「ひ……ひょう……」
驚いた。
”あの事件”以来、氷が、感情に流されることなど、初めてだったから。そのことに関しては、冷は、少しだけ嬉しく思う。しかし冷は、そんなことに喜んでいられるほど、穏やかな精神状態ではなかった。
「誰だって、いつかは一人にならなきゃ、ならないのよ。私だって、この間まで一人だった」
冷は、つっけんどんに答えた。
「どうして。私がいたじゃない――」
氷の心配も、今の冷にとっては、なんの意味もなかった。つまり、冷の受けた精神的な傷が、それほど深かったという事だった。
恐怖からか、唇が震え、言葉が良く聞き取れなくなり、冷は明らかに取り乱しているように、氷には見えた。
2、3度、問答を繰り返す内、冷の眼から涙が溢れ出た。それはポロポロと、毛布に落ちて染み込んでいく。
「姉さん、本当に大丈夫?」
あまりの姉の取り乱しように、さすがの氷も顔を強張らせた。冷は、なにも答えなかった。これが答えだ、と言わんばかりに、ボロボロと涙だけがこぼれ続ける。蒼白く震える冷の顔は、もはや既に自分の姉ではないように思えた。
氷は、ゆっくりと冷の背中をさするが、冷の様子は一向に落ち着かない。
「もう……泣かないで……」
「あなたに、私の何がわかるの? 解らないわ。理解してほしいなんて思わない。だって絶対に解らないんだもの! 私の気持ちなんて、誰も解らないのよっ!!」
冷の取り乱し方は、頂点に達していた。体は涙のシャワーで濡れ、なおかつ震えは、おさまる気配すらない。
「解らない……私の気持ちなんて誰にも……、絶対に解らないわ!」
その叫びと共に、冷は嘔吐した。吐いたのだ。あまりの緊張に、胃が耐えきれなかったのだろう。先程飲んだミルクティーが、次から次へと逆流していった。ツンとする胃酸の臭いが、部屋にたちこめる。
「……あ……、あ……氷……?」
暫くしてから、正気に戻った冷は、おそるおそる氷を見上げた。氷は悲しげに項垂れていた。
ただ、一言呟いた。
「姉さん……、涙」
「え? ……あぁ……」
相変わらず、冷の眼からは、涙が溢れ出てたままだった。
「とまらない」
「……なんで……。とまらない……?」
「そう、とまらない……」
涙が、止まらない。
止めようと思っても、いうことを聞いてくれない。涙顔のまま冷は、氷に語りかけた。
「氷……ごめん……」
「いいよ……、気にしてないから。でも……」
氷は、眼を閉じた。
冷は、訊く。
「でも……、なに……?」
「姉さん……最近、変わったよ……昔と全然違う……」
私が……?
他に……、誰がいるの?
「そんな……だって……」
そこまで言いかけて、冷は、慌てて口をつぐんだ。
私は、誰なんだろう。
射水 冷……氷の『姉』。
ほんとに、そうなのかな……。
私は、本当に、氷の『姉』なんだろうか。
もしかしたら、違うかもしれない。
氷にとっての『姉』は、こんな、ひ弱な女じゃないはず。
私は、変わったんだろうか。
あの世界で生きるために、変わることを強制されたのかもしれない。
それとも、氷にとっての『姉』は、最初から私じゃないのかもしれない。
それって……。
まさか……、まさかね……。
まさか……。それでも……。それじゃ……。そんなの……。
『妹』は、……でも、そのうちに……。
「そ……、そうよね。た……たしかに……たしかに、私は変わった」
口では、そう言っているが、明らかに冷は狼狽していた。そんな冷の様子を見て、氷は心配になった。
「あ……、姉さん……。私、そんなに酷いこと言った……?」
それを聞いて、冷は慌てて首を横にふった。
「違う……違うよ……」
「それじゃ……、どうして……」
そんなに、狼狽えているの……?
そう、訊きたかったが、やめた。姉が、元に戻っただけで、十分であり、それ以上無駄なことはしたくなかった。
氷が黙ったままでいるのを、冷は静かに見つめている。
……もう、遅い……なにもかも……。
そう、冷は思った。
そして、心に決めた。
これ以上、氷が傷つくのを見たくないから……そして自分も……。
まだ黙っている氷に対して、冷は立ち上がり言った。
「ちょっと、散歩に行ってくるね」
「え……? でも……」
心配そうな氷をよそに、冷は、ドアを押して外に出た。
「大丈夫……。私なら……大丈夫だから……」
やっとのことで、冷の瞳から涙が消えた。
氷は、悲しそうな様子で冷の後ろ姿を眺めていた。
○●
つきぬけるような青空の中で、太陽は燦々と照り光っている。人口密集地コガネシティで、雲もなくこれほど天気のいい日は、数ヶ月ぶりだった。
「はぁ……」
そんな青空に一番近い場所、コガネ百貨店の屋上のベンチで、コガネジムのジムトレーナー少女アスカが、プリンを頭に乗せて、ため息をついていた。
「ウチって、なんでこんなに口が悪いんやろか……」
そう言うとアスカは、ガクッと項垂れた。
深く落ち込んでいるアスカとは対照的に、頭に乗っている『風船ポケモン』プリンは嬉しそうに、買ってもらったアイスキャンデーを、ペロペロと嘗めている。
「はぁ……。いっつも、いっつも……余計な事ばかり言うてしまうし……」
そんな、アスカの事など気にもせず、プリンは陽気に小躍りした。
落ち込んでいるアスカは、陽気なプリンの行為に、嫌気がさしてきた。ついに我慢できずに首を激しく横にふった。
「ぷ……ぷりゅり? ぷりゅ~!」
頭から振り落とされたプリンは「なにすんのよ?!」と、でも言いたげな表情で、アスカを睨んだ。アスカも負けじと、プリンを睨みながら言い放つ。
「あんたバカやろ!? ウチが、こんなに落ち込んどるのに、よりによって頭の上で暴れるやなんて……、いったいどういう神経しとるんや?」
バカと言われてプリンは、さらに憤慨した。
ポケモンであるプリンには、言葉の正確な意味までは解らなくとも、相手の表情や、言い方、声色などで、大体の意味なら解るのだ。
「ぷりゅりゅ! ぷりゅり!」
そう言うと、ぷくぅ~と、プリンの体が膨れる。
これこそプリンが、「ふうせんポケモン」に分類される所以だ。
いつものアスカならば、膨れたプリンの可愛さで、怒りも収まるのだが、今日だけは違っていた。
「いっつも、いっつも、膨れりゃええいうもんやないで! それになんやねん。ウチのアイスキャンデー。ほとんどなくなってもうとるやんか!」
アスカは、プリンの手元を指さした。丸々と膨らんだプリンの短い手には、嘗められて元の4分の1くらいの大きさになってしまった、アイスキャンデーが、しっかと握られている。
「それ、ウチのアイスキャンデーやで! 返してや!」
そう言うと、アスカはプリンのアイスキャンデーめがけて、手を伸ばした。しかしプリンは、ぴょんと跳び上がり、アスカの腕を避けた。
小馬鹿にしたような、プリンの態度に、アスカはとうとう本気で頭にきた。
「いい加減にせんかい! なんで、ウチの言うこと、聞いてくれへんねん!!」
顔全体を真っ赤にし、湯気を上げながら、アスカは大声で叫んだ。そのあまりの形相に、いままでやりたい放題だったプリンも、さすがに怖じ気づいてしまったようだ。
「ぷ……ぷり、ぷりゅ~……。!」
拍子に、プリンは、背中から転んだ。アイスキャンデーは手から離れて、どこかへ飛んでいってしまう。
起きあがったプリンは、いまにも泣きそうな顔を、アスカに向けた。
「な……なんやねん。そ、そんな顔しても無駄や。ウチには通用せえへんで!」
そうアスカに言われて、プリンはぷいっと横を向いた。それを見て、アスカは呆れ、思わずため息をついた。
「なんや……、やっぱり、嘘泣きやったんかい」
そのとき、後ろからアスカを呼ぶ、若い女の声が聞こえてきた。
「あの……、このアイス、あなたのですよね……?」
そう言われて、アスカが振り向いた先には、アスカと同じくらいの年頃の女性が、ドロドロになったアイスキャンデーを手に持って、立っていた。女性の紫色の髪は艶やかで、童顔なアスカとは対照的に、どことなく大人の雰囲気を漂わせている。
「あ、そやで、ありがと……」
そこまでお礼を言いかけて、アスカの顔色が一気に、青ざめた。相手の女性の肩には、溶けたアイスキャンデーの一部がベットリとへばりついていたのだ。プリンの投げたアイスキャンデーが、彼女に当たってしまったということは容易に想像できた。
「あの……、どうかしました?」
真っ青な顔のアスカを見て、彼女は首を傾げた。
「あ、ご……ごめんな。その洋服代は、ウチが弁償するから……、許してや……。あ、ほら、プリン! あんたも謝りんかい!」
アスカは、足下で拗ねているプリンを担ぎ上げた。
「もしかして……、これのことで、謝ってくれているんですか?」
彼女は、肩についている洋服のシミを指さしながら言った。
「ホンマに、ごめんな。洋服代は絶対に弁償するから……」
頭を下げたアスカを見て、彼女は、手をふりふりしながら応じた。
「い、いいですよ。弁償なんて……」
「へ?」
予想だにしなかった答えに、アスカは呆然と彼女の顔を見つめた。
「ど、どういうことなん……?」
「弁償だなんて、大袈裟ですよ。なにも、そこまでしなくても……」
「でも……、なんか、悪いなぁ……。その洋服、高そうやし……」
アスカは、彼女の着ている服を、マジマジと見やる。それに気付いたのか、彼女も自分の服を、チラリと見た。
「この服は、一昨日、妹がつくってくれたんです。『寒いでしょ』って」
「そやったら、なおさら……」
彼女は、少し俯いて、首を横にふる。
「とにかく、いいんです。もう、私には必要ないですから」
「そ……そうなん……? ほんまに、ごめんな」
アスカがそう言うと、彼女は完全に溶けてしまったアイスキャンデーを手渡して、展望テラスの方へ、行ってしまった。
脱力したように、アスカは、その場に座り込んだ。
「変なの……。弁償する、言うてんのに」
口ではそう言いながらも、アスカは多少、ホッとしていた。
弁償するとは言うものの、結局、お金を持っていないアスカは、アカネに事情を説明して、お金を貸してもらうしかない。そんなことになったら、アカネになんと言われるか……、たまったものではないのだ。
「まぁ……、よかったかな……」
そう呟くと、アスカは、抱いていたプリンを、地面に降ろした。
「もとはといえば、あんたが悪いんやで」
プリンを、叱りつけた、その時だった。
……きれいナ、あおぞら……。
さっきの彼女の声が、聞こえたような気がした。アスカは、ふと彼女がいるはずの、展望テラスを振り返った。
「あれ……、おらへん」
彼女の姿は、そこにはなかった。
ドスッ!
グワシャッ!
その音は、アスカの耳に、長く焼き付くことになる。
○●