刹那の夢と嘘の玩具   作:月影 梨沙

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逃げられぬ惨劇の中で

 闇だ。決して見紛うことのない闇が、眼下に広がっている。 

 

 死の冷気が頬を撫でた。谷底に溜まった闇が、風に吹かれて二人を……少女とヒメグマを強張らせた。闇の中心に、鮮血が散っている。肉の欠片。充血し、見開いた眼。流れ続ける墨のように黒々とした、血。谷底に横たわる、巨体は間違いなく、あれは―― 

 

 かつて、母と呼ばれたリングマ。 

 

 戦慄した。抱いていたヒメグマが、狂ったような叫びをあげ、泣きわめいた。少女を……瑞穂を振り払い、母の亡骸へと向かおうと、四肢をバタつかせている。 

 

 ヒメグマの手を握りしめ、少女は引きずった。 

 

「アブないよ。ひめちゃんまで、おちちゃうよぉ」 

 

 少女はヒメグマを抱き上げ、鮮血にまみれた谷底の屍体を凝視した。破裂している。谷底から落ちたときに破裂したとは、到底思えなかった。 

 

 誰かに。そう、誰かが。誰が? 誰が殺した? 

 

 当時は思いも付かなかった考えが、泉のように沸き上がってきた。 

 

 ……当時? そうだ。これは、夢だ。それも、とびきりの悪夢。 

 

 現実の過去を振り返り、冷静といってもいい程の落ち着きをもって、瑞穂は考えた。 

 

 銃声が聞こえていた。住処の前にあった人間達の足跡。あらゆる状況証拠をかき集め、出てきた事実はただ一つ。――人間がリングマを殺した。 

 

 狂ったように暴れるヒメグマを抱きながら、瑞穂は声も出せないでいた。 

 

 足音が聞こえてくる。瑞穂は急いで、ヒメグマの口をふさいで、近くの岩場に身を隠した。 

 

 男だ。不思議な形のライフル銃を肩に抱え、男と男の手下達は谷底を不敵な笑みを浮かべながら眺めている。 

 

 あいつだ。胸の奥で、音にならぬ声が鳴り響いた。アイツが殺したんだ。殺した男は、谷底に石を蹴り落とすと、背を向け、どこかへと去っていった。 

 

 忘れるはずがない。男の手の甲には、黒々としたタトゥが光っていたのだから。 

 

 忘れない。皺だらけ顔をした冷酷な男の邪悪な笑みを、決して忘れない。

 

 

 

 嫌な夢だった。また……悪い夢を見た。 

 

 照りつける太陽の光を避けるように、巨木からのびる影に身を寄せると、瑞穂はぐったりと、額の汗を拭った。 

 

 目が覚めたとき、目の前には誰もいなかった。不安になり、立ち上がろうとしたが、できなかった。腰が抜けていた。夢のせいで、腰を抜かしたことなど、初めてだった。誰かを呼ぼうとしたが、声すらでなかった。 

 

 悪い夢だった。思い出すだけでも、冷たい汗が背筋に滲んでくる。 

 

 ウエストポーチからハンカチを取りだして、湖の水に浸して、顔にあてた。濡れたハンカチが、火照った頬を優しく冷やしてくれる。気持ちがいい。 

 

 さっぱりとした顔で、瑞穂は頭を振った。その視線の先に、小さな影を見つけるまでは。 

 

 瑞穂は目を凝らして、小さな影を見つめた。 

 

 ヒメグマだった。ヒメグマは近寄ると、泣きはらしている赤い顔を、瑞穂の胸に埋めた。 

 

 どうしたの? 声に出そうとしたが、瑞穂の口から言葉は発せられなかった。当然かもしれない。夢ではなく、かつて現実に同様のことを体験したときは、2週間、話ができなかったのだ。 

 

 不吉な予感が、瑞穂の胸を突いた。夢ではなく、かつて現実に同様のことを体験したことがあるのだから。突然、理由もなく泣きわめくヒメグマ。ヒメグマと二人きりの自分。 

 

 いや、決め付けるのはよくない。ヒメグマの涙にも理由があるかもしれない。杞憂であるかもしれない。 

 

「ど……どう……したの……? ゆかりお姉さんや、リンお兄さんと遊んでいたんじゃなかったの?」

 

 喉を詰まらせながら、瑞穂は胸の中で啜り泣くヒメグマに訊いた。ヒメグマは答えない。ただ、悲しげに、哀しげに啜り泣いているだけだ。 

 

 不安は頂点に達した。 

 

 ヒメグマを抱きかかえたまま立ち上がり、瑞穂は仲間達が走っていった方向を眺めた。あそこには、ゆかりもいる。自分のポケモン達もいる。野生のリングマ達もいる。 

 

 落ち着け。落ち着くんだ。森の奥には、ヒメグマの仲間達が大勢いるではないか。 

 

「そうだよ……それに、ヒメグちゃんのお母さんもいる……」 

 

 何も心配することなんて無いんだ、と瑞穂は自分に言い聞かせた。 

 

 胸の中が、ビクリと動いた。そしてヒメグマは、再び火がついたように泣き始めたのだ。 

 

 何も心配することなんて無い。それじゃ、なんでこの子は泣くの? 

 

 焦りにも似た、恐怖とも言えない、不気味な感情が心に湧き上がってきた。確かめるように、森の方を見た。そして、次の瞬間、少女は悪夢の続きを見ているような錯覚に襲われた。 

 

 銃声。 

 

 何かの爆発するような音で、辺りの空気は震撼した。 

 

 銃声。銃声。悲鳴。銃声。幾重もの破壊光線が、青空へとのびていく……。 

 

 森の奥から、信じられない音が、銃声が連続して聞こえてきたのだ。叫び声をあげ、ヒメグマは瑞穂の腕を振りほどき、森へと走っていった。 

 

 瑞穂も、すぐさま後を追いかけようと走ったが、蹌踉けて転んだ。起きあがったとき、既にヒメグマはいなかった。ふらふらと立ち上がり、瑞穂も森へと駆けていった。 

 

 駆けながら胸を押さえる。心の奥の不安が、膨張していく。何があった? 確かに森の奥から銃声が響いた。そして、そこには、ゆかりがいる。自分のポケモンがいる。野生のリングマ達、ヒメグマの母親……。 

 

 生い茂げ、入り組んだ木の枝をかき分け、ひたすら瑞穂は森の中を駆けた。 

 

 その時、何かがこちらへと、瑞穂の方へと急接近してくる。 

 

 危ない。そう感じて、瑞穂はとっさに横に跳び、なんとか衝突を避けた。体勢を立て直し、瑞穂は相手を見つめて、息を呑んだ。 

 

 鉄製の双輪車に跨った男が数人、急停車し、嘲るように瑞穂を睨んでいる。 

 

「なんだ? お前は……? こんな所で何をしている?」 

 

 顎を突き立てて、リーダー格の男は瑞穂に訊いた。手下と思しき数人の男が、双輪車のハンドルを握って、身構えている。 

 

「あの……、そんなことより、今の音……聞こえました? 何があったんです? と……というより、あなた達は、誰なんですか? なんのためにこの森に……。」 

 

 男達は一斉に笑い出した。リーダー格の男も、長い顎を突き出して、いやらしい笑みを浮かべている。瑞穂は、男の顎の先に黒いタトゥがあるのを見つけて、狼狽した。 

 

「その……タトゥ……」 

 

 リーダー格の男が、瑞穂の呟きを聞いて、顎の先端を手で撫でた。 

 

「このタトゥ……。知ってんのか……このタトゥの秘密を。俺達……いや、我々の正当なる裁きを」 

 

「なんの……ことです?」 

 

 小首を傾げ、瑞穂は訊いた。男は答えない。ただ、訝しげに瑞穂を見つめている。ニヤリと笑い、男は双輪車のボタンを押した。双輪車の前面から、施条銃の先端が覗いた。 

 

 驚いて、瑞穂は数歩、後ずさった。男は、しゃくれた顔をくしゃくしゃにして笑いだす。 

 

「死ねよ……。お前は、俺達を見ちゃいけなかったんだ」 

 

 男は、双輪車に内蔵されている施条銃のトリガーを引いた。凶弾が白煙と共に、瑞穂へと放たれる。瑞穂は、悲鳴をあげる暇も与えられなかった。 

 

 銃声が瑞穂の耳に届いた。だが痛みはなかった。おそるおそる閉じていた目を開く。弾丸が体に達していないことを確かめ、瑞穂は安堵の息をもらした。 

 

 背後から蹄の音が聞こえてくる。瑞穂は大声で二匹を呼んだ。 

 

「ナゾちゃん! それにポニちゃんも……!」 

 

 弾丸はナゾノクサの葉っぱカッターによって、くい止められていた。ポニータに乗ったナゾノクサが、草木をかき分け、瑞穂の元へと駆けつけてきたのだ。 

 

 ナゾノクサはポニータから飛び降りると、休む暇もなく葉っぱカッターを連射した。男は巧みに双輪車を操り、葉っぱカッターを避けていく。チッと舌打ちし、呟いた。 

 

「くそっ……。のろまなリングマが、ここまで追ってくることはないと思ったが……」 

 

 手下の男の1人が、声を張り上げた。 

 

「ハルパス様……! どうしましょう……?」 

 

「撤退だ! いちいちこんな奴等の相手をしていられるかっ!」 

 

 リーダー格の男、ハルパスは大声で怒鳴った。その瞬間の隙をついて、ナゾノクサは葉っぱカッターを打ち出す。葉っぱカッターは、高速で回転しながら、ハルパスの脇腹を切り裂いた。 

 

 ハルパスは怯んだ。上空へジャンプしたナゾノクサを睨み付けると、地面へ唾を吐き捨てた。双輪車を翻し、降り注ぐ葉っぱカッターを避けながら、ハルパスは森の出口へと消えていく。撤退したのだ。

 

 男達が去ってから、瑞穂はナゾノクサ達に言った。 

 

「ありがとう……ナゾちゃん。ポニちゃん」 

 

 ナゾノクサは小さく頷き、ポニータの頭に飛び乗った。小さな瞳で瑞穂を見つめ、彼女は早口で語りはじめる。 

 

「ナゾ! ナゾナゾゾナゾナゾゾナ!」 

 

 ……急いで!……大変なことになっているから……。 

 

 なんとなく、ナゾノクサの言おうとしている意味を感じ取り、瑞穂は頷いた。ポニータに飛び乗り、瑞穂は一目散に野生のリングマ達の元へと駆け始めた。

 

 

 ○●

 

 

 鮮血が、森の木々を真っ赤に染めていた。辺りを見回し、瑞穂は、血生臭い地面を踏み越え、横たわっている野生のリングマ達に近づいた。 

 

「そんな……」 

 

 先程見た悪夢よりも非道い光景が、瑞穂の視界いっぱいに広がっている。眼を背けることは許されなかった。これは、現実なのだ。死んでいる者。傷を負っている者。血を流していない者はいなかった。

 

 ナゾノクサが呼んでいる。瑞穂はポニータの後を追いかけた。追いかけながら、瑞穂の顔が強張った。ナゾノクサは背中に、ポニータは脇腹に、小さいながらも傷を負っていたのだ。 

 

 野生のリングマ達の奥に、瑞穂のリングマと、ゆかりが横たわっている。リングマは腰から血を流しており、ゆかりは左の足の太股が激しく裂けていた。 

 

 泣きながら飛びついてきたグライガーを抱きかかえ、瑞穂は、ゆかりに話しかけた。 

 

「ユユちゃん。どうしたの? 一体、何があったの?」 

 

 ゆかりは青ざめ硬直した顔を横に振り、左足の傷を庇うように身を起こした。 

 

「こわい。こわいよぅ……」 

 

「うん。うん……そりゃ、そうだよ。その気持ち、わかる」 

 

「襲ってきたんや。変な男が……。バイクに乗ってきて……。バイクの先っぽが銃になっとって、それでリングマ達を襲ったんや……」 

 

 瑞穂の足下から血の気が引いてきた。さっきの男だ。突然、双輪車で襲いかかってきた、あの男。瑞穂は男の特徴を思い浮かべた。嫌らしい笑み。突き出した顎。顎の先の黒いタトゥ……。 

 

「ねぇ、ユユちゃん。その男の人達の中に、顎が長くて、黒いタトゥをした人がいなかった?」 

 

 血に濡れた左足を見つめながら、ゆかりは驚いたように目を剥いた。出血しているからか、意識が遠のいていくようで、言葉尻がぼやけてきている。 

 

 腰のウエストポーチから包帯を取りだして、瑞穂は、ゆかりの左足の傷を縛って、止血した。虚ろだが、恐怖に染まった眼を瑞穂の胸元に押しつけながら、ゆかりは呻いた。 

 

「いた……。顎に、たとぅした男……いたで……。こわいよぅ……こわい……」 

 

 ゆかりは震えている。瑞穂は、ゆかりを抱き寄せて、訊いた。 

 

「ねえ、ユユちゃん。ヒメグちゃんは、ここに来た?」 

 

「来たで……。そのあとな……怒ったように、あの男達を追いかけて行ったんや」 

 

 瑞穂は、ゆかりの指さした方向を、眺めた。 

 

 ヒメグマの足では、双輪車に乗った男達に追いつけるはずがない。だけど……。想像して、瑞穂の背筋が凍った。 

 

 ヒメグマやリングマは、嗅覚が非常に発達している。双輪車の男達が、森の途中で休憩でもしていれば、ヒメグマの足でも追いつけるかもしれない。なんといっても、男達のリーダー格であるハルパスという男は、脇腹に傷を負っていたのだし。 

 

 だが、追いつけるだけだ。双輪車で武装した男達に、子供のヒメグマが勝てるはずがない。 

 

「ナゾちゃん。ユユちゃんと、グラちゃんをお願い」 

 

 ゆかりと、グライガーの体ををナゾノクサに預け、瑞穂は立ち上がった。瑞穂の考えを察知したのか、リングマも自分の身を省みずに、立ち上がる。 

 

 リングマの腰の辺りの傷を見つめながら、瑞穂は訊いた。 

 

「リンちゃん……大丈夫?」 

 

 頷き、リングマは咆哮した。出血は酷いが、それほど深い傷ではないようだ。 

 

 辺りは夕闇に包まれ始めている。瑞穂はリングマと共に、ヒメグマの駆け去った方向に走りだした。

 

「お願い。リンちゃん……。ヒメグちゃんの匂いを辿って。早く行かないと……」 

 

 闇が、再び自分達を標的にしたのか。6年前の悲劇が、まざまざと脳裏をかすめていく。銃声。悲鳴。忘れたい、忘れられない過去が、また増えるのか。そんなのは嫌だ。 

 

(やくそくだよ……、ひめちゃん。もう、泣かないで……) 

 

 歯を食いしばり、走りながら瑞穂は、冬我の形見である光の粉の詰まった瓶を取りだして、見つめた。 

 

 冬我くん……私、誰も守れない。 

 

 冬我くんみたいな、勇気や、力は……私には無いもの。 

 

(いっしょに、ねよう……。だから、もう、泣いちゃだめだよ……) 

 

 非力だ。……私は、誰も守れない……役立たずだよ……。 

 

 ……そんなことはないよ、瑞穂ちゃん。キミは、みんなを包み込む”優しさ”がある……。 

 

 優しさは、力にはならないよ。 

 

 ……力なんていらないよ。優しさがあれば、誰だって救うことができる……。 

 

 私は、冬我くんを救えなかった。冬我くんだけじゃない、誰も救えない。守れない。 

 

 ……キミのリングマは、瑞穂ちゃんに……キミに救われたんじゃないのかい……? 

 

 それは……。 

 

「ガウッ!」 

 

 リングマの叫び声を聞いて、瑞穂は正気に戻り、前方を見つめた。 

 

 泣き声が聞こえる。夕闇の奥で、消え入りそうな程の泣き声が聞こえる。 

 

「ヒメグちゃん!」 

 

 瑞穂は呼んだ。闇は、幼いヒメグマの体を食い尽くしていた。

 

 

 

 夕闇に照らされ、鮮血にまみれたヒメグマが、木に張り付けにされていた。小さな悲鳴をあげ、瑞穂はヒメグマを木から降ろした。ヒメグマは、既に虫の息である。赤い血がヒメグマの体から滴り落ち、瑞穂の白い腕を真紅に染めていく。 

 

 瞳が光を失いかけていた。左腕が、無惨にも切り落とされている。斬り落とされている。傷口から骨が覗いた。深い切り傷や、銃で撃たれた痕、殴られた痣が体中にある。 

 

 瑞穂は、朧気な瞳を地面へと向け、血塗れになって放置されているヒメグマの左腕を拾い上げた。地面は辺り一帯、血に濡れている。ヒメグマの血だけではないようだ。人間の血も、含まれているだろう。すこし見ただけで、瑞穂には、それがわかった。 

 

 数メートル先には、もみ合ったような争いの跡が残っており、切り裂かれた人間の爪先が転がっている。 

 

 ヒメグマを、瑞穂は抱きかかえた。だがヒメグマは、瑞穂に、人間に触れられるのを拒否するかのように暴れた。恨みと、怒りと、悲しみに満ちたヒメグマの瞳から目をそらして、瑞穂はリングマに、ヒメグマを預けた。 

 

「いこう。戻らなきゃ」 

 

 野生のリングマ達の元へ向かって、瑞穂は駆け出した。リングマも、ヒメグマを抱きかかえながら後を追いかける。背中の方から、ヒメグマの狂ったような叫び声が聞こえてきた。 

 

 闇だ。再び、襲ってきたんだ。あの時と同じだ。逃げられないんだ……。 

 

 狂気と殺気に満ちた、ヒメグマの叫び泣きから逃げるように、瑞穂は足を早めた。 

 

 ……殺してやる。殺してやる……。 

 

 泣きわめくヒメグマの叫びが大きくなっていく。瑞穂はただ、俯き、走ることしかできなかった。唇を噛みしめ、鮮血のように赤い夕焼けへと、瑞穂は駆け続ける。 

 

 解放されていく。瑞穂の心の中にある、何かが、解き放たれていく……。 

 

 だが、今は、どうすることもできない。

 

 

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