このメスガキと会ってから、何時間が経過しただろうか……。レライエは自分の部屋で、血の涙を流していた。本能のみで行動するこの男に相応しい、本能の、体の痛みからくる涙を。
「いたい……?」
氷は笑っていた。冷たい瞳と口からのぞく白い歯が、レライエの体を恐怖で凍り付かせた。
「姉さんは、もっと傷ついていた……」
そう呟きながらも、本当に自分が今していることが、姉の為なのかはわからない。だから……だから、こんな風に生きることしか、出来ないの?
そんな思いを振り払うかのように、氷は、『腕』の力を強めた。ギリギリと万力のように、腕はレライエの首にくい込んでいる。
レライエは呻いてた。血反吐を吐きながら、縋るような目つきで氷を見つめた。助けてくれとでも言いたげな表情をしている。
「あの男も、こんな惨めな眼をしていた……。サミジマ、とか言っていた、ような……」
「サミジマ……。オマエ、サミジマを知ってるのか?」
殺したわ、私が。と、氷は微笑しながら答えてやった。レライエの唇は震えている。
「殺した……。サミジマは死んだ……。死体は? それじゃ、死体はどうやって始末したんだ。沈めたのか?」
「そんな愉快なこと、しないわ」
再び氷の口から、白い歯が覗いた。牙のごとく鋭利に光っている。
手を離すと、レライエは床に尻餅をついた。アウッ!という痛みの声が漏れた。
どこだ……、どこだ?! 俺の左目。そうだよ、ヒダリメ、だよ。
抉り取られた左目を捜して、レライエは床を這い蹲った。ブツブツと譫言のように何かを呟きながら。
「バケモンだ……。こいつ、このガキ、バケモンだ。人間じゃねぇ。人間じゃ……、助けて」
そうよ。私はある意味、人間じゃない。バケモノでも結構。
「でも、アナタモ、にんげんデハナイワ……」
上げていた爪先を降ろした。ブチュという音と共に破裂し、生臭い液体が吹き出した。まずは目玉から。
レライエは恐れおののき仰け反った。「たすけて」そう顔に書いてある。
氷の腕は、レライエの体を舐め回すように撫でた。少しでも力を加えれば破裂するだろう。グチュっと。そう思うと、笑いがこみ上げてくる。堪えきれずに少し放出した。
「フフ……、アハハハハハハハハハ……」
笑えるじゃない、私。今までずっと、我慢してきたのね。でも――
「こんな下品な笑いは、今夜限りにするわ」
殴った。吹き飛んだ。鮮血が。その度にレライエは命乞いした。そして私――氷は、それを笑い飛ばした。助けて、許して、お願いします、ごめんなさい、お許しください、助けて、助けて、助けて。
「イヤ」
その一言の度に、レライエの顔はグニャリと歪んで、泣いた。私は笑った。
こんな事に意味があるの? これは復讐なの? ただの道楽?
そんな事はどうでもよかった。……待て、なんのために生きるかなんて関係ない?
――私、自分を見失っている?
汗だくになって、外に出た。後ろを振り向くと、口が張り裂け、四肢がラゴブロックのようにバラバラな、男の屍が張り付けられている。
ここまでするもりは、なかった筈なのに……。
「なにを……したの? 私が?」
指先が震えていた。気持ちを落ち着けるために空を見上げた。寝待月は、まだ黒雲に隠れている。
笑っていた。口先が自分でも信じられないくらい滑らかに動いていた。
何故?
これじゃあ……アイツラ、と……、大差ないじゃない。
怖くなった。自分は教育されていた、自分はしっかり学んでいたのだ。
全力で走り出した。運命には逆らえない、逆らえないなら……せめて――
私の人生を、こんなのにしたアイツラに、一矢報いたい。でもそれは、復讐とは名ばかりな『快楽』の追求ではないの? あの女と――アイツラと同じなのではないの?
○●
子宮破裂。
望の口から発せられた、ゆかりの母親の死因は、瑞穂の耳の中で反響していた。学生時代に講義の後、望と「怖いよね、子宮が破けるなんて……。」と話し会ったため、よく覚えている。
(ウチが生まれるときな、もの凄い難産やったんやて。てーおーせっかい、っちゅうので生まれたんやもん。もしかしたら、ウチ、ここにおらへんかったかもしれへん……)
そう言って苦笑いしながら肩をすくめたゆかりを、瑞穂は思いだしていた。以前に帝王切開で分娩した場合、次回の分娩時に子宮破裂の恐れがあるのは、常識である。
(もちろん、産婦人科の先生は、そんなことわかってたよ……)と、望は弁明していた。
みるみる涙目になっていく望を、瑞穂は宥めることしかできなかった。
(だけど、オペを始めようとした途端に、原因不明の停電が起きたらしいの。それで医療機器が……)
虚しく時間だけが過ぎていったというわけだ。そして、ゆかりの母も弟も、死んだ。
ゆかりを追いかけ、階段を駆け上りながら、瑞穂はつい先程の事を思い出している。
(私、どうしたらいい? 私、なんにもできないよぉ……。どうしたらいい?瑞穂ちゃん、教えてよぉ)
そう言うと、望は床に蹲り泣き始めた。瑞穂と同様、泣き虫な性格なのだ。
どうしたらいい……? こんな時、私なら、どうする?
息が苦しくなるのを我慢しながら、瑞穂は自問した。
星は見えない。都会の闇の中では、雲でさえも嫌な性格になってしまうのだろうか。
コガネ中央病院の屋上で、ゆかりは遠い遠い地面を睨み付けていた。
落ちたら、痛いやろな……。でも、生きているよりはマシやろ……。
ゆかりは靴を脱いだ。そして、重力に身を任せた。
これで、楽になれるんや。ゆかりはそう思って、眼を閉じようとした。
瞬!
なにかが、何ものかが、ゆかりの目の前を高速で通り過ぎた。
「な、なんやの!?」
それに驚き、ゆかりは後ろに仰け反った。そして後ろに控えていたリングマに抱えられた。もしもリングマが、ゆかりを抱えていなかったならば、ゆかりは尻餅をついていたところである。
「危なかったぁ……。ナイスだったよ、グラちゃん!リンちゃん!」
苦しそうに、ぜいぜいと息を荒げながら、瑞穂が屋上に駆けつけてきて言った。電光石火を終えたグライガーと、ゆかりを抱いたままのリングマは、同時に瑞穂へ向けて、ガッツポーズをして見せた。
「放して……放してや……!」
リングマの腕の中でジタバタと藻掻くゆかりに、瑞穂は語りかけた。
「やめようよ……、ユユちゃん。そんなことしても、意味ないよ」
「あ、あんたらに、ウチの何がわかるねん! なんもわからへんやろ!」
叫き散らすゆかりに、我慢できなくなったのか、リングマはゆかりを軽く突き飛ばした。
……オマエこそ、僕たちの、姉さんの何を知ってるんだよ……?
と言いたげな顔で、ゆかりを睨み付けている。
「なにすんの……、痛い……。痛いやん」
涙でくしゃくしゃになった顔で、ゆかりはゆっくりと起きあがった。腕が震えている。数滴の涙がしたたり落ちて、掌と地面を哀しみの色に染めていた。
「ここから落ちたら、もっと痛いんだよ……。それとリンちゃん、暴力はダメ」
そう言いながら瑞穂は、ゆかりの目の前に座り込んだ。ゆかりは俯いて、涙声で、ポツリポツリと呟いている。
「そんなん……、わかってる。でも、ウチどないしたらええの?」
「それは……」
瑞穂は口ごもった。そこまで考えてはいなかった。
「ウチには、もう誰もおらへんのや……。姉ちゃんは3年前に病院で死んだ。いりょーみす、やったかな……、よう覚えてへんけど……。それが原因で、こんどは父さんがアル中になってもうて……、せーしん病院で暴行されて、死んだ……。ウチと、母さんの2人きりになって、こんどは母さんも弟ごと、死んでもうたんやで……。」
瑞穂は喉が灼けるような感じがした。明るく振る舞っていたゆかりに、そんな過去があるとは思わなかったのだ。
(医者はな、みんな人殺しやっ!)と言った、ゆかりの気持ちが、なんとなく分かるような気がした。今回の件はまだしも、ゆかりは家族全員を病院で『殺されて』いたのだから……。
「ウチ、どうやって生きていけばええの? どうせ、施設に入ったら……」
殺される、と思っているのだろう。そうでなくとも、この娘を施設に入れるのはあまりにも酷だ――
「でも、だから自分で、自分を殺しちゃうの……? そんなの間違ってるよ」
ゆかりは震えながら頷いた。寒いのだろうと思い、瑞穂は羽織っていたコートをゆかりに着せた。
「ごめん……なさい……」
涙を手で拭いながら、ゆかりは言った。
「謝る必要なんかないよ」
そう言って首を振った瑞穂に、ゆかりは抱きついた。
「お姉ちゃん……、なんで、そんなにウチのこと、心配してくれるん? 他の人はみんな言葉だけで、中身全然空っぽやったのに……」
「友達だから……。なんて言ったら、偽善者みたいだけど……。友達のこと、心配するのはあたりまえだもの」
ゆかりの小さく弱々しい体を抱きしめながら、瑞穂は呟いた。
「友達だから……か。友達やったら、胸を切り裂かれても、なんも文句いわへんの?」
「リンちゃんのこと? それは、もう仲直りしたもの」
あっさりと瑞穂は答えた。
ゆかりは顔を上げて、瑞穂の顔を凝視した。そして、ふと思いついたように眼を見開く。
「やっと……、思い出したわ」
「何が?」
「お姉ちゃん似てるねん、3年前に死んだ、ウチの姉ちゃんに。生きてれば、お姉ちゃんくらいの年やし」
そう言われて、瑞穂は3年前に死んだゆかりの姉を想像しようとした。
「あ、似てるのは、顔やなくて、雰囲気やで」
「雰囲気が……? 私の、雰囲気って、どんな?」
「そのトロそうな雰囲気!」
ゆかりは無理矢理にでも笑った。瑞穂は心外そうな表情で言う。
「トロそう、って……。それは、あんまりだよぉ……」
「そうかなぁ? 優しそうで、ウチは好きやで。」
ふぅ、と息をはくと、2人は見つめ合った。瑞穂は黒雲の晴れた後の、星空を見つめている。
「ねぇ、ユユちゃん。私と一緒に行かない?」
「一緒に? お姉ちゃんのトレーナー修行の旅に? 足手まといにならへんの?」
瑞穂はゆっくりと首を横にふった。
「旅は、1人よりも2人、2人よりも3人、3人よりも4人で行った方が楽しいもの。ね?」
リングマとその肩に座っているグライガーは、同時に頷いた。
「どうする?ユユちゃん。一緒に行こうよ。旅にさ。辛いことも、苦しいこともあるかもしれないけど、ついさっき気がついたんだ、そういうのも、また一興だ、ってね」
ゆかりはおもむろに立ち上がった。いつの間にか、すこし固ゆでではあるが、笑顔になっていた。だが、涙は流れ続けていた。悲しくもあり、嬉しくもあった。涙は揺れる。涙を振り切れるようになるまでには、まだ時間がかかるだろう。
それでも、泣いた後は、笑えなきゃ。どんなに時間がかかろうとも、いつか本当に笑える日をみつけなきゃ。ゆかりは思っていた。瑞穂と一緒にいれば、すぐにでも本当に笑える日が、戻ってくるのではないか、と。
拳を夜空に振り上げて、ゆかりは大声を張り上げた。
「お姉ちゃん、ゲットやで!」と――
○●
数日後、退院した瑞穂と望は、ゆかりの母の葬式に出向いた。
葬式の最中も、ずっとゆかりは泣いていた。ムリもない。しかし3年前の自分と比べて、ずっとしっかりしているな、と瑞穂は感心した。
「ごめんなさい、人殺し、なんて言うてしもて……」
「謝らなければならないのは、私の方よ。いくらなんでも無神経すぎたわ。ごめん」
望はそう言うと、ゆかりに何かを手渡した。それはモンスターボールだった。
「受け取って……、瑞穂ちゃんと一緒に旅にでるんでしょ? 私からの餞別ポケモン、メタモンよ」
「私は……死んでも、葬式なんてしてもらえないわ……。」
目の前で行われている、だれかの葬式を眺めながら、氷は独り孤独に呟いた。
氷は悩んでいた。突然襲ってきた、あの感覚に。鮮血が迸ったときの、あのゾクゾク感、快感に。
そんな自分は嫌だ……。しかし、自分で自分を抑えきれない。その内、『あの自分』は、本当の自分を越えてしまうかもしれない。
それでも、続けるのか――?
復讐を。
○●
まだ誰も知らない。この3人の少女に、運命の足音が近づいていることを。その足音が、悲劇の繰り返しの兆しであることすらも。
そして、運命は冷酷に、非情に、少女達の内に秘められた『愁い』を抉りだすことになるのだ――
○●