静かなる波紋
「どうしても、ダメなの……?」
薄暗い洞窟に、女の小声が響いた。どこか高飛車な、人を見下したような声色だった。辺りには蝙蝠ポケモン、ズバットの甲高い鳴き声が反響している。他には物音一つしない。
疲労と絶望で血走った目を、男は見開く。荒い息のまま、男は搾りきるように答えた。
「何度言ったらわかる……。俺には、師匠を裏切るような真似なんて、絶対にできない!」
男の体は、チタン製のロープでグルグル巻きにされている。ヘタに動こうとすれば、皮膚が切り裂かれ、血が溢れんばかりに噴きだしてしまうだろう。口には、何かギザギザした鋭く長いものをくわえさせられている。
「あっ、そう……」
女は怒ったような口調で吐き捨てると、男の腹を蹴りつけた。
「ゲフゥッ……」
胃が熱くなり、喉の奥から沸き立った血が昇ってくるような感覚に男は襲われた。我慢できずに出した嘔吐物は、真っ赤に染まっている。
「やれ!」
女は強い口調で、誰かに命令した。
その瞬間、男の顔が火を噴いた。火花が散り、閃光が迸り、男の、声にならぬ悲鳴は、バチバチという音に掻き消された。
「あ、あぁ、……ギャァァァァァッ!」
身体が激しく痙攣を起こし、男は狂ったようにのたうちまわった。体中の皮膚が張り裂け、血が出て、肉が飛び出した。閃光は、男の体を包み込み、唸るような音をあげ、男の体に食いつく。一瞬のうちに焦げくさい臭いが辺りにたちこめ、男は硬直したまま、その場に倒れた。黒々となった男の体は、もうピクリとも動かなくなった。男は死んだのだ。
忌々しげに女は、動かなくなった男の頭部を踏みつけている。
「いつもより、ご機嫌ナナメだな……カヤ、なにかあったのか?」
背後から、別の男が無表情のまま、カヤという名の女に訊いた。
「ふん。ヒエンね、わかってるくせに……」
カヤは、なおも倒れた男の頭を踏み続けている。そんな様子を興味なさそうに見つめ、ヒエンという男は、腕を組んだ。
「たかがペットに逃げられたぐらいで、そこまでいきりたつこともないだろう? このオペレーションが成功したら、ペットの一匹や二匹、俺が買ってやるさ」
「あっ、そ。そんな金で買えるようなペットはいらないのよ。もっと、こう……可愛がり甲斐のあるペットがいいわ」
「前のペットは可愛がっていたのか? そうは見えなかったが……」
「とっても可愛がってあげたのに、逃げるなんて……、許せないわ」
倒れた男の頭は、圧力に耐えきれず潰れる。グシャと頭蓋の砕ける音がし、ドロドロとした粘着性の血が床に流れ出た。
「だからといって、その男を殺すことはなかったんじゃないのか? もうちょっと粘れば、利用できたかもしれんのに……」
カヤは、頭の潰れた男の胴体を蹴り飛ばして、ヒエンを睨んだ。
ふっ、と苦笑し、ヒエンはカヤを見据えている。
「大丈夫よ。まだ、手はあるわ……」
○●
「ストライク! 連続斬りだ!」
「乱れひっかきで受けとめて、リンちゃん!」
ストライクの鋭利な鎌と、リングマの研ぎ澄まされた爪が金属製の音を響かせた。素速い動きでストライクは、リングマを翻弄している。自棄になったリングマは腕を振り回すも、ストライクには掠りもしない。
瑞穂は焦った。あぁ、どうしよう……、どうしよう。
既にグライガーは倒されている。ナゾノクサは、まだ頭の傷の経過が宜しくない。リングマがダウンしてしまったら、それは即、瑞穂のジムバトルでの敗北を意味するのだ。
ここで負けるわけにはいかない。グライガーの善戦を無駄にするわけにはいかない。それはリングマも、瑞穂も同じ気持ちなのだ。
しかし現実は、そう甘くはない。
「左からくる!」
左から空気を震わせ迫る鎌を、リングマは寸での所で避けた。瑞穂の的確な指示がなければ、ストライクの鎌は間違いなく、リングマの脇腹を裂いていたであろう。右、左、上、左。次々と切り裂かれていく空気を避けながら、瑞穂は反撃の機会を伺う。
だが、ストライクに隙は全く見られない、さすがは虫ポケトレーナー、ツクシ最強のポケモンだ。
じりじりとしてきた。もう我慢できない、とばかりにリングマは大きく口を開いた。破壊光線を発射するつもりなのだろう。だめだよ。それじゃ、避けられちゃう。
「ダメ! 破壊光線だけは撃っちゃダメ!」
瑞穂の叫びに、リングマは振り向き、どうして?という顔で訊いた。
「破壊光線を撃っても、ストライクには避けられ……あ、危ない!」
瑞穂の声に反応して、リングマは振り向きざま、怪腕をブンッと振った。だが、手応えはない。攻撃の当たる寸前で、避けられたのだ。
「あ!」瑞穂は上空を指さした。「上からくる!」
「今だ、ストライク! 居合い斬りだ!」
ストライクの鎌が日光に反射し、輝いた。鎌を、リングマは鋭く睨んだ。よく見て、よく見る、眼を背けちゃいけない……。
リングマの巨体を、ストライクの鎌が一刀両断、真っ二つに切り裂いた。
「り、リンちゃん! いや……いやあぁぁっ!」
瑞穂の悲鳴が木霊す。リングマの裂けた身体から、鮮血がビュワッ、と吹き出す。
誰の目にも、そう映った。
「グオォォォォォォォッ!」
瑞穂の耳に、切り裂かれた筈のリングマの雄叫びが聞こえた。恐怖から閉じていた目を、瑞穂は開いて、リングマの方を見やった。リングマは、ストライクの鎌を受けとめていたのだ。手のひらから血が滴ってはいるが、たいした傷ではない。
「あ、影蘭流剣術護身術、真剣白刃取りだ……、すごいよ、リンちゃん」
感心している場合ではない。
「ストライク、振りほどくんだ!」
と、ツクシの言う通りに事は進まない……いや、進ませてはいけない。こんな絶好の機会を逃すか、とリングマは鎌を強引に押さえつけた。
ストライクはリングマのなすがままに、地面へと叩きつけられた。
この体勢から繰り出す技は、ただ一つだけ。
「そのままカウンター、いっちゃえっ!」
「ガアァァァァァ!」
リングマの太い拳が、ストライクの顔面にぶち当たった。衝撃でストライクは、木の葉のように飛ばされ、地面へと激突する。
すかさずリングマは、ストライクへと詰め寄った。もう一度、この隙にストライクへトドメの一撃を喰らわせるつもりなのだろう。立ち上がろうとするストライクの前面には、燃えるような拳が迫っていた。
「えっ……?!」
瑞穂もツクシも、一様に驚いたような声をあげた。
燃えていた。
リングマの拳は、空気との摩擦で赤々と燃え上がっていたのだ。
バシュゥゥゥゥッ!
炎のパンチはストライクの腹部に決まった。羽を動かしてもいないのに、空高く舞い上がったストライクの全身は炎に包まれた。
「も、戻れ! ストライク!」
そのツクシの慌てているような一言で、決まった。ツクシは自らの敗北を宣言したのだ。
モンスターボールへと戻ったストライクから目線を外すと、リングマは炎で焼け焦げた手を見つめた。
「やったね、リンちゃん!」
背中の方から、声が聞こえた。リングマは振り向いた。瑞穂が、リングマの胸に飛び込んできた。なんだか、とても小さい手応えがする。あまり力を込めて抱くと、潰れてしまいそうだ。
……姉さんって、こんなに小さかったっけ……?とリングマは思った。
胸の中で抱かれいる瑞穂は、リングマと目を合わせると、微笑を浮かべた。瑞穂の笑顔は、炎よりもリングマの心を暖めるような気がする。
本当の、初勝利だね……。
いつのまにか2人は、そう、ささやきあっていた。
○●
ヒワダジムのテラスには、柔らかな昼の日差しが差し込んでくる。
穏やかで昔懐かしい田舎町である、ここヒワダタウンは、大都市コガネシティとは違った魅力があった。
この町の名所は「ヤドンでの井戸」と呼ばれているらしい。まさしく、この町の雰囲気は、ヤドンのようにゆっくりとしているのだ。それは、めまぐるしく時の経つ、コガネやヤマブキとは、正反対である。
「のどかで、いいところだね」
瑞穂は、紅茶を啜りながら、ツクシに言った。
「そうでしょ? なんだか、のんびりしてて、空気もおいしいし……」
「空気に、おいしいもマズイもあるん?」
ゆかりが、不思議そうな顔で、口を挟んだ。
「そりゃ、あるよ。深呼吸してみたらわかるはずだよ。清々しくて……肺胞が洗われるような気持ちになる筈だから」
「はいほー……? なんやの、それ?」
そんなやりとりを見つめて、ツクシは苦笑した。
「まぁ、とにかく、やってみなよ」
言われるがままに、ゆかりが息を大きく吸い込むのを見つめながらツクシは瑞穂に話しかけた。
「はい、瑞穂ちゃん。これがヒワダジムのリーダー、つまりボクに勝った証、インセクトバッジさ」
懐から赤いバッジを取り出したツクシは、それを瑞穂に手渡す。瑞穂は、とても嬉しそうにツクシの手からバッジを受け取った。
「ありがとう……。それにしても、ビックリしちゃった。まさかツクシ君がヒワダジムのジムリーダーだったなんて……」
「隠すつもりはなかったんだけど、ジムリーダーは、あんまり自分の身分をひけらかしちゃいけないんだ」
頭を軽く掻きながら、ツクシは弁明した。その時、ゆかりは吸い込んでいた息を思い切りはきだして、瑞穂を見やった。
「やっぱりわからへん」
「子供には、わからないのかなぁ……」
「お姉ちゃんかて、子供やん!」
あ、そうだった、と瑞穂は苦笑した。
2人の稚児のようなやりとりを、ツクシは半ば呆れながら見つめている。
「あ、そうだ……」
なにか、思い出したような声をあげたツクシの方を、瑞穂とゆかりはサッと向いた。
「どうしたの……?」
「実は、さっき警察の人が言ってたんだけど、森でのナゾノクサの大量虐殺の現場を調べた結果、ナゾノクサ達は瑞穂ちゃんの言っていた通り、ポケモンの鎌のようなモノで斬られてたらしいんだ」
「それって、つまり……ナゾちゃんは無実、ってことだよね?」
瑞穂の嬉しそうな問いに、うん、と頷き、ツクシは続けた。
「でも、おかしいと思わない? あの森には、そんなポケモンは生息してないんだよ?」
「たしかに……そうだね」
考え込んでしまった瑞穂を余所に、ゆかりは得意満面な顔で2人の間に乗り出した。
「だからウチが言うたやん。トレーナーのポケモンが犯人なんやって、絶対」
ゆかりは、自分が言った、という部分を特に強調している。完全に納得していない様子ではあったが、瑞穂は頷いた。
「ユユちゃん言う通りかもしれない」
「でもさ、誰が……、誰がそんなことをポケモンに命令したんだろう」
どんなに考えても、その答えへは到達できないことなど、瑞穂は解っていた。でも、考えなければならない……。あんな非道い事をする人間を、許すことはできない。
それに、他にも不思議な事はあった。口では、ナゾノクサは森での大量虐殺にあまり関係ない、と言いながらも、瑞穂は、そこに言い様のない違和感のようなものを感じていたのだ。
……もしかしたら、ナゾちゃんの、あの不思議な能力は……。
どうしたの? と、ツクシが訊くので、瑞穂は顔を上げ、取り繕った。
「あ、それとナゾちゃんも詳しく検査したしなきゃいけない、と思って。ほら、ナゾちゃん、何か普通とは違う特殊な力を持ってるでしょ? 私、なんとなく解るんだ……その力が、ナゾちゃんにとって、重荷にしかなっていないのが……」
ツクシとゆかりは、瑞穂の言葉に一様に頷いている。
それなら、とツクシは口を開いた。
「この町は田舎だから、そんな設備どこにもないけど、キキョウシティのポケモンセンターだったら、そのナゾノクサを詳しく調べられると思うよ」
「ありがとう、ツクシ君」
そう言って瑞穂は席を立つと、ゆかりの手を引いて歩き出した。
驚いたツクシは、慌てて2人を呼び止めた。
「ねぇ、もう行くの? もうちょっとゆっくりしていきなよ」
「でも……」
「大丈夫。知り合いに民宿の人がいるから、その人に言って、泊めてさせてあげるよ。そうそう、温泉もあるんだよ……?」
温泉?
そう言われては、風呂好きの瑞穂が黙っている筈はない。
「温泉……。はいりたいな……。ユユちゃんは、どうする……?」
ウチに、訊かんといてっ!と心の中で叫ぶゆかりも、嫌そうな表情ではない。同意を表す、小さな頷きを返すだけだ。
「それじゃ、決まりだね」
瑞穂は自分に言い聞かせるように、その言葉を繰り返した。
○●