岩影に身を潜め、辺りに誰もいない、危険のないことを確認すると、瑞穂は安堵の溜息をもらした。つながりの洞窟に入って、すぐ絶叫が響いたときには、心臓が飛び出すほど瑞穂は驚いた。
「今の……誰の声だろう?」
洞窟の奥に進みながら、瑞穂は不安げに呟いた。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。今の声は、ガンテツさんじゃない」
「それなら……いいんだけど」
ヒワダタウン北部に位置するガンテツの屋敷から、このつながりの洞窟までは、走ったとしてもかなりの距離になる。雪の降る中、全速力で走ってきた瑞穂の、可愛らしい顔は蒼白になっていた。
荒い息をはきながら歩き続ける瑞穂を見て、ゆかりは心配そうに訊いた。
「お姉ちゃん……大丈夫なん? 顔、真っ青やで……」
「大丈夫だよ……。このくらい……」
「でも、お姉ちゃん……心臓が弱いんやろ?」
「大丈夫。ホントに大丈夫だから……」
洞窟の深部へと進むにつれて、辺りは暗さを増していく。ゆかりはメタモンを出して、懐中電灯へとメタモルフォーゼさせた。辺りは、ある程度の明るさを取り戻した。
メタモン電灯の灯りを頼りに前へと進みながら、ツクシは瑞穂に訊いた。
「ねぇ、瑞穂ちゃん」
「ん……どうしたの? ツクシ君……。」
歩きながら、瑞穂はツクシの方を向いた。先程よりはマシだが、まだ幾分顔色が悪い。庇うように胸を撫でるその姿は、どこか痛々しささえ感じさせる。
「なんで、ここにガンテツさんがいるってわかるの?」
「ここにいるのは、ガンテツさんだけじゃないと思う」
「それ……どういう意味なん?」
「まさか……」ツクシは、額に滲んだ冷汗を拭いながら「チエちゃんも、ここに?」
うん、と瑞穂は頷き返した。
「たぶん、そのチエちゃん、って子は、昨日の夜には、ガンテツさんをさらった人と同じ人に誘拐されてたんだと思うの」
「昨日の夜に!?」と、ツクシとゆかりは驚きの声をあげた。
「それでガンテツさんは夜中に、チエちゃんを捜して、ヒワダタウンを歩き回ったと思う。警察の人達は、丸々一日、ウバメの森の現場検証に行ってるから、自分で捜すしかなかった。でも、結局見つからなくて、帰ってきたところを、玄関に立ったところで狙われた……。あのときガンテツさんは『そうか、おまえらか!』って叫んでたから……」
「だから、家の中は、ほとんど荒れてなかった、ってわけだね?」
「うん」
再び頷いた瑞穂を見て、ゆかりが不思議そうに訊いた。
「そやけど、なんで、そんな回りくどいことしたんやろ?」
「ヘタに家の中で暴れられて、証拠を残したくなかったからだと思う。
ツクシ君の話だと、ガンテツさんは滅多に外には出ない人だったらしいから、買い物にでたチエちゃんをさらって、それを心配したガンテツさんが外に出るのを待ってたんだよ。きっと」
ゆかりは納得したように頷いたが、こんどはツクシが訊いた。
「でも、だからって、なんで、ここにいるってわかるの?」
「鎮静剤をつかってたから」
「鎮静剤……?」
「あ、ほら。あの、玄関の床に染み込んでた液体のことだよ。あれね、ケタミンっていう鎮静剤で、お年寄りや子供でも、比較的安全につかえるんだ。注射するときに抵抗されて、少しだけ、こぼれたのかも……」
「だけど、その鎮静剤と、この洞窟と、なにか関係あるの?」
「だって普通、相手をおとなしくさせるだけだったら、エーテル――クロロホルムでもいいけど――を嗅がせるだけで十分だもの。それなのに、わざわざ注射器を持ち出すって不自然だよ。だから、鎮静剤を打たなきゃいけないほど遠くに連れて行くんじゃないかな、って思ったの」
「そっか。それほど遠くにあって、人が隠れられる場所って言えば、この洞窟か、ウバメの森くらいだものね。それにウバメの森は、いま警察の人がいるから……」
「そういうこと。……それよりも、さっきの悲鳴は一体なんだろう……」
ドスッ。
そこまで言った瑞穂の背後から、何かが落ちてきたような音が聞こえてきた。
「なに?今の音……あっ……!」
振り返って瑞穂はそれを見た。少女の頬が、さらに蒼白くなり、口元が恐怖に歪んだ。
「なんやの? お姉ちゃん」
「見ちゃダメ」
「え?」ツクシが、何事かと後ろを振り向こうとする。「なにが落ちてきたの?」
「見ちゃダメっ!」瑞穂は静かに、それでいて強い口調で制した。
瑞穂の強い口調にただならぬものを感じたツクシは、そこで動きを止めた。
「そのまま……」瑞穂は、落ちてきた何か、へと近づく。「そこで動かずに待ってて」
「うん……わかった」
ツクシ達が立ち止まったのを確認すると瑞穂は、落下物を訝しそうに眺めた。死体……それも裸体だった。ふたつの死体が、地面に突っ伏した恰好で横たわっていたのだ。
瑞穂は思わず唾を飲み込んだ。眼を背けたいのだが、そういうわけにもいかない。
たぶん、男の人……と、頭の中で、瑞穂は小さく呟いた。出血はない。首筋に小さな傷があり、その周りが黒ずんでいる。死体は、水分が完全に蒸発しており、ミイラのように縮んでいた。あんぐりと開いた口からは夥しく唾液が溢れ、頭髪は見るも無惨に抜け落ちている。
恐怖に歪んだ表情で見開いている眼。そこに映っているのは何だったのだろう――
なにか、恐ろしいものでも見たような、怯えている眼球を、瑞穂はゆっくりと覗き込んだ。
「それは、なんなの?」
静寂の中、ツクシはおそるおそる訊いた。ゆっくりと立ち上がりながら、瑞穂は悲しそうに答えた。
「男の人の……遺体。2人いる」
「死体……?!」
驚いたような声をあげ、ツクシは振り向こうと、体を捩った。
「見ちゃダメ……。夢に出ちゃうよ?」
「う……うん。」ツクシは動きを止める。「そんなに酷いの?」
瑞穂は問いには答えなかった。だが、その沈黙が全てを語っていた。しばらく、ふたつの死相を見つめて、瑞穂は思いもよらぬ事を口走った。
「この人達……、ガンテツさんを誘拐した人達だよ」
「えっ?!」
「ホンマなん?」
ツクシとゆかりは一様に、驚いたような声をあげた。
「うん……。まだ、何かあるよ、この洞窟には……。私達の知らない、禍々しい何かが」
瑞穂のその悲しげな言葉を聞きながら、ツクシは再び歩き始めた。冷たい足音だけが、薄暗く、不気味な洞窟に響いた。
「とにかく、先に進もう……」
○●
そこに誰かいる。
微妙な空気の変化を感じた氷は、すぐ近くにあった岩影に身を潜めた。向こうの様子を覗くと、そこには女と男が、縛られている老人に、なにかを話しかけている。老人は、既に虫の息になっており、険しい顔つきで、2人の女と男を睨み付けていた。
「なによ、その顔は!」
女はそう叫ぶが早いか蹴りつけ、老人の腹に食い込ませた。老人は、苦しそうに身を捩り、その場に倒れ、血を吐いた。
……非道い。
その老人にかつての自分の境遇を重ね合わせてしまった氷は、思わず眼を背けた。
……あの女……カヤは、昔とまったく変わっていない……。
でも、それも、もう終わり。私が、あの女を殺せば、全てが終わる……。
もう、あの女の幻覚に振り回されるのは、限界だ。あの女を殺せば、私は解放される。
いままでずっと彷徨ってきた迷宮の出口を、やっと見つけられる……。
「おまえら、なんぞに……このワシが言いなりになるとでも思うとったのか?」
血泡を滴らせながら、老人はカヤとヒエンを睨み付けた。ヒエンは腕を組み、カヤが老人を殺してしまわないように監視している。
白い歯を剥き出しにして、カヤは興奮したように叫んだ。
「ハハハッ……。いつまで、そんなこと言ってられるの?」
爪先を振り上げ、老人の顔面を蹴りつけようとしたカヤに、ヒエンが割って入った。
「やめろ。まだ、殺すな」
「どいてよ! こんなジジイ、とっとと潰してやるわ!」
「いいから、あの娘を連れてこい」
チッ、と舌打ちしながら、不服そうにカヤは洞窟の奥へと行き、縛られ、酷く怯えている女の子を連れてきた。カヤは、その場に女の子は突き倒した。
その女の子を見た途端、老人の顔が強張る。そして狼狽えたように、女の子の名前を呼んだ。
「ち……チエ……!」
「じいちゃん……た……たすけて……いた、い……いたいよぅ……」
女の子は老人を見つめながら、悲痛な呻き声をあげた。小刻みに身体が震え始め、涙が流れる。たすけて。たすけて。しゃくりあげながら女の子は、譫言のように呟いている。
老人の狼狽えように、ほくそ笑みながら、ヒエンは老人に言った。
「どうです? これで私達に協力していただけますかな?」
背後では、カヤが血走った目で老人を睨み付けていた。その気になれば、すぐにでも女の子を締め上げることが可能なムチを、その手に握っている。
老人は、生まれて初めて、恐怖というものに押し負けそうになった。そんな感情が顔に出ているのか、カヤは、ざまあみろ、といった表情をしている。
一段と大きな声で、ヒエンは強調した。
「教えていただけませんか? ジーエスボールとやらの在処を……」
「なんで……おまえ達が、GSボールを知ってるんや……」
老人の震えた問いに、ヒエンは微笑を浮かべながら答えた。
「私達の情報網を甘く見ないでいただきたいですな、ご老体。ジーエスボールなら、よく存じておりますよ。もっとも、実物を見たことはありませんが……、金と銀に光り、GとSの刻印がなされているモンスターボールであると言うことぐらいなら」
そこまで言って、チラリとヒエンは、老人の顔色を伺った。一見、丁寧に見えるヒエンの言葉には、『もし、偽物でも渡そうものなら、容赦はしない』という、無言の圧力が加わっていたことは、誰の目から見ても明かである。
「どうです? ジーエスボールの在処を教えていただけますでしょうか?」
「しかし……あのボールは……」
「別に構わないのですよ。そのかわり、お孫さんの命は保証しかねますが……」
ヒエンは冷徹な目で、カヤに合図を送った。
……そんなガキ、おまえの好きにしていいぞ。自由に、殺してもかまわない。好きにしろ。どんな風にでも、殺して、このジジイの前で、晒し者にしてやれ。
その合図を受け、カヤはにんまりと笑い、モンスターボールを地面へと叩きつけた。ボールから迸る光の中からあらわれたのは、電気ねずみポケモンのライチュウだった。濁った黄色い身体には、茶色い模様が浮かんでおり、可愛らしいが、どこか攻撃的な顔つきをしている。
カヤはライチュウのギザギザした尻尾を慎重につまむと、チエの口へと強引に押し込めた。チエは何も言うこともできず、ただただ涙を流し続けることしかできない。
こわいよ、いたいよ、たすけて……。
○●