重苦しい沈黙が続いた。ナエは空になったカップを置いて、瑞穂を見た。少女は静かに俯いている。育ちが良いのだろう。まだ子供のくせに、礼儀は心得ているようだ。
目の前に置かれているレモンティーに、瑞穂は手をつけようとしなかった。既にお茶は冷めている。
「もう、ないのに……」
ナエは呟いた。瑞穂は申し訳なさそうに、ナエから目をそらした。
「いくら美しいからって、死んだら、もう、ないのに。冬我にとっての、この街は、もう、存在しないのに……」
「そう……ですか……」
瑞穂はナエの言うことを積極的に肯定する気はなかった。冬我の死が、無駄になってしまうようで、忍びなかったのだ。
「冬我にとっての、あなたは、もう、ないのに。死んでしまったら、もう、誰もいないのに。なにもないのに。存在しないのに。夢も、親も、明日も、昨日までの思い出も、もう、ないのに。消えてしまうのに……」
ナエの呟きは、正しかった。
冬我は死んだ。そして、冬我の世界は、冬我の視界は消滅したのだ。
「そう……ですね……」
曖昧に応えた。瑞穂は、冬我の最期をすべて語り尽くしたのだ。もう語ることは、なにもない。一息つき、レモンティーを飲もうとした。すぐに思い直して、その手を止めた。
ナエが、鋭い目つきで、瑞穂を見つめている。
「命をかけてまで、街を救うことがそんなに大事なの……? 消えたのは、あの子の世界だけじゃない。私の視界からも、あの子の……冬我の姿は消えた。もう、二度と帰ってこない。残された者の気持ちも、考えてよ……」
「すいませんでした。私が、冬我くんを殺したようなものです」
「あなたがいなければ、すべてが滅んだ。私は、その方が良かった。こんなに悲しまずにすんだもの。あのまますべて滅んだ方が良かった」
「私は、そうは思いません」
瑞穂は俯きながら、呟いた。
「みんな滅んだら。みんなの世界が消えてしまいます。そんなの嫌です。冬我くんも、嫌だと思います。だから、冬我くんは犠牲になったんです。本当は、私がそうするべきでした」
鋭く睨まれたような気がして、瑞穂は肩をすぼめた。
「どうして、冬我を止めてくれなかったの?」
「冬我くんが、決めたことだからです。止めたくありませんでした。というより止められませんでした。無理に止めたら、冬我くんの死は、無駄になってしまうと思ったんです」
「違うわ。あんたは、死にたくなかった。口だけで、そう言って、冬我をそそのかしたんじゃないの? だから、平気で冬我を死に急がせた。あんたが、自分を守るために冬我を犠牲にしたんじゃないの?」
「否定、しません。冷静に考えれば、そういう面もあったかもしれません。だから、あえて、否定はしません。でも、あなたに、信じてもらえないのは悲しいです。私は冬我くんを信じていました。冬我くんも私のことを信じてくれました」
瑞穂の白かった頬が、ピンクに火照っている。怒りを堪えているようにみえた。
「レモンティー……飲まないの?」
突然、ナエは話題をレモンティーへと向けた。瑞穂は相手に気付かれないように、深い溜息をついた。
「飲みます。ナエさんのオススメですから……」
カップを手に持った。重い。喉が渇いているから、飲めば楽になれるのだ。
口にカップをあてた。しかし、飲まなかった。
「どうしたの?」
「やっぱり、嫌です」
「何が……?」
カップをテーブルに置いて、瑞穂は、ナエの歪んだ顔を直視した。
「私は、まだ、死にたくありません」
ナエの顔が、更にひきつった。瞳には驚きの色が浮いている。
「何を言っているの?」
「私は、冬我くんのためにも、生きなければならないんです。私がここで死んだら、あの世で冬我くんに怒られると思うんです。それに、ユユちゃんを独りぼっちには、したくありません。私は死んじゃいけないんです。死ぬことは許されないんです。たとえナエさんには傲慢に映っても……。大事な、大切な人と引き替えに繋ぎ止めた命だから。ここで死んだら、冬我くんに嫌われちゃいます」
「何を言っているのよ!」
たまりかねて、ナエは叫んだ。ウェイトレスが驚いてこちらを振り向いた。
「お客様……他のお客様の……」
「わかっているわ」
ウェイトレスが去り、ナエは瑞穂を睨んだ。冬我の母という仮面が剥がれ、凶悪な、純粋な憎悪が顔を覗かせている。
「ナエさん……最初から、私を、殺すつもりだったんですね?」
喉がヒクついている。こめかみに汗を浮かべ、ナエは瑞穂から視線をそらした。
「なんの……ことよ……?」
「しらばくれないでください。これは、シアン化カリウム……青酸カリ、ですね?」
黙ったまま、ナエはテーブルを見つめている。瑞穂は震える足もとに力を込めて、続けた。
「匂いでわかります。私、こういうのには少しだけ詳しいんです。このレモンティーには、間違いなく、毒、が混入されています。もちろん、私を殺すために」
「だれが、入れたのよ?」
「あなたです」
「いつ? 私はレモンティーには触れていない。私が、毒なんて、いつ入れたのよ?」
瑞穂はレモンティーの側に置いてあった、グラニュー糖の袋をつまみ上げた。ナエの眉が動いた。袋の先端を瑞穂は凝視した。
「グラニュー糖の袋。あなたは、あらかじめこの袋の中に、毒を仕込んでおいたんです。そして私にレモンティーを注文させ、毒入りグラニュー糖の袋を手渡す……。私の記憶では、この袋は、あなたが私に手渡してくれたものですよ……。」
何も言わなかった。ナエはただ、黙って窓の外を眺めていた。
「私を、許してはくれませんよね……。私は冬我くんを殺しました。それは事実です。言い逃れは、できません」
「許せないわよ」ナエは、静かに、しかし恨めしく呟いた。「許せるわけ、ないじゃない」
立ち上がり、怒りの形相で、ナエは瑞穂を睨んだ。瑞穂も、ゆっくりと立ち上がり、ナエの悲しい瞳を見つめている。
「あんたが殺したようなものよ。冬我は、死なずにすんだ。あんたがいたから、冬我は死んだ。あんたが死ねばよかったのよ。どうして、あんたが生き残って、冬我が死ななきゃいけないのよ!」
唇を噛みしめながら涙を浮かべている瑞穂の眼を見つめ、ナエは心の奥の怒りをぶちまけた。胸ぐらを掴むと、瑞穂は怯えたように首を横に振っている。絞め殺したかった――ナエは手に力を込めた。
「すいませんでした。ナエさんの言うことは、正しいと思います……。私が、かわりに死ねば良かったんです。でも、冬我くんのしたことは間違っていません。それに、どうして、ナエさんは自分の視点からしか物事を考えないんですか? あなたは、本当に、冬我くんの母親なんですか? ちゃんと冬我くんの気持ちを考えたことがあるんですか?」
「あんたに言われたくないわ。冬我を殺した、あんたに言われたくはない」
首を絞められて、苦しげに、瑞穂は口を開いた。よだれが一筋、口から滴り落ちた。それでもなお、瑞穂はナエに語り続けていた。首を横に振っているが、抵抗しているわけではなかった。
「私なんかを殺して、なんの意味があるんですか? 冬我くんが悲しむだけなんじゃないんですか? あなたは、自分の失ったものを必死で補おうとしている。でも、こんなことをすればするほど、ナエさん……あなたの失ったものは……冬我くんは、あなたから遠ざかって行くんじゃないんですか?」
「知らない。知らないわよ。私はあんたが憎い。それだけよ。冬我を殺したあんたをね」
「どうしてそんなに自分勝手なんですか? 今になって、冬我くんの言っていた意味がわかるような気がします。自分だけが正しいと思うな。これって冬我くんが、あなたに抱いていた感情じゃないんですか?」
首を絞める力が緩んで、瑞穂はその場に崩れ落ちた。咳き込みながら、瑞穂は口元をフキンで拭った。
呆然とした表情で、ナエは虚空を見つめている。蹲るナエ。呻くような嗚咽が聞こえてきた。瑞穂は悲しげにナエを見下ろしながら、一言だけ、呟いた。
「ごめんなさい……」
涙に濡れた顔を、ナエは持ち上げた。瑞穂は背を向け、歩き出した。呼んでも振り返ることはないだろう。ナエは瑞穂の背中に向けて、言った。
「私は、気付かなかった。冬我の心の中を。待って、洲先さん……。拾ってあげて」
「拾う……?」
「あの子の骨を、拾ってあげて。私は、結局最後まで、あの子の気持ちに気付けなかった。あなたにはあの子の骨を拾う資格がある。今、気付いたのよ。あの子が、あなたに抱いた気持ちが……。あの子は、この街のために死んだわけじゃない。あなたのせいで死んだわけでもない」
瑞穂は俯いた。ナエは立ち上がり、瑞穂を鋭く睨み付け、呟いた。
「あの子は……冬我は、あなたのために死んだのよ」
○●
突き抜けるような青い空の下。瑞穂は、独りで緑の丘の上に佇んでいる。
瑞穂は結局、ナエを許した。ナエはあれきり何も言わなかったが、小さく頷いてはいた。大切な人を失えば、自分もああなってしまうのだろうか。考えても、答えはでない。
ナエは結局、瑞穂を許した。どうして突然、許してくれたのか、よくはわからなかった。
黒々とした骨だけになった、冬我の体を思い出して、瑞穂は悲しそうに空を見つめた。誰だって、死ぬのだ。だが冬我は早すぎた。もちろん、自分だって同じなのだが。
穏やかそうな冬我の顔も、焼け、他の死人と同じように頭蓋だけとなって、集骨室で晒された。竹の箸で拾い上げた冬我の腕の骨は、生きているときとは対照的に、平べったく、細かった。
骨壺へと冬我の遺骨を納めると、ゆかりは途端に、わっと泣き出した。箸を持つ手が震えていた。
光り輝くフリーザーの粉が骨壺から吹きだしていた。フリーザーから装置を引き抜いたときに、冬我の体に付着したものなのだろう。瑞穂はこっそりと小さなガラス瓶に、粉を詰めた。形見にしようと思ったのだ。
あのあと、フリーザーは何処へともなく飛び去っていった。街は、元の姿を取り戻した。雪も、降らなくなった。それでも、瑞穂はこの街を、美しいとは思えないでいた。いや、もう、永遠に美しいとは思えないであろう。
瑞穂はモンスターボールを握りしめ、大空へと放った。眩いばかりの光と共に、元気になったオニスズメが飛び出した。羽ばたいて、瑞穂の周りをまわっている。
「オニちゃん……。もう、あなたは、自由だよ。どこへでも、行っていいんだよ。もといた場所に、帰るんだよ。それと……ごめんね。殴ったりして」
瑞穂は手を振った。オニスズメの背中から、何かが落ちた。瑞穂はかがみ込み、それを見つめた。紙だった。死ぬ前に、冬我がオニスズメに託した、メッセージだった。
……きせき 瑞穂ちゃんへ。
汚くて、読みづらい字でごめんなさい。
口ではああ言いましたが、たぶんキキョウジムの人達でもフリーザーにはかなわないと思います。
そうなったとき、瑞穂ちゃんは、きっと自分がフリーザーを倒そうとするでしょう。
ケガをした自分のポケモンを、ボロボロになりながらも守り抜いた瑞穂ちゃんですからね。
そして、瑞穂ちゃんは、フリーザーに殺されます。
そんなのは、嫌です。
だからボクは、瑞穂ちゃんが無茶なことをしようとしたときには、
瑞穂ちゃんの代わりに死のう、と決心しました。
だからきっと、ボクは死んでしまうでしょう。
いえ、瑞穂ちゃんがこの手紙を読んでいるということは、すでにボクは死んでいるということですね。
いまさら遅いかもしれませんが、ボクは、瑞穂ちゃんのことが好きです。
そのことを相談したら、ゆかりちゃんは、なぜかとても喜んでくれました。
それまで敵意を剥き出しにしていたのがウソのようでした。
その時、ゆかりちゃんは言ってくれたんです。
「男の子やったら、命をかけてでも、女の子を守らなあかんで」って。
ゆかりちゃんの一言がなかったら、ボクは死ぬ決心がつかなかったと思います。
ありがとう。ボクの言ったことを、素直に認めてくれたのは、瑞穂ちゃんが初めてでした。
それに、瑞穂ちゃんと一緒にいると、なぜか楽しかった。
忘れません。だから瑞穂ちゃんは、いつまでも瑞穂ちゃんのままでいてください。……氈瓜 冬我。
瑞穂は空を仰いだ。人に見られたくない何かが、瞳からこぼれ落ちそうになったから。
丘の緑が、風に吹かれて波打っていた。さわさわと風の音がざわめく。
泣いてはいけないのだ。自分に、何度も言い聞かせた。息をはいたが、胸の奥の闇は消えない。
「お姉ちゃん……」
背中の方から、ゆかりの涙声が聞こえた。腕で涙を拭いながら、ゆかりは小刻みに震えている。手に持っていた手紙を、瑞穂はすぐにウエストポーチにしまい込んで振り向いた。瑞穂は吸い込むように、ゆかりを抱き寄せる。涙が胸に染みていく。
「ウチが、殺したんや」
ゆかりは呻いた。瑞穂の肩を強く握っている。
「ウチ……冬我兄ちゃんに余計なこと言ったんや。だから、冬我兄ちゃん……」
「違うよ」
「なにが違うん……?」
涙にまみれたゆかりの顔を見つめ、瑞穂はハンカチを取りだし、ゆかりの顔の涙を拭った。
「冬我くんは、私のせいで死んだの。だから、私が殺したようなものなの……」
暫くして、ゆかりは立ち上がった。上空を回り続けるオニスズメを仰ぎ見ながら呟いた。
「……もし、お姉ちゃんが死んどったら。冬我兄ちゃんの心も、死んでしもたと思う」
小首を傾げ瑞穂は、空を見上げているゆかりを見つめた。
「冬我兄ちゃんは、お姉ちゃんのことが、好きやったんやもん」
もう、何も言えなかった。
瑞穂は飛び去っていくオニスズメの背中を見つめ、目を閉じた。
目を開いたときには、オニスズメは既に青空の奥に消えていた。
苦しいだけだった。罪悪感に心が苛まれていく。忘れようとしても、絶対に忘れられない、悲しい罪悪感。だが、彼は瑞穂がが苦しむのを望んではいないはずだ。恐らく、彼は自分の死で、瑞穂が苦しむのを予想していたのだろう。だから手紙をオニスズメに託したのだ。
……私が、冬我くんにしてあげられる唯一の罪滅ぼしは……私は、私のままでいること……。
……私が、いつまでも、いつもの私でいること……。
「さようなら」
それだけ言って、瑞穂は丘を駆け降りた。ゆかりが慌てたように、瑞穂の後を追いかけていく。もう二度と、振り返ることはなかった。そんな必要はなかった。
冬我と眺めた最期の景色が、いつまでも瑞穂の視界にあるのだから。
○●