると、目の前のスクリーンが、突然真っ暗になり、何も映っていない状態になった。
「なに……? どうしたの……。ねぇ、どうしたの?」
彼女の問いかけは、モヤモヤとした不思議な空間に、虚しく響いた。
暫くして、再びスクリーンに、自分の姿が映し出された。先程よりも、多少時間が経過しているらしい。
彼女は犯されていた。金髪の男は、犯されている彼女の身体を眺めている。スクリーンの中の彼女は、ただ呆然と、焦点のあっていない瞳で夜空を見上げているだけだった。苦しいのか、時折、顔を歪めて悲痛なうめき声を発している。
「きゅ……くぅぅ……」
彼女の頭についた水玉模様のリボンが、狂ったように揺れていた。細く華奢な身体が、折れてしまいそうなほどに彼女は身体を捩り、男の身体に抗っている。
「や……やだ……」
思わず彼女は呟いた。彼女の目の前で、記憶の中で、彼女は泣き叫んでいた。
「ねぇ、やめて! 誰か、この映像を停めて! お願い!」
彼女の叫びは誰にも届かない。何故なら、スクリーンの中の自分自身の声に、掻き消されてしまったのだから。
背中を砕かれたような痛みに、彼女は泣き叫んだ。男は彼女の足首を掴み、子供の玩具のように乱暴に握り締めている。男の臭い息が鼻先を掠めた。彼女は顔を背けたが、男の汚い身体は、既に彼女の身体を浸食していた。異物が彼女の細い身体を貫いていた。
「ああ……や……や……」
……嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ……。
彼女の頭には、拒絶の叫びが鳴り響く。しかし、それは無意味であり、なにより手遅れだった。
「誰でも、いいから、はやくこの映像を停めてっ!」
半ば自棄になって、彼女は叫ぶ。
「やめてっ! やめてよっ!」
叫ぶと同時に、彼女は目を閉じた。スクリーンの中の自分は、涙声になりながら、細々とした苦悶の悲鳴をあげていいた。
救いはなかった。自分の身体と精神が音を立てて崩壊する音が、彼女の耳に鳴り響くだけだった。最後に聞こえる硝子瓶の鳴る音だけが、不協和音として彼女の耳に焼きついた。
○●
朝日は既に、かなり上方に昇っていた。朝と言うよりも昼に近かった。コガネホテルの足下からのびる影も、次第に短くなっていく。
眠っているように静かな303号室は、突然の叫び声で目を覚ました。
「いや……あぁッ!」
掛け布団を蹴り飛ばし、叫び声を上げながら射水 冷は飛び起きた。悪い夢でも見ていたのか、全身から汗が滲み出ている。羽織っていたパジャマは、ぐっしょりと濡れていた。
物音で異変に気づき、彼女の妹である射水 氷も目を覚ました。バルコニーでそのまま寝入ってしまっていた妹は、ゆっくりと部屋の方を覗き込んだ。姉はベッドから転げ落ちている。飛び起きた反動で足を痛めたのか、その場で蹲っていた。
「姉さん?」
氷は小さな、虫の鳴くような声で呟いた。滑るようにしなやかに部屋の中へ入り、妹は蹲る姉を抱きかかえた。
「姉さん、大丈夫? 落ち着いて。ここには、私達しかいない」
妹に言われ、冷は落ち着きを取り戻した。痛みを堪えて、疲れ切ったようにベッドに座り直す。
「大丈夫? 姉さん」
目を細めて冷を見つめ、氷は心配そうに呟いた。だが、表情は微動だにしない。無表情という仮面が張り付いたまま、凍りついているかのようだった。姉である冷ですらここ数年、氷が感情を表に出したところを見たことがない。
「大丈夫だよ……ちょっと、足を打っただけ」
静かに俯き、冷は言った。
「姉さん」
「ん……なに?」
「生身の身体じゃ、この寒さは辛いでしょ。なにか、暖かい飲み物でも飲む?」
痛みのために、冷は今まで気付かなかったが、この部屋には暖房が無かった。いくら昼頃だとはいっても、凍てつくような冬の寒さは厳しかった。
冷は首を縦に振りながら、氷に訊いた。
「うん、そうね。暖かいもの欲しいな。ミルクティーとか、ある?」
「ミルクティーね。わかった」
氷は、ショルダーバッグの中からティーバッグを取り出した。ティーバッグを入れたティーカップに、ポットの熱湯をそそぎ込む。紅茶の良い香りが部屋に充満した。冷蔵庫からミルクを取りだし、紅茶へ注ぐ。
ティーバッグを取り出してから、ミルクティー完成まで、ほんの数秒だった。冷は、氷の異常なまでの手際の良さに、いつもながら驚いていた。
逆に言えば、つい最近まで、こんな事ばかりをさせられていたことを意味していた。それを思うと、何故もっと早く、この計画を実行しなかったのかと悔やんでしまう。
なにより、氷が可哀相だった。あの時の、一番、辛かった時期の氷のことは、もう思い出したくもない。
でも――今でも、その状況は、あまり変わっていないのかもしれない。
――だって、私は。
「姉さん。ミルクティーできた」
氷は、冷の目の前でティーカップを持ちながら立っていた。
「あ……ありがとう……」
そう言って、冷は氷からミルクティーを受け取ると、一口すすった。甘く暖かなミルクティーが、のどを通って、お腹へと伝っていく。冬の冷気に冷やされた、冷の体はホンの少しだけ暖かみを取り戻した。
「どう? 姉さん。おいしい?」
ミルクティーにつかったミルク瓶を冷蔵庫にしまいながら、氷は訊いた。冷は、はにかみながら微笑んで見せた。
「うん。おいしいよ。氷のつくる料理は、なんでもおいしいもの」
姉の笑顔を見て、氷は一安心したのか軽く息を吐いた。
「よかった、姉さんに喜んでもらえて」
氷はミルク瓶を冷蔵庫の中に押し込んだ。ミルク瓶は冷蔵庫の中のジュース瓶とぶつかり、カチャカチャと冷ややかな音をたてた。
その瞬間、冷の眼の色が変わった。
「あ……あぁ」
乾いた叫び声を上げ、冷は蒼白になった顔をふるふると左右に振った。彼女は悪夢の最後に聞いた、あのミルク瓶の冷ややかな音を忘れてはいなかった。
夢で見た、スクリーンの情景が、今、自分の目の前で再生し始めた。
コレハ、ゆめナノ? ネェ、こたエテヨ……。コレハ、ナンナノ? ドコナノ?!
「い……いや……ぅぅ……」
突然、冷は呻き声をあげた。そして苦しそうに表情を歪め、身体を無理矢理に捩った。
姉の不可解な行動に気付いた氷は、驚いて冷に話しかけた。
「姉さん? 姉さん、どうしたの? どうしたの」
妹の問いかけで、冷は正気を取り戻した。冷は怯えた様子で、目の前に立ちつくしている氷の顔を見つめた。
「……た」
思うように声が出ないのか、意味の分からない言葉が姉の口から発せられた。
「え? 姉さん、今なんて――」
言ったの?
「……見えた」
だから、なにが……?
と言いたいのを、氷は堪えた。表情から察するに、良からぬものを見て――思い出してしまったのだと、推測したからだ。
細々と、冷は呟いた。
「もう、二度と思い出したくない、昨日の夜の――夢」
「――夢?」
思わず、氷は聞き返した。
「それは、確かに――」
夢だった方が、良いに決まってる。
夢だった方が、どれだけ楽なことか。
夢だった方が、これほど苦しまずにすんだのに。
夢だった方が……、いえ、夢であってほしかった。
……でも、これは、現実なの……。
「なんで……」
逃げようとするの?
「どうして……」
逃げようとするの?
氷は、次から次へと沸き上がる言葉を、心の中でかみ殺した。今の姉に、そこまで言うのはあまりにも酷だから――
冷の白く細い腕に鳥肌がたっているのに、氷は気付いた。
ミルクティーを一気に飲み干した冷は、突然、布団の中に潜りこんだ。甦った悪夢よりも非道い記憶が、か弱い冷の心を突き刺していた。
――闇――暗闇――ギラつク男の眼――叫ビ、呻き、悲鳴、羞恥、血涙、恐怖、死――?
いつしか、冷は震えていた。
「姉さん……」
氷は悲しい瞳で、姉を見つめ続けることしかできなかた。それでも尚、その表情は変わらなかった。
「嫌……もう疲れた……」
布団の中から、冷のくぐもった声が聞こえてくる。その声は、哀しみに満ちていた。
「疲れたって――姉さん。私達は、まだこれから」
溜まりかねて、氷は言った。その瞬間、冷は再び布団から飛び起きると、氷を睨み付けながら言った。
「これから……? 私に、これから何があるって言うのよ……?」
冷は、体ばかりではなく、唇に至るまで震えさせながら続けた。
「これからなんて、なにもない。なにも良い事なんてあるわけないよ。それに、なんで、あんな目に……あうの……氷も一回、同じ目にあってみたら解るわ。死にたくなるよ。絶対。あぁ、もう、……いやだいやだ……イヤダイヤダ……」
氷は、姉をを見つめたまま制止していた。
「もう嫌だよ……辛いよ……死にたいよ……」
冷の眼は、沢山の涙で溢れていた。氷にとって、そんな姉を見るのは辛かった。
「そんな事……言わないで。それに、姉さんが死んじゃったら、私はどうなるの……どうすればいいの?」
錯乱していた冷の表情が、少しだけ元に戻った。
「姉さん、死んじゃったら、私は独りぼっちになるの……? そんなの……」
嫌に決まっている。
氷は、冷を強く抱きしめていた。一晩中、外で眠っていたせいなのか、雪のように冷たい肌が、ヒヤリと冷の体を包んでいた。