彼女が見た最期の風景は、透き通った青空だった。
「わぁ……、きれいな……青空だね……」
彼女が呟いた瞬間、自分の背骨が粉々に砕ける音が、耳に響いた。続いて、頭蓋が崩れ、頭皮が弾け、鮮やかなピンク色をした脳味噌が辺りに飛び散り、ズタズタになった後頭部からは、腥血と脳漿がとめどなく吹き出した。
内蔵は、衝撃でグチャグチャに掻き回されて破裂し、体中の穴という穴から、血にまみれた汚物が垂れ流された。
しんと、辺りは静まり返った。彼女の頭に付いていた水玉のリボンが、風に吹かれて何処かへと飛んだ。水晶のように澄んでいた瞳は白く濁り、上目遣いに、路上に立ちすくむ人々を睨み付けていた。
誰かの悲鳴が響いた。静寂は途切れた。彼女の屍体を見つめ続ける人々の中の、何かが決壊した。悲鳴は連鎖的に倒れていくドミノのように、瞬く間に響きわたった。
悲鳴の振動は、汚物に塗れた彼女の体を震わせるのには、十分過ぎた。
○●
同日、午後7時36分。
コガネ中央病院の霊安室の前に、少女は立っていた。少女は微かに天井を見上げて首を振り、腰の方まで伸びた紫色の長髪を振り払っている。その仕種は、子供とは思えない程に妖艶で落ち着き払っていた。
医者と思しき白衣の男が、少女に気付いた。男は眉を潜めた。こんな時間に、こんな場所で女の子が何をしているんだ? 訝るような男の瞳はそう言っていた。監視するように不思議な少女を眺め続け、少女が一向に立ち去る素振りを見せないのを不審に思い、男は話しかけた。
「君さ、ここは子供が遊んで良いような場所じゃないんだ。ここは病院だよ? ほら、ご家族の方はどこ? 迷子なら、そこの階段を降りたところに――」
「家族はいない。誰もいない」
少女は吐き捨てるように呟いた。鈴の音のように、小さく澄んだ声だった。
「誰もいない? 大人をからかうとただじゃすまないぞ。ここは、大人しか入れない場所なんだ。子供がうろうろしちゃ、いけない場所なんだよ!」
男は、少女の言葉を鼻先で笑った。微動だにしない少女の態度に焦れたのか、男は少女の漂白したように白い腕を握り、強く引いた。少女は上目遣いで、睨むような視線を送り続けている。
「ほら、早く出て行くんだよ!」
「うるさい――」
少女の――射水 氷の瞳の色が変わった。男の声が急に途切れた。少女からの視線が、黄色い危険な色を帯びていた。極端に搾られた少女の眼球が、人間のものでは無いように、彼には思えた。男は震える指先で胸と首筋を押さえ、痙攣しながら床に倒れた。
「く? か、身体が痺れる――」
男は唇の端から涎を垂らしながら喘いでいた。必死に顔を上げる。感情を拭い取った無表情な、少女の顔が見えた。幼い顔つきだけに、余計に表情の無さが目立った。
「何だこれは。身体が動かない? 君の仕業か? これは、これは一体なんの真似なんだ!」
男は少女に訊いた。氷は男を無視し、霊安室に入ろうとしていた。男は声を張り上げた。
「待つんだ! そこは、子供が遊ぶような場所じゃない」
男は痺れた身体を堪え、掠れた声で叫ぶ。氷は、男を睨み付けた。
「静かにして」
氷は呟き、麻痺している男の顔を踏みつけた。男の意識は途切れた。男が静かになったのを確認し、氷は霊安室の重い扉を開き、部屋の中へと踏み込んだ。霊安室の中は、消毒液のような異臭に満たされていた。
氷は目を細めて辺りを見回した後、もう一歩、足を踏み込んだ。一歩ずつ、足を前へ進める度に、心臓が緊張で深く鼓動する音が、耳に響いてくる。
一番奥の台座の前で立ち止まり、氷は台座に被せられている緑色のシートを、静かに捲った。
「姉さん――」
氷は、思わず息を呑んだ。緑色のシートの下には、変わり果てた姿の姉が、落下直後の状態そのままで、横たわっていた。
ゆっくりと、氷は姉の腕に触れた。冷たい。
「姉さん、どうして――」
無惨な姉の遺体を前に、氷は呟いた。
「どうして、私を置き去りにして、自分だけ死んじゃうの」
姉は答えない。
「どうして、姉さんが死ななきゃいけないの」
姉は答えない。
氷には、解らなかった。姉が、自分で自分を殺した理由が。自殺した理由が。姉は何故、死ななければならなかったのか。
氷は病院を後にした。既に辺りは暗くなっている。冷たい夜の風が、氷の紫色の長髪を靡かせた。
暗いとは言うものの、街の中央はビルの明かりや店の電飾などで、まだ明るい方だった。この街の路地裏は、時に『闇に堕ちた街』と形容される程、闇に満ちているのだから。
無表情のまま、氷は月を見上げた。居待月は銀色に光っている。その光に誘われるかのように、氷は歩き出した。歩きながら、氷は考えた。姉が死んだ今、これから自分は何をするべきなのか。
どう生きるべきなのか。なんのために生きるべきなのか。
答えは見つからない。いや、正確には、1つだけ見つけていた。漠然とした、行く末は見えていた。だが、それは無視して捨てた。
暫く街をさまよい歩いていると突然、氷の足が止まった。
「………うぅ……」
どこからか、遠くない場所から、女の子が苦しんでいるような声が聞こえてきた。辺りを見回し、その声が路地裏から漏れていることを確認すると、氷は闇に満ちた空間へと入り込んだ。
静まり返った暗い路地裏で、女の子の呻き声だけを頼りに、氷は進んだ。声が近いのを感じ、氷は柱に身を潜めて、声のする方を覗き込んだ。その情景を見て、氷は即座に目を背けた。
そこでは男が2人、水色のツーテールの少女を凌辱して遊んでいた。遊ばれている少女の隣には、同じ年頃と思われる少女の、コマギレになった死体が転がっている。
少女は泣き叫ぶ。小さく白い裸体は恐怖と痛みで震えていた。時折、鳴き声に混じって呻きが聞こえる。男は笑いながら少女の胸を、そして股間を舐めていた。
非道い。これが――人間の本能? 違う。”これ”は異常だ。姉さんも、この女の子のような苦痛を受けた、そうなんだ。だから? だから、死んじゃったの?
自分の姉も、このような愚かな醜い男によって、死に追いつめられたのだろうか。そう思うほど悔しく、憤りを感じ、しまいには殺意すら湧き出た。溜まらなくなり、氷は男達を止めに入ろうと身を乗り出した――その時だった。
闇に閃光が走った。その閃光は、少女を舐め回している男を、遙か虚空へと吹き飛ばした。もう一人の男は、間一髪で閃光を避け、壁をよじ登り、どこかへ走り去ってしまった。
氷は突然のことに驚いた。だが、その驚きを表情に出すことはなく、即座に閃光の発射方向を見やった。2メートル程もある長身の何かが立っていた。太い腕に鋭い爪、閃光を発射したと思われる口からは、煙が出ていた。
巨大な影は、すぐさま男に詰め寄り、鋭い爪で切り裂いた。張り裂けんばかりの絶叫が響いた。それは男を担ぎ上げると、どこかへと投げ飛ばした。激突の音と共に絶叫が途絶えた。
凄まじい情景を目の当たりにしながらも、氷は冷静さを保っていた。
謎の大男と、少女に気付かれないようにしながら、氷は男の投げ飛ばされた場所へ走った。
「た……助けてくれ……」
路地裏の奥。真っ暗な闇に、更に墨を流し込んだかのような場所に、男は倒れたまま呻きを上げていた。暗くてよくは見えないが、男は金髪で無精ヒゲを生やしたており、左の太股にデルビルのようなタトゥが刻まれていた。
男……いや、野獣だ……、自分の姉を死に追いつめた奴と、同じ種類の動物だ……。
氷は、そう思いながら、ゆっくりと男に近づいた。次第に、暗闇から男の身体が鮮明に浮かび上がる。そして、氷は目を細めた。男は、体中に煮立っているような火傷を負っていた。さらに股間からは夥しい出血。服は完全に燃え尽きており、辛うじて生命を維持しているように思えた。
「助けて……助けてくれ……」
涙に歪んだ顔を持ち上げながら、男は氷に懇願した。のたうちまわり、惨めに命乞いの言葉を吐き出し続ける男の顔を蔑むように眺め、氷は吐き捨てるように言った。
「自業自得ね。早く、死ねばいい」
氷の言葉は憎悪に満ちていた。男は顔を醜く歪めて絶叫した。
「助けてくれェ! 頼む! お願いだァ! 俺ハ死ニたくネぇェェェェェェッ!」
惨めだ。惨めすぎる男の叫びに、氷は微笑した。男の絶叫に隠れて、少女は呟く。自業自得……だ、と。
氷は、今まで生きてきた中で、最も心躍っている事に気付いていた。こんなに楽しい事は初めてだ。醜く愚かな輩に、私的な制裁を与える事が、こんなに楽しいなんて――
心の奥底から溢れ出す笑いを、なんとか押し殺しながら、氷は呟いた。
「この街で、二の腕にニドリーノのタトゥがある男を知らない? 教えてくれたら、助けてあげてもいい――」
震え、縺れる舌を必死に操りながら、男は氷の問いに答えた。
「あぁ……、知ってル。裏切リ者だ……。あいつ、俺の事を見捨てて、自分だけ逃げやガったんだ」
「さっきの……、さっき逃げた男……?」
「そうさ、あの野郎……、今度会ったら……」
男は歯軋りしながら、拳を震わせ、冷たい地面を睨み付けていた。
「――で? その男の名前は、なんて言うの?」
「レライエ……、レライエだ」
「レライエ……ね。ありがとう。……ところで……あなた、名前は?」
「サミジマだ。いいから、早く助けてく……」
男の言葉を聞き流し、氷は顔を上げた。恐怖に顔をひきつらせたサミジマの髪を小さな掌で掴み上げる。前へ向けた視線の先に、汚らしく醜い男の顔が映った。
次の瞬間、サミジマの腹に太い杭のようなものが貫通した。背中から内蔵が飛び出て散る。あんぐりとあけられた口からは、汚血が吹きだした。氷は掴んでいた手を離す。男はその場に崩れた。
氷は、微笑を浮かべながら、しばらくサミジマの屍を眺めていた。
どこからかやってきたアーボが、サミジマの死骸に食いついた。骨がバギバギと音をたてる。生臭い肉が、食いちぎられ剥がれ落ちた。後には、生々しい血痕だけが残った。
月に背を向け、立ち去る間際、氷は呟いた。
「馬鹿な男……」
○●
早朝。辺りには白い霧がかかり、どこまでも広がる風景を覆い隠している。
「ねぇ、パパ、どこ行くの──どこ行くのっ?」
大声を発しながら、少女は父に抱きついた。染みついた消毒液の臭いが、ツンと鼻を突き刺す。
父は、少女を抱きかかえ、ゆっくり地面へと降ろした。しばらく少女の顔を見つめた後、背を向け歩き出す。自分の家とは正反対の方向へ。
「パパぁ……、どこ行くの……答えてよ……」
ぴたりと父の足が止まった。そして、少女に背を向けながら言った。
「瑞穂の……、手の届かないところに行くんだ」
それを聞いた少女は、激しく首を横に振り、叫んだ。
「やだぁ! そんなのヤダよう! 私、独りぼっちになるのは嫌だよ……」
「独りぼっちじゃない……、お友達のヒメグマとフシギダネがいるじゃないか」
少女は、家のベッドで眠っているはずの、ヒメグマとフシギダネを思い浮かべた。
「……で、でも……」
そう呟いた少女の瞳から、ポロポロと涙が溢れ出た。
「パパは悪くないんでしょ! なんで……、どうしてなの……っ!」
「子供は……知らなくてもいいことだ……」
そう言い放つと、父は全速力で坂道を駆け下りた。まるで疾風のようだった。
「待ってよぉ……。パパ、パパ……!」
後を追いかけようとする少女の足は縺れて、少女はその場に転んだ。
「待って、待って、待ってよぅ……」
父の姿は、深い霧の奥に消えた。少女は泣きながら、父の後ろ姿を眺めることしか出来ない。いつの間にか少女の隣には、心配そうに見つめる、ヒメグマとフシギダネの姿がある。
「ヒメちゃん……、ダネちゃん……。う……、パパが、パパが……」
心臓が、ギリギリと痛む――あの時の痛みとは、違う次元の痛みだった。
少女は、二匹に泣きついた。啜り泣く声だけが、霧の空間に、いつまでも虚しく響いていた。