湖のほとりにそびえる巨木の下で、呻きに似た声が聞こえた。ひときわ大きなメスのリングマが、巨木に支えられ、苦しそうに身を捩っているのだ。湖まで案内してきた、一回り巨大な野生のリングマが、心配そうに彼女を指さしながら、瑞穂の方を見た。瑞穂は、意味ありげに頷くと、目の前で呻く巨体を、まじまじと見つめた。
彼女の周りを囲む野生のリングマ達は、皆心配そうに、ひしめき合っている。
苦しそうな息づかいで喘いでいるリングマの前に、瑞穂はしゃがみ込み、手をとった。途端に野生のリングマ達が騒ぎ出した。怒っているものもいれば、脅えたように顔を歪める者もいる。牙を剥き出しにして今にも飛びかかろうとする、血気盛んなリングマの姿も、ちらほら見えた。
巨木にもたれているメスのリングマを横に寝かせ、布巾で体中に浮き出した汗を、瑞穂は拭い始めた。
「ガッ!」
たまりかねたのか、一匹の若いリングマが爪を振り上げ、瑞穂の顔めがけて振り下ろした。瑞穂は動かなかった。首だけを横にそらして難なく爪をかわすと、メスのリングマの様子を見続ける。
ここまで瑞穂を連れてきた首領格のリングマが、瑞穂を切り裂こうとした若いリングマを睨み付けた。
「グアアッ!」
一喝され、血気盛んだった若いリングマは小さくなり、しょぼんと俯いた。
……邪魔をするな……! 首領格のリングマは、そう叫んだのだろう。
「お姉ちゃん……どういうことなん?」
瑞穂のリングマに抱えられながら、ゆかりは横から瑞穂に尋ねた。
「つまり……このメスのリングマが苦しんでいるから、助けてほしい……ってことだよね?」
横目でリングマを見ながら瑞穂は訊いた。リングマは小さく頷く。
メスのリングマの呻きが激しくなった。まるで暴れているかのように、のたうっている。息を呑み、瑞穂はメスのリングマの肩の辺りを、強く擦るようにさすった。彼女の呻きが、少しだけ小さくなる。周りで見ていた野生のリングマ達は次々に感嘆の息を吐いた。
「どないなん? そのリングマの病気……」
ゆかりが訊くと、瑞穂は顔を向けた。暗がりでよく見えないが、不安げなのは間違いない。もう一度、メスのリングマに浮いた汗を拭い取ると、瑞穂は答えた。
「病気じゃなくて、骨盤位だよ」
「コツバンイ?」
「逆子のこと」
「ってことは、このリングマ、妊娠してるんか……」
なるほど……と頷いているゆかりを余所に、瑞穂は立ち上がり、すぐ隣のリングマに、囁くように言った。
「あの……。精神的に負担になると思うから、ここのリングマ達には他の場所に移って欲しいんだけど……」
話を聞いて、リングマは頷くと、首領格に叫んで、その旨を伝えた。首領格のリングマは了解し、一同を連れて、渋々と森の深部に姿を隠した。あとに残されたのは、瑞穂とリングマ、苦しげなメスのリングマと、ゆかりだけだ。
「お姉ちゃん……大丈夫なん?」
ゆかりが、暗い顔で訊いてきた。患者の前で許される程度の笑みを浮かべ、瑞穂は白く華奢な腕を、星空へと向けた。
「まかせて。私は、こう見えても医者なんだから……」
満月が朝日に吸い込まれるようにして消えていく。
辺りに産声が響いた。時が止まったかのような沈黙の後、空気を押し揺るがす、鳴き声が広がった。メスのリングマは、体中の力を振り絞ったようで、ぐったりとしたまま息をはいている。全身に疲労の色が濃かったが、苦しそうではなかった。
「グァァァッ!」
隣にいたリングマが合図を出すと、茂みに潜んでいた野生のリングマ達が一斉に顔を出した。瑞穂の抱いている赤ちゃんヒメグマを認めると、彼らは歓声を上げた。歓喜の叫び声を聞きながら、瑞穂は、ぼんやりと微笑んでいる。
「やったやん! お姉ちゃん」
嬉しそうに、ゆかりが話しかけてきた。瑞穂は、こくりと頷き、その場に座り込んだ。
「よかった……生まれたね……」
それだけ呟き、鳴き続ける赤ちゃんヒメグマをリングマに預けると、瑞穂は意識を失い倒れた。ゆかりが慌てて駆け寄り、瑞穂の様子を確かめる。
「お姉ちゃん!」
疲労からか、蒼白になってしまっている瑞穂の顔を覗き込んで、ゆかりは思わず吹き出してしまった。
寝息が聞こえたのだ。とても大きな。
一晩中、母親リングマと共に戦い続けた瑞穂の体力も、既に限界を超えていた。瑞穂は、体全体に達成感を漲らせたまま眠っている。少女の寝顔は穏やかで、優しさを湛えていた。
若い野生のリングマが、眠り続ける瑞穂を、起こさないように、そっと抱きかかえた。柔らかな草むらの上に寝かせられて、瑞穂はその日、一日中、眠り続けた。
○●
眠れぬまま夜が明けた。
ゼブルと呼ばれる寝室で、サリエルは少女の、妹の、白いうなじを優しく撫でた。ラツィエルは、ほのかな桃色に染まっている胸を、恥ずかしそうに手で押さえている。
抵抗はしなかった。サリエルの細い腕が背中にまわされた。お互い、火照っている。汗が全身に浮いている。燃えていると言ってもいいほど、体の芯が熱を帯びていた。
荒い息のまま、サリエルが妹の唇を吸った。虚ろなラツィエルの瞳が、潤んでいる。透明な、透き通った、一筋の涙が妹の頬をつたって、サリエルの胸元を冷たく濡らした。
サリエルは驚き、そして冷酷と言ってもいいような表情で、聞いた。
「なぜ……泣く?」
「兄上様。抱いてください」
表情を変えずに、サリエルは小首を傾げた。妹は――ラツィエルは声も上げずに、涙だけを流し続けている。恥ずかしそうに、頬を赤らめ、細い体躯を隠すように、シーツの中に潜り込んだ。
サリエルはシーツごと妹を抱き寄せ、生温い胸の中に顔を押し込む。
「抱いている……。それを拒んでいるのはお前だろう?」
「私を、抱いてください」
ラツィエルの声は小さかったが、どこか胸に突き刺さるような、芯の強さがあった。冷たく、愁いに満ちていて、まるで――
射水 氷のような。
あの女のような。……似ている。似ているのだ。
ラツィエルは、氷に似ている。いや、氷がラツィエルに似ているのか?
火がついたように、妹をシーツから引きずり出し、サリエルは男としての牙を剥きだした。呻きが聞こえる。誰だ? 妹か、あの女か。どうでもいい。今は、誰の呻きでも構わない。呻きが激しくなる。違う……自分が激しいだけだ。呻きがぼんやりとする意識の中で大きくなっていく。
妹か。あの女か。違いはない。
どうしても、犯しても、侵しきれない部分があるという意味では、同じなのだ。
それは、心の奥底。なついてはくるが、妹は決して自分に心を許してはいないのだ。
あの女も、同じだ。絶対に自分の方を向くことのない、冷たい瞳。あの女……。あの女……。
快感が、体から吹き出した。息を弾ませながら、サリエルはベッドに横たわる妹を見つめた。妹は、悲しげにサリエルを睨んでいた。涙が溢れている。
「兄上様は……私を抱いてくださらない。どうして――私を抱いているのに、どうして兄上様は、私以外の女のことを考えているのですか?」
サリエルは答えに窮した。
「お前は、私の妹だ」
「答えになっていません」
「お前は、私が恋をしていると言いふらしているようだな?」
ラツィエルは顔を上げて言った。瞳の色は変わっていない。
「言いふらしてなどいません。ただ、レミエルに伝えただけです」
「それを、言いふらしている、と言うのだ。お前は、私が恋をしていると言うが、お前こそ、私に恋をしているのではないのか?」
「私は、兄上様のことが好きです。たとえ、あと四日で、兄上様に殺されようとも」
「では、なぜ私に心を許さない……?」
潤んだ目を細め、ラツィエルはか細い声で答えた。
「私は兄上様に、すべてを許しています。心も、そして体も」
「心の奥底までか?」
妹に、何かを躊躇うような素振りが見えた。
「それは……ごめんなさい……。私は、兄上様に心の奥底まで許すことができません」
涙声に変わった。シーツに顔を埋め、妹は嗚咽した。
「兄上様は、あと四日で私を殺さなければなりません。私が死ねば、私は兄上様を失ったことになります。寂しいのです。兄上様を失うことを想像すると、たまらなく悲しくなるのです。もし私が兄上様に……兄さんに心の奥底まで許しちゃったら、死ぬのが恐くなっちゃいます……。兄さんは、私を殺さなきゃいけない。それが決まりなの……。恐いよ。死ぬのは。兄さんを、本気で愛しちゃったら、私、死ぬのが恐くなって、私が兄さんを殺しちゃうかもしれない。だって、そっちの方が楽だもん! それなのに……私は兄さんのこと、ずっと考えてるのに、兄さんは、他の女のことを考えてるなんて……酷いよ。私は、その女の代わりなの? 酷いよ。兄さんなんか嫌い。だから、はやく殺して。もうこれ以上、兄さんを想って、死ぬときに兄さんを失うことを想像して、私は苦しみたくないの!」
ラツィエルは、兄を突き飛ばし、シーツを羽織ったまま外へと飛び出していった。階段を駆け降りる声が響く。唸るような泣き声が、寝室まで聞こえてきた。
ラツィエルと入れ替わりに、レミエルが寝室に入ってきた。全裸のサリエルを見て、レミエルは多少の驚きを隠そうともせずに、言った。
「さ……サリエル様。決行は、三日後です……。ハルパスを派遣しました」
頷くと、サリエルはレミエルの皺だらけの顔を見つめた。長い銀髪を、疲れているかのように掻き上げ、次に呟いた。
「妹は……」
小さく息をはき、窓の外の光無き闇の奥を覗く。闇が心の奥に触れた。
「苦しんでいたんだね……」
○●
太陽の光を浴びて汗を煌めかせ、瑞穂は背伸びをした。ヒメグマと仲間達が遊ぶのを眺めているのだ。
あの難産から三日が経った。心配されていた母体の健康状態も良好で、子供であるヒメグマも健康状態に特に問題はなく、元気に育っている。
草むらに座りながら、眠そうに目を擦ると、グライガーが近寄ってきて、木の枝を手渡してきた。きょとんと瑞穂は、グライガーを見つめる。遠くでポケモン達と遊んでいるゆかりが、笑いながら大声で言ってきた。
「お姉ちゃ~ん! その棒、投げてや! 先に取った方が勝ちやねん」
微笑みを返して瑞穂は立ち上がると、手渡された木の棒を力一杯、空へ向かって放り投げた。くるくるとまわりながら、木の枝は森の奥へと消えていく。ポケモン達とゆかりは、一斉に木の枝を目指して、走り出した。
一息ついて湖の水で顔を洗うと、瑞穂は横になり、生い茂る芝生に身を沈めた。風が凪いでいる。湖の水面は静かに、光っている。
麗らかな日差しを浴びて、瑞穂は眩しそうに目を閉じると、そのまま眠りに落ちた。