なによこれ。
集落を前に、彼女は涙混じりの上擦った声で、そう呟いた。
私が彼女を見つめると、彼女の唇は震え、そして怯えているように見える。
彼女は放心の面持ちで呟いた。なに? 何が起こったの……?と。
私は答えなかった。
なんとなくではあるが、目の前の風景の意味を理解していたにも関わらずに、だ。
酸っぱいような臭いが辺りにたちこめている。木々に阻まれ、それから逃れられた僅かな日光は、これでもか、とばかりに現実を照らし出していた。
現実とは、常に残酷な物なのかもしれない。いや、残酷が現実なのだ。そんな残酷――という名の現実――に耐えきれない者が選ぶ路、すなわち逃避行動が、狂気をうむのだ。
狂気を持たないと思われている者でも、見えない狂気を隠している。
プライドは十分に狂気に成りうるし、テレビアニメに映っている架空の美少女、もしくは黄色く愛らしい架空の生き物を見ながら「萌え萌え~」などとホザいている人間も、間違いなく狂気に侵されている。
全く愚かなことだ。架空の創造物に心を奪われるとは……。
そんな人間は、本来社会的に抹殺されるのだが、この社会全体が狂気を帯びている今、何も社会には望めない。
だからこの世界は狂気に溢れている。
そして強すぎるイデオロギーも、また狂気と成りうる。
……私は、そんな人間の持つ『狂気』から生まれたのかもしれない。
間違いない、私は、あの男のイデオロギーから生み出された『狂気』なのだ。
ツクラレタ、狂気。
なんなの、これ。何があったのよ。誰か……、返事をして。へんじを……へんじして……よぉ。
そんな彼女の言葉もまた、狂気に侵され始めている。
彼女は何かを呟きながら、一歩前へ歩みでた。
シャリ、という、葉っぱの心地よい音色も、彼女の耳には届いていない。
私も彼女の隣に進み出た。彼女の横顔は艶があり美しかった。恐怖が全面に表れていることを除けば。
現実は、正面を向くのと同時に再び、私の前面に飛び込んでくる。
なに、簡単な事だ。
『みんな死んでいた』
それだけだ。ただ、それだけだ。
これが現実なのだ、残酷なのだ。それに耐えられない人間は、抹殺されるべきなのだ。それをあの男が拒むが故に、私が生み出された。
愚かだ。愚かすぎる。なぜ逃げる、なぜ隠れる、なぜだ……。
こんな事をする必要が何処にある!
ど、どうしたの……?と、彼女は怯えながら、私に訊いた。
なんでもない、と答え、私は彼女の顔を見つめた。
間違いない、よ……。
なにが、何が『間違いない』の?
彼女の小さな呟きを、私は聞き逃さなかった。
私の問いに、彼女は薄暗く湿った空を仰ぎ見た。
『朱と蒼の死神』……ただの噂だと思ってた。でも、本当にいるなんて……。
恐怖からだろうか、彼女は私に寄り添い、話し始めた。
この数日ね、遠出した仲間が、沢山、斬り殺されているのが見つかっているの……。
赤い剣を持っているのと、青くて目にも止まらない速さで動くのが、別々に目撃されていて、
集落のみんなは、『朱と蒼の死神』って、呼んで恐がってた……。
私は信じてなかったけど、と彼女は付け加えた。
つまり、この有様は、その死神のせいだって言いたいわけね?
私がそう言うと、彼女は小刻みに頷いた。
そうとしか、考えられないよ。こんな非道い、こんな……。
彼女はそう言って泣き崩れた。嗚咽が凄惨な元集落に響く。
たしかに、非道い。50程の命が、こうもあっけなく切り刻まれているのだ。
これから、どうしよう。
傷心の彼女を連れて、私は生きていけるのだろうか?
私は、泣き狂う彼女を前に、呆然とそんなことを考えていた。
一瞬にして全ての仲間を惨殺されて失った、哀れな彼女の事を……。
しかし、それは杞憂に終わった。
彼女の泣き声は、鋭い音に掻き消された。彼女は何にも逆らわぬまま、地面に倒れた。私が驚く間もなく、彼女の体は、横に綺麗な切り口で真っ二つに裂けた。
ビュババ、シュゥゥゥ……。
ヌルヌルとして透明な彼女の体液が、私の顔を濡らした。酸っぱい臭いが鼻を覆った。彼女は、最期の言葉を、私に聞かせてくれた。
私の体……どこに、いったの?
彼女は、事切れた。艶やかで綺麗な彼女の顔は、もはやただの亡骸の頭になっていた。その死相は、現実に耐えきれずに、狂ったように歪んでいた。それでも、せめてもの心の救いは、彼女が痛みを感じずに死ねたということだろう。
誰が殺った……?
私は反射的に、彼女の死骸の周りを見回した。
オマエか。
私は言った。その先には、彼が立って身構えている。
オマエが彼女を殺ったのか。
再び私が彼に訊くと、彼はこういった。
これが運命だ、と。
運命だと……? あの男に良いように利用されるのが運命なのか?
ご主人様を、侮辱するな。
彼は赤い剣を突き立て、私を睨み付けた。
これでいいのか?
私は叫んだ。あの男のしようとしていることがオマエには解っているはずだ。こんなことをしていて、なんになるんだ?!
彼は高く跳び上がり、私に言った。
俺だけは、生き残る、と……。俺は『ライム』だから。生き残る運命にあるから、と……。生き残って、やらなければならないことがあるから、と……。
彼の瞳がみるみる赤みを帯びていく。彼の体の色と同じ、血の色に。
私は彼の発作を感じ取った。このままでは、殺される。私は逃げようとした。だが、発作状態の彼のスピードについていけるはずがなかった。
『朱の死神』の剣は『蒼の死神』の脳天を突き抜けた。
死神の正体に今更気がついても、なんの意味もないではないか……。
ザクリ、という音と共に、私の視界は闇に消えた。
私の体液が、薄暗い森に吹き出した。
いつかどこかでみたような、透き通った色をしている。
それは同じ味がした、彼女の体液と。
「やったな……ライム。お前が最強だ」
ライムの主人は、倒れているリリィを見下ろしながら言った。シワだらけの、その顔は、どこか笑みを浮かべているようにも見える。
「こいつは使える。私の計画に、ピッタリだ……」
男はライムを連れて、足早に薄暗い森から立ち去っていった。
○●
ウバメの森は、ジョウト地方のなかでも、かなりの広さを誇る森である。
そんな広い広い森に、幼い子供がポツンと1人、切り株に座っていた。
子供の名前はツクシ。一応これでも、ヒワダジムのジムリーダーである。たとえ子供であろうとも、この国では実力さえあれば、ジムリーダーにでもなれるのである。事実、ツクシはヒワダタウンで一番の、ポケモントレーナーなのだ。
切り株に腰掛けながら、ツクシはツナマヨネーズのサンドイッチが入った包みを開いていた。
「やっぱりサンドイッチは、ツナマヨにかぎるよ。あ、いい匂い」
サンドイッチから、パンのほのかな香りと、ツナの芳ばしい香りが漂ってきた。ゴクリと唾を飲み込むと、ツクシはサンドイッチを手に取り、口に運んだ。
「うん、おいしい」
もぐもぐと口を動かしながら、ツクシは呟く。
(おいしいに)
(決まってる、です)
(なんと言っても)
(私達がつくったから、です)
ふとツクシの耳に、双子ちゃんのルミとクミの声が聞こえたような気がした。彼女らは、ツクシが森に行くと知って、朝の5時から準備して、このお弁当を作ってくれたのだ。
「そうだね」
誰もいないのを知っていながら、ツクシは森に笑いかけた。
その微笑みに答えるかのように、緩やかな風が吹き、森は騒めく。その風に運ばれるように、木々の間から、バタフリーが飛んできた。
ツクシは飛んできたバタフリーに目をやり、話しかけた。
「どう?バタフリー。なにか見つかった?」
「フリー、フリフリュウ、フリー」
バタフリーは、ゆっくりと首を横にふる。ツクシは残念そうにため息をつきながら言った。
「そう……、やっぱり見つからなかったんだ……」
その時だ。
ガサガサと、森の木々が激しく騒ぎ始めた。風ではない。風が原因ではなく、もっと直接的な要因ではないか。それは、段々と近づいてくる。そう、すぐ近く。
すぐさまツクシとバタフリーは、身を屈めながら、小さな声で言った。
「何かが、近づいてくる。バタフリー、用心して」
音をたてないように頷くと、バタフリーはツクシにすり寄った。
ガサガサ。
既に『何か』は、目の前にいてもおかしくない程の至近距離にいるはずだ。ツクシとバタフリーは、いつでもその『何か』に飛びかかれるような姿勢をとった。
ガサッ!
『何か』は茂みから勢いよく飛び出してきた。
あり……?
誰?この子?
茂みから飛び出してきたのは、ツクシの予想とは異なっていた。
女の子。ツクシよりもいくらか年下の、活発そうな女の子だ。オレンジ色のトレーナーに、オーバーオール。小さなポニーテールが、頭から角のように生えている。
「キミ……誰?」
「あんたこそ、だれなん?」
お互いが静止しているところへ、もう一人、女の子が茂みから飛び出してきた。
先程の女の子とは違い、どちらかといえば、おとなしそうな印象を受けた。青いポロシャツに、茶色のハーフパンツ。煌めくような水色の髪が、ツインテールになっており、ちょこなんと左右から垂れている。
「はぁ、やっと追いついた……」
「キミ……誰?」
ツクシは凍り付いたまま、先程と全く同じ質問を繰り返した。
はっとした様子で、おとなしそうな方の女の子が答えた。
「あ、はじめまして。瑞穂っていいます。あの……あなたは?」
「ツクシ……だけど。で、そっちは?」
「ウチはゆかり。あ、そや、お姉ちゃん、この辺りからやで香りがでとるんは……」
「たぶん、そこのバタフリーの『甘い香り』だと思うよ」
半ば呆れた様子で、瑞穂はゆかりに言った。
自分の名前を言われて、バタフリーはじろじろと瑞穂を見つめた。
もっと早く言っておけばよかった、と瑞穂は後悔していた。そうしておけば、こんな所まで走ってくる必要などなかったのだから。幸いだったのは、茂みが全て、シオレナグサだったことだ。そうでなかったなら、瑞穂の足のきめ細かい肌は、ズタズタになっていただろう。
「バタフリーが、どうかしたの?」
自分のバタフリーが話題となり、気になったツクシは訊いてみた。
「あ、なんでもない、こっちのことだから……」
「あ~ッ!!」
ゆかりの大声が、突然辺り一面に響いて、瑞穂の言葉を掻き消した。
いい加減、その大声には瑞穂もウンザリしてくる。耳が痛い。
「どうしたの?」
困ったような顔する瑞穂と、驚いたような表情のツクシは、同時に訊いた。
「おいしそう」
うつろな眼で、ゆかりはツクシの膝元にあるサンドイッチの弁当箱を見つめている。食いしばった口元からは、いまにもヨダレがこぼれ落ちそうだ。
「ほんとだ……おいしそう」
瑞穂までも、ゆらゆら揺れながら、サンドイッチに目線がいっている。
あ、ヨダレが。
たらたらたら……。
「ねぇ」ツクシは、呆然とそんな2人を眺めた。「まだ沢山あるからさ、よかったら……」
ゆかりも瑞穂も、2人とも、ツクシのその言葉を待っていた。
「食べる……?」
○●