月夜の咆哮
暗い地下の世界から抜け出て、少年はシャマインの庭で満月の浮かぶ星空を見上げた。月の光に照らされて、足下に広がる池の水が銀色の光を浮かべている。背後からは滝の音が、少年の心を見透かしたようにざわめいていた。
月は孤独だ。少年は、揺れる湖の水面に目をやり、映りこんでいる月を眺めながら物思いに耽っていた。黒々とした頬のタトゥを撫でている。心の奥底で、紫色の髪をした妖しい少女が、寿命が尽きかけの蛍光灯のようにチカチカとあらわれては消えていく。誰なのか。自分にとって、彼女は何を意味する存在なのか――
少年の名前は、サリエル・ゼラキエルといった。
これは運命なのか――。四年前に父のファヌエルが死んでから、サリエルはずっと考えていた。父の……いや、先祖のなしえなかった「制裁」が、やっと実現できるところまで来ている。だが、なぜ自分が裁かなければならないのか。背負わされた重荷に、自分は耐えきれるのだろうか。いや、今までは耐えてきた。それでも、もう限界が来ているのではないか……?
考えれば考えるほど、不安だけが心に残る。そんな時は、こうやって外に出て、湖に映る月の姿を眺める。そうすれば不思議と、胸の奥で蠢く不安が消えていくのが自分でもわかるのだ。
「兄上様……ここにおられたのですか」
少女の呼ぶ声が聞こえ、サリエルは振り向いた。耳の鍵型ピアスが、かすかに揺れた。視線の先にサリエルと同じ眼をした少女が立っていた。彼の唯一の肉親、妹である。小脇に重たそうな本を抱えていた。白い胸元には、サリエルと同じ黒いタトゥが刻まれている。どこか寂しげな眼差しが、胸の奥の少女と似ているのに気付いて、サリエルは戸惑いを感じた。
「ラツィエルか」
「はい。ラツィエル・アクラシエルです……」
少女ラツィエルは、サリエルの足下に広がる湖に目をやった。映りこんだ満月が揺らいでいる。サリエルの心の乱れを投影するかのように。
「どうした? ラツィエル」
「兄上様のことを、レミエルが捜しておりましたよ」
湖の揺らめきが大きくなった。月が獣のように曲がっている。不思議そうに小首を傾げ、サリエルは訊いた。
「それだけを伝えるために、わざわざ?」
「はい。兄上様」
サリエルは小さく頷くと、ラツィエルに歩み寄り、そして通り過ぎた。少女の視線が追いかけてくる。逃げるように、サリエルは歩調を早めた。
「サリエル兄さん……じゃなかった、兄上様」
足を止め、サリエルは振り向きもせずに訊いた。正確には、振り向けなかった。
「どうした……?」
「私は、あと4日で、10歳になります」
「そうだな」
「私には、兄上様を殺せません」
「ボクは……いや、私はお前を殺せるぞ」
「わかっています。私は四年前の兄上様を見ていますから……」
「なぜ、そんなことを言う?」
「今すぐ私を殺してください。私は嫌です。兄上様と殺し合いをしなければならないなんて」
「運命だ、これも。心配しなくてもいい。4日後には苦しませずに、お前を殺してやるから」
少女は俯いたまま、兄に抱きついた。震えてもいない。ただ、悲しげなのだ。
「ありがとう、兄さん。……あ、兄上様」
抱いていた妹を放し、サリエルは歩き出した。ラツィエルはゆっくりと後を追いかけていく。湖を一度だけ振り返り、サリエルは階段を降りた。ラツィエルはそれに続きながら、兄に言った。
「――兄上様は、悩んでいます。それも、私のことではなく」
「わかるのか?」
「はい。兄上様が湖に映った月を見つめているときは、何かに悩んでいる時だと知っています。幼い頃から、ずっと兄上様のことを見ていたのですから。そして、死ぬときも……。さっき兄上様は、焼けるような、焦がれるような胸の病に、悩んでいたのでしょう?」
「そうだ……」
曖昧に頷き、サリエルは階下の闇へと消えた。胸の奥の焼きつくような苦しみが、喉にもこみ上げてくる。
妹は幸せだな、とサリエルは思っていた。苦しまずに死ねるのだから。
○●
目が覚めて、眠気で重たい頭を起こした。土の匂いが遠ざかっていく。森は眠っていた。遠くから聞こえる騒めきは、夜行性ポケモンが争いあう音なのだろうか。
ぼんやりと空を見上げた。星々の中央には、白銀の月が浮かんでいる。
辺りをまさぐり、寝袋から這い出た。立ち上がると、気怠さが足下から襲ってくるような気がした。まだ夜だ。瑞穂は腕時計を見たが、眼が霞んで、よく見えなかった。
悪い夢を見ていたような気がする。瑞穂は額に浮いた汗を拭って、溜息をつくしかなかった。
追いかけてくる、巨大な蒼い鳥。口元から発した閃光が全身を多い、叫びと共に激痛が襲う。場面が変わり、レモンティーを啜った。血を吐いた。のたうつ内に、意識が遠のいていく。喉元を掻いた。爪痕から、気道が覗いた。息ができない。脂汗をかき、瑞穂は喘いだ。助けて。助けて。声も出ない。
苦しんで苦しんで、大抵はそこで目が覚める。まれに股座が生暖かくなっているときもある。思いついたように、瑞穂はハーフパンツの感触を確かめた。異常はない。思わず安堵の溜息が出た。夜尿など、ゆかりにバレたら笑われるどころでは、すまないだろう。
そういえば……。瑞穂は辺りを見回したが、ゆかりの姿が見当たらない。寝袋の中には誰もいない。トイレにでも行っているのだろうか。瑞穂は再び、額の汗を拭った。
ひどく蒸し暑いな、と瑞穂は感じていた。全身が汗でぐっしょりと濡れている。
「暑い……」
歩きながら、瑞穂は着ていた上着を脱いで、地面に置くと歩き出した。数歩先に大きな池があるのだ。水は綺麗で、満月が水面に映りこんでいる。
下着を脱いだ瑞穂は、純白な裸体のまま、一度深呼吸をして、爪先を水面に差し込んだ。清らかな水面に波紋が広がった。目を閉じて、瑞穂は腰の辺りにまで身を沈めた。
「涼しくて……気持ちいい」
いつしか瑞穂は、肩の辺りまで身を沈めていた。冷たい感触が肌を突き抜けて心地よい。手に持った小さな瓶を握りしめ、見つめながら、瑞穂は語りかけるように呟いた。
「冬我くん……結局、私は守られるだけの存在なのかな……」
誰も答えてはくれない。水の波打つ音だけが、湖の静寂を引き立たせる。
守られるだけなんて嫌だ。私だって、誰かを守りたい、瑞穂は心の奥で叫んだ。自分は、誰かを守るための、力に欠けているのではないか。
焦りにも似た気持ちが、瑞穂の心に湧き出た。何度訊いても、誰も答えてはくれない。
大きく息を吸い込んで、瑞穂は湖の底に潜った。泳ぐのは得意だった。こうして泳いでいると、悩みを忘れられるような気がするのだ。
水面から、大きな波紋と共に、瑞穂の顔が飛び出した。
忘れられない。空を見上げた。月が見える。満月だった。月の光が、白い瑞穂の体を照らしている。湖と一体化したような気がした。
瑞穂は右胸に刻まれた、一筋の傷痕を撫でた。痛みはないが、体の芯が締めつけられるような気がする。
(リンちゃんなんか……嫌い……)
今更ながら、なぜあんな事を言ってしまったのか。自分に力がないからなのだ。だから、自分より遙かに力のあるリングマに嫉妬してしまったのだ。
情けない。恥ずかしい……。瑞穂の頬が、次第に紅潮していく。瑞穂は顔を振った。頭から水を浴び、紅潮した頬を冷やした。
意味もなく息を吹いて、瑞穂はしばらくの間、池の水につかっていた。
何かが聞こえる。そう思ったのは、瑞穂が湖に入って、5分ほど経ってからだった。瑞穂は肩まで水につけ、用心深く辺りを見回す。月の光が瑞穂の手助けをしてくれたので、すぐに見つかった。
泣き声だった。啜り泣くような、悲しげな泣き声。聞き覚えのある、声だった。
「ユユちゃん……」
緑の茂みの狭間で、しゃがみこんで泣いているゆかりを、瑞穂は見つけたのだ。そろりと近づいて、瑞穂はゆかりに声をかける。ゆかりはビクリとした様子で振り向いてきた。
「お……お姉ちゃん」
泣きはらした目が赤く腫れていて、ゆかりの怯えたような顔は、どこか痛々しい。
「どうしたの? こんなところで、どうして泣いているの?」
「泣いてへんもん」
強がりを言って、ゆかりはごしごしと目を擦ると立ち上がり、水中の瑞穂を見つめた。ゆかりは、まだ冬我の死から立ち直れていない。それだけではない。母親の死や父の死、そして実の姉の死からも本当は立ち直れていないのではないか。瑞穂は憐れみの瞳をゆかりに向けた。普段、明るく振る舞っているゆかりだからこそ、独りでいるときに甦る、悲しみの反芻は耐えきれないものなのだろう。深の夜はいつも、ゆかりは誰に見せることも許さない涙を流し続けているのだろうか。
瑞穂の視線が痛いのか、ゆかりは俯いて、つとめて明るい声を出した。やはり痛々しさは消えない。
「お姉ちゃんこそ……素っ裸で何してるん?」
「水浴びしてるの。今日、蒸し暑いでしょ?」
「うん。ウチもはいる!」
ゆかりは明るく言うと、服を剥ぎ取って、湖に飛び込んだ。水しぶきがあがり、瑞穂は思わず顔を背ける。ゆかりは無理に笑っていた。
「気持ちええわ……」
「そうだね」
体が涼しくなった。瑞穂は陸に上がって、体をタオルで拭いた。ゆかりは湖で楽しそうに遊んでいる。少しでも元気になったゆかりを見て、瑞穂は小さく微笑んだ。
「なぁ、お姉ちゃん」
「どうしたの?」
訝しげにゆかりが声をかけてきたので、瑞穂は振り向いて訊いた。
「なんや、変な音せえへん?」
「変な、音?」
言われて、瑞穂は手を添え、耳を澄ました。かさかさと草の擦れあう音はしている。しかしその音は、かなり遠くから聞こえてくる。
音が近づいてきた。唸り声のような音も混ざっている。
「ユユちゃん。たしかに誰かくる。そろそろ服を着た方がいいよ」
ゆかりに服を着させ、自分も着替えると、荷物をまとめて、瑞穂は音のする方を見つめた。音が更に近づいてきた。瑞穂は身構え、ゆかりを背後に回らせた。
「来た……!」
耳をつんざく叫び声が辺りに響きわたった。
光が、茂みの奥で燃えている。閃光が迸り、白い熱線が一直線に向かってくるのが見える。
爆発音。森の静寂を破るかのように、辺り一帯が光に包まれた。
○●
「レミエル……ボクは、もう疲れた」
サリエルは深い溜息をついて、大広間アラボトの中央に位置する王座に腰掛けた。黒いタトゥの刻まれた頬から、大粒の汗がしたたり落ちていく。汗を拭い取ろうと近づいた侍女を手で追い払い、サリエルは、正面に立っている初老の男を見据えた。
「新しい標的が見つかったのだな? レミエル」
レミエルと呼ばれた初老の男はかすかに頷いた。掘りの深い皺の奥に、なにか得体の知れない不気味な雰囲気を漂わせている。
だがサリエルは、この男を嫌いではなかった。むしろ頼れる側近として、父親の変わりとして、かなりの親しみを持ってさえいる。
「コガネシティ近くの小さな森なのですが……、いかが致しましょう?」
「いつもの通りでいいよ」
「かしこまりました」
再び頷くと、レミエルは立ち去る素振りを見せた。サリエルは戸惑いながら、レミエルを呼び止め、言った。
「調べて欲しいことがあるんだけど」
「なんでございましょう……?」
少しためらうと、サリエルは小声で呟いた。
「射水 氷という名の、女に関することを調べて欲しい。どんな些細なことでも構わない」
レミエルは眉を潜めた。サリエルは首筋にも汗を浮かせたが、レミエルは素直に頷いた。
「女……でございますか」
「そうだ。何か、言いたいことでもあるのか?」
「ラツィエル様は、サリエル様が恋をしていると仰っておられました。サリエル様の恋のお相手とは、その射水という女なのですか……?」
余計なことを――
舌打ちし、サリエルはレミエルを睨み付けた。動揺している素振りはレミエルにはない。なかば呆れ気味に、サリエルは苦笑した。レミエルはサリエルの側近であるが、昔から、ときおり保護者のような態度をとることがあるのだ。
「恋と言う程のものではない。ただ単に興味があるだけだ」
「興味、ですか」
「そうだ。その女を見ていると、まるで妹を見ているような錯覚に襲われる」
ほう……、というような目つきで、レミエルが眉を動かした。
「それほどラツィエル様に似ているのですか?」
「瞳が、な」
「瞳が……?」
思い出話をしているようなサリエルの言葉に、老獪なレミエルの表情が不思議そうに歪んだ。
自分の眼を指さし、サリエルはレミエルに言い聞かせた。
「寂しそうなんだ。いつ死んでもいいと思っているような、悲しそうな瞳をしているんだ」
「そうですか……。ラツィエル様は、もうだいぶ前から覚悟をされておいでです」
俯きながら、レミエルは呟いた。浅黒い手の甲のタトゥが波打っている。胸の奥を針で刺されたような感触がした。サリエルは、不意に声を詰まらせた。
「妹は、どうしてボクになついてくるんだろう……? 最後には殺し合わなきゃならないのに。ボクは、タブアエルには、なつかなかったよ」
「サリエル様はサリエル様、ラツィエル様はラツィエル様でございます。それよりも、タブアエル様を呼び捨てにはなさらぬよう……」
「死んだ奴を、わざわざ兄と呼ぶ必要はない」
不機嫌そうに言い放つと、サリエルは振り払うようにレミエルを退かせた。
扉が閉められる。眠ったように目をつぶり、サリエルは小さな溜息をついた。まぶたの裏で、笑うことのない少女が、こちらを向いて微笑んでいる。
幻だ――これは幻なんだ、と自分に言い聞かせた。妖しい微笑みは闇に吸い込まれていく。
跳び上がり、サリエルは目を見開いた。胸に手を当てて、荒い呼吸を整え、辺りを見回した。
いつもと同じ大広間があるだけだった。
○●