街が見える。灰色の雲のから覗く街は、人々に溢れていた。
翼を振り下ろすと、空気が裂かれた。冷たい風の奥に、赤い瞳が爛々と輝いている。
狂気は叫び、雲を振り払い静寂の中に身を寄せた。嵐の前の静けさだろうか。
殺せ。殺せ。殺気に満ちた声だけが聞こえる。殺せ。殺せ――抵抗すらできなかった。抗うことは許されなかった。殺せ。殺せ――
5歳くらいの子供がこちらに気付き、指さして、何かを言っている。ねえ、お母さん、あれ、なんなの?
幼子は、それきり何も言わなかった。不思議そうに小首を傾げたまま、動かなかった。母親は悲鳴をあげ、幼子に駆け寄る。信じられない。顔にそう書いてある。
殺した。次を殺せ。
幼子の母親は、そのまま動かない。ひきつった表情のまま、動かない。倒れる。湖の冷たい水が、二人を飲み込んでいく。消えていく。沈んでいく。
空気が凍った。人々も凍った。笑顔も、愛も、夢も、希望も、神の殺気に凍らされ、砕けた。寒々とした街から、悲鳴が途絶えるとき、狂気に踊らされている神は、人々の前に姿をあらわした。
伝説は、常に最悪の形でやってくる。
○●
アイスクリームで治ってしまうほど、ゆかりの怒りは浅かったようだ。笑みを浮かべ、ぺろぺろとアイスを舐め回すゆかりの姿を見て、瑞穂は胸をなで下ろした。
「もう……調子いいんだから」
苦笑し瑞穂は、冬我の方に向き直った。「ありがとう」
冬我もまた、財布をしまいながら笑っている。先程までの険悪な雰囲気は既に消えていた。
「ところで冬我くんは、鳥ポケモン使いなの?」
一呼吸置いてから、瑞穂は訊いた。
冬我の、オニドリルへの指示の方法やタイミングの取り方は、明かに鳥ポケモンに精通していることを示している。なにより鳥ポケモンを好きなのが先程の会話でわかった。
冬我は小さく頷き、窓を通して空を見上げた。
「ボクは、鳥ポケモン専門のジムのリーダーになるのが夢なんだ」
「そうなんだ……あれ? それじゃ……」
「うん。キキョウジムのリーダーのハヤトさんは、ボクの憧れなんだ」
輝いていた。冬我の眼が、大空を舞う鳥ポケモンへの夢の眼差しに、燃えていた。
「大地を超え、空を超え、風を超えて、山を越える……凄いと思わない? 大空を飛ぶんだ。自由自在に」
瑞穂は微笑みながら冬我を見つめ、呟いた。
「本当に、鳥ポケモンが好きなんだ……」
「え……?」冬我は照れくさそうに舌を出した。「わかる?」
「よくわかる……。冬我くんの気持ち、私にもわかる。私も、ポケモンが好きだから」瑞穂は俯いた。「……好きなのに……」
傷つけた。それも、自分の拳で。自分の事しか見えていないからこうなるのだ。自分のポケモンだけを守ろうとするから、傷つけてしまったのだ。
ああするしかなかった。それは言い訳に過ぎない。言い訳に。
事実なのだ。どう真実が主観によって歪められようと、事実であることに違いはないのだ。
私は、オニスズメを殴った。傷つけた。その事実だけは消えない。
「どうしたの……?」
冬我に言われ、瑞穂は何事もなかったように顔を上げた。少しばかり瑞穂は青い表情をしている。冬我は瑞穂の心情を感じ取っていた。だが、あえてそのことには触れなかった。
「瑞穂ちゃんは、これからキキョウジムでジム戦をするんだろう?」
「うん。グラちゃんの傷が癒えたら、キキョウジムに行こうと思うの」
「そうなんだ……ボクも一緒に行っていい?」
不思議そうに瑞穂は小首を傾げた。
「いいけど……どうして?」
「キミが、ハヤトさんと、どんな試合をするのか観てみたくて」
瑞穂は冬我と一緒に窓の外を眺めていた。こうしてみるとこの街も綺麗だな。ふいにそう思った。
しばらくして、ゆかりが肩を引っ張ってきた。口の周りについているアイスクリームを、瑞穂にティッシュで拭ってもらうと、治療室の扉を指さして言った。
「さっき、ジョーイさんがお姉ちゃんのこと呼んどったで」
消毒液の臭いが立ちこめる暗室。治療準備室でジョーイは独り佇んでいた。
瑞穂が声をかけると、ジョーイは振り向き、一枚のレントゲン写真を指さした。写真に映されていたのは、ポニータでもグライガーでもオニスズメでもなかった。
「これ……見えるかしら?」
ジョーイは言った。瑞穂は頷いて、写真に映された異物を見つめる。
「これが……ナゾちゃんに……?」
小さな、しかし異物。ナゾノクサの左前頭部には、くっきりと丸い影が映っている。瑞穂にはそれが、異物が埋め込まれているように見えた。
「あなたのナゾノクサ。頭に何かを埋め込まれているわね……。なにか、心当たりはある?」
「ないことは……ないです」
ジョーイは机の上に置かれていた診療簿を取り、瑞穂へと手渡した。
診療簿の内容を舐め回すように瑞穂が読んでいる間、ジョーイは思惟しながら呟いた。
「あなたは、ここに来たとき言ったわよね。あのナゾノクサは普通のナゾノクサじゃない、って。時折、眼が赤く光って破壊衝動に駆られることがあるから調べてください、って。確かに普通じゃなかった。もっとも……その年で”破壊衝動に駆られる”なんて小難しい言葉を使うあなたも普通じゃないけれど」
「何かしらの形で結果が出てくることは予想してましたけど、まさか外科的な処置がなされていたとは、思いもしませんでした……」
そこまで言って、瑞穂の眼の動きが止まった。診療簿に気になる項目を見つけたのだ。
「あの異物は、なにか特殊な電波を発しているみたいですね」
「そうね。とても微弱で、なんとか計測できる程度の電波だから、ポケモンには影響ないと思うけど。さしずめ、特殊電波発生装置……といったところね」
「あの、何かの条件が重なると電波の出力が強くなる、ということは考えられませんか?」
「十分に考えられることだと思うわ。もっとも、電波発生装置の大きさから考えたら、どんなに出力を上げても、半径2cm以上に影響を与えるのが精一杯ね」
「それで十分ですよ。中枢神経は異物の半径2cm以内にあるんですから」
ジョーイは振り向き、レントゲン写真を見つめた。白い影となって映し出されている異物は、ナゾノクサの中枢神経部分から5mm程しか離れていない。
一通り写真を見てからジョーイは、再び瑞穂の方を見やった。瑞穂は診療簿に見入っている。
「取り除けるかしら……」
「女医さんは……自信あります?」
「残念だけど、私には無理だわ。あなたなら……あなたならできるかも」
すがるようにジョーイは、瑞穂の幼げな白く整った顔を、期待の眼差しで見つめている。
だが、瑞穂は視線を診療簿から床へと落とし、ゆるゆると首を横に振るだけだった。
「あと、5mmほど中枢神経から離れていれば、なんとかできるかもしれませんけど……、無理です。間違いなく中枢神経を傷つけてしまいます」
「そう……たしかに難しいわよね」
「オペは、諦めた方がいいと思います」
曖昧に頷くと、ジョーイはナゾノクサの入っているモンスターボールを手に取った。
「頭部に葉液が溜まっているみたいだから、ドレナージしておくわね」
「おねがいします」
瑞穂は丁寧に頭を下げ、振り向くと、扉のノブに手をかけた。ジョーイの声が追いかけてきた。ノブを握ったまま、瑞穂は相手の顔を見つめた。
「なんですか?」
「あなたのグライガー、どこにもケガなんてしていなかったわよ」
「そんな……。確かにグラちゃんは……」
オニスズメによって、全身をつつかれていた筈だ。さっき見たときは、間違いなく体中に嘴の痕が残っていたのだから間違いない。
「そんな筈は……」
あり得ない。瑞穂は細々と、小さな声で呟いた。
○●
「自分だけが正しいとは思わない方がいい……か。あの子が言いそうなことだわ」
ナエは苦笑し、コーヒーに映りこんだ自分の顔を見つめた。瑞穂は一息つき、レモンティーに手を伸ばた。不意に、それまで流れていたBGMが途切れた。店内は異様な静けさに包まれている。
「人間は、みんなそれぞれ違うものね」
「はい……」
「あの子は……正しいことをしたのかしら」
瑞穂はレモンティーを飲もうとした手を急に止め、ナエの顔を怪訝そうな表情で見つめた。瞬間、どぎまぎした様子でナエは目をそらす。こめかみには、汗が浮いていた。
ティーカップを置いて、瑞穂は蒼白くなった顔で言った。
「どういう意味ですか? 冬我くんがしたことは、正しいことじゃないんですか?」
「あなたから見たら、あの子のしたことは正しいかもしれない。でも……それは、あの子がするべきことじゃない。自分の命を捨ててまで、正しいことをするべきなの?」
カップを置いた。瑞穂は何も言えないまま俯いている。ナエは続けた。
「正しいわ。あの子がしたことは、間違ってはいない。でもそれは、あの子が望んだことなの? あの子自身は、本当にそれでよかったの?」
肩をすぼめて瑞穂は、ナエの言葉を、その奥に詰め込められた心情を考えていた。
冬我が望んだのか。周りの人間が……もちろん自分を含めて……冬我に責任を押しつけたのか。だから、自分は裁かれかけたのか。裁かれた方が良かったのか。
それはわからない。真実など、いくらでも曲げられる。人は、それぞれ違う眼界を持っているのだから。
ただ、瑞穂は漠然と感じていた。彼の最期の言葉。彼の瞳に最後に映った世界。
彼は言ってくれた。見つめてくれた。そして、教えてくれた。
「冬我くんは、これで……自分で最後にしたがっていたみたいです」
「何を……?」
「犠牲を」
○●