襲いかかったオニスズメの一匹が雪の上に転がっている。嘴が、あり得ない角度に曲がっている。オニスズメの一団が、明らかに狼狽えていた。
それまで人間の事など馬鹿にしていたのだ。自分が追いかければ逃げ出す。人間など、飼っているポケモンさえいなければ非力だ。そう思いこんでいた。常識が通用しない。目の前に立っている小さな少女ただ独りに、オニスズメたちは恐れ戦いていた。
瑞穂の膝は震えている。手の甲の出血は止まる気配がない。傷ついたグライガーが喘いでいる。瑞穂はリングマのモンスターボールに手を伸ばしかけた。しかし途中で、首を振った。
自分でやるべきだ。なぜかそう思った。なんの前触れもなく。自分のポケモンを守るために、自分のポケモンを戦わせ傷つけても意味がないではないか。グラちゃんも、リンちゃんも、いつも私を助けてくれる。こんな時ぐらい、自分の力で守りたい。自分のポケモンもロクに守れないで、なにがトレーナーだろう。
ポケモンの力を借りなければ、自分のポケモンを守れないのなら、ポケモンがポケモントレーナーになった方が、まだマシだ。
自棄を起こしたのか、意地になっているのか。それは瑞穂にも解らなかった。
瑞穂の気持ちに、オーラに圧倒されているのか、オニスズメの大群は微動だに出来ないでいた。たった独りの少女を相手に、である。一斉に襲えば、すぐに命を奪うことができるではないか。
誰も動かない。羽ばたきの風だけが瑞穂のシャツをなびかせている。
グライガーを抱く力が強くなった。ずっと見つめる。そうしないと負けてしまいそうだった。
痺れを切らし、オニスズメの親玉が雄叫びをあげた。誰も襲おうとしない。オニスズメの親玉だけが鋭い嘴を向け、接近してきた。風が舞い起こり雪吹雪が起こった。
睨んだ。瑞穂は傷ついていない方の拳をオニスズメに振り上げた。
「ダメ……、なにもしないで。私は守りたいの。やめて……」
呟いていた。自分の声を聞きながら、瑞穂の体は浮き上がり雪の上に倒れた。瑞穂の拳を難なく避け、オニスズメが羽で激しい風を舞い起こしたのだ。
三度、親玉は啼いた。金縛りにあっていたような一群が、一斉に瑞穂へ襲いかかろうとした。
「くっ……」眼を閉じた。ゆかりの呼ぶ声が聞こえる。
体中に痛みを感じた。つつかれている。鋭い嘴が瑞穂の白い皮膚に次々と食い込む。叫び声をあげた。負けるもんか。そう叫んだつもりだったが、結局ただの悲鳴に変わった。
情けない、非力だ、無力だ。そう思った。意識が遠くなる。強い風が吹いた。意識が流れた。
気を失ったら負けだ。気力で意識を引き戻し、ゆっくりと目を開けた。
オニスズメたちは、もうそこにはいなかった。体中の痛みも消えていた。体を起こし、辺りを見回して、瑞穂はそこに、それまでとは比べものにならないほど巨大な鳥を見た。
「あ……! このポケモンは……」
長く鋭利な嘴と、凛々しく厳しい瞳がオニスズメたちを怯えさせていることに気付いて、瑞穂は立ち上がった。オニスズメの進化形である。啼かない、特に威嚇するわけでもない。だがオニスズメたちは恐れている。
「オニドリル……! 乱れ突き!」
突然、空から声が聞こえた。何かが着地した音を聞き、瑞穂は後ろを振り向いた。
穏やかそうな少年だった。雪をクッションにして空から舞い降りた少年は、意思の強さが凝縮されているような、黒く輝く瞳で、オニスズメたちを見つめていた。
オニドリルは嘴を大きく振った。空気が音をたてて震える。オニスズメたちは恐怖に駆られ、弾き飛ばされたように空へ空へと散っていく。後には親玉と、傷ついたオニスズメだけが残された。
胸を張り、今度こそ威嚇するようにオニドリルは啼いた。悲鳴をあげながら親玉も逃げだした。
少年は前へ歩み寄ると、瑞穂の足下に転がっている傷ついたオニスズメを抱き上げた。弾かれたようにゆかりが抱きついてくる。瑞穂の手の甲にある傷を見て、ゆかりは顔をしかめた。
「あ……あの、助けてくれてありがとう」
礼を言う瑞穂の顔を、少年は睨み付け、すぐさま腕に抱いたオニスズメを見せつけた。オニスズメは苦しそうに身を捩っており、折れ曲がった嘴からは血が流れている。
「非道いじゃないか……こんなことするなんて……」
唇を噛みしめ、少年は怒ったような口調で、瑞穂に言葉を叩きつけた。呼吸の小さくなっていくオニスズメを目の当たりにし、瑞穂はしょんぼりと俯いた瞳を地面へ向ける。
「それは……その……」
「理由なんて聞いても仕方がない。オニスズメを傷つけたのはキミだろ? だからあんな目に逢うんだ。自業自得だよ」
力なく項垂れたままの瑞穂の手に、傷があるのを見て、少年は語調を少しだけ弱めた。少女の後ろには、傷ついたポニータとグライガーが心配そうな眼差しを向けている。
「ふう……とにかく、ポケモンセンターに行こう。ここじゃ、ゆっくり話せないし」
少年が手をあげ合図をすると、オニドリルは跳び上がり虚空に消えた。それを目で追い、少女の方を見ずに、少女の手を握る。驚くほど柔らかい感触が握り返してきた。
蒼い雪が降り続く。地面に残る幾つもの血痕が、少しずつ消えていく。瑞穂が小さく息を吐くと、いつの間にか息は白い結晶に変わった。見つめたまま動かない。
それが彼との出会いだった。たった、それだけの出会い。
○●
「そうなのよ……。鳥ポケモンに関しては、うるさかったから。あの子は」
ナエは溜息をついてから、苦笑した。そこにどこか寂しげなものを感じたが、瑞穂は口には出さなかった。
「それから、私とトウガ君は、キキョウシティのポケモンセンターに行ったんです」
瑞穂がそう言ったところで、ウェイトレスが注文されたコーヒーとレモンティーを運んできた。
「はい、お砂糖、どうぞ」
「ありがとうございます」
ナエは沈み込んだ瞳のまま、瑞穂にグラニュー糖の入ったスティックをを手渡した。グラニュー糖をレモンティーに入れ、掻き回す。ナエはじっと瑞穂の手元を眺めていた。カチャリと音をたてながらカップを持ち、コーヒーを啜り、ナエは仰ぐように天井を見つめる。まるで息子が天井で待っているかのような眼差しだった。瑞穂も天井をみた。
誰もいなかったが、心が揺らめくような不思議な感覚はした。
「トウガ君……始めは、すごく怒ってたみたいでした。無理もないですよね。私、トウガ君の大好きな鳥ポケモンを傷つけちゃったんですから……」
「でも、あなたが、人が相手であろうと、ポケモンが相手であろうと、暴力を振るうようには、とても見えないんだけど」
「私、怒ると……キレちゃうと、変になっちゃうんです」
瑞穂は肩をすくめた。
こうして向かい合っていると、目の前の少女が怒るさまなど、想像もできない、とナエは思った。
「でも、あなたが悪いわけじゃない。あなたは、助けた。守った。むしろ、正しい事をしたと思うわ」
「そうでしょうか……」
「どうして……? それじゃ、そのままポニータを見殺しにした方が正しかったと思うの?」
ナエはカップを置き、レモンティーを見つめる瑞穂の顔を直視した。
「それはそうですけど……。あのとき……言われたんです」
「誰に……。もしかして、あの子に……?」
頷くと、瑞穂は胸に手を当てた。少しばかり痛みに耐えているようだった。
「あの子に……なんて言われたの?」
水色をした瑞穂の髪がかすかに揺れた。レモンティーを掻き回しながら、黙ったままで、なにも言わず、頬には汗が浮いている。暑いのだ。
ナエは扇子を取りだして扇ぎだす。やがて、瑞穂は消え入りそうな声で語り始めた。涙声だった。胸を突かれたような痛みを、ナエも感じた。
○●
キキョウシティは、普段は伝統のある美しい街なのだという。だが瑞穂自身は、そうは思えなかった。先程眺めた雪があまりに美しかった反動であろうか。車が排ガスを撒き散らし、雪をはね除け、後には黒く汚れた泥雪が辺りに散らばっている。空には黒雲が漂い、寒々とした空気が流れていた。
ポケモンセンターの窓から、キキョウシティの景観を眺めながら、瑞穂は溜息をついた。自分のポケモンを守るためとはいえ、この手で殴りつけたのだ、ポケモンを――。
傷つき、包帯を巻かれた手の甲を、瑞穂は握りしめた。痛みが頭の頂点まで響いてくる。そばにいたゆかりが、不安げに顔を覗き込んできた。
「ポニータは、たいしたケガじゃないみたいだよ」
声が聞こえた。瑞穂が振り向くと、少年は溶けた雪をはらいながら、歩み寄ってきた。
「でも……」少年の顔が曇った。「オニスズメの方は……」
「酷いの……?」
頷きながら少年は、口元を手で撫でた。
「命に別状はないみたいだけど、当分は飛べないそうだよ」
「あっ……。そ、そう……」
瑞穂の肩が震えていた。掠れたような声しか出なかった。
「ごめん……」
「ボクに謝られても……。謝るなら、オニスズメに直接、謝りなよ」
項垂れたまま近くのソファに座り、瑞穂はオニスズメに襲われるまでの経緯を説明した。黙ったまま、少年は瑞穂の話を聞いていた。少年は話を一通り聞くと、タオルを瑞穂へと手渡した。そこで始めて、瑞穂は自分の体が濡れていることに気付いたのだ。
「ここ数日、変な天気が続いていただろう? だから、オニスズメたちのストレスは、頂点に達していたんだ。きっと、あのポニータは、オニスズメの縄張りに勝手に踏み込んだんだよ――だから、襲われた。」
少年は言ったが、瑞穂は納得できないでいた。
「たったそれだけのことで、あんなに大勢で、たった独りのポニータを襲うの? 卑怯なんじゃないかな……そういうの。卑怯だよ」
「敵だと思ったんだよ」少年の眉が厳しく歪んだ。
「自分達の、一族の生命を脅かすような敵が来たと思ったんだよ。そんな敵に甘い態度で臨んだら、殺されてしまうかもしれないんんだよ? オニスズメの一匹一匹は、とても弱いんだ。敵は大勢で追い払わなければ、逆に皆殺しにされてしまうかもしれないんだよ? それでもまだ、卑怯って言うの?」
「その……それは……」
瑞穂は、しどろもどろになり反論すらできなかった。少年は続ける。
「大体、いくら自分のポケモンを守るためとはいっても、あそこまでオニスズメを傷つけるなんて、普通じゃないよ。やりすぎだ。オニスズメは、どうなっても――傷ついても――いいとでも思っているの?」
「そやけど、あのとき、お姉ちゃんは、ああするしかなかったんや」
俯いたままなにも言えないでいる瑞穂を見かねて、ゆかりが口を挟んだ。ゆかりの口元は、やるせない気持ちからか、曲がっている。
「あのとき、お姉ちゃんがオニスズメを殴らんかったら、お姉ちゃんや、お姉ちゃんのポケモンは、もっと酷いケガしてたかもしれへんのやで。そんな、偉そうにいわんといてや」
「それじゃ、オニスズメはケガをしてもいいと思っているんだね?」
「誰も、そんなこと言ってへんやん!」
「そう言っているようにしか聞こえないよ。自分のポケモンだけが可愛くて、自分のポケモンだけを守って、他の可愛くもない野生のポケモンなんて、どうなってもいいって、キミは思っているんだろう? その考え方の方が、よっぽど卑怯だよ!」
「ちゃうわい! お姉ちゃんは、卑怯やないわ!」
「もう、やめて……。やめてよ……」
蹲るように頭を抱え込み、瑞穂は呻いた。
少年は我に返ったように辺りを見回し、瑞穂へと視線を移して頷いた。ゆかりは憤ったまま立ち上がり、ソファを蹴り飛ばすと、どこかへ走り去ってしまった。
気まずい沈黙が続いた。少年は沈黙を断ち切るように言った。
「その……言い過ぎた。ごめん」
「ううん。私がオニスズメを傷つけたのは本当のことだもの。それに、あなたの言ったことの方が、正しいと思うし……」
ゆっくりと少年は首を振った。瑞穂は不思議そうに少年の顔を見つめ、言った。
「私の名前……まだ言ってなかったね。私は瑞穂。みずみずしいの瑞に、いなほの穂」
良い名前だね。少年は微笑み、瑞穂のかすかに濡れた髪に見惚れた。
「ボクはトウガ。ふゆの冬に、われわれの我」
しばらく、お互いは顔を見つめ合う。そして、トウガはゆっくりと言い聞かせるように呟いた。
「自分だけが、正しいとは思わない方がいいんだ。ボクも、そうだよ――」
瑞穂は頷く。水色の髪から澄んだ雫がしたたり落ちた。
「キミは正しいことをしたつもりかもしれない。誰も傷つけたくないキミの気持ちは解る。ボクだって誰も傷つけたくはない。でも、結局、みんな傷ついた。キミも、キミのポケモンも、ポニータも、オニスズメも、みんな傷ついたんだ」
髪に染みた雫を拭いながら、瑞穂の瞳は潤んでいる。泣き出すかと危ぶんだが、意外なことに、瑞穂は口元を引き締め、はっきりした声で答えた。
「そうだね……、絶対に間違っていることはあっても、絶対に正しい事なんて存在しないのかもしれない。みんな自分が正しいと思ってるし、みんな自分が間違っているとは思いたくないもの」
正論なんて所詮は虚しいもの。人間は自分だけを正しいと思っているから。
遠くから、ゆかりが苛立ち紛れに床を踏みならす音が聞こえてきた。
所詮は虚しいもの。結局は空虚なもの。いずれは消え去る、蒼い雪のように。
○●