乾ききった掌が微かに動いた。ぼんやりと開いた瞳が捉えるのは、白い筈の雲が、青い筈の海が、すべてが夕焼けの色に染まっている光景だった。
水平線の奥に、沈みかけた太陽の姿を認識すると同時に、瑞穂は顔を上げた。涙の跡が残る白い頬を掌で拭い、呆けたような焦点の合わない瞳で空を見つめた。あれから、どれだけの時間、ここで泣き、眠っていたのだろうか。
足に付いた砂を払い、瑞穂は立ち上がった。その時だった。腰につけたヒメグマのモンスターボールが微かに震えた。
「な――なに?」
瑞穂は即座にボールからヒメグマを出した。ヒメグマは体毛の所々が焦げてはいるが、火傷などはしていないようだった。
「どうしたの? ヒメちゃん」
言いながら瑞穂は、心配そうにヒメグマの顔を覗き込んだ。刃物のような鋭い形相が見えた。誰だ、これは。瑞穂は息を呑んだ。怒り狂ったその表情は、人形のように可愛らしい彼のものでは無かった。別の何かが、ヒメグマの身体の中に入り込んで、這いずり回って、彼の顔をここまで豹変させてしまったのではないかと、瑞穂は一瞬だけ疑った。
これ程までに怒り狂うヒメグマの表情を、割れてしまったような形相を、瑞穂は初めて見た。と、同時にヒメグマの怒りの根の深さに、少女は気づき、悲しげに眼差しを降ろした。
「そうだよね――」瑞穂は、ヒメグマの額を撫でた。「ヒメちゃんも、悔しいよね。ごめんね、ヒメちゃん。私がもっと、ちゃんとしていれば、私が、もっとしっかりしてたら――」
不意に先程までの悔しさと、自分への情けなさが胸の中に甦った。言葉を飲み込み、瑞穂はヒメグマを抱きしめた。搾りきった筈の涙が溢れ、こぼれ落ちてくる。
「私さ、ダメトレーナーなんだ。私が悪いの、全部。私がだらしないから、ヒメちゃんも痛い思いして、悔しい思いして――」
瑞穂の言葉を掻き消そうとするかのように、ヒメグマは咆哮した。夕日と落ちた満月の空に鋭く大きな叫び声が木霊した。咆哮と同時に、ヒメグマの体が暗闇の中で光りだした。その輝きは彼自身の叫びに呼応するかのように、強さを増していく。
瑞穂は驚き、ヒメグマから離れ、眼を見張った。
「ヒメちゃん――? どうしたの? ヒメちゃん!」
何度も繰り返し問いかけ続ける瑞穂の声にも、ヒメグマは応えなかった。ただ一心に空を見つめ、そこにぽっかりと空いたような光の穴を、月を睨み続けていた。次第に大きく膨らんでいくヒメグマの身体と放たれる光。やがて、ヒメグマの光は、彼の見つめる月の輝きと重なり合った。再び咆哮が起こった。その声はヒメグマのものではなかった。低く野太く、辺り一面に広がる草原を震えさせるほどの大きな声だった。
「進化――」瑞穂は呟いた「ヒメちゃんが、進化した」
光は少しずつ消えていった。光が完全に消え去った後に残ったのは、満月の光を背にして立っている巨大なポケモンの姿だった。
ヒメグマの姿はそこには無かった。巨大なポケモンは瑞穂へと振り向いた。瑞穂はポケモン図鑑のボタンを押し、サーチコマンドを入力した。
「リングマ――冬眠ポケモン。ヒメグマの進化形」
ヒメグマは進化していた。かつての小さく可愛らしい身体からは想像できないほどの、大きく逞しく、そして凶暴な顔つきのリングマへと。
「ヒメちゃん――じゃないね。進化したんだから、今日からリンちゃんだね――良かった。良かったね」
瑞穂は恐る恐る、リングマの足へと抱きつき、呟いた。
刃物のように鋭く伸びた牙。長い手足、長い爪――それに、ちょっと恐い顔。リングマには、ヒメグマだった頃の面影が全くなかった。まったく、別のポケモンだった。だが、瑞穂は嬉しかった。これでもうリングマは悔しい思いをしなくてすむかもしれないから。
リングマは、満月の空に向かって咆哮した。それは、ヒメグマがヒメグマでなくなる直前に発したそれと、よく似ていた。
○●
瑞穂は「ポケモン育て屋さん」と大きく書いてある正面のドアを押して、中に入った。建物の中は明るく、夜の闇に慣らしていた瑞穂は強い光に眼を眩ませた。
視界が元に戻ると、瑞穂は辺りを見回した。正面のカウンターには老婆と老人が座っている。少女を観察でもしているかのように、その4つの瞳は、じっと瑞穂へと向けられていた。
瑞穂は老夫婦と思われる2人に会釈した。老婆は言った。
「お嬢ちゃん、なんのご用かの?」
「1週間前、こちらにポケモンを預けたんですけど、引き取りに――」
瑞穂は、言いながらカウンターの前に歩み寄った。
「1週間前ね」
老人は、年齢を感じさせない野太い声で言った。心なしか笑っているように見える。老婆の落ち着き払った態度が、逆に不自然かつ不気味な印象を瑞穂に与えた。
「お名前はなんというんじゃね?」
「洲先瑞穂といいます。これは証明書です」
瑞穂は、預かり証明書を老婆に手渡した。
「はいはい、ピクニックガールの洲先瑞穂さんね。たしか、フシギソウを預けた」
「そうです」
老婆が目で合図をすると、老人は投げやりに言い放った。
「すまんの。お嬢ちゃんのフシギソウな、逃げてしまったようじゃ」
「え――」
瑞穂は思わず声をあげた。
「今、なんて言いました?」
声は上擦っていた。少女の声とは対照的に、老人と老婆の声は落ち着いている。
「いや、だから逃げたって」
「逃げた?」
その一言を胸の中で何度も反芻した。だが、瑞穂がその言葉の意味を解するには、多少の時間が必要だった。
「”逃げた”って、どういうことです?」
「だから、逃げたんじゃって」
老人は目を細めた。
「いや、さっき行ってみるとな、見事に檻が壊されててな――」
「檻?! 育て屋なのに、ポケモンを檻なんかに!?」
瑞穂は身を乗り出して叫んだ。
「いや、違う違う。言い間違えただけじゃ!」
「育て屋なのに、簡単にポケモンに逃げられるなんて、どうかしてます!」
「お嬢ちゃんのフシギソウは、とても強かったからの。簡単にドアを破ることが出来たんじゃ」
老人の隣で、老婆が落ち着き払った様子で口を挟んだ。
「とにかく、なんとかしてくださいよ。大切な友達なんです!」
瑞穂は震える唇を噛みしめながら叫んだ。
「しつこいわね……」
老人は横目で老婆を伺った。老婆はコクリと頷く。次の瞬間、老人はカウンターを跳び越えて、瑞穂の肩を掴んだ。とても老人とは思えない身のこなしだった。
「な、なにするんですか。放して下さ――」
瑞穂が言葉を吐き出し終える前に、老人は物凄い力で少女の肩をグッと自分の腹へ近づけた。顔が老人の胸にくい込んで、瑞穂は息が詰まった。
声が出なかった。瑞穂は声にならない呻り声をあげて、手足をバタバタと振り回した。
だが、瑞穂の必死の抵抗も、老人の怪力の前には無意味だった。老人は瑞穂を持ち上げ、建物の外に出た放り投げる。柔らかで冷たい草むらの感触が、背中に突き刺さった。
○●
瑞穂の視界の中央で、銀色の円が輝いている。まるで、その部分だけが別の空間のように見えて、少女はそれが月であるということを暫くの間、忘れていた。
薄い雲から透けて見える月の輪郭を眺め、瑞穂は胸の中で呟いた。今夜ほど、月を意識した夜は無いな、と。
瑞穂は上半身を起こした。長く息を止めていたせいか、草むらの叩き落とされたせいなのかは分からないが、身体が痺れていた。
「怪しい」小さな声で瑞穂は繰り返した「怪しいよ、これは」
冷たい風が、水色のツインテールを慌ただしくはためかせた。髪を掌で押さえ、瑞穂は立ち上がった。眼を細め、育て屋の所々ペンキの剥げた白い壁を見やった。
「このままにしておくわけにはいかないよ。調べなくちゃ」
瑞穂は呟きながら、建物の裏側に回り込んだ。小さく黒い扉が隠されている。この扉は、他の角度から見たのでは絶対に気付かない場所に設置されていた。余程、重要な扉なのだろうか。忍び込もうという意志が無ければ見つけられるものではない。
瑞穂は黒い扉を少しだけ開き、中の様子を伺った。
「この部屋、何だろう。工場みたい」
中は薄暗かった。申し訳程度の電灯がチラホラ見受けられるだけで、部屋全体を照らすような照明は何も見当たらない。その代わり、天井クレーンやフックなどが幾つも設置してある。
自分にしか聞こえないような小さな声で、瑞穂は呟いた。
「何かを運ぶため? 育て屋が一体、何を運ぶのかな」
誰もいないのを確認し、瑞穂はは建物の奥へと忍び込んだ。クレーンの部屋の扉を開け、廊下に出た。廊下にも人の姿は見えない。辺りは静まり返っている。
廊下には3つの扉があった。瑞穂は1番手前の扉を開き、部屋の中を覗き込んだ。
「ここも真っ暗だ」
部屋の中に光は無い。瑞穂は眼を細め、闇に遮られた部屋の奥を凝視した。底知れぬ暗闇の奥から、得体の知れない鳴き声が響いた。
「この声、まさか」
少女の瞳に、黒い闇よりも冷たく理不尽な光景が映りこんだ。
「非道い――」
銀色の鉄格子が見えた。乱雑に積まれた檻の中に、ポケモン達が閉じこめられていた。
瑞穂は見開かれた瞳を泳がせた。血の臭いがした。殆どのポケモンが瀕死であり、気を失っていた。
鉄格子を破ろうとしたのか、爪が剥がれ落ちているポケモン。泣き叫ぶあまり、喉から血を出しているポケモン。凍死しかけているポケモン。発狂して小さな鉄格子の中を暴れ回っているポケモン――
「こんな――こんな所、育て屋なんかじゃない。だとすると、ここは一体――」
地獄のような光景を見つめながら、瑞穂は考えた。
「そこで何をしている?」
男の野太い声が、背後から聞こえた。瑞穂は即座に声のする方へと振り向いた。
育て屋の老人が、狭い廊下に立っていた。その口許に浮かぶ笑みは、おおよそ老人の表情というものからかけ離れていた。ジグソーパズルのピースの中に、一つだけ別のパズルのピースが混じっているかのような違和感を、瑞穂は感じた。
「何もしてません。ただ、見つけただけです」
「見つけた? この部屋のことか?」
「そうですね。それと、あなた達のやろうとしていることも」
老人は眉を潜めた。瑞穂は言葉を続けた。
「あなた達は育て屋なんかじゃない。自分達を育て屋と偽って、預かったポケモン達を盗んでいる。違いますか?」
「証拠は?」
「私の後ろにある部屋ですよ。それに、裏の入り口にあったクレーン。あんなもの育て屋に必要ないですよね? あれはポケモンをトラックなどに搬入するために設置してあるんじゃないですか? そして、何より――」
瑞穂は微かに俯き、下唇を湿らせた。上目遣いに老人を見つめる。
「あなたはお年寄りじゃない。どうして、自分の姿を偽る必要があります?」
老人は黙ったまま、自分の顔を覆う仮面を剥ぎ捨てた。男の変装は解かれた。瑞穂は静かに目を見開き、寒々と息を吐いた。
「やっぱり――」
それは緑色短髪の若い男だった。
「お前の言うとおり、育て屋なんていうのは大嘘だ」
冷静な口調で男は言った。
「ポケモンをあんな所に閉じこめておくなんて許せない。それに私のソウちゃんは、何処にいるんですか?」
「甘いわね、お嬢ちゃん」
突然、若い女の声が背後から響いた。瑞穂に振り向く暇は無かった。
「えっ――」
何かを打ちつける音が木霊した。続いて、倒れる音。
瑞穂は後頭部を殴られ、そのまま廊下の上に倒れた。朦朧とする意識の中で、瑞穂は自分を殴りつけた人物の方を見つめた。
金髪の若い女だった。その手には、老婆が持っていた杖が握られている。
床でのたうちまわる瑞穂はを、若い女は汚い物でも見るかのような目つきで睨んだ。
「まったく無様ね。あんたが忍び込んだりしなければ、私たちもこんなことをせずにすんだのよ」
女は冷たく言い放つと、手に持っていた杖を勢い良く振り下ろした。悲鳴と呻き声が一瞬で途切れた。
瑞穂は動かなくなった。ピクリとも。少女の意識が落ちていく先は、背後に広がる闇と同じくらい暗く冷たかった。
気を失った瑞穂の細い身体を見やり、女は呟いた。
「――で、どうする?」
「まだ、生きているようだが」
「”アレ”と一緒に始末してしまうってのはどう?」
○●
月は黒雲に覆われていた。豪雨が大地を溶かし、海を掻き回している。
降り注ぐ雨粒が少女の身体を濡らす。そのあまりの冷たさに、瑞穂は目を覚ました。
「ここは――」
細く華奢な身体に自由はなかった。全身をロープのようなもので縛られていたのだ。瑞穂は身体を捩り、身体の自由が許す範囲で、辺りを見回した。
「お目覚め?」
瑞穂の背後で、女は呟いた。
「こんなことして、私をどうするつもりなんですか?」
「消えてもらう。それだけよ」
足に水飛沫が跳ねた。瑞穂は息を呑み、足もとへと視線を移した。眼下に広がっていたのは、蒼く深く口を開けている海。
「私を、海に突き落とすつもりですか?」
「そうよ」
「な! なんてことを――や、やめてください! やめてくださ――」
瑞穂は藻掻き抗った。だが、ロープはきつく締められており、解くことも緩めることもできなかった。少女は、悲痛な呻きを漏らした。
「さよなら。アレと一緒に、海の底に沈んでしまいなさい」
女は言い放ち、手にしたリモコンのスイッチを押した。
身体が傾いた。瑞穂はそのまま落ちていった。死へ直結した海の底へと。
海流の勢いは、瑞穂の想像を遙かに超えるものだった。冷たい水が瑞穂の全身を犯し、縛られた身体の自由を更に奪っていく。
瑞穂の身体は、暴れ狂う海流に弄ばれ、奥へと底へと押し込められていった。
「助けて――」
か細い声で瑞穂は呟いた。その一瞬の隙をついて、大量の海水が少女の身体へと流れ込む。
「助けて、助けてください――」
瑞穂の切なさに満ちた声は、誰にも聞こえることなく海の底へと沈んだ。
○●