~彼らのために 私たち 旅立つ~
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「ここです。ここで、私はアンノーンに襲われて、不思議な声を聞いたんです」
瑞穂の声を聞きながら、韮崎は探るように辺りを、遺跡の中を見回していた。辺りの壁は、先程の衝撃で多少崩れており、床に散乱している。
破片を踏んでしまわないように、慎重に足下を見ながら、瑞穂は壁の一点を指さした。
「このあたりから……声が聞こえてきたような気がしたんですけど……」
自信なさげな瑞穂の言葉に、韮崎は小さく頷くと、壁を手でゆっくりと撫でた。
「この辺りか……、特に変わった所は何もないが……」
瑞穂を振り返り「洲先君。グライガーをだしてくれ」
「あ、はい」瑞穂はモンスターボールのボタンを押した。「お願い、グラちゃん」
陰鬱な灯火とは全く違う、眩い光の中からグライガーが飛び出した。
やはり怯えている。潤んだ瞳は、いつもの陽気なグライガーのものとはかけ離れていた。
「ごめんね……グラちゃん。でも、少しだけ、先生と私に協力して。お願い」
グライガーは頷いた。腕に抱いて、グライガーの震えを感じたとき、瑞穂の心は痛んだ。ここまで、ひどく怯えているグライガーを、むりやり出すことはしたくなかった。
「うん……たしかに、なにかを感じているようだ……」
「でも、そんなに怯えるほど、アンノーンは恐ろしいポケモンなんですか……?」
「さっきも言ったとおり、複数集まることで、アンノーンの本来の力が発揮されるのだから……」
韮崎の言葉は、そこで止まった。別の声に、掻き消されたのだ。
たすけて。そう響いた。まるで、永遠に続く山彦のように。
ここからだして。そう聴こえた。まさに壁の中から、頭の芯に響くような声が。
2人は一様に、声のする壁の一点を見つめた。グライガーも同様に。既に荒い息づかいで。
「聞こえました?」瑞穂が訊いた。
「ああ、聞こえた」韮崎は、動揺を抑え、答える。
すぐさまグライガーが金切り声に近い叫び声をあげた。韮崎は後ろを振り向く。そして我が眼を疑った。
「洲先君、後ろだ!」
彼らは来ていた。瑞穂の背後から伸びる影から、無数のアンノーンが溢れている。
韮崎の声に反応して、瑞穂は振り向いた。
「こ、こんなに、たくさん……!」
瑞穂は驚愕と恐怖の入り混じった声をあげ、思わず後ずさった。アンノーン達は、それぞれ奇声を発しながら、瑞穂へ接近し、一斉に取り囲んだ。
「きゃ……! いや……いやぁ……! た……助けてくださ……」
瑞穂は頓狂な叫び声をあげたが、やがてその声も聞こえなくなった。失神したのだろうか。韮崎は、瑞穂の名を懸命にアンノーンの渦へと向かって呼んだ。
だが、瑞穂の返事はない。アンノーンは、中央にある瞳のような部位から、光球を発生させている。
「洲先君! どうしたんだ……返事をしてくれ」
光球は広がり、そして語り始めた。……パパに逢いたい。瑞穂の声だった。
幾つもの光球が瑞穂の声で、それぞれ語った。
寒いよ。痛いよ。怖いよ。恐いよ。どこにいるの? ソウちゃんはどこ?
光球は語り続ける。無数のアンノーンは、瑞穂に群がっていた。黒々とした異形の奥に、水色の髪をした幼い少女が呆然と立ちつくしている。瞳は焦点を失っていた。
これが、洲先瑞穂の意識なのか。韮崎の首筋に、冷たい汗が流れた。
愛してる。好き。憎い。知りたい。嫌だ。思い出したくない。嫌い。好き……。
次から次へと見え隠れする瑞穂の意識を目の当たりにし、韮崎は眼を伏せた。優しさの中に憎悪と苦悩の入り乱れた瑞穂の心を、韮崎は直視したくなかった。澄んで優しげな瞳の奥に、朗らかで可愛らしい笑顔の内面に、瑞穂の深い闇が隠れていたのだと思うと、どうしようもなく、やりきれない、虚脱感に包まれるのだ。
恐い。怖いよ。気持ち悪い。憎い。助けて。大好き。大好き。友達だよね? 愛してる。
瑞穂の心の、光と闇は交錯し、一斉に騒めいている。その時、アンノーン達の中の一体が、人間の、瑞穂の声で、話しているのが聞こえた。
「コノ、にんげん。なかまニナレナイ」
それに答えるようにもう一体のアンノーンが、瑞穂の声のまま、片言で言った。
「ナレナイ。なかまニナレナイ。コレいじょう、コノにんげん二カカワルコト、いみナイ」
「コノにんげん。ワタシタチヲ、ひつようトシテナイ」
「ほか二、なかまハ、イナイノカ……」
アンノーン達は、辺りを見回した。その中を駆ける、紫の閃光には気付かなかった。
縦一閃に青い光が走り、一直線上に漂っていたアンノーンの体が真っ二つに割れた。風圧に押され、アンノーン達はちりちりバラバラに吹き飛ばされた。その先で、グライガーは、怒りの表情でアンノーン達を睨んでいた。
韮崎はすぐさま瑞穂へと駆け寄る。焦点を失った瞳のまま立ちつくす瑞穂は、そのまま前のめりに倒れた。韮崎が抱きかかえなければ、顔を床に打ちつけていたところだ。
「洲先君。大丈夫か? 意識はあるかね?」
その言葉が聞こえたのか、瑞穂の瞳に意識の色が戻った。ゆっくりと韮崎の腕の中から起きあがり、恐れ戦きながら壁の中へと消えていくアンノーンを、見やった。
耳に、かすかに、自分の囁きを感じながら。
「コワシテクレ。ワタシヲ、コワシテクレ」
辺りに静寂が蘇った。アンノーン達は、その姿をどこへともなく隠したのだ。
グライガーと同様、瑞穂は怯えながら韮崎の大きな掌を握りしめる。涙目だった。まだ、あどけなさが残る、白く美しい整った顔を震わせながら、瑞穂は呟く。
「あ……あの、私、いったい……なにが……」
「何もなかったよ。心配することはない」
「でも……、私、今、ものすごく、変な気分なんです」
「変な気分……?」
「さっき、気持ち、よかったんです。怖いくらいに気持ちよくて――不安も、怒りも、恐れも、なにもなくて、すごく心地よかったんです」
瞳に溜まった涙を拭うと、瑞穂は続けた。肩ががくがくと震えている。
「ぱぱがいて、ままがいて、みんな笑ってて……」呻いて「でも、不自然に気持ちがよくて、だから、その分だけ、怖くて……。なんとか、現実に戻ろうとして……」
「賢明な判断だったね。」韮崎は微笑んで「私だったら、とても、そんなことはできないよ。大丈夫、心配することはない。キミには、なにも起こっちゃいない」
蒼白の面持ちで、瑞穂は立ち上がり、グライガーを見やった。グライガーは、壁の一点をひたすら睨み付けている。心なしか、瞳が紫色に染まっているように見える。
「グラちゃん。さっきはありがとう……」瑞穂は顔を上げた。「そこに、なにかあるの?」
頷きを返し、一瞬のうちに、グライガーは遺跡の壁をハサミで打ち砕いた。壁の破片が吹き飛び、大穴が一つ。瑞穂と韮崎は驚愕し、止まった。
「な、なんてことを……貴重な文化遺産を……」
瑞穂は狼狽えた。「ぐ、ぐ……ぐ……グラちゃん……な、な、一体なにを……?」
「グラッ!」と声をあげ、グライガーは穴の中をハサミで示した。
「え……? やっぱり、そこに……なにか、あるの……?」
瑞穂は小さく首を傾げた。グライガーに近づき、穴の中を覗き込んだ。
笑っていた。幸せそうだった。だが、そこは闇に包まれていた。
あッ……。小さな叫びをあげ、瑞穂の動きが止まった。韮崎も不審に思って、穴の中を覗いた。
瑞穂も韮崎も、そしてグライガーも、そこにいる筈のない闇に驚いていた。
「こないでよ……、しつこいね。せっかく、見逃してあげたのに、また来るなんて……」
男の声だった。小柄だが、小太りで、脂ぎった黒い長髪の前髪をしきりに手で払いのけている。黒縁眼鏡の分厚いレンズが、妖しく、怪しく、光っていた。周りには漆黒の霧が、男を包み隠すようにたちこめている。
男の醜い容貌と不気味な雰囲気に、韮崎は身震いした。
小太りの男の周りには、幾つものアンノーンがぐるぐると回っている。
「どうして僕の幸せの邪魔をするの? こんな所になんのようなの? 用がないなら帰ってよ」
血走った眼を見開き、男は言った。見れば見るほど、醜い。
「あの……、ここで、なにをしているんですか……?」
果敢にも瑞穂は訊いた。艶やかな水色の髪が、かさかさと揺れている。男は顎を突き出し、嫌らしい笑みを浮かべた。
「ここで……なにをしているかだって? そうだな……なんと言えばいいのか……」
霧の闇が集まり、黒々とした物体へと、その姿を変えていく。幾つものアンノーンが、いつしか男を守るように、漂っていた。
瑞穂は穴の中に踏み込んで、男を見つめた。韮崎もそれに続く。アンノーンの群れに驚きながらも、瑞穂は再び問う。黒い霧が揺らいだ。
「ここで……なにをしているんですか……?」
「上を……見てみたら……?」
男は不適な顔を上へと向けて、黄色い歯を剥き出しにして笑った。
韮崎は、男の言葉通り、天井を見上げる。韮崎はそのまま言葉を失って、立ちすくんだ。不審げにその様子を見ていた瑞穂の頬を、生暖かい液体がつたっていく。頬を手で拭い、その液体が赤い色をしているのをみて、瑞穂は息を呑んだ。
瑞穂は、恐る恐る上を見た。喉が渇くのを感じた。目眩がした。
女が3人、天井に張り付けられている。皆、目の眩むほど、美しい娘たちだった。茶色い髪をした女が、今にも消え入りそうな小さな声で、しきりに、譫言のように呟いていた。
たすけて、ここから出して。たすけて、ここからだして。……涙は枯れていた。怯え、震え、目を閉じている。現実とも悪夢ともつかぬ、この空間を直視したくない気持ちはよくわかった。
今、生きているのは彼女だけだ。そう思ったと同時に、瑞穂の背筋が冷たく濡れた。
1人は、眠るように死んでいた。腕がだらりと垂れ、その先が黒々と変色し、蛆が湧いている。もう一人は、血走った眼を左右に向けながら死んでいた。首筋が切り裂かれており、いまだに血が滴っている。その首筋には彼女自身の爪痕がくっきりと残り、また彼女の爪は、赤々とした血糊に染められていた。
「狂ったんだよ。その女は……」
瑞穂は、そう呟いた男の顔を睨んだ。韮崎は、ただ口を動かすだけで、何も言葉にならないでいる。
「狂ったから、自分の喉を、爪で掻き切って死んじゃったんだ……バカみたい……」
男は冷たく笑った。
「狂ってるのは――あなたですよ」
断言した。瑞穂は臆することなく、男の醜悪な眼の奥を睨んだまま、動かないでいる。
「これは……なんなんですか……?」
大体の予想はついていた。瑞穂は悟ったのだ。以前、コガネシティで襲われたことのある瑞穂には、男という生き物が、どれほど、どこまで残酷になれるかということを、よく知っている。
瑞穂は、この男の笑いの中に凶々しく歪んだ憎悪を感じ取ったのだ。
「こいつら……笑ったんだよ……」
純粋だった。純粋な憎悪が、男のただでさえ醜い男の面を歪曲させた。
喉の渇きがひどくなってくるのを瑞穂は感じた。奥歯を噛みしめ、男を見つめる。
男は語った。男は休暇を利用して、独りでこの遺跡に旅行に来ていたのだという。そして、そこで、遺跡の中で男は、3人組の美しい女性たちを見つけたのだ。男は独りだった。男に『男』としての本性が走った。男は女性たちに声をかけた。
「あの女ども……僕が話しかけても、無視したんだ……。ちょっと見て呉れがいいからって、調子に乗りやがって。僕のこと、ブサイクって言って、笑ったんだ。笑ったんだよ」
女は男を嘲笑った。なによ、この、ブサイク。寄らないでよ、汚いわねっ!
男は吠えた。
女たちは笑いながら逃げていった。しかし彼女たちの行方を黒い物体が遮った。
「驚いたよ……。なんといっても、自分の思い通りのことができるんだからな」
驚く男の元へ、銀髪の少年があらわれて言ったのだ。「それはね、アンノーンというんだよ」
アンノーンは、キミを選んだ。アンノーンはキミの願いを叶えてくれる。夢のような道具だよ。
のぞみハナンダ。かなエテヤロウ。よくぼう、おまえノナカニアル。すべて、ハキダセ。
「事実、アンノーンは僕の望みを叶えてくれた」
「あなたの……望み……?」
「あの女たちを、僕の手で裁くこと。それ相応の罰を与えること」
そして犯してやる。僕のものにしてやる。奪ってやる。それが僕の幸せ。男の表情から、薄汚れた心が覗く。瑞穂は眼を背けたい衝動をなんとか抑えた。
「そして、僕は、あの女たちに罰を与えた。そして……」
少年の去った後、男は自分と彼女たちだけの世界を望んだ。アンノーンは、その世界を簡単に創り上げた。男は彼女たちを天井に縛り付けることを望んだ。アンノーンが輝き、女たちは天井に縛り付けられた。
許さない。男は思った。アンノーンは、彼女たちを許さなかった。
女たちは怯え続けた。男は、女を、自分の思いのままに傷つけ、犯し「……殺したんだ」
最初の犠牲者は黒い髪をした女だった。男の体を、あまりに彼女が拒絶したので、男が彼女の首を折ったのだ。すぐに彼女は静かになった。
2人目の犠牲者は髪を金色に染めている女だった。日に日に腐敗し蛆が湧き、屍臭を発する最初の犠牲者を見せつけられ、狂ったのだ。訳のわからぬことを叫き散らし、暴れた後、喉を自分の鋭い爪で掻き切った。
血が吹いた。女は血走った瞳を廻して吐いた。舌を噛み切っていたのだ。
瑞穂は黙ったままだった。韮崎は青ざめた顔をしている。
「やっぱり……おかしいですよ。間違ってます、こんなこと……」
その声は怒りに震えていた。瑞穂は拳を握りしめて、掌に滲んだ汗に気付いた。