『また、上では、天に奇跡を見せ、
下では、地にしるしを、
すなわち、血と火とたちこめる煙とを、
見せるであろう。
主の大いなる輝かしい日が来る前に、
日は闇に
月は血に変るであろう。』(『新約聖書 使徒行伝』)
○●
包帯を巻かれたナゾノクサは、疲労からか、ぐっすりと眠っている。頭の傷は深く、放っておけば命すらも危うい状態だったが、幸いなことに、瑞穂の適切な応急処置によって一命を取り留めていた。
「どうしたんだろ……このナゾノクサ。こんな酷いケガして、なにがあったんだろう」
寝入っているナゾノクサを見つめながら、瑞穂は呟いた。ゆかりも、瑞穂の言葉に頷いている
「なんや、刃物かなんかで、斬られたような傷やね」
「うん。傷痕から見て、かなり大きくて鋭いもの……だと思う。少なくとも事故とかじゃなくて、誰かに斬りつけられたんじゃないかな……」
瑞穂はナゾノクサから目をそらし、ゆかりとツクシを見つめた。
「それって……」ツクシは、俯いていた顔を上げた。「例えば、どんな刃物なのかな……?」
訊かれて、少し考えているような仕種の後、瑞穂は口を開いた。
「鎌……かな」
「カマ……?」
ゆかりとツクシは驚きの声をあげた。瑞穂は真面目な顔で、小さく頷く。
「そう、鎌。大鎌と言った方が正しいかもしれないけど……。この切り口や、深さから見たら、たぶん剣みたいな真っ直ぐな刃じゃなくて、すこし普通とは違う、曲がったような刃物だとしか思えないの……」
「でも誰が、そんな……」ゆかりは悲しそうに俯いた。「こんな非道いことしたんやろ」
「そこまでは、わからないよ……」
そう言うと瑞穂は、悲しい気持ちを落ち着けるため、牛乳コーヒーを一口啜った。しかし、こんな気分では、何を飲んでも苦いとしか感じない。
許せない。たとえどんな理由があろうとも、ナゾノクサにここまで酷い傷を負わせた、その張本人は絶対に許せない。一体、誰の仕業なんだろう……、と瑞穂は心の中で問うた。
「人間がやったん……ちゃうかな?」
ふと、ゆかりは顔を上げ、凍りついたような表情で呟いた。それを聞いて、瑞穂もツクシも、同じく凍りついたかのように、動きを止めた。
「人間がやった……って、どういう意味?」
ツクシは、ゆかりの顔を正面から見据えながら、訝しげに訊いた。
「その、まんまの意味やん。……そう言うたら、この森、炭職人がよく木を切りにくる場所やろ? もしかしたら、仕事の邪魔になるからいうて、ナゾノクサを……」
「あの人達は、そんな事、絶対にしない」
熱り立ったように、ツクシは拳を切り株に叩きつけた。そのあまりの剣幕に驚いて、瑞穂は手に持っていたカップを落としてしまった。地面に突っ伏したカップの中から、黒々とした牛乳コーヒーが流れ出る。
「あ、やだ……こぼしちゃった」
瑞穂は土のついたカップを拾い上げ、ゆかりとツクシを見やった。
ツクシはしばらくの間、ゆかりを睨んでいたが、ふと目線を外して項垂れた。
「ごめん。つい興奮しちゃって。……でも、キミの言うことは違う。あの人達は、炭職人の人達は、ポケモンが好きだ。だから、あんな事は絶対にしない」
「それに、炭職人の人なら、大鎌なんか使わないと思うよ」
そう瑞穂は付け加えると、ゆかりの肩に手を添える。突然に怒鳴られたためか、ゆかりの眼には涙が浮かんでいた。
「怒鳴ら、なくても……、ええやん……」
今にも泣きそうな声で一言だけ発すると、ゆかりは湖の方へとそっぽを向いた。湖は涙の色や、とゆかりは苦し紛れに考えた。
嫌な雰囲気になっちゃた……と、瑞穂は背中から汗がでるのを感じた。そのためか、瑞穂はできるだけ明るい声を出した。
「なにかのポケモンにやられた、とは考えられないかな……?」
「……というと?」
「鎌みたいなのを持っているポケモンは、何種類かいるでしょ? 例えば、ストライクとか、カブトプスとか、ハッサムとか……グライガーとか」
途端、グライガーのモンスターボールがピクンと震えた。
……おいら、何か悪いことした……?
中のグライガーが問いかけているような、感じがする。瑞穂は、モンスターボールを軽くさすって、グライガーの問いかけに応えた。
「あ……、もちろん私のグラちゃんは、そんな悪いことはしないけど」
「たしかにポケモンかもしれない。だけど、この森には、そんな大型のポケモンはいないよ。考えられるとしたら、パラスだけど……。パラスじゃ、あんな大きな傷にはならない」
「トレーナーのポケモンかもしれへんやん」
瑞穂とツクシの2人が考え込んでいるところへ、ゆかりが振り向き、口をはさんだ。
ゆかりはツクシの顔を睨みながら、……どや、ウチもなかなか賢いやろ……?というような表情をしている。どうやら、ゆかりは、意地でも自分の思いつきを正解にしたいようだ。
「でも、トレーナーが、ここまでするかな……?」
ゆかりの顔が落胆に沈んだ。お姉ちゃんは、ウチの味方やないの?という寂しげな顔で、ゆかりは眼を背けた。
思わず胸が詰まるのを感じながら、瑞穂は続けた。
「それに、このナゾノクサは、私が近寄っても全然逃げようとしなかった。人間のせいで傷ついたのなら、その時、逃げるなり、攻撃したりするはずだよ。だから、むしろ人間には、慣れているんじゃないかな」
「つまり、このナゾノクサは、トレーナーのポケモン、っていうこと?」
「そこまではわからないけど。野生のナゾノクサじゃないと思う」
突如、あ~じれったい!とばかりに、ゆかりは立ち上がり大声で捲し立てた。
「だからッ! 誰がナゾノクサを傷つけたんか、って訊いてるんや! 野生とか、トレーナーのポケモンとか、関係ないやん!」
「少なくとも、人間のせいじゃない、ってことは確かだけどね」
ツクシがそう言うと、ゆかりは面白くなさそうに腰掛けた。
んなこと、わかっとるわ……、とばかりにフンと鼻息をたてて吐き捨てた。
「どうせ、ウチはアホや」
「そんなに言わなくても……」
瑞穂は頭が痛くなるのを感じながら、声を掛けるも、ゆかりはそっぽを向いたまま答えない。困り果てた様子で、瑞穂はツクシの方をみやった。
ツクシは微動だにせず、何かを考えているように見える。
何を、考えているんだろう……、瑞穂は薪の炎に照らされ映る、ツクシの頬を眺めた。
しばらくして、ツクシは瑞穂の顔を見やった。
どうしたの?というような表情をする瑞穂の瞳は、透き通った栗梅色をしていた。
○●
目が覚めた。
静かに起きあがると、隣には女の子の白い顔が見える。
頭の傷は痛むが、先程よりはだいぶマシになった。
体中が、白い布で覆われている。包帯と呼ばれるものであろうか。
また、私は他人に助けられてしまった。今、自分が生きていることの安堵よりも、後悔の念が先に私を襲った。
このままではいけない。このままでは、この女の子達を巻き込んでしまう。
そう、彼女のように……。
「あ、目が覚めた?」
私に気付いて、女の子は振り向き、声を掛けてきた。
あの時と同じだ。
「……だから町の人達は、その赤い目をした生き物を『紅の刃と蒼い風』と呼んでいたんだ」
女の子の後ろでは、男の子が何かを話している。その言葉に、女の子は振り向いた。
「『紅の刃と蒼い風』……?」
「うん、数日前から、この森に出没して、人を襲うんだ。なんの前触れもなくね。町の人は『森の神様の化身』とかなんとか言って、森に近づかなくなっちゃったんだ。でも炭職人の人は、それだと生活ができないでしょう? 無理して森に入って、危ない目にあってる人もいる。 だから炭職人の人達に頼まれて、調査のためにボクが、この森にやってきたんだ」
「……そうだったんだ」
「でも今日一日、探しても、見つけることはできなかったけど」
すると、男の子の隣に腰掛けている、別の女の子が振り向いた。額に青筋を立てながら、苦い表情をしており、怒っているように見える。
「で、そのなんたらの刃となんたらの風、とやらは、このナゾノクサとなんか関係あるんか?」
「断定はできないけど、刃か風のどちらかに襲われたんじゃないかと思うんだ」
「ホンマか? それ……」
「だから……」
「なんでや、おかしいんちゃうの?」
「あのねぇ……」
2人のチグハグな会話に呆れたように、青髪の女の子はこちらを振り向いた。飲んでね、おいしいよ、とレイシの実のスープを差し出すと、女の子は私の頬を撫でた。一見、冷たそうに見えた、白い手は、暖かく、柔らかい。
そして、女の子は微笑んだ。
騒がしくて、ごめんね。傷、痛む?
私は首を小さく振った。痛くないわけではなかったが、余計な心配を掛けるわけにはいかない。
「このスープ、私がつくったの、熱いから気をつけてね」
言われるままに、私はレイシの実のスープを、一口啜った。
まずい。
味付けが極めて粗雑な上に、過ぎたるは猶及ばざるが如し、煮込みすぎて、素材の味も歯ごたえもあったものではない。一生懸命つくってくれたものであることはよく解るのだが、これはあんまりだ。この女の子は余程、料理のセンスがないのであろう。
スープの鍋の横には、カレーの鍋が置かれている。鍋は、相当にひどい焦げた臭いを発していた。カレーも同様に、煮込みすぎて、カレールーが焦げてしまっているのだ。
後ろで稚児のごとき言い争いをしている男の子と女の子は、このカレーを食べてしまったせいで、気分が悪くなってしまったのではないであろうか……?
「どお? おいしい?」
私は、ぎこちなく頷くしかなかった。女の子を騙すのには気が引けるが、正直に首を振って、落胆させてしまうよりはいいだろう。
「だから、なんでそうやって、決め付けんねん!」
「なんで、そんなに怒るの……?」
「あんたが……、いきなり怒鳴るからやん……」
「それとこれとは……」
「関係、大アリや」
背中で繰り返される問答に呆れているのか、女の子は、頬をポリポリとかいた。
ホントにごめんね、騒がしくて。
そう言うと女の子は、2人の方を振り向いた。
「ねぇ、2人とも……、少し静かにしてくれないかな……。ナゾちゃん、ケガしてるんだよ?」
……ナゾちゃん!?
なんなのだろう。
私の、新しい名前……?
(ねぇ、私の集落で一緒に暮らさない? )
彼女の言葉が、私の脳裏をよぎった。いけない。やっぱり、このままではいけない。私は独りで生きなければならない。この女の子達まで、巻き添えにするわけにはいかない。
(そうだよ、みんな歓迎するはずだよ)
確かに、私は歓迎された。死体の山に。死臭は歓声だった。
呼んでいる。おいで、お嬢さん、あんたはもう、普通に生きることはできない。だから、こっちにくるんだよ、と……。
(何があったのよ。誰か……、返事をして。へんじを……へんじして……よぉ)
聞こえたはずだ。黄泉からの、返事が。
体が引き裂かれようとも、その時までは生きていたはずだ。
そして、訊いたのだ。
(私の体……どこに、いったの?)
どこにもない。彼女が纏うべき『体』は、もう使いものにならなくなっていたはずだ。この女の子にも、そんな苦しみを味わせろというのか? できないよ、そんなこと。
「どこか、痛むの……?」
私の異変に気がつき、女の子は私に手をさしのべようとした。 しかし、私はその手を払い除け、高く遠くに跳び上がった。
「ナゾちゃん……!?」
女の子は驚き、ストンと地面に着地した私を見つめた。言い争いをしていた2人も、何事かとこちらを見やっている。
体が、煮立つような熱さに包まれ始めた。足腰は痙攣を起こしている。
「ナゾちゃん……、どうしたの……」
そう言いながら、女の子はこちらに近づいてくる。
くるな。こっちにくるな……。
湖の水面には、私の顔が映り込んでいた。眼が、眼が赤い……。
私は恐怖に近いモノを感じた。
「発作」が始まろうとしている。
このままでは、この女の子達が……。
「ねぇ、ナゾちゃん?」
くるな……!
私は、女の子から逃げるように駆け出した。
しかし、女の子達は私を追いかけてくる。くるな、くるな、くるな……。
私よ、逃げ切ってくれ。
せめて、私が、私でいるうちに……。
死臭が近づいてくる。黄泉からの歓声が、再び聞こえてきた。
○●