ウバメ湖に沈む、もう一つの太陽も、本当の太陽が沈むと共に姿を消した。ツクシ達は、森の命の源でもある、この綺麗な湖の畔にテントを張ることにしたのだ。
空は黒い闇に覆われたが、この薪の火が消えるには、まだ早い。
辺りは、ぼんやりと薄く明るく、光っている。
「きれいな、水海だね」
得意料理であるカレーの鍋を掻き回しながら、瑞穂は目の前に広がる湖に心奪われていた。リングマは、瑞穂の言葉に頷きながら、瑞穂の背中を眺めている。
抱いたら、気持ちいいんだろうな……、そんな言葉が、リングマの脳裏に浮かんだ。
そして、自分がヒメグマの時は、何度となく一緒のベッドで眠っていたことを思い出した。
その時は何も感じなかったのに……。
でも今なら、なんだか知らないけれど、何かを感じることができる。いや、感じたい。
突然、リングマの胸が、激しく鼓動した。体全体が熱くなって、汗が噴き出してくる。
なに変なこと考えてるんだろう、ボクは……、と頭の中の妄想を必死で振り払おうと藻掻いた。
しかし、モヤモヤとした妄想は、ドンドンとリングマの頭で膨らんでいく。我慢できないよ。
荒い息づかいのまま、リングマは瑞穂の無防備な肩に、手を掛けようとした。
「どうしたの?」
気配を察したのか、瑞穂は手を休めて、リングマの方を振り向いた。リングマは驚いて、イタズラが見つかった子供のように、身を縮ませた。
「リンちゃん?」瑞穂は首を傾げた。「なんか、変だよ」
小さく首を振って、なんでもないよ、という意志表示の後、リングマは言った。
「ガウガウ、グァウ、ガウガガウガウガァ……」
ボク、何も変なこと考えてないよ。ボク、変なことは何もしようとしてないよ。ボク、別に、姉さんを、その、あの、じゃなくて……、だから……。
「ごめん。なんて言いたいのか、よくわからないよ」
もし瑞穂が、リングマの言葉の意味を解していたなら、逆に怪しまれたかもしれない。瑞穂は、しばらくの間、狼狽えるリングマの顔を眺めていたが、ふと思いついて辺りを見渡した。
「あ、そうだ……」
リングマは、瑞穂の注意がよそへ行き、ホッとした様子で、どうしたの?と訊いた。
「グラちゃん、どこにいるんだろう。もうすぐご飯できるのに……」
そういえば、先程からグライガーの姿を見かけない。辺りを見回しても、グライガーの姿は、どこにもなかった。
「どないしたん? 2人とも」
瑞穂とリングマが辺りを見回しているところで、メタモンを腕に抱えながら歩いてきたゆかりが声を掛けた。ゆかりのメタモン、その名もメタりんはいつの間にか、すっかりゆかりと仲良しになっていたのだ。
瑞穂はメタモンと戯れ合っているゆかりの方を向いて訊いた。
「ねぇ、ユユちゃん。グラちゃん、どこにいるか知らない?」
「え~と」ゆかりは、湖とは正反対の方角を指さした。「あっちの方で、なんかやっとったで」
「なんか、って、なにしてたの?」
「ほら、夕方に、お姉ちゃんがやっとったやつやん。なんて言うたかな……、あの」
「影蘭流剣術奥義、鎌鼬、のこと?」
瑞穂のその言葉に、ゆかりはポンと手を叩いた。
「そや! その、カマドウマってやつや」
「かまいたち、なんだけど……」
「どっちでもええやん。かまどうまでも、かまいたちでも」
それもそうだ、と瑞穂は思った。この際、技の名前など、どうでもいいのだ。
「ユユちゃん、これお願い」
そう言うと、瑞穂はゆかりにカレー番を頼んで、駆け出した。
「おねえちゃん、どこいくん?」
「グラちゃんを呼んでくる」
瑞穂が走り去ってしまうと、ゆかりはカレーを強引にかき混ぜながら呟いた。
「お姉ちゃんも、大変やな」
……姉さんの『大変』の、4分の1くらいは、キミのせいだけどね……。
リングマはほくそ笑み、ゆかりに目を向けた。
ゆかりの肩に乗っているメタモンは楽しそうに、ゆかりと戯れ合っている。
「メタりん、今日は一緒に寝よか?」
ゆかりにそう言われて、メタモンは嬉しそうに飛び跳ねた。
……羨ましいな。
無意識にリングマは思った。
ボクだって……、
姉さんと……、
戯れ合いたいし、一緒のベッドで眠りたい。
それができないのは、リングマにも解っていた。もし瑞穂とリングマが、昔と同じように一緒のベッドで眠ったとしたら、リングマが大きすぎて、瑞穂がベッドから落ちてしまうかもしれないし、寝返りでもリングマが打とうものなら、瑞穂は、プチッという、なんとも可愛らしい音をたてて潰れてしまうかもしれない。戯れ合うにしても、気がついたら瑞穂の体が雑巾のようにネジれてた、なんて恐ろしいことになりかねない。
ボクは、なんのために進化したんだろう……。
姉さんを守るため? 姉さんにバトルで勝って欲しいから?
……解らない。
リングマは逃げるようにゆかりとメタモンから目線をそらし、湖を眺めた。
(わぁ……暖かい……。ありがとう、リンちゃん)
数日前に、初めて瑞穂を抱いた時の感触を、リングマは思い出していた。そういえばボク、姉さんに抱かれたことはあっても、姉さんを抱いたことは一度しかないや。
(私さ、ダメトレーナーなんだ……。私が悪いの……全部)
昔のボクを抱きながら、泣きながら姉さんはそう言っていたっけ。
そうじゃ、ない。
違うよ。
姉さんは、ダメトレーナーなんかじゃない。
そう思って、気付いたら、ボクの姿形は変わっていた。でも、今も昔も変わっていないことが一つだけある。
ちょっと恥ずかしいけど、ボクが、姉さんを好きなこと――
リングマは、赤らめた顔で、月のない夜空を見上げた。
……あの日は、満月だったっけ……。
○●
なんどやっても上手くいかない。
どんなに工夫をしても、成功しない。
おいらの技は、どこがいけないんだろう……。
グライガーの自慢のハサミは、摩擦で既にボロボロになっていた。痛くないはずがない。『かまいたち』を成功させようとするあまりに、グライガーは焦りすぎているのだ。なんとしてでも、一刻も早く、かまいたちを会得しようとする気持ちで一杯なのだ。
……おいらが、かまいたちを覚えたら、みずほちゃんはきっと誉めてくれる、喜んでくれる……。
誉めてくれる、誉めてくれる、誉めてくれるはずだ。きっと……。
腕が痛いにもかかわらず、笑みさえ浮かべながら、グライガーは深く深呼吸をした。息を整え、目を閉じて、空気の流れを皮膚で感じ取る。
そして腕のハサミを思い切り振る。空気を裂く、乾いた音。
目を開いて、前方の杉を睨み付ける。しかし……、何も起こらない。また失敗だ。
ハァ……と軽くため息をつくと、またグライガーは深呼吸をした。
再び、息を整え、目を閉じて、空気の流れを……。
「ごはんだよ。グラちゃん」
背後から自分を呼ぶ声に、すぐさまグライガーは、目を開けてから振り向いた。瑞穂が、はぁはぁと荒い息をしながら、こちらを見つめている。
「グラァ~!」
了解!の返事と同時に、グライガーは瑞穂の肩に飛び乗った。
「鎌鼬の練習してたんだって?」
帰り道、歩きながら瑞穂はグライガーに訊いた。
「ぐら、ぐらい」
……ちょっと、ぐらいは……。
そうなんだ、と瑞穂は呟くと、グライガーの方を見やった。グライガーのハサミは傷だらけで、血が滲んでいる。瑞穂はそれを見た途端、あっ、と声をあげ、息を呑んだ。
「グラちゃん、ケガしてる……。そこまで頑張ることないのに……」
まるで自分がケガをしたかのような表情で瑞穂は言った。
クライガーは首を左右に振った。……頑張る! たくさん、たくさん、頑張るの!
「そう……」瑞穂は感心したような顔をした。「あとで、傷治しのクリーム塗ってあげるね」
それを聞いて、グライガーは楽しそうに飛び跳ねた。瑞穂はニコリとしながら、グライガーの頭を撫でた。
「それだけ元気なら大丈夫だね」
「グゥ~ライ、ガァ~!」
……おいらは元気だけが、取り柄だもん……。
ケラケラと笑うグライガーを見ながら、ふと瑞穂の表情が曇った。
「でも……、そんなにすぐ鎌鼬はできないと思うよ」
「ぐらい?」
……なんで……?
「私はできるまでに、丸々4年もかかったの。リンちゃんは、もう練習して5年目だけど、いまだにできないみたいだし……。焦らない方がいいよ」
……みずほちゃん、わかってないなぁ。
リン君でもできないんだ、って……。だから、挑戦のしがいがあるってものなのにさ。
漆黒の月を背に、グライガーは高らかに笑って見せた。
「グラ……ちゃん?」
その笑いの意味が分からず、瑞穂は首を傾げるばかりだ。
「グライガァ~!」
……絶対、成功させてみせるぜ……!
○●
一歩、足を前に出すごとに、体のあちこちが悲鳴をあげる。頭の傷からは、なおもヌルヌルとした体液が流れ続け、締めつけられたように苦しい。耐えられない。これ以上、体を酷使すれば間違いなく、私の命は尽きる。
いつもと同じで、発作の最中の記憶はなかった。
私は、いつから、どこで、なにを、いつまで……。それらが、すっぽりと抜け落ちているのだ。
荒い息をしながら、私はそばにあった杉の木にもたれ、空を見上げた。頼みの綱である月も、今日は黒く、いつもの眩いばかりの光はない。
朦朧とする意識の中、ゴゴゴゴ、という音が聞こえてきた。
ついに幻聴か……? それとも私の頭が、とうとう体と離れる時が来たのか?
しかし、そのどちらでもなかった。
離れたのは、私の頭と体ではなく、今、私がもたれかかっている杉の木の幹と根であった。
ズドンという音を響かせ倒れた杉の木を見つめながら、私は呆然と立ちつくしている。
なにが、あった……?
私は震える足を堪えながら、辺りを見回した。誰もいない。何者の気配もない。そんなおかしなことがあるのだろうか……。
突然、木が真っ二つになるなんてことが……。普通では、ありえないことだ。理由として考えられることは、ただ一つ。
あらかじめ……、この木は真っ二つだったということ……?
誰が? なんのためにそんなことを?
まったく、今日という日は、解らないことだらけだ。
私は、横倒しになっている杉の幹を跳び越え、再び歩き始めた。いつまでも、ここにいるわけにはいかない。この森の生命を切り尽くしかねないからだ。
このまま私は傷を負ったまま、アテのない旅を続けなければならないのだろうか……。
いっそ、あの彼女と同じように死ねたら、どれほど楽なことだろうか……。
しばらく歩いて……、どれだけ歩いたのかは見当もつかないほど歩いた。疲れ切り、もう頭には思考の欠片すら見当たらない。
遠くに、光りが見えた。明るく、柔らかい光が広がっているように見える。その奥に広がっているのは、湖だ……。そう、彼女と私が出会った、あの湖。
そこに人間が見えた。いっぴき、にひき……、全部で三匹いる。
その中で、人間の一つが、こちらに、私に気がついたのか、こちらの方を見つめている。
女の子だ。水色の艶やかな髪を、左右で束ねており、年齢は7,8歳といったところか。柔らかい光りに、その白く滑らかな肌が照らし出されている。
ひどく驚いた表情で、女の子は立ち上がり、こちらに近づいてきた。
その時、突然、目眩が私を襲った。視界が波打っているのが自分でもわかる。倒れないようにと踏ん張ると、頭から半透明な体液が激しく吹き出した。
刻々と目の前が歪んでいく。女の子の幼く可愛らしい顔も、それに合わせて歪んだ。
近づいてくる。
女の子よりも早く、冷たく泥臭い地面が。
ドス、と音が聞こえたと同時に、私の意識は闇に溶けこんでいく。
キャ……、という、女の子の凍った悲鳴だけが、耳にこびりついた。
○●